『箱庭の少年少女』――やがて、世界へ羽ばたこう。

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第1話


 箱庭を飛び出した
 そこにあったのは無限に広がる世界
 箱庭を飛び出した
 無限の世界がいつか箱庭になるかもしれない
 だけど私は、そうならないように日々を生きようと思う
 心持ちひとつで、世界は箱庭にも無限の星空にもなるから
   ――世界で初めて空を飛んだ女性アリアの言葉


 *

 ――ファルネース。アトランテ大陸、アナトリア連合、港湾都市ナトレ。

 アトランテ大陸は、北部と南部の二つに大きく分かれている。北部はアナトリア連合と言い、南部はカンディア連合と言う。アナトリアの西端にある港湾都市ナトレは、昼下がりの穏やかな時間を過ごしていた。
 眩しく降り注ぐ陽光によって、白色の城壁はまぶしく輝き、街角のいたるところに植えつけられている濃緑色の葉をつけた樹木は、光と影とのコントラストを造りだしている。多くの職工や商人は午後の労働に備え、軽い午睡をとっており、朝夕はたいそうな賑わいを見せる露天街も、現在は小さな猫の鳴き声を聞き逃すことがない程に、奇妙な静けさに包まれていた。
 そして、表通りから更に入り組んだ小道を、授業を終えた二人の子供がゆっくりと歩いてくる。
「世界は丸いんだよ」
 道路側を歩いている男の子が、人差し指を地平のはるか彼方に向けながら、口を開いた。
「何いってるの? ニコル。平らよ。この前の授業聞いていなかったの」
 肩まで伸ばした黒髪を無造作にふりながら、少女はすげなく言った。
「昨日、ジョアン叔父さんが教えてくれたんだよ」
「あの、年中星空を見上げている、とっても変わったひと?」
 このファルネースでは、天体のことはサウル氏族に任せておけ、という言葉がある。他の種族が空を眺めても何もわからないからだ。
 ましてや、ファルンですらない、ジョアンのようなハーフが天体に興味を持つこと自体がおかしいと、ニコルの目の前に立つ少女は常々思っていた。
 やや胡散臭げな視線に戸惑いつつも、ニコルの唇はやや難しい言葉を紡ぎ出す。
「惑い星の動きをみていると、世界が丸いとしか思えないんだって」
「惑い星って、明けの明星とかいう星のこと?」
「うん」
「でも、おかしいわ。もし世界が丸かったら下の地面にいるひとは落ちてしまう」
「うーん。そうなんだよなあ」
 にわかに叔父の言葉に説得力を見出せなくなってしまい、ニコルは頭を抱えた。
「えーと、ティナ。叔父さんは証拠もあるっていってたんだ」
 それでも、少女から真っ向から否定されるのが、よほど悔しいのか、懸命に話を続ける。
「昨日、アトランテ大陸の外から、船が迷い込んだとき、たまたまジョアン叔父さんが船がやって来る瞬間を見たんだって」
「それがどうかしたの?」
 ティナと呼ばれた少女はますます怪訝そうな顔を見せる。
「ジョアン叔父さんは、船のマストから先に見えたって言ってたんだ。おかしいだろう」
「どういうこと?」
 ティナは首を傾げながら、少年の濃紺色の瞳を覗き込んだ。
「ティナ。もし世界が平らだったら、船全体が小さく見えるはずだ。だけど、実際はマストの頂上が、最初に見え出して、船本体が見えるのは後になるんだよ」
「えっと……」
「とても大きなボールの上に立っていると思って。向こうから来る人の頭が最初に見えて、次に胴体、そして最後に足が見えるはずだ」
 ニコルは、実際のところ、叔父の言葉をそのまま少女に伝えているだけなのだが、話を続けているうちに少しずつ『世界は丸い説』への信頼が戻ってきているようだ。
「ほんとう?」
「本当さ。何なら、ジョアン叔父さんにその漁船を見つけたときのことを聞いてみようよ」
 そこまで言われて、ティナははっと気づいた。
「船来たの!? 昨日!?」
 アトランテ大陸は周囲を激しい海域に囲まれているため、外界との交流はない。しかし海流は外から内に入り込むため、遠い異国の地のものが一方的にアトランテ大陸に迷い込むことがある。
 そして、それは難破船も同様だった。今回は久々の来客である。
「うん。僕もまだ詳しいこと知らないけど、港に言ってみたらわかるかもしれない。たぶん、第一発見者のジョアン叔父さんは今日も事情聴取か何かでいるだろうし」
 事情聴取。なんとも物々しい言葉であるが、住人のおよそ九割がハーフであるここアトランテ大陸においては外界からの流民は、外の世界のことを伝えてくれる歓迎すべきである相手であると同時に、時に生活を脅かす危険な存在であった。
 アトランテ大陸は古く、アースより大陸の一部がそのままゲートを潜って来たとされており、それがアナトリア連合にある港湾都市ナトレの西に位置するノア島だった。
 そして、渡ってきたのはノア島だけではない。そこに住む大量のヒュマンも同様だった。およそ、一千年前とも一億年前とも伝えられる。神獣がまだ実在していた頃よりもさらに前、気が遠くなるほど昔のことであり、もはや当時の記録は全く残っていない。口伝えに細々と伝わった一部の伝説のみが当時を物語る。
 そう。ニコルたちは、いや、ここアトランテに生まれた者たちはみな、ヒュマンを遠い祖先に持つのであった。
 一部に例外がいて、それが今回のような、嵐もしくは流刑されてきた外部の人々である。流刑されてくる者の多くはたいてい何かしらの問題を抱えており、アトランテ連合としても自由を許すわけにはいかない場合もあるが、難破してきた船に乗った者は普通の人が多い。そして今回はそのパターンである。
 ティナが目を輝かせるのも無理はなかった。
「ニコル、行ってみようよ!」
「そうだな、港に行ってみよう」
「じゃあ、お昼ご飯食べたら集合ね」
「うん」
 二人は、お互いの家の前で約束すると、空腹を満たすために玄関へと駆けていった。

 家での昼食を終えて、再び顔を合わせたティナとニコルは、魚の臭いが鼻をつくナトレの市場をノア島へ出る港に向かって歩き始める。
 アトランテ大陸は大半が海流に阻まれており、ともすると漁船程度の大きさでは海の底へ沈んでしまうのだが、一部のエリアには遠い異国の地の希少な魚も生息している。それを狙って、危険である漁業に挑むものも少なくはなかった。そうした漁船がたくさんある港が、ここナトレであった。
(しかし、本当に地球は丸いのかなあ)
 ニコルは、言った自分でも少し信じられない部分があった。 だって、おかしいと思う。丸い上に立っているなら、港に向かっているこの足はもっとふらふらしているはずじゃないか。
 少女は、幼馴染みとのちょっとした冒険を素直に楽しむことにしたらしく、表情は明るい。 一方少年は、お昼前に言った『世界は丸い説』に時折不安が沸き起こってくる為か、やや緊張した面持ちであった。
 二人が、密集した住宅街に挟まれた路地を、西に傾く太陽を背に向けながら、暫くの間、縫うように進み、海へと繋がる運河に出た。同時に、海辺から吹くゆるやかな風に乗った微かな潮の香りが、二人に海の存在が至近に迫っていることを教えてくれる。
 ニコルは、半歩だけ後ろを歩く、少女の掌を握り締めたまま、声をかけた。
「ティナ。もうすぐだよ」
「うん」
 穏やかに流れる運河の幅は広く、積荷を載せた小船が小さな水音を立てながら通り過ぎていく。
 港湾都市ナトレは、アナトリア連合に所属する都市である。
 陸地には目立った収穫物はないが、新鮮な魚や海草がたくさん捕れることで有名だった。他にもノア島からの物産品である貴金属(ノア島にはアースにあったものがそのままあるのだ)など希少なものもたくさんあった。そして、それを加工したもの……すなわち、マナガンと呼ばれる銃器の類も。
 二人は、運河沿いに立ち並ぶ倉庫に積み込まれている、珍しい物産を興味深そうに眺めながらも、歩みまでは止めることなく、運河と港の境界を示す座標の脇を通り過ぎた。
「見て、ニコル。船がいっぱいよ」
 ティナは両手を拡げながら歓声をあげた。港内には、停泊する多くの船舶が、初夏の日差しを受けながら碇をおろしている。
 帆を畳み、積み下ろしを行っている漁船が、隙間無くどこまでもずらっと並んでいる様子は、少女を惹きつける魅力に溢れていた。
「くんくん」
「ティナ、何しているの」
 突然、仔犬のように鼻を鳴らし始めた少女に戸惑いながら、ニコルは言った。
「塩の匂いがするわ」
「塩?」
「知らないの? 海の水がしょっぱいのは塩が混ざっているからよ」
「へえ〜」
「へえ、じゃないわよ。一昨日、先生が教えてくれたでしょ」
「いや……あんまり覚えてない」
 茶色の髪をかきながら、ばつの悪そうな表情を見せる。
「この調子じゃ、世界が丸いというのも、かなり怪しいわね」
 半ばあきれ、半ば悪戯っぽい表情を瞳に浮かべながら、上目遣いで少年を見つめる。
「待って、それは本当だよ! ……たぶん」
「さあて、どうだか」
 慌てて言い繕うニコルを軽くからかいながら、ティナは笑顔を向ける。
「そうだわ。魚とりに行く漁船でも、同じようにマストの頂上から見えないかな?」
 いいこと思いついた。ティナがそう嬉しそうに半身を翻した瞬間、薄紅色のフレアスカートは微風によって舞い上がった。
 白い太腿が一瞬だけ露わになり、少年の鼓動は速さを増した。

 軋む様な高い鳴き声をあげながら、大きな羽根を伸ばした海鳥が、空を舞っている中、二人は港と外洋を隔てる堤防の上に立ち続けている。
「漁船……見える!?」
「うーん。分かんない」
 既に、十回以上、同じ問答が繰り返されている。
 この間、漁船は港から三度ほど出航しており、その都度、目を皿のようにして、船の行方を追うのだが、空の大半は青空がひろがっているものの、漁船は海流の激しい領域にまでは近づかない。浜辺から少し離れたところで網を広げるのでいっぱいいっぱいだった。ノア島に交易に向かう船にしても、さほど遠くない離島に向かうわけで、水平線には遠く届かない。
 いつの間にか、青かったはずの空が橙色に染まり始め、二人の足元から伸びる影も長くなっている。
「そ、そうだ! こんなことしてる場合じゃなかった!」
 思い出したかのようにニコルが叫ぶと、ティナはあっと小さく声を漏らした。
 二人とも本来の目的を忘れていたのだ。外から来たという難破船を見に行かなきゃ。
 本来の目的を思い出した二人が岸壁を跡にしようとした時――
「こんなところで何してるんだい?」
 駆け寄ってきた長身の青年が、片手をあげながら、ニコル達に声をかけた。
「ジョアン叔父さん!?」
 今まで、どこか物憂げだった少年の顔がぱっと明るく輝く。ニコルにとっては、最も身近で頼もしい存在だ。
「おっと、ティナちゃんもいるな」
「こんにちは、ジョアン叔父さん」
 一方、ティナの表情はほとんど変わらない。
「相変わらず、お澄まし屋さんだね」
「そんなことありません」
「何しにいらしたんですか?」
 冷淡なティナの口調に苦笑を浮かべながら、ジョアンも言葉を返す。
「昨日ついに証拠をつかんだ球体説の仮説を完全に証明するにはどうすればいいか考えに来ただけだよ。『お嬢さん』」
「私はごく一般的な庶民の娘です」
 叔父と幼馴染みとの会話が、何故か急に剣呑になっていくのに慌て、ニコルは言葉を挟む。
「あの、きゅうたいせつって何?」
「いいかい、ニコル。この前にも言ったとおり、『ファルネース』という僕たちが住んでいる世界は丸いという説を『球体説』というんだ。これに対して、ティナちゃんが信じている説は『平面説』だ」
 そうか、ジョアン叔父さんが言っていた説を少しかっこよく言うと、『球体説』になるんだ。ニコルはまたひとつ賢くなったような気になった。
「ふーん。なるほど」
「私は、学校の授業で習ったけど、信じません」
 少女は、ほっぺたの中に空気を入れて横を向いた。
「まあ『球体説』は、異説、珍説の類と言われているからね」
 青年は金髪を軽く振りながら言うと、左手に持っている袋から、黒い筒状の物を取り出していく。
「何ですか? これっ」
 初めて目の当たりにする奇妙な器械に、つい先ほどまで頬を膨らませていた少女の瞳に、興味の色があらわれる。
「筒の端を上から覗いてごらん」
「何、これ!?」
 言われた通りにした瞬間。唇から可愛らしい声が漏れた。
「漁船が大きくなってるっ!」
「僕にも見せて」
 名残惜しそうな表情を浮かべている少女から筒を受け取ると、ニコルも筒の端に片目を当てる。すると、円形の枠内に閉じ込められた視界に、拡大された船影が映し出された。
「えっ……!?」
 ほんの少しだけ動かしてみると、先刻通った倉庫や運河も一様に大きくなっている。
「どうなっているの? 叔父さん」
「これはね。魔法の筒だよ。筒の端に透明な板が付いているのが分かるかい?」
「うん」
 ニコルが筒の端に指を入れると、冷やりとした滑らかな感触が、人差し指の先端に伝わる。
「この透明な板がね。筒の両側に一つずつ嵌っているんだ。大きい方の板が遠くからの光を集める役割。もう一つの、小さい方が、集めた光を大きくする役目だ」
 手元にある未知のものに半ば以上興味を奪われながら説明を聞いていた少年は、急に思い出したように尋ねた。
「そうだ。ジョアン叔父さん。昨日来た外からの船って……」
 期待をはらんだ声で聞くニコルに、ジョアンは少し目を伏せて答えた。
「アースから来た船だった。だけど、中にはミイラしか乗ってなかった。どこかで航海する術を失ったのか、ずっと漂流して来たんだと思う。彼らの冥福を祈るよ」
 ティナはジョアンの説明を聞いてあからさまに肩を落とした。
「えー……新しいものが伝来するって思ったのに。また外の人が色々教えてくれると思ったのに」
「仕方ないさ。それに、彼らの乗っていた船はいままだに来たどんなものよりも新しい。あれはいったい、どういう原理で浮かんでいるんだろう。それに、中に乗っていた翼の生えた変な鉄の乗り物。あれはいったい何なんだろ。壊れてたけど、アトランテの鉄鋼技術で何とか補強できるかもしれない。それにしても……」
 探究心が収まらないジョアンはぶつぶつと呟き続けるが、幼い二人はもはやどうでもよいと魔法の筒をいじりはじめた。
「これなら、アトランテ大陸の周りの海流よりずっとずっと遠くの海を走る船が見えるかもしれない」
 ニコルはそう言って、片目を瞑り、もう片方の目に筒を当てた。
 地球は丸いということどうしても証明したかった。それは半ば意地に近い。ティナの前で恥をかきたくない、という気持ちが強いことを少年はまだ気づいていない。
「見える?」
 ティナが無邪気に尋ねる。
「だめだ。飛んでいる鳥しか見えないよ」
 そう言って、ニコルは首を振った。
「私たちが空を飛べれば、ニコルの言うことが正しいかどうかもわかるのにね」
「え?」
「地球が丸いことなんてすぐにわかるのにって言ったの」
 ニコルはこの瞬間おそらくもっとも間の抜けた顔をしていたと思う。

 結局、魔法の筒はジョアン叔父さんが二人に譲ってくれた。
 あれはアースの船にいくつも乗っているのだそうだ。アトランテの技術があれば、大量生産の目処もつくと言っていた。このアトランテ大陸の鉄鋼技術、製鋼技術はおそらく、ファルネースでもっとも優れているとジョアンは言っていた。マナガンのような、金属の玉をマナの力によって高速で飛ばす武器など、他の大陸にはない。
 このような技術は地道に研究を続けたアトランテ人の努力の結晶とも言える。
 しかし、そんなことよりも、ニコルはただ単純にティナがニコルの言うことに耳を傾けてくれたことが嬉しかった。
 空を飛べたらどんなに素敵かとティナはしきりに語り、ニコルはそれを頷いて聞く。別にニコルは空を飛びたいわけじゃない。ただ、人が知らないだろう、人が興味を持たないだろう、表に出ないようなことを照明することが好きなだけだった。ジョアン叔父さんの影響が強いのかもしれない。
 時折、そのジョアン叔父からもらった不思議な筒の話もしながら、二人は家路に向かって歩いていく。
 絶え間なく押し寄せる波が、堤防の石壁に当たって砕けることによって生まれる、規則的な音は、二人の鼓膜から少しずつ、だが確実に遠ざかっていった。


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