『酒場の話』――ある、酒場の話。

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第3話


 父もいない、母もいない
 帰るべき家もなければ、今晩食べる飯もない
 種銭もない、日銭もない
 旧友などというものは居たためしがない
 日々ただ便々として生きている
 それだけである
   ――北の大地に隠遁した男の日記より抜粋


 古来住みにくいと評されている北の大陸ノルダニアであるが、人の住む南部に関する限り、その評は当てはまらないと言える。
 学術都市「ジャン・バッハ」を中心とした交通網は各町々の生命線であるため、特に力を入れて整備がなされているのである。
 海から港町へ陸揚げされた荷物はジャン・バッハへと運び込まれ、そして、そこから大陸の方々へと運ばれて行く。
 さて、その都度、ジャン・バッハには大量の荷物が運び込まれているわけであるが、同時に大量の人間も入り込んで来ている。
 確かに、正規のルートでやって来た荷物や人間は、そのままジャン・バッハの高級街か、他の町へ綺麗に流れて行く。
 しかし、正規でないルートの荷物や人間達はそうもいかない。どこかで何かしらの規制がかかってしまう。では、どうするのか?
 その答えの一つが貧民街である。
 この街は、すねに傷を持った人間や、何かと後ろ暗い経歴を持った荷物、そして訳有りの人間などがいつのまにか大量に入って来ていて、そして常にどこかへ流れ出て行っている。
 これ程までに雑然とした街の全体を把握できている人間はいないのである。
 この状況を、ジャン・バッハ大学都市構造学の博士は「都市の呼吸」と呼んでいる。
 まるで人間の肺のように、大きくて中が雑然としている物ほど、深呼吸をするように人間を吐いて、そして吸い込んでいると考えているのである。
それ故に、人一人が消えても気に止める人間もおらず、また、人一人が増えてもそれをおかしく思う人間はいないのであった。

 ある酒場の前で、二人の人間が足を止めた。
 片方はケバケバしく青いビラビラのドレスを着た、顔の化粧の濃い女。
 片方はでっぷりと太り、その腹をそれなりの布地で仕立てられた服でピッチリ覆った男である。
「ねぇ、今度はココで飲んでいきましょう?」
 女は男の服を引っ張りながら言った。
 男はそれを聞くと、
「さ、さっきも飲んだじゃないか。それよりもさぁ、ねぇ、そろそろいいだろう、ディアナちゃん?」
 と、文字どおり、肉厚の鼻の下をデレデレと伸ばしながら言った。
 ディアナと呼ばれた女は応える。
「あら、『ママ・ダ・ママ』の高級娼婦、アンナ・ディアナちゃんをバカにしないで欲しいですわ! いくらお店であたしをお買いになったって言っても、そんな言い方はあんまり! 床の直前のお酒を飲めないなんて、気が乗らなくなっちゃいますわよ?」
 アンナはそう言うと、プイと酒場から背を向けて、その場から離れて行く素振りを見せた。
「あぁ、待って! 待ってよ! いっぱいお酒飲むから許してよぉ!」
 狼狽の余り、男は顔をクシャクシャに歪めて大声を上げ始めた。
 デレデレしたかと思えば、子供のように狼狽して謝罪する男を背中越しに見て、アンナは男に見えない程度にニヤリと口を歪めた。
「もう、しょうがないですわね」
「ディアナちゃん、怒ってる?」
「少ししか怒ってませんわ」
「そんなぁ!? どうしたらいいの? どうしたら機嫌直してくれるの?」
「……あたし、恰幅の良い男が好きですの」
「へ?」
 話の流れを読めなくなった男が、疑問の声を上げた。
「どういうこと?」
「恰幅の良い男が相手だと、仕事じゃなくなっちゃうかもなぁ、っていつも思ってるんですのよ」
 男は自分の姿を確認すると、今度は嬉しさに顔をクシャクシャにして見せた。
 確かに、恰幅だけなら誰にも勝っているだろう。
「ね? ね? それってボクチャンのこと?」
 アンナは難しい顔する。
「恰幅というのは体のことだけじゃありませんわ。心の恰幅のことも言ってるんですのよ」
「心の?」
「そうですわ」
「どういうこと?」
 アンナはチラと視線を外しながら言った。
「例えば、恵まれない人にたくさんの施しができるほど、心が寛大で優しい人とか……」
 その視線の先には、道端に座り込む物乞いの男の姿がある。
 物乞いの男はガッチリした体格であるが、ひどい短躯で、道端に力無く座り込みながら道行く人々に何かを訴えているようである。
「……ちょ、ちょっと待っててねディアナちゃん!」
「あら、どうしましたの?」
「グフフ、それは秘密だなぁ」
 男はでっぷりとした腹を揺らしながらグフグフと笑うと、尊大な態度で乞食男の方へ歩いて行った。
 アンナもこっそり後ろからついて行く。
「おい、そこの乞食!」
「今夜の飯の……へ? 何か御用でごぜぇやすか、旦那?」
 道を進む人々に話しかけようとしていたらしい物乞いは、尊大な言葉に驚いた様子で振り向いて見せる。
「おい、乞食、これをやる」
 でっぷり太った男は唐突に懐から財布を出すと、高額紙幣を幾枚か掴みだして物乞いの男へ放った。
 物乞いの男は地面に落ちた紙幣を平伏するような格好で拾うと、そのまま頭を下げて卑屈そうな声を上げる。
「こいつはありがたい! この物乞い崩れのガンニック・バードめは、旦那の恰幅の良さに感服いたしやした! 旦那は街でも一、二を争う恰幅の良い旦那でさぁ!」
「そ、そう思うか?」
「へぇ、もちろんで!」
 ガンニックと名乗った物乞いの言葉に、男は腹を揺らしながら「そうか、そうか」とご満悦である。
「まぁ、あなたってやっぱり凄い方だったのね!」
 そのご満悦の男に向かって、後ろからついて来ていたアンナが声をかける。
「通りすがりの人にこんなにお金を下さるなんて、あなたってとっても心が寛大で優しい方ですわ!」
「そ、そうだろう? うん、そうだよね」
「素敵だわ、これなら……」
「も、も、もしかして、それって?」
「でも、これだけじゃ、本当に恰幅が良いか判別がつきにくいですわ……」
「ぼ、ボクチャン、ディアナちゃんのためなら何でもするよ! お酒飲む? お洋服買う?」
「それなら、まずはお酒を……」
「よし、たくさん飲もう! ボクチャン、いっぱい頼むからね!」
「頼もしい限りですわ」
 アンナは、勇んで酒場へ歩き出す男を促しながら、チラと後ろを振り向いた。
 そこには高額紙幣を手に頭を下げていたガンニックが、すっかり元の姿勢に戻って、指を振りながらアンナに合図を送っているのが見える。
 意味するとことは「収穫は高額紙幣が五枚」ということである。
 アンナはそれを見ると、この上ないほどの笑顔でパチリとウィンクしてみせた。

「……へへ、どうやらうまくいっているみたいだな」
 アンナが酒場へ入っていくのを見届けると、ガンニックは一人ごちながら身支度を始めた。
 先頃、たまたま娼婦街で物乞いをしていたガンニックの所に客を連れたアンナが通りかかり、チラチラと手を振って(そのまま後ろをつけて来て)と合図してきたのである。
 人に気づかれぬように行動するのはベガーの得意とする所。
 何かもうけ話かと思い後をつけていたのであるが、これは想像以上の収穫である。
「礼一回でお札が五枚か。これなら山分けしても当分は食うに困らねぇな。今日は一足先に酒屋にでも行って……」
「またそんなことをやって……優雅なものですね、ガンニック君」
 ウキウキと胸算用をしていたガンニックの背後から、やたらと落ち着いた声がかかった。
 ガンニックが振り向くと、そこには長身の男が立っている。
 ただしこの長身の男は、筋肉から贅肉まで、肉という肉を削ぎ落としたような痩躯である。
「よう、ジョシュ坊じゃねぇか! 最近良く会うなぁ」
「ぼくの話を聞いていますか? まぁ、最近よく会うのは確かですが」
「暇なのか?」
「ガンニック君と一緒にしないように。これでもぼくはジャン・バッハ大学魔術学科の研究生なんです。夕方早くから酒屋に行くような優雅な身分ではありませんよ」
 ジャン・バッハ大学魔術学科の研究生ジョシュ・ホフマンと言えば、特に何の経歴があるわけでもないが、とりあえず良く実地に出て研究をすることはある程度知られてはいる。
「てことは、また実地研究とかいうヤツをやってるのか?」
「いや、まぁ、今回はちょっと別の用件で……」
 普段は話し方に歯切れのなさを感じたガンニックは、さらに質問を重ねる。
「何だ? いわゆる別口の仕事ってヤツか?」
「それともまた違うのですが……」
 ガンニックは、ふと、ジョシュの視線がチラチラと動いているのに気が付いた。
 どうやらジョシュの背後にいる何かに気を配っている風である。
 そっとガンニックが覗き込むと、そこには一人の老人が立っているのが見えた。
 見たこともない服装で、髪はボサボサ、髭も伸び放題、背丈もガンニックほどではないが高くはなく、全体像は薄汚れた徘徊老人である。
「その爺さんは誰なんだ?」
 ガンニックの言葉に、ジョシュは眉根を寄せて応える。
「わからないんです」
「わからないのに連れて歩いてるのか」
「仕事ですから」
「本人に話を聞けばいいじゃないか」
「それができれば、いいんですが……」
 ジョシュは後ろを振り返って老人に視線を向けるが、老人は特に何のリアクションも起こさないままで、喋り出す気配もない。
 ガンニックは合点がいった顔をした。
「なるほど……そいつ、大学に来たんだろ?」
「そうです」
「で、帰れと言っても反応しない」
「そうです」
「用事を聞いても返事をしない」
「そうです」
「でもって、ジョシュ坊は、邪魔者の掃きだめこと貧民街に詳しい研究生ってことか」
「まぁ、そういうことです」
「ゴミ出し係、ご苦労様だな」
「……ただ、あと二つだけ、ぼくがココに来た理由があります」
「二つ?」
「はい。一つは、どんなに動き回ってもこの老人がぼくの後をついてくるのを止めないこと。もう一つは……」
 二人の話が切れると同時に、老人は腰に付けていた容器の栓をキュポンと開けて、中身をグイとあおり出した。
 高級街では絶対にお目にかからないであろう、かなり度数の高い安酒の匂いが、辺りに漂った。

 アンナの機嫌は、かなり悪いものであった。
 先程まで相手をしていたのは、輸送されてきた品物と一緒にやってきたらしい、金離れの素晴らしい太った男である。
 仕事上、娼婦館『ママ・ダ・ママ』から回って来た客からは、正規料金以上の金を貰っても、店には料金分しか納めなくて良いという不文律がある。
 先程の客の金離れ具合は尋常でなく、店の料金はもちろん、食事代、酒代、ばくち代、服の購入代金、果てはガンニックを使ってまで金を絞り取れるものと、アンナは予想していたのである。
 ところが、男は調子に乗って酒を飲みまくり、アンナの制止も虚しく酔い潰れてしまい、取れたのは最初に貰った少しのチップと、店の料金と、ガンニックに与えられたお札が数枚だけで、あとはちょっとの酒代と、店に泣きついてやっと貰えた料金の一部だけである。
「酒が弱いなら止めた時に飲むのを止めなさいよ、もう! 全部台なしだわ!」
 誰に言うでもない悪態をつきながら、アンナはとある酒屋の扉を開けていた。
 ギィという音を立てて開く扉には『最重要人物』の文字がかかれている。
 ここがガンニックとの待ち合わせの酒屋、『第二番飯店』なのだ。
 今回、客が途中で酒を飲み過ぎて潰れてしまい、まともに取れたのはガンニックの時の金だけなので、アンナの勢いもすさまじい。
「ダニー(ガンニックの略称)には悪いけど、今回の分け前は七対三ね」
 アンナは店に踏み込むと、鋭く店内を見渡し、ガンニックの姿を探す。
 ガンニックを人の多い店で探すのは容易ではない。
 彼はひどい短躯であり、人込みの中にいると全く姿が見えなくなってしまう。
 アンナは目をしかめて店を見渡そうとしたのであるが、しかしながら、今回はその苦労は必要はないものであった。
 ヒョロヒョロと背丈の高い男が、人込みの中から頭一つ分突出していたのだ。
 長身で痩躯のジョシュと頑隆な短躯のガンニックは、対症的な見た目と中身でありながら、実に仲が良い。
 実際、今もジョシュの座っているテーブルを見ると、ガンニックが人垣から見え隠れしている。
「あら、ジニー(ジョシュの略称)も来てたのね。でも、あのお爺さんは……?」
 微かに不穏な物を感じて、アンナは人込みの中に飛び込んだ。

 アンナの不安は的中していた。
 ガンニックとジョシュと老人の座っていたテーブルには、酒の容器が山のように積まれていたのだ。
 この容器の数々は、テーブル上を埋め尽くし、いつ山が崩れて床にこぼれ落ちてしまってもおかしくない状態である。
「あ……あ……」
 余りのことに、アンナは言葉を発することができず、目を見開いて三人を見つめるのがことの限界である。
 しかし、当事者であるジョシュとガンニックも同じように茫然自失の体(てい)のようで、平気な顔をしているのは椅子にチョコンと座った老人だけである。
 しばしの間、四人の間に沈黙が降りた。
「ゲップ」
 数分に渡る沈黙を老人がゲップによって破った。
 思考停止に陥っていた三人は、それによってそれぞれハッと我に返る。
 最初に口を開いたのは、アンナである。
「あ……あんた達、これは一体何かしら?」
 二人は気まずそうに下を向いて答えない。
「ねぇ、早くご説明下さらない……ジニー?」
 アンナの口調がやたらと丁寧な時。それは癇癪を起こす前兆である。
「こ、これは、何と言いますか、何とも言えないと言いますか、まだ解明されていない事象に関する説明はとても危険で……」
 余りの狼狽のため、あやふやな返答を連発するジョシュを見かねて、ガンニックが声を上げた。
「すまねぇ、アンナ嬢! 見ての通りだ!」
「……つまり?」
「酒代が……その……俺達ではどうにもならねぇほど高い!」
 ガンニックの言葉を聞いて、アンナはゆっくりと深呼吸した。
 そうして一呼吸おいて怒りを収めると、アンナはもう一度口を開いた。
「原因は何かしら?」
「そう! それだ! 全部あの爺さんが悪いんだよ! 俺達じゃねぇぜ! あの爺さんが悪いんだ!」
 ガンニックの指さす先では、老人が何をするでもなく、ただボンヤリと座っている。
「あの、ボーっとしたお爺さんが?」
「そうだよ! 確かにつんぼで聾唖……」
 アンナが鋭い視線を発してガンニックを制した。
 こういった事柄に、アンナは特に厳しいのだ。
「俺達ベガーは尊敬の意味を込めてる言ってるんだぜ? 目や耳や口が使えないヤツってのは、そうやって生活してる達人ってことなんだからよぉ……」
「それより、その耳と口が不自由なお爺さんがどうしたって言うの?」
 不意に、テーブルの上からガチャリと音が響いた。
 アンナが見ると、山と積まれた容器の上に、新しい麦酒のジョッキが空になって乗っかっている。
「ジニー?」
 アンナがジョシュの方を見ると、ジョシュは慌てて首を左右に振った。
 飲んでいないと言いたいらしい。
 もちろん、ガンニックは今の今までアンナと顔を付き合わせていたのだから飲む暇などありはしない。
「まさか……」
 そう言ってアンナが老人の顔を覗き込むと、老人は「ヒック」としゃっくりをして、口から麦酒の泡を飛ばした。
「……嘘でしょ、今まで何もしてなかったじゃないの……ねぇ?」
 アンナが二人に同意を求めるために老人から目を離した瞬間、またテーブル上からガチャリと音がした。
 見れば、今度は度数の高い酒を入れるためのタンブラーが、容器の山の上に追加されている。
 老人はペロリと口周りを舌で舐めた。
「言ったろ? 俺達は何も悪くないんだよ」
「でも、言って止めればいいじゃないの!」
 やっと気持ちを落ち着けることのできたらしいジョシュが、やっと口を開いた。
「アンナ君。何度も言うようですが、その老人は耳が不自由なんです」
「だからって……」
 ガチャリという音と共に、何かの安酒が入っていたのだろうカップが山に追加されている。
 老人は少し濡れてしまったらしい手を、服の裾で拭いている。
「……ちょっと、なら実力行使で止めなさいよ!」
「ぼくが無理なのは当然として、ガンニック君が止めようとしても、すぐに抜け出してしまうんですよ」
「ちょっと、それってどういう……」
 アンナが口を開きかけた時、テーブルからガラガラガシャンガシャンとガラスが地面に落ちる音が響き渡ってきた。
 今さっき追加された容器によって山のバランスが崩れ、グラスやらジョッキやら瓶やらが床に落ちてしまったのだ。
 老人は特に反応を見せることもなく、ボーっとその光景を眺めている。
「こ……こ……」
 この光景を見たアンナは、言葉を詰まらせ始めた。
 ジョシュとガンニックは慌てて耳を両手で覆い隠し、老人はキョトンとした表情でそれを眺めている。
 アンナは一息、胸に息を吸い込むと、
「こんの……バカ共があーッ!!」
 店全体に響き渡るような罵声を放ち、ジョシュとガンニックの鼓膜を手の平越しにビリビリと振るわせた。
 アンナは癇癪を起こすと、その見た目からは想像もつかない声を張り上げるのだ。
 それは、まともに聞いたら、それこそ老人のように耳が不自由になってしまうかもわからないレベルである。
「ハァ……ハァ……」
 シンと静まりかえった店に、アンナの息づかいだけが響いた。
 そんな肩で息をしているアンナに、ボンヤリとした声がかかる。
「凄い声じゃのう。耳が聞こえなくなるかと思うたわい」
 アンナは目を点にしながら、声の主を見た。
 それは、今まで一言も発さなかった老人だったのだ。
「お、お爺さん、耳が聞こえないじゃなかったのかしら?」
「ワシがそんなことを言ったか? おぬしらが勝手に言うとっただけじゃろうが」
 アンナの質問に、老人は悪びれる風もなく言った。
「まぁ、そうカリカリしてはならんぞ。カリカリしても何ら良いことはないからのう。ホッホッホッホ……」
 老人の朗らかな笑いが、静かな店に響き渡った。
「ご老人、あなたは何なのですか?」
 ジョシュの言葉に、老人が応える。
「何と聞かれてものう。ワシはワシじゃよ」
「名前とか、職業とか、どこから来たかとか、色々言うことはあるんじゃねぇんですかい?」
 珍しく不機嫌さを押し出したガンニック声が老人にかけられる。
「うむ、そうじゃのう……まぁ、取り敢えず、一杯酒をくれんかの?」
 そう言って「ホッホッホ……」と笑う老人を見て、三人はほぼ同時に「ハァ」と溜息をついた。
 一段落ついたのを見て、店は再び喧噪を取り戻し始めた。

「取り敢えず、自己紹介をお願いできるかしら? お爺さん?」
 床に落ちた邪魔なジョッキを蹴り飛ばして椅子を引き出すと、アンナはどっかりと腰を落ち着けて言った。
「あたしは金欠で困っているの。お爺さんにはキッチリ、払うものを払って貰うわよ?」
「ふむぅ……最近のご婦人は怖い顔するのう」
「いいから、お名前、教えて下さらない?」
 凄味のある笑顔を作ったアンナに、老人は少し驚いた顔して口を開く。
「わ、ワシの名前は『ワン』じゃよ」
「ワン? 聞かねぇ名前だな?」
 横からガンニックが声をかけた。
 ベガー・ギルドは、このジャン・バッハに出入りする物品や人間の状況を掴むのに最も秀でた組織なのである。
 名前すら聞いたことがない人間というのは、数少ない例外に当てはまる人間か、または存在しない名前を語っている人間である。
「爺さん、その『ワン』とやらは、偽名じゃあるまいな?」
「偽名などであるものか! そもそも『ワン』ではなくて『ワン』じゃ! 失礼じゃのう!」
 ワンと名乗った老人は、ワンの部分のイントネーション――いや、発音がさほど意味のなさないファルネースではニュアンスか――を正しながら少し怒った口調で言った。
「おぬしの言う『ワン』では王様の王じゃろうが! ワシの『ワン』は忘却の忘じゃ! 間違えるでないわ!」
 微妙な違いでプリプリと怒る老人を見て、ガンニックはヒョイと肩をすくめた。
 人間観察もベガーの得意とする所だが、老人には嘘を言っている気配が微塵も見あたらなかったのである。
 ガンニックの様子を見て、アンナが更に言葉を続ける。
「どうやら名前は本当のようね。それじゃあ、どこから来たかは言えるかしら? ワンお爺さん?」
「ワンではないと言うておるじゃろうが! まぁ、いいわい。ワシが来たのは『人失せの山』じゃ」
「人失せの山ですって?」
「そうじゃよ」
 アンナはチラリとジョシュを見た。
 ジョシュは一応大学の研究生で、並の人間よりは地理に明るいのである。
 しかし、ジョシュは首を横に振って(そんな山は聞いたことがない)という意思を示した。
「成る程ね……」
 この時、アンナはジョシュとガンニックにチラと視線を送ってみせた。
 ある可能性があるかどうかを確認するために送られた合図に、二人は首肯して返答する。
 アンナはそれを受けると、口を開いた。
「ねぇ、ワンお爺さん、ここの街の名前って何だか知ってる?」
「それくらい知っておるわい。金の国ある、櫓の町じゃろうが」
 三人は合点のいった顔した。『見たこともない服を着て、聞いたこともない異国の名前を口にする、異世界の住人』の噂はこの地でも有名であった。
 老人の正体は、これでほぼ割れたというものである。
「しかし、何故ジャン・バッハ大学に来られたのですか、ワン老人?」
 ジョシュが、そう疑問を口にした。
 確かに、ワン老人が異世界アースから来た来訪者ヒュマンであるにしろ、高級街にある大学に来た理由はわからない。
「ん? なんでじゃろうのう。ワシは気づいた時にはヤケに入り組んだ場所に居ての、適当に扉を開けていったら、その大学とか言う場所に出たんじゃよ」
「おい、ジョシュ坊。もしかして、このワン爺さんって貧民窟から来たんじゃねぇか?」
 ガンニックの言葉に、ジョシュは首肯した。
「その可能性は高いですね。マナの濃度の高い所からは、地球人が多く出現すると言う仮説があります。もし、その仮説が正しいとしたら……」
 今までの研究によって、貧民街の中心に存在する貧民窟には、空間が歪む程のマナが溜まっているという仮説が出されているのである。
 その仮説が正しいとすれば、ワン老人が出現した理由も納得できるというものである。
 空間の歪みに捉えられたワン老人は、地球からファルネースへ連れてこられた上、歪められた空間によって大学の構内へ放り出せれてしまったのだろう。
「では、ワン老人、今の今まで口をお聞きにならなかった理由は何ですか?」
「それも不思議な所でのう、町並みが綺麗だった時には、おぬしらが何を言うておるのか全くわからんかったじゃけども、町並みが汚くなって来るに従って段々とわかるようになったんじゃよ。わかるようになってからは、おぬしらが酒を飲ませてくれるようだから黙っておったがのう。ホッホッホ……」
「成る程……」
 ジョシュはそう聞いて、ふと黙り込んでしまった。
「どうしたのジニー? 何か心当たりでも?」
「いや、関係のないことかも知れませんが……」
「いいから教えてよ」
 アンナに急かされるようにして、ジョシュは口を開いた。
「この貧民街のマナの濃度が高いことは以前説明しましたね」
「そういえば、そんな話もしてたわね」
「そのマナの効果の一つに、言語能力の補完機能、又は意思の伝達機能があるという説があるんです。相手の考えていることを読み取れるわけではありませんから、後者に関しては信憑性が薄いです。前者の説、大気中のマナが人の発した音声に作用し、言語を補完するという説が一般的でしょう」
「つまりどういうことなのよ」
「仮に全く言葉の通じない異世界の人間でも、時間が経つにつれて僕らの言葉を理解できるようになる。これはおそらく、マナの濃度の高い場所へ行けばより早くそうなるでしょうね」
「……難しい話ね」
 アンナは「ふぅ」と溜息をついて、
「とにかく、ワンお爺さんがココに来た理由はわかったわ。でも、これは別の話よ?」
 と言った。
 アンナの示す先には、テーブルから床にまで散らばった容器の数々が転がっている。
「確かに、その通りですね」
「どうするよ? アンナ嬢の稼ぎで払っちまうかい?」
「それが、あたしの方の客が途中で潰れて、ほとんど稼げていないのよ。ダニーの持っているお金が頼みの綱だったんだけど……」
 三人が難しい顔をつきあわせて話を始めた時、それを遮るようにしてワン老人が声を上げた。
「のう、ご婦人」
「何かしら? あたし達、今は意外と忙しいんですけれど?」
「おぬしが相手しておった客というのは、あの男ではなかったかのう?」
 老人の示す先には、酒場の入り口があった。
 そこには、確かに見覚えのある太った男が入ってきているのが見える。
「あら、確かにそうね」
「ホッホッホ、これならもう一杯酒を頂いても……」
「残念ですど、そうはいきませんわ」
「何故じゃ?」
「何故って、あの男の後ろに何がいるか見えませんの?」
 ワン老人が目をこらすと、太った男の後ろに全身甲冑を着込んだ人間が数人、槍を携えて店に入ってきているが見える。
「これは、良い状況ではないようじゃが?」
「……最悪ですわ」
 アンナの言葉を追うようにして、店中に響き渡る程大きい声が響いてきた。
「ここにアンナ・ディアナって娼婦がいるはずだよ! 出てこいよ! ぶっ殺してやる!」

「これは一体何事じゃ? あの太った男は何者なんじゃ?」
 ワン老人の言葉に、ガンニックが応えた。
「ベガー・ギルドの調べだと、あいつは貿易商の息子で『ドトマール・フォン・ジャッカル』って言うらしいぜ。息子は息子でも、相当タチの悪いどら息子だとよ!」
「まぁ、見ればわかることかのう」
 見れば、太った男は手下の甲冑兵達に命じてテーブルをひっくり返させ、関係のない客を店の外へ追い出そうとしている。
「随分と乱暴なヤツのようじゃが、どういった因縁があると言うんじゃ?」
「それは、わかりきったことです、ワン老人」
 これにはジョシュが応えた。
「娼婦館でアンナ君を買ったはいいものの、ことの途中で酔い潰れて思いは果たせず。逆上してアンナ君を打ちのめしに来たのでしょうね」
「はぁ、どこまでも性根の腐った男じゃのう!」
 ワン老人は驚きの声を上げた。
「して、どうなさるんじゃ、ご婦人? このまま無謀のままに打ちのめされるつもりかえ?」
「どうすると言われても、逃げれば見つかってしまうし、このままこうしていてもいつかは打ちのめされてしまうワケですし。諦めるしかありませんわね」
「これはサッパリしたもんじゃ! 他に考えることはないかのう?」
「あら、今すぐ死んで後悔するような生き方をするのは、貧民街ではモグリというものですわ。いつ死んでも後悔がないように生きる。それが貧民街住人のモットーですのよ?」
 そう言って、アンナは微笑んだ。
 すぐ側に、自分を打ちのめす兵士が迫っているという状況下でありながら、である。
「成る程成る程! 気に入ったぞ! ワシは気に入った!」
 ワン老人はそう言うと、やおら椅子を蹴って立ち上がると、フラフラした足取りで前へ歩き出した。
 明らかに酔った足つきである。
「ご婦人に、そこな両雄! ワシの国には『犬猫だって飯の恩義は三日忘れず』という言葉がある! いわんや、酒を堪能させて貰って忘れる恩義がどこにあろうや!」
 老人はアンナの側までフラフラと歩いて行くと、ピタリと足を止めた。
「このワン、その恩義に報いようぞ!」
 老人の言葉に、三人は異口同音に驚きの声を上げた。
 まさかこの酔っぱらいの老人が、全身甲冑の兵士を相手にしようというのだろうか?
 それこそ無謀というものだろう。
「おい、ワン爺さん、死ぬつもりか!?」
 ガンニックの言葉に、ワン老人は呵々大笑して応えた。
「カカカカカッ! ワシを誰と心得る? 遊泳飛龍のワンなるぞ!」
 ワン老人はグイと腰を落とすと「ハァッ」と酒臭い息を吐いて呼吸を整えた。
 そして、そのまま腕をゆっくりと突き出し、息を吸いながら手を戻していく。
 すると、老人の腕の周囲に霧のようなものが発生した。
「この匂い……お酒ですか?」
 ジョシュの言葉通り、ワン老人の周囲には強烈な匂いを放つ酒気が漂い始めていた。
 それとは逆に、老人の顔からは、どんどん酒気が抜けていっている。
「ワン老人、これは一体?」
「ふぅむ」
 ジョシュの言葉に返答しない代わりに、ワン老人は落ち着いた呼吸をもって応えた。
 その声は、既に酒気の抜けきったものである。
「わ、ワン老人?」
「丹田から腕へ気を送って、身体に残っていた酒気を抜いたのじゃよ。ワシの昆元功で内功を高めたのじゃ」
「たんでん? ないこう?」
 いきなり酒気が抜けた上、聞いたこともない謎の用語を使い始めた老人を見て、ジョシュは困惑した声を上げた。
「知らないならよろしい。その代わり、ワシの活躍をようく見ておくことじゃ」
「はぁ……」
 老人は黄ばんだ歯を見せてニカリと笑うと、しっかりとした足つきで暴れる兵士達の方へ歩いて行った。
「おい、そこの兵士よ」
「ん? 何だ貴様?」
 兵士の一人が機嫌の悪い声を上げた。
 彼らは正規の運送護衛業者なのだが、現在はどら息子の父親が彼らの雇い主であり、どら息子に逆らえないままこうして動いているのである。
 機嫌が良いはずがない。
「何だジジイ? 俺達は仕事で忙しいんだ。邪魔をすれば、俺らの槍で穴だらけにしちまうぞ」
「何を言うておる。ワシに穴だらけにされたくなかれば、早々にここから立ち去れ」
 まさか、背丈も筋肉もないような萎びた老人にこんな口を叩かれるとは思っていない兵士は、一気いきり立った。
「このジジイ言わせておけば!」
 兵士は槍を構えると、手加減抜き出思い切り老人へと突き込んだ。
 しかし、老人は手をヒョイと槍に手をかけると、身体を捻りながら槍を腰元まで引っ張り込んでしまう。
「これぞ、『飢龍百を喰らう』!」
「な! なん……!?」
 慌てて槍を引っ張る兵士だが、萎びた老人が持っているだけであるのに、槍はビクともしない。
 老人の技とかけ声に驚いた兵士は、何かを言おうとしたが、老人の更なるかけ声がそれをかき消した。
「そして、これが『飽龍千を吐く』!」
 かけ声と共に、老人の腰元にあった手が思い切り突き出され、その手に握られていた槍が兵士を襲った。
 声を上げる間もなく、兵士は槍の柄を突き込まれて吹き飛んでしまう。
「う……げぇ……」
 着ていた鎧がへこむほど突き込まれて、兵士は兜の中から吐瀉物を吐いていたが、老人は気にする様子もなく、兵士をその場に放り出してしまった。
「少しそこに寝ておれ」
 床に転がった兵士に対してそう言うと、老人は滑るような早さで、他の兵士の元へと歩いていった。

 老人の活躍は凄まじいものであった。
 残っていた四人の兵士を、技とかけ声と共に間に打ちのめしてしまったのだ。
 例えば、足で槍を引っかけて踏み込みと掌底を同時に行う『伸身龍』、一気に兵士との距離を詰める『流雲乗龍』、ゼロ距離からの強力な当て身を行う『突飛崩壁』、抜き手で鎧の隙間を突き刺す『爪突抜塞』等々、三人どころか貧民街、又はジャン・バッハに住まう人間誰もが見たこともない技の数々である。
「カッカッカ! これで全部兵士は打ち倒したが……」
「ワン爺さん、後ろに気を付けろ!」
 ガンニックの声で振り向いた老人の横を、光弾が通り抜けた。
 この光弾の射線の元には、ゴテゴテした銃を構えている太った男がいる。
「おい、ワン爺さん! まだデブ野郎が残ってる! あいつ、飛び道具を持ってやがるぜ!」
「カカカ、心配するでない! あれしきならば何てことないわ!」
 老人はそう言いながら、銃を持った太った男――ドトマールの方へと向き直った。
「そこのおぬし。女を金で抱くのも許す。酒に飲まれるのも許すし、金を無駄にばらまくのも許そう。しかし、女の遺恨で人様に迷惑をかけるとと、この状況で銃を抜くという根性が気に食わん!」
 老人はグイと腰を下げて、後ろ足に体重を乗せる、後屈立ちの構えを取った。
「その根性、たたき直してくれるわ!」
「ぼ、ぼ、ボクチャンはパパの息子なんだぞ! パパは偉い商人なんだぞ! こ、この銃だって、最新型のやつを買って貰ったんだぞ!」
「ご託は十分じゃ! 来るならば、来いっ!」
 老人の声に驚いたドトマールは、思い切り引き金を引いて、老人へと光弾を放った。
 光弾は一直線に老人へと飛ぶと、そのまま老人の突き出された手の平に飛び込み、消えてしまった。
「あれ?」
 当たったと勘違いしたドトマールは、驚きの声を上げた。
「その程度、まだまだ甘いわ!」
 老人は言葉と共に思い切り踏み込むと、「ハッ!」という気合いと共に、思い切り両の掌を突き出した。
「な、何を……」
 ドトマールの言葉は最後まで口にされることはなかった。
 老人の踏み込みと共に放たれた気の塊、マナの奔流がドトマールの腹部を打ち抜き、完全な行動不能に陥れたのだ。
「す、凄い……凄すぎますよ」
 ジョシュは驚きのあまり、普段にはない程ウキウキとした声を上げていた。
「何が凄いってんだ? ジョシュ坊?」
 ガンニックの言葉に、ジョシュはウキウキとした声を高めながら応えた。
「あのドトマールが持っていたのは、確か、マナをエネルギーにして銃弾に代えるマナ銃というものの試作品です。あれは最新の研究で作られた、マナ工学の最先端の作品! あれだけでも十分に素晴らしいものですが……」
「ですが、何だ?」
「ワン老人の行なったことはそれ以上に素晴らしいんです! わからないんですか!?」
「乞食崩れの俺に理解しろって方が、無理があるってもんだぜ? ジョシュ坊」
「いいですか、ワン老人はマナを呼吸しているんですよ! マナを吸い込み、それを身体の中でエネルギーとして使用して吐き出しているんです! 今の戦いは、ぼくの研究の研究を裏付け、躍進させる素晴らしい材料です!」
 いつになくテンションの高いジョシュに、ガンニックはタジタジとなってしまう。
「そりゃあ、スゲェな」
「そうですとも!」
 ジョシュは老人の元に駆け寄ると、その手をとってブンブンと振って見せた。
「素晴らしいです、ワン老人! あなたは何て偉大な人なんだ!」
「そ、そうかのう? ワシも妙に身体が軽くて驚いたわい」
 老人は少し疲れた様子で、その手荒い歓迎を受けていた。
「ちょっとジニー、余りしつこくすると、ワンお爺さんも逃げちゃうかも知れないわよ?」
「そ、そうですか?」
「そうよ」
 アンナにいさめられて、自分のハイテンション具合に気が付いたジョシュは、少し赤面して言った。
「すみません、ワン老人」
「いや、気にせんでもいい。ワシの功夫を見て感動して貰えるのは、悪い気はせんでもないからのう」
 ワン老人は「ホッホッホ」と落ち着いた笑いをすると、チラリとアンナの方を見て言った。
「ところでご婦人。この男の処分はどうするんじゃ?」
 老人の指さす先には、腹をマナの塊で打たれて、まともに息ができないで藻掻いているドトマールの姿がある。
「しばらくは動けないように、キツめに打ち込んでおいんたんじゃが……トドメをさした方が良かったかのう?」
「あら、その必要はありませんわ、ワンお爺さん。こうすれば全部解決しますもの」
 そう言うと、アンナは藻掻くドトマールの懐から財布を抜き出し、紙幣を幾枚か抜き取って見せた。
「これで、あたしの最初の計画通りの金額が入ってきたことになるし、後はお店の支払いに充ててしまえば酒代の問題も解決ですもの」
「この男は放っておいていいんじゃろうかの?」
「大丈夫ですわ。だって、ここはジャン・バッハの貧民街ですもの」
 アンナはにっこりと笑って見せた。
 ジャン・バッハの貧民街の路上にあるもので不必要な物は一切ないと言って良い。
 人であれば、着ている服から、髪の毛、臓器、皮から骨まで、ありとあらゆるものに需要があるのである。
 このままドトマールを転がしておけば、確かに制裁は済むに違いない。
 取り敢えず事態が収拾したのを見て、ガンニックが口を開いた。
「なぁ、ところでワン爺さんよぉ。あんたこれからどうするんだい? そのヒュマンならではの力と技を使えば世界を股にかけるのだって夢じゃないぜ?」
 ガンニックの言葉を聞いて、しかし、老人は難しい顔をしてみせる。
「それは、ちと遠慮しておこうかのう」
「そりゃあ、またどうして?」
「ワシがこの拳法を習ったのは、まだ赤ん坊に毛が生えた頃じゃった。それから髪が白くなるまでの間、ワシは拳法以外のことは何も知らんかったんじゃよ。ところが、ついこの間、ワシは酒の味も女を抱く素晴らしさも知ってしまってな。ちと、まぁ、色々していたんじゃよ」
 老人は照れたような表情で「ホッホッホ」と笑う。
「まぁ、どうやら、この街はワシの居た場所とは何の関係もないようじゃ。向こうじゃと、色々としがらみがありすぎて、酒も女にも不自由する。ここはその点、いくらでも手に入るじゃろう?」
 ガンニックも少しばかり嫌らしい顔つきで「ヘッヘッヘ」と笑った。
「そりゃあ、やりようによっちゃあ、ってヤツだぜ」
「うむ。ならばワシは旅なんて面倒なことはせん。ここで隠居するわい」
 老人はニヤニヤと笑いながら、遠い目つきをした。
 どうやら、これから先のことに思いを馳せているらしい。
「ワン爺さん、どうやら、長い付き合いになりそうだな」
「そうじゃの。まぁ、これからも一つよろしくお願いするわいの」
 二人はお互いに顔を見合わせると、「ホッホッホ」「ヘッヘッヘ」と笑い合った。

 ジャン・バッハは学術都市である。
 その街に住まう人々の探求心は深く、知性は鋭く、理路整然を好むと言われている。
 しかし、その裏には、全てが混ざり込んだ雑然とした何かが潜んでいる。
 その中で老人が酒を選んだことは、正しいのかどうか。それは、まだ当の本人にもわからない。


 父もいない、母もいない
 帰るべき家もなければ、今晩食べる飯もない
 種銭もない、日銭もない
 旧友などというものは居るわけがない
 日々ただ酒を飲んで便々として生きていられる
 いやぁ、何て素晴らしい日々なんじゃろうのう
   ――貧民街に隠遁したワン老人の手記より抜粋


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