『girl meets boy.nakedly』――少女と少年は、やがて小さな伝説となる。

小説top /

概要

 作者は「ID:UKJjvf5rO」さん。魔法時代の初期、マナ戦争直後くらいの話。
 破天荒な二人であったらしく、伝説は大きくは無いがアトランテ大陸の各地に残っている。
 スゥの出生には“大魔王ファルネース”が絡んでいると、後の世の学者の中にはそういう説を唱えるものもいる。

登場人物

■スゥ=フォルマ=フォルナ
 ……アトランテ人。何かの研究をされていたらしい少女。十四歳。
■ホワン・フェイ・フー
 ……中国系のヒュマン。めちゃくちゃ強い。十四歳。

girl meets boy.nakedly


 ファルネースの四大陸とは異質な発展を遂げた、絶海の大陸アトランテ。
 そこで、とある男の赤子が優れた学者の間に生まれた。赤子はマナと同化し続けるという異質な特性を有していた。
 彼の両親は優れた頭脳を、子のために用いた。彼が成人するまでの間には、彼を普通の人間にしてやりたい、とさまざまな実験を行なった。なんとか彼を助けたい一心で、マナストーンが人体に与える影響を調べる実験など非人道的なことも行ってきた。
 しかしある日、少年と両親は忽然とファルネースから消えた。
 やがて、時は流れ、世界を滅ぼそうとする災厄“大魔王ファルネース”が現れるが――外界のことは知らない、アトランテの民にそのことが伝わることはなかった。
 大魔王が滅ぼされた後も、外界との情報の行き来は少なく、情報としての「マナ戦争」は知っていても、俄然、アトランテ大陸内では、伝説として残ることは無かった。むしろ、伝説として残ったのは……二人の少年少女の話である。
 いわく、街をひとつ潰した。
 いわく、内乱を食い止め、アナトリアを救った。
 いわく、アナトリアとカンディアの仲を均衡させてきたのは彼らの力である。
 いわく、彼らは神の生まれ変わりである。
 そのどれもが、真偽を確かめる術はない。ただ、彼らは破天荒だったらしく、アトランテ大陸の各地にその足跡は残っている――……。

 *

「死んじゃえ……みんな死んじゃえ……」
 涙と鼻水で顔をべとべとに汚しながら、少女はうわごとのように繰り返していた。
 湖に腰まで浸かる彼女は衣服を身に付けていない。白磁器を思わせる裸体、それは無様にひび割れていた。
 縦横に走る裂傷・打撲傷などが少女の身体を痛々しく覆っている。それらは背中を中心として拡がっており、傷の持ち主がいわゆる『打ち据えられる人間』、つまり恒常的に暴力を振るわれている人間であることを示している。
 春は訪れを告げているとはいえ、まだ湖水は冷たい。かちかちと歯を鳴らし、泣きじゃくりながら、それでも少女は丹念に傷口を洗う。
 視線を胸元に落とす。微かに膨らんだ両の乳房の中間、胸に刻まれたタトゥーが淡く輝いていた。
 その輝きに手を触れ、少女は涙を流した。
「ママ……わたし、苦しいよ……」
 止まらぬ涙、込み上げる嗚咽のままに、少女は呟く。
「早く世界が滅べばいいのに」
 少女の身体の上で増減を繰り返すこれらの傷の意味を考える度、少女はいつも途方に暮れる。
 実のところ、少女は自分がなぜこんな目に逢っているのか、よく分かっていない。夭折した母親と関係があるのかも知れない。この胸に刻まれた烙印が理由かも知れない。
 或いはもっと単純な理由――少女のことがただ嫌いな人間がこの世には大勢いて、その為に傷つけられているのかも知れない。
 いずれにせよ思うことは、自分の逃げ場はどこにも無い、ということである。
 義父、同級生、教師連中、そういった手合いに苛まされて悲鳴を上げる少女を、誰も助けようとはしない。社会という構造体が彼女の血と痛みを贄として欲していることは、少女の目には明らかな事実であった。
「みんな死んじゃえ……」
 彼女のありったけの想いが込められた呪咀。だが、マナはそれに応えない。
「みんな死んじゃえ……」
 この言葉になんの力もないことを、少女は知っている。「死ね」と百万回唱えたところで、誰も死にはしないし、少女が救われることもない。世界に憎しみを募らせる一方で、そういった存在に抗うことを怖れて無意味なシラブルを繰り返すだけ。
 少女はそんな自分が大嫌いだった。
「死んじゃえ、わたし……」
 肩まで湖面に沈めて陰欝な物思いに耽っていた少女だったが、ふと、キナ臭いものを感じて身を浮かせた。
 その動作が強張っていることで、少女は自分の身体が冷えきっていることにやっと気が付いた。
 マナを単純な熱エネルギーに変換して自分の体内にそっと流し込む。その魔力の鳴動に反応して、少女の胸のタトゥーが輝きを増した。

 いつの間にか周囲は薄闇に包まれている。だが、まだ日は高く空に雲はない。
 俄かに紅塵が立ちこめて陰風が吹く。それは空気中のマナ濃度が急上昇している証だ。狂音を孕んだ颶風が水面を乱す。波紋は広がり、互いに干渉し、複雑な紋様を描きだす。
 風はなおも吹き荒れ、やがて湖の中心、その上空の一点に凝縮される。空を切り裂き水を穿ち、爆発的に膨張を続けるマナ。
 やがてそれは一つの形を取り――虚空から人が顕れた。その人影はゆっくりと下降してゆき、静かに着水した。それはそのままゆっくりと沈んでゆく、身じろぎもせずに、気泡すら吐かずに。
 生きているのか死んでいるのか、そんな些細なことは関係なくなる深度に達するのも時間の問題だった。
 このファルネースの片田舎、谷と川に囲まれた小さな世界で、そいつはまるで流星のように顕れ、そして消えてゆこうとしていた。
 だが、決定的な死に届くぎりぎりのところで、そいつの身体は、ミミズ腫れの目立つ細い腕によって絡め取られた。
「みんな死んじゃえ……」
 彼女のありったけの想いが込められた呪咀。だが、マナはそれに応えない。
「みんな死んじゃえ……」
 この言葉になんの力もないことを、少女は知っている。「死ね」と百万回唱えたところで、誰も死にはしないし、少女が救われることもない。世界に憎しみを募らせる一方で、そういった存在に抗うことを怖れて無意味なシラブルを繰り返すだけ。
 少女はそんな自分が大嫌いだった。
「死んじゃえ、わたし……」
 肩まで湖面に沈めて陰欝な物思いに耽っていた少女だったが、ふと、キナ臭いものを感じて身を浮かせた。
 その動作が強張っていることで、少女は自分の身体が冷えきっていることにやっと気が付いた。
 マナを単純な熱エネルギーに変換して自分の体内にそっと流し込む。
 その魔力の鳴動に反応して、少女の胸のタトゥーが輝きを増した。
 いつの間にか周囲は薄闇に包まれている。だが、まだ日は高く空に雲はない。
 俄かに紅塵が立ちこめて陰風が吹く。それは空気中のマナ濃度が急上昇している証だ。
 狂音を孕んだ颶風が水面を乱す。波紋は広がり、互いに干渉し、複雑な紋様を描きだす。
 風はなおも吹き荒れ、やがて湖の中心、その上空の一点に凝縮される。
 空を切り裂き水を穿ち、爆発的に膨張を続けるマナ。
 やがてそれは一つの形を取り――虚空から人が顕れた。その人影はゆっくりと下降してゆき、静かに着水した。
 それはそのままゆっくりと沈んでゆく、身じろぎもせずに、気泡すら吐かずに。生きているのか死んでいるのか、そんな些細なことは関係なくなる深度に達するのも時間の問題だった。
 このファルネースの片田舎、谷と川に囲まれた小さな世界で、そいつはまるで流星のように顕れ、そして消えてゆこうとしていた。
 だが、決定的な死に届くぎりぎりのところで、そいつの身体は、ミミズ腫れの目立つ細い腕によって絡め取られた。
「……ぷはぁ」
 水面に顔を出した少女は、まず自分が抱えている荷物の確認をした。
 それは人間で、体付きは少女より一回り大きい。歳の頃は少女と同じくらいの十四歳くらいだろう。意識はなく、ぐったりとした身体を少女に預けている。
 ここらでは珍しく見事な黒髪の持ち主で、無造作に伸ばされたそれは水気を含んで肌に張りついている。
 そして――そう、間違いなく男だった。というのも、そいつは生まれたままの姿をしており、明確な判断基準が少女の目に晒されていたからだ。
(なんで裸なの、こいつ)
 自分も同じく裸であることは棚に上げて、少女は胸中で羞恥混じりに呟いた。
 微かな苛立ちを込めて顔を叩くと、そいつは「ふうっ」と大きな息を吐き、次いで規則的に呼吸を始めた。
 そいつは今まで息をしていなかったらしい。それはつまり、ほとんど水を飲んでいないということで、この分だと、そいつが目を覚ますにはそれほどの時は要さないだろう。
 少女がそいつ――少年を湖の底から掬い上げたのは、別に人命救助の精神だとかそういうのでは全然なく、凄まじいマナのざわめきとともに現われた少年が、あまりにもあっけなく沈んでゆくのを見て、「もったいないな」と少々ピント外れの感慨を抱いたのが主な理由であった。
 そのささやかな気紛れが生み出した可能性、『惜しんだもの』がこれからの世界に与える影響について、この時点での少女は全くの無自覚だった。

 ――少年が目を開けた。

 驚くべきことに、少年の瞳は真っ黒で、髪の色とほとんど同じだった。
 目覚めた瞬間、態勢を崩して沈みかけたが、水の中にいることを理解したのかすぐに持ちなおす。不審そうに視線を彷徨わせる少年を、少女は手を握って落ち着かせてやる。
 少年はそこで初めて少女の存在に気が付いたかのように、少女に目を向けた。その相眸は黒真珠に似て、
少女はなんとなく居心地の悪い思いをする。
「あー、えーと、身体はなんともない? きみは誰?」
 僅かな沈黙。そしてその答えは少女の知らない言語によって返された。
 言葉がまったく通じていない。どうやら少年はここら辺りの人間ではないようだ。虚空より出でた、異邦の少年。彼は、もしかして――少女は、少年が降ってきた瞬間からずっと考えていた推測を口にする。
「きみは……『向こう側』の人?」
 幼い頃、母親によく聞かされていた話がある。
 ここではない世界、魔法技術の存在しない世界のこと。彼方と此方を結ぶゲートのこと。
『世界のマナが乱れるとき、彼方から稀なる旅人が訪れる』
 その時は、それを単なるお伽話だと思っていた。
 成長するにつれ、どうやら本当の話らしいと認めるようになったが、それでもやはり、少女にとって遠い世界の話であることには変わりがなかった。
 その遠い世界、煌びやかな王室や、乳香の溢れる精霊郷よりも遠い世界の住人が、今少女の目の前にいる。
 この現象は、いったいなにを意味しているのだろうか。それはまだ分からなかった。
 そんなことを考えていた少女だったが、少年の顔が真っ赤に染まっているのに気付く。
 理由は――考えるまでもない。湖の透明度は非常に高く、要するに、丸見えなのだ。お互いに。
「え、あ、見ないでよ!」
 少女は咄嗟に少年に背を向けようとした。だが、背中にはたくさんの傷がある。
 大きな自制心を払い、少女は胸を腕で覆うだけに止める。そのぎこちない動きに反応して、少年が、おや、といった感じで少女を注視する。
「だから、見るなってばぁ……」
 とりあえず、二人とも裸というのは具合が悪い。少女は手振りで少年に後ろを向くように促し、自分は衣服を置いてきた岸辺に近づこうとする。
 その時。風向きが変わり、生臭い獣の匂いが少女の鼻を突いた。
 そういえば、母親の話には続きがあった――
『もしも“それ”に出会うことがあったなら気を付けなさい。稀人の訪れは、常に怪奇とともにあるから』
 ゲートが解放されるほどの高密度のマナが存在する環境下は、マナを好む獣を呼び寄せる。
 すなわち、マナを操り得る能力を持った神獣・魔獣の類である。
 湖に浮かぶ二人のすぐそば、水面下から火喰狗が飛び出した。
 火喰狗は、近隣に生息する魔獣の中では最も狂暴な生態を持っていた。
 大抵の獣は、糧を得るために狩りを行なう。だが、火喰狗は、しばしばコレクションのために他者を狩る。
 今がその時だった。奇妙な二人の人間に対して、火喰狗は大いに好奇心をそそられていたのだ。
 必死に泳いで、なんとか足のつく浅瀬までは辿り着いたが、岸までは到底間に合いそうにない。それより
も火喰狗の泳ぐ速度のほうが速い。
 真っ赤な体毛を水になびかせて魔獣が迫る。少女はほとんど反射的に右手をかざした。
 一瞬の集中が魔力を呼び、その魔力はマナを集め、マナに指向性を与える。
 光の奔流に変じたマナの集合が、火喰狗を襲う。だが火喰狗は湖中に潜り、敢えなく光は水面に散った。
 次の瞬間には、水が粘りを帯びて少女の自由を奪っていた。
 火喰狗がマナを変質させて少女の肉体に食い込ませたのだ。
 少女は無我夢中でマナを掻き集め、沸き起こる恐怖そのままにそれを展開させる。
「―――!」
 隣で少年がなにかを叫ぶ気配がする。
「なに言ってんだかっ、分っっかんねーわよっ!」
 幾筋もの真空の刄が、水を割って火喰狗へと殺到する。跳ねる水飛沫はさらに刄に削られ、たちまち濃霧が水面上を覆い尽くす。
 だがすぐさま、少女は己の失策を悟る。
 霧が魔力を帯びている……!
 半ばパニックに陥りながら拮抗術を錬るが、魔力の点に於いてはるかに優れている火喰狗に押し切られ、そこは火喰狗の支配する空間へと変貌した。
 少女は、水棲生物である火喰狗と水中で対峙する、という絶望的な状況を呪った。
 この霧に潜んで、火喰狗は攻撃の機会を伺っているのだろう。それに対抗する術があるはずだった。だが、マナは応えてくれない。
「ぅあっ!」
 左の肩口に鋭い痛みが走る。咄嗟に右手をやるが、そこにはもうなにもない。ただ、熱い血が溢れて水面を汚し始めていた。
「う……うぅ……」
 既に少女は戦意を喪失している。
 この瞬間まで戦意を維持できたのは、今が異常な状況だったからだ。しかし、その一方で、少女にとって痛みとは極めて日常的な感覚だった。
 火喰狗に傷つけられたことで、少女の精神は日常的な反応を示すことを少女の全てにに強要した。
 怯えて縮こまれ、と。
(どだい無理だったのよ……わたしなんかが魔獣から逃げられるわけないのに。分かり切ってることじゃない……わたしなんか……わたしなんか……)
 周囲からの虐待によって培われた少女の無力感、劣等感が、この極限下で最悪のかたちとなって少女自身に牙を剥いた。
 霧の向こうに、火喰狗の影が見える。少女は絶望と諦観の混じった表情でそれを眺める。
 影がゆらりと動くのに合わせて、少女は固く瞼を閉じた。

 少女は思う。

 どうしてわたしはこんなにも無力なのだろうか。
 今、わたしは、「ワンちゃんよりも上手にマナを操れないから」という、本当に下らない理由のために殺されようとしている。
 みんなは自覚しているのだろうか。わたしたちは、マナを思うように操っているつもりで、その実、マナに捉われているだけだってこと。もしもマナに心があるなら、きっとこんなわたしたちを嘲笑っているだろう。
 この世界は間違いだらけだ。やっぱり、こんな世界、さっさと滅んじゃえばいいのに。
 自分の意識がクリアなままであることを訝しんで、少女は薄く目を開けた。
 火喰狗の巨躯が見えるが、角度が悪いのかいまひとつ状況が掴めない。ぽたぽたと少女の頬を温かい液体が伝う。それが血液であることは匂いと味から知れた。
「―――?」
 意を決して眼を開いた少女の視界に飛び込んできたものは、少女の想像を越えていた。
 少女の背中を抱えるようにして、異邦の少年が立っている。
 少女の頭上、火喰狗の顎が少年の腕をくわえていた。いや、これはむしろ、火喰狗の顎に少年の腕が押し込まれている、といったほうが正しい。
 口蓋の根元まで押し広げられている火喰狗は、いかにも苦しそうであった。
 そして少年は、空いているほうの腕を火喰狗に叩きつける。
 石投げの要領で、火喰狗の身体が水面を跳ねて飛んでいった。
「嘘、素手で、な、殴り飛ばした……嘘ぉ……」
 目の前の光景が信じられない少女の囁きが、ぽつりと漏れる。
 この場に漂う霧が空間を制圧している以上、その拮抗術を施さない限り誰も満足に動けないはずだ。
 殊に、少年が本当に『向こう側の人間』であるなら、そもそも魔術を使えない――
 少女の脳裏に、一つの答えが浮かび上がる。
「感染断絶……!」
 感染断絶、またはマナの不活性化とも呼ばれる現象がある。
 原理的に言うなら、魔術というものは魔力によってマナの性質を変化させた時点で完結する。
 魔術で発生させた炎は薪をくべねば消えてしまうし、大気を集めてもすぐに散ってしまう。
 現実にそうならないのは、周囲のマナが魔術化したマナに感化されて、その質を変化させるからだ。
 魔術そのものがマナを魔術化する連鎖反応が、魔術内部で自然発生しているのである。
 だが、ある一定の条件の下でそのプロセスは遮断される。
 『向こう側の人間』が魔術を扱えない理由が体質にあるなら、そう、体質的に感染断絶を備えている可能性は大いにありうる話ではある。
 もちろん、それが戦闘に於いて決定的なアドバンテージに結び付くわけではない。
 結局のところ、「思ってたように魔術が作用しない/魔術が継続しない」といった程度のもので、より大規模の魔術を発動するなり、マナの感染任せにせずに魔力を注ぎ続ければ、その問題は解決する。
 しかしながら、マナの感染のパラダイムが当たり前のように受けとめられているファルネースに於いて、先天的な感染断絶保有者が、魔術に関わるすべての者の盲点に立つ存在であることは間違いなかった。
 火喰狗の放った火矢が少年を襲う。だが単なるそれは目眩ましで、濡れた腕で火矢を振り払った隙を逃さずに少年の喉笛に食らい付く。
 少年は藻掻き、暴れ、火喰狗を引き剥がしにかかるが、火喰狗はここを先途とばかりに放そうとしない。
 少女は為す術なくその場に立ち尽くしていた。そうしている間にも火喰狗の魔力が生む数々の魔術が少年の身体を痛め付ける。血はおびただしく流れ、
湖面は鮮やかな桜色に染まっていた。明らかに少年のほうが劣勢に見え、少女はいたたまれなくなって叫び声を上げた。
「もう止めて! 無理よ、勝てるわけないじゃない!」
 少女の声などこれっぽちも届いていないのか、少年はなお足掻き続ける。
 火喰狗の牙はいよいよ喉の皮を破り、肉に割り入った。少年の口が金魚のようにぱくぱくと開閉する。
「―――ォァァア」
 開かれた口から空気が漏れる、いや、それは形を為していた。人の意志の、かたちある力が込もっていた。
「え?」
 今度こそ、少年ははっきりと発声していた。
「ゥゥウォァァッッッシシィィィァァァァアァアアアァァアァァァァァ!!!!」
 びりびりと水面を波立たせ、少女の下腹部までもが震えるハードヴォイスだった。
 それがなにを意味する語なのか、少女には分からない。
 だが、しかし、少年は叫んでいた。
 己の存在を示すため、生命を謳歌するため、全てを賭けて、少年は絶叫していた。
 咆えるとは本来そういうことであり、遠い異世界から迷い込んだ旅人は、自分が今ここで生きていることを、この世界の全てに宣言したのだ。
 知らずしらず、少女は涙を流していた。それは、これまでに流したたくさんの、怨念と絶望の涙とは大きく異なっていた。
 名も出自も知らぬ少年の、生命の根源、そのほとばしり、飽くなき渇望、瑞々しく輝く希望に触れたことによって滂沱に流された、カタストロフィの涙であった。
 今、少女の胸のわだかまりは僅かに解けて、精神を蝕むトラウマは少しだけ払拭された。
 だが今は、それだけで十分だった。

 荒んだ精神生活によって心の奥底に追いやっていた、少女が生来持つマナへの信仰が回復する。
 瞳を閉じれば母親の声が思い出される。母親がまだ存命だった頃は、彼女が少女の魔術の師匠だった。
『自分が今どこにいるか、周りになにがあるか、その関わりのなかで自分のするべきことはなにか。
 それをいつも考えていなさい。そうすれば、多分きっとあなたは幸せになれる。
 あなたは、ママの、世界の、特別な存在だから。
 自分を信じなさい。あなたは常に正しい』
 少女は僅かに目を開ける。胸のタトゥーは激しく光輝き、目の眩む光茫を放っていた。
 少女はひどく落ち着いた声音で、母親から教わった口訣を唱える。
「――『七つの足跡』『逆流の坩堝』『虹と櫛』『秘されし黒寡婦』『燃える三角フラスコ』『破るは二十四頁』!」
 少女がそれを終えた瞬間、一方で格闘を繰り広げていた少年と火喰狗との間に異変が起こる。
 肉弾戦に集中しすぎたために傾注する魔力が減退して、濃度が薄まっていた火喰狗の霧の結界、それが一斉に火喰狗の元へ疾った。それは常軌を逸する速度を有しており、一瞬にして火喰狗の身体に微細な穴が幾つも穿たれる。
 水の微粒子はその体内で自律的に連絡し、結合し、根を張る。火喰狗は、硬直したままで体内を引き裂かれた。
 ほぼ同時に、少年の指が火喰狗の眼窩に侵入する。感染断絶によって、火喰狗の頭部近くの硬直が解かれるが、もはやそれどころではなかった。
 両の眼球を抉られ、ついに顎の拘束が弛んだ。それを逃さず、少年は両腕に力を込めて胸元の魔獣を水面に叩き落とす。
「『黄金製カラス』『飛び石の見た夢』『血の恋人』『銀のスプーン』『首斬り役人の永い休暇』!」
 怒りと死に瀕した危機感により、火喰狗の体毛が逆立つ。
 低く唸ると、そのまま火喰狗は水の中へと姿を消した。
 次に起こすであろうアクション、それは全身に魔力を漲らせた体当たりだろう。
 魔力は向こうが段ちなのだから防御は適わず、それを食らったら生命はない。
 だが、その前に。
 少女の魔術が造った水と空気の槍が少年の目の前に現れ、少年は自然な動作でそれを掴み――投擲した。

 火喰狗は、二度と浮かび上がることが無かった。

 二人して血と汗でぼろぼろなのが無性に可笑しくて、少女はくすくす笑う。そういえば、笑うなんて久しぶりだな、とかなんとか思いながら。
「ねえ、きみ、名前は? ナ・マ・エ」
 少女は自分を指差し、名乗る。
「わたしはね、スゥ。スゥ=フォルマ=フォルナ。きみは?」
 少年は軽く頷き、区切るようにゆっくりと言った。
「ホワン・フェイ・フー」

 こうして、ファルネースの片隅で、いつかアトランテに伝説として名を遺す一対の少年少女は、その運命的な遭遇を果たした。

 ――全裸で。


 『girl meets boy.nakedly』――完。


←back  next→
↑NOVEL TOP
↑PAGE TOP

inserted by FC2 system