『箱庭の少年少女』――やがて、世界へ羽ばたこう。

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第5話


 ふと幼い頃のことを思い出して、ニコルは目を覚ました。
 ジョアンさんから魔法の筒をもらった日のことだった。あれからもう、十年が経ち、ニコルもティナも18になった。ちょうど、あの年に出会ったサナさんとリカさんと同い年である。
 リカさんもサナさんもアースの航空技術を有していて、ニコルの憧れだった。当時はみんな空を飛ぶと聞くと鼻で笑ったものだが、ニコルとジョアンだけは違った。人が見向きもしないものを見るとむしろ燃えるジョアン叔父さん。そして、それに負けないほど熱心にニコルもヒュマンの二人の協力を買って出た。笑われてはいたが、アースの技術である。しばし研究が進み、成果が形に現れるにつれて賛同する者も多く出てきた。いまや、その技術も完成といえる形にはなっている。
 ニコルは、サナとリカのことを誰よりも尊敬した。この二人に追いつきたいと。今もう年齢の上で当時の二人に追いついたが、もちろん、当の二人にしても十年経っているのだから、27歳の美しい女性に整調していた。ただ、そんな美しい女性もある特殊な性癖のために独身を貫いているのだが。
(ティナが普通で良かった)
 そう思った瞬間、無性に恥ずかしくなり、ニコルは首をぶんぶんと大きく振った。
 窓の外を見ると、天頂に輝く星々を圧するように昇った月の光が、窓枠の影を伸ばし始める頃、ニコルはもぞもぞとベッドから身を起こした。
 微かな尿意を覚えて、薄い月明かりをもとにして階段を慎重に降りると、台所から父親の声が漏れ聞こえてきた。
(父さん?)
 ニコルの父親は、ナトレの狙撃隊を率いており、勤務の性質上、帰宅が深夜になることが多かった。
「会議で不穏な話があった……」
 普段は陽気な父親にしては、珍しく深刻な口調に、ノブを掴んだ手の動きが止まった。
「どうしたの?」
 洗い物を終えて、台所から戻った母親の声も届いてくる。
「最近、マナが世界全体で増えているそうだ」
「あなた……マナが分かるの?」
「いや、俺が実際に感じたわけじゃない。いつもの会議でファルンのマゼンダさんが言ったのだが」
 葡萄酒を喉に流し込んで、続ける。
「星を見たり、世界のマナをこの地にいながら観測してるマナ使いの人ね」
 父親は頷く。
「マナっていうのは、空気みたいなものだ。だからこそ、普段はあまり気に留めない」
「ええ」
「そのマナの濃度が急激に増すと、この世界に様々な異変が起こる。火山が爆発したり、恐ろしい怪物が発生したり、疫病が流行ったりする」
「怖いわ、本当なの?」
 瞼を大きく開きながら、問い返す。
「分からん。見ての通り俺たちはハーフだからな」
 父親は小さく頭を振った。
 ヒュマンは身体能力が高い一方、マナの扱いについては、ファルンの方が断然長けている。ハーフに至っては、その両方が劣っているのだ。
 しかし、彼らアトランテの民は、外の世界から時折やって来るファルンやヒュマンから知識を吸収し、昔から多く存在しているアースの金属を利用し、『機械』と呼ばれる素晴らしい発明を生み出した。それはマナガンなど小さな武器に始まり、その武器の技術をさらに磨き続ける傍らで、十年前に流れ着いた漂流線の中にあった翼を持つ乗り物を研究し作り上げた産物……マナシップすら発明することにも成功する。
 彼らは世界へ羽ばたく術を手に入れたのだ。
「心配だわ」
「すまん。まあ、確実な話じゃないんだが」
「でも……カルロ」
 表情に憂いを残したまま、夫の名前を呼ぶ。
「マナの作用には、悪いことばかりじゃないんだ。俺たちの遠い祖先もマナによって異世界から飛ばされたと言い伝えられている。だからこそ、俺は今ここにお前やニコルと一緒にいる。それって悪いことか?」
 遠い祖先。一千年前とも一億年前とも伝えられる、気の遠くなるような話を持ち出して思わず、彼女は笑った。
「ブレイクスルーのことね。あなたって、ほんと喩えるのが下手ね。そんな気の遠くなるようなことを言われても……」
「いいかい。マナが濃くなった時には、異世界から新たな『訪問者』が来る。自分たちハーフは、ヒュマンのせいで生まれた。何もかもヒュマンのせいだ。まったくもって理屈の通らない恨みを持つ輩もいる」
 一見して会話が繋がっていそうで、実はぶつ切りである流れに、妻は違和感を覚えた。
 酒杯をおいたカルロは、短く伸ばした顎鬚をさすりながら続ける。
「確かに悪事を働く奴もいると思う。だがな、ここに来たヒュマンの中には、俺たちを助けてくれる奴もいただろう。整備士の女ヒュマンの二人組。あいつらがいなかったら、俺たちはきっと今もこのアトランテという箱庭の中だったろう。サナとリカの二人のお陰で空を飛ぶ翼“マナシップ”の開発に成功した。そう……ヒュマンがファルネースを救ってくれたりすることもあるんだ。それを、カンディア連合の奴らはまったくわかってないんだよ」
 カルロはついに、アナトリア連合と対立する南部の連合の名を口にした。脈絡のない会話はすべてそこに繋がっていたのだ。
 南部のカンディア連合は、北部のアナトリア連合と敵対している。ノア島を領土に持つアナトリア連合がヒュマンを受け入れているのに対し、カンディア連合はヒュマンを迫害、駆逐している。
 カンディアの言い分は、「ヒュマンが現れたせいで、種族的に劣ったハーフが生まれた。我々ハーフが悪いのではない。ヒュマンが悪いのだ」という支離滅裂なものだった。そんなことがために、ヒュマンを迫害している。
「困ったものね……」
 妻の言葉を聞いて、父親カルロは口を開いた。
「そんな困ったさんのカンディア連合が、マナシップ開発に本腰を入れ始めたらしい。プロトタイプはすでに飛び立ったそうだ。まあ、落ちたらしいが」
 妻は口を押さえて絶句した。
 その様子を扉の影からうかがっていたニコルは、飛び跳ねるほど驚いた。
「あなた……、マナシップはアナトリアだけの技術だって言ってたじゃない!」
「それがそうなんだが……。今日の会議で、ボルテック長官からじきじきに話があったんだ」
 ナトレの城では、月に一度、会議が行なわれる。アナトリア連合会議である。主要都市の代表が集まり、アナトリアの今後について話し合う重要な会議だった。
 居ても立ってもいられず、ニコルはついに扉を開けた。
「僕たちが十年もかけて積み重ねた開発を、奴らはほんのちょっとで完成できるって言うの?」
「ニコル……いつからそこに?」
「父さん。どこかで情報が漏れたんだよね」
 父のカルロは表情を暗くして頷いた。
 この狭い箱庭のアトランテでは、技術は盗み盗まれるもの。双方の連合のどちらかが開発に成功したものは、後を追ってもう片方も間もなく成功する。今までそうやって、アナトリアとカンディアは技術を高めてきた。しかし、ことマナシップに関しては違った。この技術は外に羽ばたく翼。外の世界に旅立つための手段なのである。決して、隣の差別主義のカンディアなどに洩れていいものではなかった。
 ニコルは悔しかった。自分がサナやリカと一緒にマナシップの材料から何まで試行錯誤しながら一生懸命に研究してきたことを、どこの誰かもわからないカンディアの整備士はあっさりと盗んでいく。それが途方もなく悔しかった。
「ニコル。敵はどこにいるのかわからないよ。どこに目があるのかわからん。このナトレのどこかにももう敵は潜んでいるかもしれない」
「もう、敵は内部に……」
 レキサンドラの悪夢。十年前に、マゼンダさんが語ってくれた話をニコルは思い出す。
 狭い枠内では、内部から崩されるとひとたまりもないという話だ。
「我々も、いよいよもって外の大陸の力を借りなければいけないかもしれない。なあ、ニコル。偵察部隊の編成はどこまで話が進んでいるんだ?」
「まだ特には……アナトリアの上空での飛行訓練は行なってるけど。激流の向こうも海の上までは先日ティナが行った」
 偵察部隊。外の大陸の国々が敵となるか見極めるための部隊。
 もしかしたら、カンディア以上に驚異的な主義思想の持ち主もいるかもしれない。それらに狙われないよう、じっくりと付き合う相手は吟味していく必要がある。
 実際に、危険な思想を持っているような国も南のミディリア大陸にあると聞く。そこの大国とカンディアの思想はよく似ていた。
「……カンディアが外の世界に出たら、ヒュマンを見かけたら何をするかわからない。いや、それどころか、外国と結託されれば、アナトリアなどすぐに滅んじゃうじゃないか!」
 ニコルは思わず叫んだ。
 アナトリアとカンディアは力の差はほぼ均等だったのだ。それも、マナシップを有するアナトリアと、マナシップを有しないカンディア。この差をもってしても均等だったのだ。
 兵力の上で劣っているアナトリアが、マナシップを有したカンディアに勝てるはずがない。
「カンディアまで空を飛ぶようになるとは……これはいよいよ、戦争が始まるかもしれんな」
 カルロはどこまで本気なのかわからないようなことを言って、笑った。
 その夜、ニコルは寝ようとしても眠りにつけなかった。

 翌朝、眠りにつけず睡眠不足でったニコルは、それでも何とか朝食の席についていた。
「ニコル。昨日の話は他言無用だぞ。まだはっきりとわかったわけじゃないからな」
 カルロはそう強く言い聞かせたが、どうせ狭いアナトリアである。すぐに噂は広まるに決まっていた。
「ニコル。今日も整備士のサナさん達のところに行くの?」
「ん。ああ。ようやく何とかマナシップの弄り方わかってきてさ。もうほとんど一人前に近いって言われたから、そのうち本格的に働き始めるかもしれない」
 ニコルはそう言うと、スープをすすった。
 まったく皮肉なもんである。空を飛びたいと願った少年は、空を飛ぶための翼を用意し、地球は平たいなんて言ってた少女が「それでも地球は丸い」とか何とか言いながら空を飛ぶ。僕らはもう大人と呼ばれる領域に踏み込み始めていた。
「ごちそうさま」
 そう言うと、ニコルは家を後にした。
 向かうは漁港の一角の広場にある、マナシップ研究所である。
「遅い!」
 開口一番そう言って迎えたのは、ティナであった。……いや、ティナなんて、偵察部隊の集まりの中で気安く呼ぶわけにはいかない。
 彼女の名前は、ティナ・アリア。正しく、アリア隊長と呼ぶべきだろう。彼女は今や、このアナトリアでもっとも巧く空を飛ぶ人物だった。
「そうよー。遅いわ遅すぎる! 今日は罰として、ティナちゃんのマナシップにくくりつけたまんま空飛ばすわ」
「りかちゃん、それやりすぎ」
 人が気を遣って苗字で呼んだのに、目の前の女性は気にすることなく、ティナの名前を口にしていた。
 まあ、ニコルとは立場が違うのだから当たり前と言えば当たり前だ。気づけば、ティナはニコルの手の届かないところへ行ってしまった。
 あの日、叔父にもらった魔法の筒を二人で眺めた日はもう遠く戻って来ないのかもしれない。魔法の筒は今どこに行ったのだろうか。それすらもわからない。
「ニコルくん? 遅刻寸前なのに、ご飯は食べてきたのね?」
「え? いや、その」
 何でばれたのだろう、と思っていると、大人しそうなサナさんが僕の頬っぺたを指でツンとすると、今朝食べた魚の身がついていたらしい。それが指先にちょこんと乗っかった。
 それをぺろり、と口にすると、フフと微笑む。何とも妖艶な笑みだったが、サナさんもリカさんも残念なことに同性愛者。僕に気がないことくらいわかってる。
「も、もういいですよ! 早く訓練に入りましょう!」
 ティナはそう言って、二人を急かす。
「それもそうね。さあ、今日の訓練に入りましょうか」
 サナは整備しかできないが、リカは整備と共に飛行もできる。演習を仕切っているのはリカだった。
 その声を合図に皆それぞれの持ち場に着く。まだ駆け出しのニコルは、サナの隣で整備士の真似事をするだけだった。
「近く。いよいよもって偵察部隊は作戦を実行に移すわ」
 予想上に早い作戦の決行に、ニコルは驚いた。しかし、その驚きは決して大きくはなかった。なぜなら、知っていたから。
「……カンディアですか?」
「そう。カンディア。ニコル、物知りなのね。ま、詳しくはまた明日にでも話すわ。決定事項になるのはたぶん今晩だから」
 そういうと、リカは機体の方へと歩いて行った。
「知ってたんだねぇ」
 ニコルが振り返ると、綺麗な顔をなぜか早速オイルで汚してしまっているサナが立っていた。
「うわさに聞いてましたから……。でも、それがこんなに早く偵察部隊を動かす理由になるなんて思っていませんでした」
「切羽詰ってるのよ」
 サナは短く言うと、それぞれの機体のチェックをざっと始める。
「人員も決められたわ。ここのパイロットを中心に、寄せ集めの人たちを何人か。中には態度の良くないのもいるし、ちょっと心配。最初の作戦は、南西に飛んでバオウ大陸。その次の出発では、北東へ飛んでノルダニアよ」
 ニコルは、ティナのことが心配だった。ティナはそんなニコルの不安に気づくことなく、機体に乗り込んでいた。
(何をしているんだ、僕は)
 自分は空を飛ばない決意をしたのである。飛ばないニコルは地上で、鳥となったティナの帰りを待つしかなかった。
 彼女の腕を信じて。

 *

 いよいよ、出発の日がやってきた。
 今日の目的地は、南西のバオウ大陸。アトランテ大陸は四大陸の中心にあるため、どの大陸にも行きやすかった。
「いよいよか」
 今日は名目上は最高責任者のジョアン叔父さんも来ていた。ジョアン叔父さんは主に図面を書いたりしている。いつも一人で最奥の部屋でひっそりと設計図とにらめっこしている。こうして人前に出ること自体が珍しかった。
「なあ。ニコル。お前のガールフレンドは出世したもんだな」
「ガールフレンドなんかじゃないよ」
「そりゃそうだよな。あれだけ特訓してたら、ほかの事にかまかける暇もない。それに、偵察部隊の隊長は相当な地位だ。お前とはもう住む世界が違う」
 今日のジョアン叔父さんは痛いところをついてくる。
「ティナ、なんて気安く呼びにくくなったよ。今はアリア隊長だよ」
 箱庭から飛び立つティナと、箱庭にとどまるニコル。二人の間には大きな壁があるような錯覚がして、ニコルは初めての作戦に出発するティナに声をかけられないでいた。
 特に今は、技術だけはあるが性格に問題のあるゴロツキ風情すらいるような寄せ集めの偵察部隊である。ニコルが迂闊なことをして、隊長であるティナが舐められるのは避けたかった。
「いい? 最後に確認するわよ。まだ現地人に話しかけちゃだめ。こちらの存在は隠し通さなきゃいけないの。だけど万が一にも見つかった場合は、『アースから来た』と言いなさい。何か聞かれても知らぬ存ぜぬで通してね」
 リカははきはきとしゃべる。彼女は、整備士である前に、ティナに次ぐマナシップ乗りだ。彼女の発言すべてが、士気を高める役割を持っている。
「さあ、いってらっしゃい! 必ず無事に帰るのよ!」
 そう言うと、リカは額に手を斜めにしたポーズをする。これは、アースで「敬礼」と呼ばれるものだそうで、いつの間にかこの偵察部隊での正式なポーズとなっていた。
 ニコルも敬礼をする。視線はティナしか見ていなかった。いや、見れていなかった。
 そして、パイロットたちはそれぞれの機体に乗り込んでいく。ニコルはふと、ティナが腰のベルトに差しているものに気づいた。
(あれは……)
 魔法の筒。少年だったニコルと少女だったティナを結ぶひとつの存在。
 今でこそ、アナトリアでは普及してしまっているもので、ティナの持っているそれは少し旧かったけど、ニコルは、いまだ自分とティナが繋がっていることを感じた。
「少年よ。大志を抱け」
 ニコルの肩に手を当てたサナは、へへへ、と笑ってみせる。
 やがて、大きなエンジン音を鳴らして飛び上がったマナシップは青い空へと消えていった。
 きっと、ティナの視界には海が、どこまでも続く水平線が湾曲して見えているのだろう。地球は丸いのである。かつて、初めて飛んだティナは言っていた。
「地球は丸かった」
 そうなんだ。途方もないようなことでも、とんでもないようなことで、信じ続ければそれはきっと真実になる。
 だから、きっと、このアトランテもいつか、世界に認められる国となるのだと思う。僕らはもう、箱庭ではない。

 箱庭に閉じ込められていた僕たちはもう、空を飛べるんだ。


 『箱庭の少年少女』――完。


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