『酒場の話』――ある、酒場の話。

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第4話


 酒を飲むための場所
 ただ酔うための場所
 雑然として混沌とした欲望の中心にあるからこそ
 純粋に酒という欲を満たす機能を有するとか何とか
 まぁ、とにかくいいから酒を持って来ればいい
 そっちの方が手っ取り早い
   ――ある酒場の男の言葉


 北の大陸ノルダニア南部。学術都市ジャン・バッハは貧民街において、酒家、酒屋、酒場という物の存在は、少々特殊である。
 酒を飲むという点においては何ら変わらないのであるが、その成り立ちが特殊なのである。
 普通、酒場というものは主人が利益のために酒を売り、客はそれを金で買う。これによって主人は儲けて、客は酔うのが普通である。
 貧民街にも、もちろんそういう酒場は存在する。存在はするが、しかし、それ以外の経歴によって成り立つ酒場も、また多数存在するのである。
 少し説明しよう。
 まず、その酒場には主人というものがいない。全員が客であり、全員が主人である。屋根のある場所で、人は皆が勝手に酒を持ちより、皆が勝手に酒を売りさばき、そして勝手に酔うのである。
 中には大量に酒を持ち込んで、主人の真似事をして小銭を稼ぐ者もいるが、そんな者だって結局は儲けを狙っているのではない。皆が良く酔うために、その労を尽くしているのである。
 私の名前はシバマルという。フルネームは長いので、ここでは割愛する。
 ジャン・バッハの貧民街にある酒場に張り付いて、日々を便々と過ごしている人間の一人だ。
 毎日毎日これと言って何をするでもなく重労働をして、のんべんだらりかつ忙しく生きているが、今日は気になることがあったので、これを記そうと思う。
 どうでもいいことだが、まぁ、面白いことでもない。聞き流してくれてもいい。
 ある日、私が酒場で人に紛れて酒を飲んでいた時のこと。
 そこで見覚えのない人間が、二人ほど目についた。
 一人は、ボサボサした髭に見たこともない服を来た、好々爺したお爺さん。
 一人は、ガッチリした体をしているのにひどい短躯の男で、こっちは物乞いの風体。
 二人は一個の小テーブルに酒を並べて、何やら話し込んでいるらしい。
 だいたい酒場には、顔見知りか、全く顔を知らないヤツしかいないから、こういう個性的な人間で顔を知らないというのは実に珍しい。
 私は気になって、近くへ寄って行った。

「……ということは、何じゃ、今日は二人とも来ておらんのか」
「あぁ、ジョシュ坊とアンナ嬢かい。二人は学者先生とお娼婦さんだから、そうそう酒のみにゃ来られないのよ」
「仕事っちゅうことかの?」
「まぁ、そういうことだな」
「困ったのう。ちと難しい質問をしようと思っていたんじゃが……」
「今日は俺ができる限り相手をするから、それで勘弁しちゃ貰えねぇかな?」
「ふむ、それもそれでいいわい。取り敢えず、乾杯といこうかのう」
 この二人はそう言うと「この奇遇に乾杯!」と言って、ほぼ同時に手持ちの麦酒のジョッキに口をつけた。
 ただ、老人はそのまま一気に半分まで飲み干してしまうけど、物乞い男はチビチビと酒を嘗めているだけだ。
「しかし、この一ヶ月ですっかり貧民街に馴染んだな、ワン爺さん」
 チビチビと酒を嘗めていた男が、ジョッキから口を離して言った。
 あまり飲めないのか、飲まないのか、この男のジョッキの酒は半分も減っていない。
 対して、ワンと呼ばれた老人は、二口目であるのに酒のほとんどを飲み干してしまいそうな勢いである。
「ふぐ……む……の、飲む途中で話しかけてはイカン。むせてしまうじゃろが」
「ワン爺さんの飲みっぷりで途中で話しかけられねぇとなると、俺はずっと黙りっぱなしになっちまうぜ?」
「おぬしは本当に口が達者じゃの、ガンニックよ」
「へへ、こいつが商売道具なんでね」
 ガンニックと呼ばれた男は悪びれる風もなく、老人の酒のお代わりを注文すると、また酒を嘗め出した。
 老人は老人で、即座に出てくる酒を「おぉ、すまんの」と言って受け取って、再びグイとジョッキを傾けると口を開く。
「しかし、おぬしは酒の飲み口がよろしくないの。ペチャペチャ嘗めとらんで、もっと、こう、グイッと飲めんもんか?」
「俺はこうやって酒を飲むのが好きなんでね」
「まぁ、確かにうまそうに嘗めるからのう。良しとするか」
「そうしてくれると、嬉しいね」
「では、何にしろうまそうに酒を飲むワシらに乾杯じゃ!」
 二人は「うまい酒に乾杯!」と言うと、再び酒に口をつけはじめた。
 私は(しかし酒ばっかり飲んでる二人だなぁ)と思いながら、隅の席に腰を落ち着けて自分の酒をチビチビとやりつつ、二人を見ていた。
 さすがにいきなり声をかける程、私も無謀ではないのだ。
 二人はそれからしばらくは気の向くままに話を続けていた。
 しかし、数分もしない内に、話は本題に入り始めたようである。
「……でな、そろそろ質問の方をさせて貰ってもいいかの?」
「あぁ、さっき難しいとか言っていたが、どんな質問なんだ?」
「実のところ、ワシも不惑や耳順を過ぎる年となっているわけじゃが、近ごろは女に酒を楽しむばかりで、耳惑で不順になってのう。ここは一つ、若返って志学といこうかと思っとったんじゃよ」
 不惑や耳順というのは「惑わず」と「耳に従う」という言葉であるが、確か地球の中国で言う四十歳と六十歳のことだ。
 志学は「学を志す」で、十五歳のことを言う。
 さすがにガンニックはこのことを知らないようであったが、
「良くわからねぇけど、結局は勉強したいってことだろ? 取り敢えず俺の知っていることなら何でも答えるぜ」
 と言って、小さい身体を反らして、グイと胸を張って見せた。
「頼もしいのう。じゃあ、この世界に関して、ちょいと質問させて貰うかの」
「よし、ドンと来いってんだ……」
 私は、これをワクワクしながら聞いていた。
 何と言ったって、私はこの酒場ができた頃からの常連で、何度か話の輪に加わったことだってある。
 ワンという老人は全く知識がないようだし、ガンニックという男もそれほど知識のある人間ではないらしいし、ここは私の出番というものだ。
 この酒場の常連として、ちょっと助言してやろう。
 先輩風を吹かせるのだって、たまには悪くないハズだ。私は自前のフォルダーと、手みやげ代わりの蒸留酒を手に取ると、二人の席へと歩いて行った。
「やぁ、ちょっとすいません」
 この声に、二人は驚いた顔で私を振り返った。
 いきなり他の人間が話しに入ってくれば、まぁ、大抵の人は驚くだろう。
「何じゃ? ワシらに何かようかえ?」
 ワン老人は、そのもの驚いた顔で。
「俺達はただ酒を飲んでいただけですぜ? 何を言われる筋合いもないはずですがね?」
 ガンニックは驚きながらも、卑屈そうに媚びた顔で私に話しかけてくる。
「いやいや、そう構えないで下さい。お二人がこの世界に関してお話をするというんで、私も混ぜて貰おうと思ったんだけですから……まぁ、お近づきに一杯どうです?」
 そう言った後、にこやかな笑顔で私が秘蔵の蒸留酒の瓶を差し出すと、ワン老人は相好を崩してそれを受け取った。
「こいつは良い! 気が合いますな、お若いの! 酒と肴が揃って来たとなれば、このワンは拒む理由がないと言うものじゃ!」
 そう言ったワン老人は空いていたグラスを私に手渡し、ガンニックと私と自分自身に早速開けた蒸留酒を注いでいく。
「では、ご一緒させて貰えるのでしょうか?」
「もちろんじゃ! お名前をお聞き願えるかな、お若いの?」
「私の名前はシバマルと言います。あなたのお名前は?」
「ワシは『忘れる』の『忘』の字を当てて、ワンじゃ。こっちで酒を嘗めとるのがガンニックと言う」
「よろしくお願いします、ワンさん、ガンニックさん」
「こちらこそじゃ! さ、早速乾杯しようではないか!」
 手早く酒を注ぎ、椅子を引っ張ってきてくれたワン老人は、楽しげに乾杯の音頭を取った。
 彼が随分とノリの良い人で、楽しく飲む酒を好んでいるのが、私にもヒシヒシと感じられた。
「ワシらの縁に乾杯じゃ!」
「では、縁に乾杯」
 私とワン老人が杯を付き合わせるのを見て、ガンニックは観念したように杯を突き出した。
 こちらは、楽しい酒を飲むというよりは、仲の良い者同士でゆっくり飲むのが好きなのだろうと言うのが感じられる。
 まぁ、話の内に打ち解けてくるだろう。私は敢えて気にすることなく、話を続けた。
「ところで、ワンさん。あなたはどんなことが知りたいんです?」
「そうじゃのう、まずはこの『ジャン・バッハ』っちゅう都市のことが知りたいのう。なにせ住処なんじゃから」
 学術都市ジャン・バッハ。
 マナの探求や学術向上を目指すものが多い反面、スラムなども存在する。学術の探求の果てに貧民街に行き着く者も多い。
 ……というのが、私のフォルダに収まっている資料の記述の全てだ。
 しかし、それだけでワン老人が満足するとは思えない。
 少々困ってしまった私が黙っていると、卑屈そうな顔をしていたガンニックが、それ相応に卑屈そうな声を上げた。
「シバマルの旦那、どうしたんですかい? 旦那が話されないんでしたら、俺が話しちまいやすぜ?」
「あ、あぁ、構いませんよ。私もガンニックさんの話は聞きたいですから」
「へへ、そいつはどうも」
 ガンニックはヒョイと肩をすくめると口を開いた。
「このジャン・バッハってのは、学術都市って言われてましてね。名前の通り、有名な大学やら研究所があるんでさ。名前の由来は、この町の基礎を作った『ジャン・バッハ一世』って成金野郎。そいつが作った有名な研究所が『ジャン・バッハ研究所』で、そいつが作った有名な大学が『ジャン・バッハ大学』ってんですよ。どいつもこいつもジャン・バッハの成金野郎が、金儲けに作ったのが発祥でしてね。マナとか言う、良くわからないモンをいじくり回して、日夜金儲けの種を探し回ってるそうですよ。他にも研究所や大学はあるみたいですが、俺は知りやせんね」
 一気に喋り終えたガンニックは、一息つくとペロリと蒸留酒を嘗めた。
 ワン老人ではないが、一気に喋りすぎて喉が渇いたらしい。
「成る程のう。この貧民街以外の場所に、そんなものがあったとはのう」
「まだ続きはありやすよ。その貧民街に関してですがね」
「ほう、どんなことじゃ?」
 ワン老人の言葉を受けて、蒸留酒を更に一嘗めしたガンニックは口を開く。
「成金野郎が町の基礎を作った時から、この貧民街はあったそうなんでさぁ。詳しいことはわかりやせんが、町ができたての頃から隣にくっつくようにして貧民が住み着いていたそうなんでね。そのまま、ジャン・バッハの町中には行けないけれども、他に行くアテのないヤツらが集まりだして、貧民街になったと聞いておりやすよ」
 ガンニックの話を聞いて、私にも思い出されるものがあった。
 思わず、話を遮るようにして口を開いてしまう。
「あぁ、それなら、私にも聞き覚えのあることがありますよ」
「ヘぇ、流石はシバマルの旦那! 物知りでいらっしゃる! それじゃあ、一つ、俺の代わりにお話願えますかね?」
 話を中断させられたガンニックは、大袈裟に驚いた顔をして、私に話を振ってきた。
 こう言われると、悪いことをしたという気になってしまう。
「あ、いや、すみません。話を中断させてしまって……」
「いいから、俺なんて気にせず続きを話して下さいよ、旦那!」
 ガンニックの強い口調に押し切られるようにして、私は話を続ける。
「あ、まぁ、単に昔のジャン・バッハは軍事都市だったんで、そういう場所に貧民が居着きやすかったのは、それが一因だったんじゃないかと言うだけですよ」
「ほう! 流石は自ら同席をしたがるワケじゃの、お若いの! 良く歴史に通じておる!」
 ワン老人は感心したような声を上げた。
 ガンニックもこのことは知らなかったらしく、心底感心したような顔をしている。
「流石は旦那ですな。その軍事都市ってのにもお詳しいんで?」
「いや、私も人づてに聞いただけですから、まだ詳しい設定は知りませんよ」
「設定?」
 私の言葉を聞いて、二人が怪訝そうな声を異口同音に上げた。
 ん?
 私は何か変なことを言っただろうか?
「何か変なことを言いましたか?」
 私の言葉に、ワン老人は何とも言いようのない顔をして見せる。
「何と言うか、街の事情を『設定』と言うのは初めて聞くから、ちと驚いたでな……」
 ガンニックも同じような顔をして、
「まぁ、違和感ってのを感じやすね」
 とだけ言う。
 この酒場にいる人間で、この言葉を使わない者の方が少ないと思うが、まぁ、二人はお気に召さないということらしい。
 なら、使わなければいい話だろう。
「まぁ、私は詳しいことを知らないと思って頂ければいいですよ」
「ふむ。それなら納得できるわいな」
 ワン老人は納得した風の声を上げた。
「それにしても、おぬしは歴史に詳しいようじゃの、お若いの?」
「はい、歴史に関しては、新しい事柄から古い事柄まで一通り知っているつもりですよ」
「ほう、それはそれは! ちょっとご教授願えんかの?」
「今のところ、ことの始まりは大魔王の登場からです。すべての魔王を統べる存在だと伝わっています。彼の登場が我々の物語の冒頭を務めています。彼が聖獣に対して封印や殺害を企み、十七始祖がそれを妨害するのが『神話時代』です。その後にやって来る、一般人がマナを操る時代が『魔法時代』と言います。十七始祖の作った国が大きくなり、国同士の勃興などはここで起こるようです。そして、この魔法時代の後にやって来るのが『機械時代』ですね。マナの枯渇によりマナが無くなり、代わりにマナの残り香――マナ資源を使った機械を利用したことから『機械時代』と呼ばれます。アトランテ大陸のマナ工業技術の塊、マナシップの登場して、マナによって動く機械が作られ始めます。その後、マナ資源の枯渇によって機械が作動しなくなり、『暗黒時代』が到来する所までが我々の知る物語です」
「旦那……あんた何を言ってるんだ? 十七始祖? マナシップ? 暗黒時代? そんな話聞いたこともないぜ?」
 驚きのあまりか、すっかり卑屈さが抜けて、素の状態で話を始めたのはガンニックだ。
「あれ? 聞いたことありませんか? 一応、ファルネースの基本だと思うんですけど……」
「だいたい、今は何時代だってんだ?」
「魔法時代の末期ですね」
「何で先の時代のことを知ってるってんだ? おかしくねぇか?」
「まぁ、それはまだ確定していないことではありますけど……」
「そりゃそうだ! それが決まってたら困るぜ! 何と言ったって未来のことなんだからよ!」
「ん? 未来のことって言われても、決まってなかったら困りませんか?」
「困る? 普通、決まっていた方が困るだろうよ! 何だか噛み合わねぇなぁ!」
 混乱を始めているらしいガンニックは、度数の高い蒸留酒の入ったグラスをグイと傾けて、中身を煽りきってしまった。
 その上、空いたグラスに並々と蒸留酒をつぎ直している。
 よっぽど話について行けないことを感じて、ヤケになっているらしい。
「まぁ、落ち着いて下さいよ。これから昔の時代にだって、今の時代にだって楽しい話は沢山あります。今だって、サトミ、ジュアン、ティナ、ニコル、ボブ、ルカ、レオン……勇敢な人間が何人も冒険しているんですから。これから話を作っていけばいいじゃないですか」
「勇敢な人間? 俺達は貧民街住まいなんだぜ? そんなヤツら知ったこっちゃない」
「でも、世界を広げ続けていると考えれば、悪くないと思いますけど……」
「世界を広げ続けている? ……悪いが、良くわからねぇな」
 お互い、あまりに噛み合わない会話に困惑する私とガンニック。
 そこに、横から声がかかった。
「おぬしら、ちょと早いが、そろそろ切り上げんかの? ちと酒を飲みながらという雰囲気でもなくなっとるようだしのう」
 混乱のあまりに、ハイペースで杯を重ねてしまっているガンニックも、事情が飲み込めないでいる私も、首を縦に振ってその意見に同意した。
「なに、また縁があったら色々詳しく教えて貰うわい。ただ、こういう真面目な話は酒抜きでやるべきじゃったのう」
 朗らかに「ホッホッホ」と笑うワン老人を見て、やっとガンニックが杯を重ねるのを止めて、ゆったりとした口調で口を開いた。
「そうだな。ワン爺さんの言うとおりだ。何だか変な飲み方しちまって悪かったな、シバマルの旦那」
 私も「こちらこそ、すみません」と謝罪の言葉を口にした。
 初心者相手に難しい設定を押しつけすぎたのだろうか。
 あまり無理はするものではないという自戒を込めて、私は「次にお会いする時には、もっと違う話で飲めるといいですね」と言う。
「そうじゃの。ワシも含めて、皆、少々酒に飲まれ過ぎたかも知れんの。次の機会を楽しみにしておるぞ」
 ワン老人とガンニックは会釈すると、酒場を後にした。
 今日は、少々面倒なことをしてしまった。まぁ、こういうこともたまにはあるだろう。
 私はワン老人とガンニックが去っていった入り口を一目だけ見ると、そのまま酒場の中へと視線を移した。
 そこには、全裸の人や、頭に1と書いた人、絵師の人、文を書いている人々、世界を解明しようと話し合う名も無き人々がいる。彼ら見えざる住人は、いつもそこにいて、世界を広げている。誰に理解されるとも、理解されないともわからないが、それが酒場のクォリティというものだ。
 見えざる者を見て、ファルネースの行く末を見守る私の名前は「シバマル」。「480」と書いて「シバマル」だ。フルネームは「480◆xjZRs5Npvc」と言う。日々、便々と過ごし、時折酒場で起こった出来事を書き留めているだけの占い師である。

 ワン老人の住居は、貧民街の中でも高い建物に値する七階建ての建物の、一番上の部屋である。
 この部屋は、普通の家々の屋根の上に作られた建物で、普通の家の分を考慮すると、正確な高さは十階分にも値するものである。
 普通の人には、下界との行き来だけで力尽きてしまうような物かも知れない。
 だが、自由に軽功(気の力で身軽に移動する術)を駆使できるワン老人にとって、その部屋は誰も住んでいない上、しっかりした作りになっている、ただの展望の良い部屋だったのである。
 今、ワン老人はその部屋で、早々に切り上げてしまったために飲み足りなかった酒を飲みながら窓の外を眺めて、ボンヤリと考えを巡らせていた。
(世界は広がり続けている、だったっけのう……)
 空が雲に隠れているために、外は真っ暗闇で、目下の貧民街の街明かり以外に見えるものがない状況である。
 少し先には貧民街の端から先は、真っ暗闇だ。
(この世界では様々な者が戦い合い、悪がはびこって正義が活躍し、夢を追う者がおって、夢に破れる者がおると聞く。あの先でも誰かが笑い、誰かが泣いておるとも知れぬが……)
 ワン老人が飲んでいるのは、シバマルと名乗った男が残していった蒸留酒だった。
 酒はとても強く、喉を通る度に老人の喉を心地よく焼き、胃の中で炎のように熱く燃える。
(とにかく、こうして酒を飲めば喉が焼ける。もっと飲めば酔いも回る。それだけは確かなことじゃ)
 ワン老人は目を細めて遠くを見透かすようにしたが、しかし、貧民街の端から向こうには何も見えなかった。
 真っ黒な雲は空一面に広がっていて、星明かりすら見えてこないままである。
(そう言えば、ワシは一度も貧民街から外へ出たことはないが……)
 ふと、ワン老人は腕を上げて、街の明かりを酒瓶に透かすようにして眺めだした。
 歪んで映る街の灯はユラユラと揺らいでいて安定せず、老人の目をチラチラと射す。
(まぁ、きっと、ワシはいつまでたっても、この街で酒を飲んで、気が向けば女を抱いているだけじゃろうがのう)
 ワン老人はフラフラとした足取りで窓辺から離れると、そのまま部屋の真ん中に引いてある布団まで歩いていき、酒を放り出してそのまま倒れ込むようにして横になってしまった。
 数分の後、一度だけ「ブゥ」と放屁する音がしたが、それ以降は全く音がすることはなかった。


 酒場は常に繁雑としていて、そして、それは世界の何とも関係がない
 物乞いが酔っ払おうが、老人が屁をここうが、娼婦が客を取ろうが、学士が居眠りをしようが
 どれもこれも勇者たちの冒険には何の影響もない
 彼らはいつでも酒場にいるし、それがどうってこともない
 だから私はいつでも酒場にいるし、それもどうってことはない
 今夜もまた、その例に漏ることはない
   ――ある酒場の男の言葉


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