『神秘の世界』――このファルネースは、俺たちの住んでいた世界とまったく違う。

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概要

 作者は創設者でもある「1◆F9FDd5.NK2」さん。ファルネースに投下された、最初の作品。
 魔法時代の末期、ファルネースにやってきたヒュマンの二人の戸惑いを描く。
 二人の今後は、別の作品で。

登場人物

■レオン・ベイカー
 ……アメリカ系ヒュマン。ベースボールの選手だった。
■ボブ
 ……黒人のヒュマン。レオンの親友。ガードマンをしていた。
■ロバート・ブラウン・ジュニア
 ……サウル氏族の男。ひとり、森の中に隠遁生活を送っていた。

神秘の世界


 バーの入り口の鐘が鳴った。雨音が室内に割って入ったが、ドアの閉まる音が聞こえると同時に消えた。
 振り返って入店した人物を確認すると、俺はサービスのテキーラを飲み干した。
「よう、ボブ。ここに座れよ」
「いつもと同じ席じゃねえか」
「マスター、マティーニね」
 ボブは笑みをこぼすと、隣に腰を下ろした。
 マスターの酒を注ぐ音だけが聞こえる。アフターファイブの稼ぎ時だろうに、他の客はいない。いつものことだった。
 ボブの注文が届くと、静寂が店内に拡がった。
「どうした? えらくご機嫌斜めなようだな。女にでもふられたか?」
 ボブは冗談めかして、そう切り出した。
 俺は黙って一枚の紙切れを机に置いた。ボブは眉をあげると、紙を手に取った。
「……戦力外通告、ね」
 ボブは紙面に目を通すと、マティーニを飲み干した。
「ま、そのうちこうなるとは分かっていたんだけどな」
 俺は無理やり笑ってみせた。
 メジャーリーガーになりたい。その思いから必死の努力でようやく入団にこぎつけたマイナーリーグだった。しかし、俺には持ち前の身体能力しかなく、守備や攻撃の技術は中途半端で試合では役に立たない。コーチはそれを執拗深く指摘してきた。俺は必死にやっていたがコーチの心象は良くなく、反論をする俺とは仲が悪かった。試合で起用されないのも当然だ。そんな面白くない毎日に、不貞腐れていた矢先の戦力外通告だった。
 今年で二十四歳。年寄りにはまだ遠いが、新しい夢を追い求めるほど若さはない。俺はいったい何がしたいのか。俺にいったい何が出来るのか。考えれば考えるほど、わからなくなった。
 俺は二杯目のテキーラを空けて、深くため息をついた。
「で、お前は最近どうなんだ?」
 思考を切り替えるために、ボブに話題をふってみた。
「俺か? 俺はいつも通り、何にも変わらないさ」
「まだガードマンやらをやっているのか? いつまで続けるんだ、そんなこと」
「さあ?」ボブは大きくかぶりを振る。「ま、気楽なもんさ。それが性に合ってるんでね」
 確かにボブはいつもそうだった。
 ボブは生まれたときに捨てられ、誰の力も借りずに生きてきた。縛られることもなく、自由気ままに生きるボブに俺は憧れにも似た気持ちを抱いていた。
 俺はボブを親友だと思っている。今もこうして真っ先にクビを報告するくらいだ。親父やお袋には報告しづらかったにもある。俺は家族と仲が悪かった。
 だから、天涯孤独なボブと俺は気が合ったのかもしれなかった。
「お前はこれからどうするんだ? いい雇い先なら紹介するぜ。こう見えても俺の顔は広いんでな」
「ああ、それは知ってる」
「お前の体力なら稼げるぜ? まっとうな職業だろうが何だろうがな」
 ボブはウインクして、白い歯を見せた。
「そう願いたいもんだな」
 俺もつられて笑ってしまった。
「さ、んじゃあココを出て飲みなおすか。レオン・ベイカーの新たな旅立ちを祝ってやるよ」
「サンキュ」
 マスターに代金を払うと、店を出た。
 雨は降り止む気配を見せない。
「ボブ、ちょっとは通行人の迷惑も考えろよ」
 いつものように、店脇に停めてあるボブのオンボロを一瞥して言うと、ボブは拗ねたような顔を見せた。
「おう、何てことを言うんだ。この愛妻は俺の元を離れたくないって言ってるのに」
 俺とボブはお互い大笑いすると、車に乗り込んだ。
 ボブはシートベルトも締めず、手馴れた手つきでキーを取り出た。
「んじゃあ、景気付けに飛ばすぜ! 車内で吐くなよ!」
 言うやいなや、ボブの愛妻はカタパルトを使ったかのように急発進する。いつものようにボブの運転は荒かったが、今はその荒さが心地よかった。
 車を飛ばして三十分、郊外にあるコンビニエンスストアで酒を購入した。
「それだけ酒がありゃあ、朝まで持つな」
 ボブの嬉しそうな声がする。
「外で飲むのは高いからな。明日から俺は職無しなわけだし……しかしこれを全部飲んだら、明日一日は動けないな」
 俺の心配そうな声に、職無しがよく言うぜ、とボブは大笑いした。ボブなりの励ましだとわかっているから、腹は立たなかった。
 ボブの自宅の近くまであと少しだった。
「お前の仕事は大丈夫なのかよ」
 荷台に詰まれ、車に揺られてガラガラと音を立てる酒の山を一瞥してみる。この量だと、酒飲みのボブでもきついに違いない。
「大丈夫だ。俺はベストフレンドのためなら、明日の仕事をキャンセルする覚悟でいるぜ?」
 元から仕事を休んででも飲むつもりだったくせに。上機嫌のボブを見ていると、自然と笑みがこぼれた。
 こいつといると世の中がどうにでもなるような気がしてくるから不思議だ。それがボブの魅力でもあるのだろう。
 助手席から見る風景は、前だけがライトで妙に明るかった。
 突然、その光の照らす範囲に黒い影が映りこんだ。
「なんだ!?」
 ボブが声にならない声を上げ、ハンドルを切った。同時に景色が回転し始めた。車体が傾く。黒い影は動物だろうか、人間だろうか。今の俺たちにそれを構う余裕は無かった。
 景色がやたらとゆっくり流れていた。ガードレールがゆっくりと、でも確実に近づいてくる。激しく感じる重力とともに景色がホワイトアウトしていくのを、俺はうっすらと感じ取っていた。

 *

「ここは……」
 意識がしっかりとし始めると同時に、一面の青空が見えていることに気づいた。背中にひんやりと冷たい地面の感触があった。
 あれからどれくらい経ったのか。何で大の字で寝ているのだろう。 まだ混濁したままの意識でぼうっと考えてみた。
 すぐ横でボブのうめく声と物音がした。
 そうだ、俺はボブの車に乗って事故にあったんだ。ボブは大丈夫か。俺はボブの方へゆっくりと向き直ってみた。幸い俺の身には痛みはなく、怪我はしていないようだった。しかし、痛みは無いが身体に違和感があるので、事故のショックがまだ残っているのかもしれない。
 ボブは少し離れた地面で同じように大の字になっていた。外傷は見当たらない。車はあれだけ派手な回転をしたのに、俺もボブも無事だったのだ。幸運の女神はまだ俺にも微笑んでくれているらしい。
 俺たちは無事だったが……車は? 少し落ち着いたところで、周囲を確認する。
 目前には小川があった。事故の直後、ガードレールから崖下へ落ちたのだろうか。
 それにしてはおかしい。車も、車の破片も無いのだ。誰かがここまで運んでくれたのか。気の利かないやつめ、どうせなら病院まで運んでいって欲しいものだ。
 遠くには小高い丘が佇んでいた。丘には唸り声を上げながら近づいてくる獣の群れが見える……ん、獣の群れ!?
 さっきまでの落ち着いた気分はどかに吹き飛んでいった。
「起きろ、ボブ!」
 俺は重い腰を上げると急いでボブの元へ駆け寄ろうとしたが、足を踏み出そうとした瞬間、巧くバランスがとれずに前のめりに転んでしまった。
「痛っ!」
 やはりまだ体がおかしいようだ。落ち着け、こういうときほどクールな思考が要求される。
 そうこうしている間にボブも目を開け、状況に気付いた。
「なんだ、あいつらは……」
 獣は狼らしい。一直線にこっちへと向かってくる。獲物を見つけた狼は嬉しそうに吼えた。
「ボブ、お前の家の近所には狼まで出るのか!?」
「知らん! とりあえず逃げるぞ!!」
 言うが早いか、俺もボブはそそくさと起き上がり全力で狼から逃げ始める。
 一歩進むたびに、違和感が全身を走る。そしてまた派手に転んでしまう。 俺の取った行動は大きく一歩を踏み出す、それだけのはず。それなのに、身体が自分のものではないかのように動かない……いや、動いてしまう。
「なんだ、こりゃあ?」
 少し先で、ボブは走りながら声を上げた。
「ボブ! 俺を置いて逃げるなよ!」
 転んでいる場合ではない。俺は抗議の声を上げて立ち上がった。
「レオン、それどころじゃないんだ! いや、今はそれどころなんだが……!」
「何を言ってるんだ! わかりやすく言えっ!」
「俺の体がおかしいくらい軽いんだ!」
 ボブはそう言うと慎重にこちらへ走ってきた――まるで陸上選手のようなスピードで。
「ボブ……お前、そんなに足が速かったか?」
 我ながら状況に似合わない間抜けな質問をしてしまう。
「違うんだ! これはその、何て言うか……ええい、転ばないよう慎重に走ってみろ! それでいい。時間がないんだ!」
「わかってる!」
 呑気におしゃべりしている時間はない。俺はボブに言われるままに、狼の群れから逃げ出していく。
 走る度に、風を激しく切る音、移り変わる景色……、軽く走っているはずなのにいつもの全力と同じくらい、いやそれ以上のスピードが出ていた。身体にかかる負担は、それと裏腹にまるっきり無かった。疲れないのだ。
「な……事故って体がおかしくなったか?」
 頭が混乱する。しかし、考えている場合ではない。
「とりあえず、逃げ切るのが先だ!」
 俺の言葉にボブは声を荒げた。俺たちは転ばないよう必死に逃げ続けた。民家、もしくは最悪の場合、車道に出られれば助かるかもしれない。 早鐘のように鳴り響く心臓に構いもせず、ただただ足を前に進めることだけを考えた。
 どれくらい走っただろうか、まだ民家も車道も見えない。最悪の考えが脳裏をよぎる。もしかして、道と反対の方角へ逃げてきてしまったのだろうか。
 いくら早く走ることができても、俺たちはまだこの状態に完全に慣れてはいない。ましてや相手は天性の身体能力を持つ狼だ。このままでは追いつかれるのが目に見えている。
「くそ、このままじゃ獣どものエサかよ!」
 走っても走っても背後から聞こえる唸り声に、ボブが絶望の声を絞り出した。
 まったく、解雇、事故と続いて今度は狼か。幸運の女神はやっぱり俺に微笑んでいなかった。このまま逃げ回って疲れたところを食われるくらいならばいっそのこと――そんな風に自暴自棄になっていた時だった。
「地面に伏せて、耳をふさいでいたまえ!」
 何処からか声が聞こえた気がした。
「え?」
 声がするほうに振り向いた瞬間、 大きな爆発音と熱風が俺たちを襲った。
「痛ッ……」
 まだ耳がキンキンする。膝ががくがく笑っている。畜生、今日はなんて日だ!
「これでしばらくは安心だ」
 当然のことをしたかのような、冷静な声が聞こえた。
 近づく足音を聞いて、俺は顔をあげて抗議の声をあげようとした。
「おいっ! いくら町外れだからって、手榴弾はちょっとやり過ぎってもんだろ!?」
 しかし俺よりも先にボブが怒声をあげていた。
「すまないな。こうするしかなかった」
 近づいてきた男は大して悪びれた様子も無く、こちらへ視線をやる。そのとき、俺は男の趣味の悪い格好に絶句した。
 男はダークグレーの上下に同じ色のマントを頭からかぶっている。眼鏡をかけているのだが、その眼鏡はアンティーク品なのだろうか、ずいぶんと古そうな作りになっていた。
 ちょっと前にこのような格好を映画で見たことがあったが、これで街中を歩くのは正直遠慮したい。今日はハロウインかってんだ。
「おいおい、おっさん。あんたクレイジーなのか? 今からどこのパーティーに向かうんだ?」
 ボブは腫れ物を見るような目で男を見る。
「こちらへ来い。此処はまだ安全じゃない」
 男はそんな様子に気を害した様子も見せず、先導するかのようにすばやく走り出した。
「お、おい! 待てよ!!」
 またあの狼どもと鉢合わせるよりかは、まだこの仮装男と一緒にいた方が幾分ましに思える。俺たちは男を怪しみながらも、慌てて後を追いかけた。

 着いた先は一軒の木で造られた小さな小屋だった。男はこちらへ目配せしてから中へと入って行った。
「おい、どうするレオン?」
「どうすると言ったって……」
 まだ何処に狼がうろついているか分からない上に、元の道も分からない。それに荒々しい手段だったとは言え、助けてもらった礼も言っていない。
「入ろう、ボブ。ここじゃ携帯もつながらないみたいだし、迎えを呼ぶこともできない」
 俺はポケットから取り出した携帯をボブに見せながら言った。
「ま、そうだな。とっとと礼を言って、誰か知り合いを呼んでもらって帰ろうや」
 あとで愛妻も回収しないといけないしな、とボブはしぶしぶ同意した。
 ボブの車が見当たらなかったことは黙っておいてやることにし、俺とボブは一緒に家の中へ入ることに同意した。
 小屋の中もその服装と同様に決して趣味のいいものとはいえなかった。
 生活必需品は揃っていそうなのだが、ほとんど安っぽいアンティーク調で揃えられている。
 テーブルの上には質の悪いペン、紙とここだけ他の世界から取ってきたように何かの器具が置かれている。
 ここまでくると趣味も大したものだと思う。
 男はカップにお茶を入れてこちらへ持ってきている。他に人はいなさそうだ。
 まあ確かにこの男についてここまで来るような物好きもそうそういないだろうが。
「とりあえず、ここにいれば狼の危険は少ない。かけたまえ。その様子だと長い間逃げ回ってきたのだろう」
 男はこちらにお茶を差し出すと、奥にある椅子に座った。
 男の台詞で俺たちは狼と長い間おっかけっこをしていたことを思い出し、とりあえず倒れるように椅子に座り込んだ。これが緊張の糸が切れたってやつだと、馬鹿げたことを考える。
 こんな馬鹿げたことを考えられるのも、狼とのレースが終わったからだ。俺は男に向き直った。
「とりあえず礼を言っておきたい。ありがとう。ええと……」
「ロバート・ブラウン・ジュニアだ。ロバートでいい。それよりこちらにかけてお茶でも飲んだらどうだろう?」
「ありがとう、ロバート」
 俺たちは言われたとおりに席につき、茶を頂いた。
 紅茶ではなかった。もしかしたら、日本の伝統の飲み物である抹茶というものかもしれない。何とも不思議な味のする茶だった。
 俺たちも自分たちの名前を教えると、すぐに話題を切り出した
「で、ロバートさんよ。助けてもらったついでで悪いが電話を貸してくれないか? 知り合いを呼びたいんだ」
 ボブは愛妻のことが気にかかるらしい。いても立ってもいられない様子だった。このいかがわしい場所から早く離れてしまいたいのかもしれない。
 その言葉を聞くとロバートは、ばつの悪そうな顔でこちらを見た。
「悪いが……これから私の言うことを落ち着いて聞いて欲しい」
「おいおい、この家には電話も無いのか。徹底してるな」
 ボブは皮肉交じりにそう言う。
「おい、ボブ」
 俺がボブをたしなめる。
「だけどよ、レオン。俺の車が……」
「とりあえず話を聞いてくれ」
 ロバートは困ったように言った。
「ああ、すまない。で、どこまで行けば電話はある? 俺には愛妻を助けるという用事があってね」
 ボブは堂々とそんなことを言ってのける。
「電話があってもこの世界じゃ意味のないものだし、その用事もあきらめたほうがいい……ん、愛妻? 君たちの周りには誰もいなかったが……」
 そんなボブの態度に腹を立てた様子もなく、ロバートは丁寧に答えた。
「ああ、こいつのオンボロワゴンのことだよ」
「ワゴン?」
 ワゴンもわからないのかと思い、「車だよ」と言い直してみた。
「ああそうか、そっちの世界にも車が……」
 車はさすがに理解できたらしく、ロバートはしたり顔で頷いた。
「しかし、君たちの周囲には何も無かった。おそらく、この世界にはない……」
「そうか。じゃあ、俺の愛妻のある世界にはどう行けばいいんだ? “この世界”だとか、電話があっても意味がないだとか、映画ごっこはいい加減にしてくれ」
 ボブはもうロバートの話には付き合えないと言った様子だった。
「埒が明かないな……」
 ロバートは席を立ち、机にあった小箱から小さな宝石を取り出すと俺たちに向け放り投げてきた。
 無意識にそれを掴もうとする。その時ロバートが何か呟いた。するとどうだ。宝石は光りながら動きを止めた――空中で。
「……どうなってやがるんだ?」
 流石のボブもこれをただのジョークでは片付けられないようで、空中に止まった宝石を食い入るように見つめた。
「手品だと思うのなら種をとことんまで調べればいい。それで気が済んだら私の話をとりあえずは聞いてくれるかね?」
 俺とボブ、大の男二人がかりで糸やトリックの類を捜したが発見できなかった。どういう原理で浮かんでいるのか、全く理解できない。 試しに触れてみると、宝石はまばゆい輝きを失って普通のありふれた宝石になるのだが、ロバートがまた妙な言葉をしゃべると同じように輝きながら空中で静止した。
 ジョークや映画マニアの雰囲気作りにしては出来すぎた代物である。俺とボブは顔を見合わせた。
「君たちは何処から来た?」
 男はこちらの反応を確認すると、質問した。
「いや、この近所さ。この近くに大きな公園があるだろ? その近所の……」
「そういうことではない」
 ロバートは俺の言葉を遮った。
「住所か? それならミネソタ州の……」
「ああ、アメリカか。私の親友もそこの出身だったよ」
 ロバートは懐かしそうに目を細めた。そして、続ける。
「しかし、そのアメリカはここにはない。むろんイギリスもフランスもロシアも、全てだ」
 男の言う言葉が理解できない。
「んじゃあ、ここは何処なんだ。ロバートさんよ? 俺は回りくどい話が好きじゃない。手短に頼む」
 ボブは少しいらいらしていた。俺はそれをたしなめながら、ロバートの言葉を待った。
「ここは君たちの少し前にいた世界とは別世界。ファルネースという世界だ」
「……は?」
 意思とは別に間の抜けた声が出た。隣を見ると、ボブも呆気にとられた顔をしていた。
「ここはファルネースにある四大陸のうちの一つ、カウムース大陸の北部にあるコウヤマ地方だ。少し南へ向かえばオリワという大きな街がある」
「ロバート、じゃあこういうことか?」
 俺はいまだ信じられず、でも頭に浮かんだ事を否定できずに、祈るような、もしくは呪うような気持ちで言った。
「俺たちは、地球からこのファルネースという世界に飛ばされた」
「そういうことになる」
 ロバートはいとも容易く肯定した。

 *

「……信じられないな」
 俺はぽつりと漏らした。
 ここはロバートの小屋の中では珍しく、彼の自作した妙な器具などが一切置いていなかった。もちろん、一歩この部屋を出れば怪しげな研究道具で溢れている。ロバートに言わせてみれば、まったく怪しいものではなく、天気や星の観測を行なうための装置や、気象など自然の力を利用してエネルギーを起こす研究の道具であるとのことだった。
 彼の祖先はサウル族という天文や占星術に通じた一族で、占いや予言を生業としていたという。一族は一様に探究心が強かったらしい。その名残かもしれなかった。
「あ、あ、あああ……、うん。普通の声、だよな」
 俺は発声練習をしてみた。先刻のロバートの話を思い出したからだ。
 異世界の話を信じようとしないボブが、「異世界なら、なんで言葉が通じるんだ」と食ってかかったとき、ロバートはマナと呼ばれる地球には存在しない力の説明をした。マナはこのファルネースという世界のありとあらゆるものに宿っており、それを利用すれば人為的に魔法のようなものを操れるのだと語った。
 そしてそれは、俺たち地球からやってきた人々――この世界ではヒュマンと呼称されるらしい――にも作用する。俺たちは、元々この世界の住人ではないためマナを操ることはできない。しかし身体はその意思に関わらず影響を受けるのだと言う。それが驚異的な身体能力であったりするのだそうだ。狼に襲われたときの爆発的な体力はそのせいだったらしい。
 またマナは、声帯や空気の振動に反応し、別の言語でもまるで同じ言語のようにしてしまうのだそうだ。試しに、ロシア語を口に出してみたら、それを知らないはずのボブが理解できた。自分の口はロシア語の発音で動いているのに、ボブには英語で聞こえる。不思議だった。
 マナの仕組みはまだこのファルネースの住人にもはっきりとは解き明かされていない。数々の研究者がそれぞれの方法でマナを研究している。ロバートもその一人なのだと、彼は言った。
 窓の外は元の世界にいたときと同じように雨露が滴り落ちている。夜の闇も地球と同じだ。窓の外を眺める限りでは、御伽話じみた世界――ファルネースにいるなんて事は想像もできない。だが、しかし。俺は軽く拳を握り、前へ突き出した。その音は怖ろしく鋭く、部屋に響いた。
 この力がアメリカにいる時にあったらな。俺は考えて苦笑した。しかしある意味では幸運だったのかもしれない。俺のやりたい事はアメリカで失ってきたばかりだ。 戦力外通知を突きつけられる前なら、俺はきっと絶望の底にいたことだろう。
「……俺はどうしたらいいんだ?」
 窓に映る自分に問いかけてみるが、答えは返って来ない。
「まだ寝ないのかい? お坊ちゃん」
 ボブが二段ベッドの上から無駄にアクロバティックな動きで飛び降りてくる。ボブは熱心に新しい環境に慣れようとしているようだ。
「早く寝ないと、明日まともに動けないぜ。レオン」
「ああ、分かっている」
 つい言葉だけでボブの忠告を返してしまう。
「なあ、レオン。確かにこれはクレイジーな出来事だ。ここじゃ、俺たちの常識はまったく通用しない」
 ボブがいきなり、話を切り出した。 そして俺をまっすぐ見つめながら言葉を続ける。
「だけどな。だからと言ってそのまま何もしないのはただの愚か者だ。俺の知っているレオンはそんなんじゃない」
 俺は黙っていることしかできなかった。
「ま、俺の言いたい事はそれだけだ。ま、もしかしたら帰る方法もあるかもしれねえしな。今日はロバートのおっさんに小難しい話を沢山されたんだ。俺を静かに寝かせてくれ」
 それだけ言うと、ボブは少し照れくさそうに寝床へと戻っていった。来たときと同じ、やっぱり無駄にアクロバティックなジャンプだった。だが着地に少し失敗してベッドから落ちそうになる。俺は思わず笑ってしまった。
 そうだ。どうせ考えるならボブの言うとおり、この世界で何かできることを考えているほうがいい。
 ボブのお陰で少し気が楽になった俺は、その言葉に従って休むことにした。考えるのは明日でもいい。
 俺もベッドに潜り込むと上に向かい、と礼を言った。上からがさごそと布団の音がする。ボブが照れた様子が目に浮かぶようで少しおかしかった。
 明日からは俺たちの“ヒュマン”としての新しい人生が始まる。 この先に平穏が待ち受けているのか、冒険が待ち受けているのか。それはまだわからなかった。


 『神秘の世界』――完。


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