第三章『中川雄也の場合』

 待っていた。来るはずのない電話を。オレはただ待ち続けていた。ずっと、ずっと――。
 ――オレはただ気づいていなかった。

 *

 待っていた。俺は美紀を待っていた。彼女が来るはずもないことを知らずに。
 忘れられない昨日という呪うべき日。美紀が永遠にオレの前から消えた日。
 轢き逃げだった。
 美紀は待ち合わせ場所に来る途中、車に轢かれ、病院に運ばれた。病院に運ばれるときはまだ意識があったらしい。うわ言のように、オレの名を呼び続け、やがて息を引き取ったという。全部、医者の話だ。オレがこの耳で聞いたわけじゃねえ。
 オレが駆けつけたときには――あいつはもう居なかった。居なかった。……この世のどこにも居なかったんだ。
 あんな事故の後なのに、霊安室で静かに眠る美紀は、綺麗なもんだった。包帯やガーゼは多少つけていたが、その他はいつもと変わらない美紀だった。いつもと何も変わらない。
 呼びかければ、オレの名を呼んで返事しそうで、すぐに起き出して他愛ない会話をしたり、バカらしい冗談を言い合ったりしそうだった。
 だけど。
 いくら呼んだって、いくら揺すったって。
 美紀は返事もしてくれない。美紀は笑ってくれない。
 なあ。つい昨日までは一緒に話して、一緒に笑ってただろ。
 なあ。今日は一緒に誕生日プレゼント買ってくれるって言っただろ。
 なあ。オレはケーキは苦手だけど、一緒に食べようって。
 嫌がったって無理矢理食べさせるよって。年の数……十九本のロウソクつけようって。十九本も立てたら、ケーキ穴だらけになるのにさ。
 約束しただろ。約束したじゃねえか。約束したのに。……美紀は、美紀は約束を破る子じゃなかったじゃねえか。
 オレは、オレは絶対信じないからな。オレは、オレは絶対……信じられないからな。

 今日はオレの誕生日。
 だけど、オレは死人のようにベッドに寝転んでいた。いつも右手には携帯を持ってる。別に眠いわけじゃない。だけど、電気はつけていないし、カーテンも閉めてままだった。陽の光がうとましかった。
 携帯を開くと、その液晶のライトだけが暗闇の中で静かに輝く。オレは、ただ、携帯を見つめ続けていた。
 オレの誕生日が二日後にせまったあの日、美紀はオレを呼び出した。
「お母さんが寝込んじゃって、誕生日に会えなくなっちゃった。ごめん」
 そのことを言ってくれたときの、美紀の申し訳なさそうな顔を今でもはっきりと覚えてる。
「だけど、明日は休み取れたから、一日早い誕生日パーティ、しよ?」
 オレが頷くと、美紀は嬉しそうに微笑んだ。
「明日はいっぱいいっぱい、お祝いしようね!」
 そう言って、優しくキスをしてくれた美紀。短いキスだった。短い、最期のキスだった。
 美紀の唇の感触をまだ覚えてる。それなのに、美紀はもういない。
 キスをした後に、美紀、言ったよな。
「明日が誕生日の代わりだけど、明後日の誕生日になったら、絶対、電話するね!」
 言ってくれたよな。
「だから、電波の届かないところとか行っちゃ、イヤよ。約束ね!」
 約束したよな。電話してくれるって。
 今日がオレの誕生日だぜ? オレ、こんなんだけど、19になったんだぜ? 美紀は、オレが何欲しいか聞いたよな?
 オレは、何もいらないって言ったけど。本心だったんだ。どんなプレゼントよりも、美紀に祝ってもらえることが一番のプレゼントだったんだぜ?
 ……だから、だからオレは待ってる。
 誕生日の今日、美紀が電話してくるはずはないと頭では分かってても、日付が変わるまで、オレは待ち続けるつもりだった。

 時刻は夜の十一時半だった。
 あともう少しで日付が変わり、オレの誕生日が終る。だけど時計は無情にも時を刻む。待っても無駄なのはわかっていた。自分自身の馬鹿さ加減に呆れたそのとき――
 携帯が淡い光を放ち、闇を引き裂いた。無駄に明るいメロディが鼓膜を打つ。サブディスプレイには、『着信中』の文字が表示されていた。
 オレは、呆然とその文字を眺めた。着信……あり……。
 しかし、驚きはすぐに落胆に変わった。番号を見て、ため息をつく。美紀からじゃない。
 当たり前だ。美紀から着信が来るわけないことは初めから分かってた。美紀の携帯は、あの事故の衝撃でグシャグシャになったし、何よりもその持ち主の美紀は、もはやこの世にいない。
 かける携帯もなければ、かける人もいないんだ。
 常識で考えれば分かる話。ただ、気持ちだけが追いついていなかった。それだけのこと。
 すぐに我に返ると、自嘲の笑みがこぼれた。着信に驚いた自分に呆れたんだ。
 ……そうだ、忘れていた。誰からの着信だろう。発信者の名前を見ると、画面には『拓』と電話相手の名が表示されている。
 誰だ……? 一瞬悩んだのち、ふと思い当たった。
 大学の少人数ゼミのクラスにそんな名の男がいたな。顔は不細工で、話すときにいちいちどもったり、クラス内でも気持ち悪いと嫌われている男だった。
 そうだった。番号を交換したんだった。考えている間も、ずっと鳴り続けているので、何か用でもあるのかもしれない。
「もしもし? どうした?」
 オレは先ほどの暗い気持ちを隠すように、平静を装い、電話に出た。
「……もしもし、拓だけど。今日、誕生日だよね? おめでとうって言おうと思って……」
「何で知ってる?」
 オレは疑問に思った。拓に誕生日は教えてないはずだ。
「クラスの奴らが話してるのを聞いたんだよ。遅くなってごめんよ」
 なるほどそういうことか。
「ありがとよ。でも、もう切るぜ? 今は人と話してる気分じゃねえんだ」
 正直、うっとうしかった。最近の拓はゼミでも以前に比べて明るい。今日の拓も、どもったりもせず雰囲気も普通の人のそれだったが、それでも話す気がしなかった。
 今は、誰であれ話したくなかった。
「あ、待ってよ! これからどこか行かない? 誕生パーティしようよ」
「言ったはずだぜ? 人と話す気分じゃないって」
 何だよ、こいつは。本気でうっとうしかった。
「でも最近、学校休んでたでしょ? どうしたのかなぁって思って……」
 その通りだった。美紀が亡くなったことがいまだ信じられず……いや、受け入れられず、何もする気が起きなかったのだ。正直、家から出るのも億劫だった。
「彼女のこと気にしてるんだね」
 不意をつかれて、一瞬言葉に詰まった。
 そうだ。ゼミには美紀の友達もいる。拓が美紀の死を知っていてもおかしくなかった。
「辛いだろうね……」
「……お前何言ってんだ?」
「でも辛いときも一人でいちゃダメなんだよ?」
「黙れ。お前に何が分かる? 大切な人を失った気持ちが、お前なんかに分かるのか!? 恋人もいないお前なんかに!!」
 俺はカッとなって拓に気持ちをぶちまけた。拓は悪くないのは分かってた。こいつなりに、気を利かしたんだってことも理解してた。
「……わからないよ。僕には恋人どころか、友達さえいない。僕はいつも一人だもん」
 拓の声が小さく震えているのが、電話越しに分かった。
「……でも、君にこそ僕の気持ちがわかるの?」
 拓は思いもがけないことを聞いてきた。
「何……?」
「この顔のせいで、悪口を言われ、誰にも相手にされない僕の気持ちがわかるの?」
「それは」
「わからないだろ? この世に絶望して、この世を本気で去ろうと思った僕の気持ちなんてわからないだろ!?」
 返す言葉もないほどに驚いた。拓の心の叫びが痛いほどに響いてくる。
 クラスの中でいつも一人だった拓。誰よりも孤独を知る男の叫びが、オレの心を激しく揺さぶった。
「僕にも……大切な人を失った君の気持ちなんかわからない。でも、一人でいる辛さなら誰よりもわかる」
 一人でいる辛さ……オレは、部屋を見渡した。
 真っ暗な部屋、誰の気配もない部屋。今、オレがこんなにも辛いのは……一人で抱え込んでいるからなのか?
「僕はずっと一人だけど、君は一人じゃないだろう? 友達がいるだろう? だったら、だったら……外に出なよ!」
 拓は一気に言い切ると、ハアハアと息を切らした。
 いつもは、モゴモゴと何を言っているかわからない拓だった。その拓が、オレに本気で気持ちをぶつけている。
「……ごめん、調子に乗りすぎた。僕の言いたいことはそれだけなんだよ。じゃあね」
「待てよ」
「え……?」
「行こうぜ、パーティ。オールでも何でも。ちょうど今、誕生日終っちまったけどな。付き合ってくれんだろ?」
 自然と、オレから声をかけていた。
「え、僕なんかより友達と行きなよ」
 自分から誘ったくせに……と、思ったが、不思議と腹は立たなかった。何より、オレは拓を見直していた。そして、感謝していた。
「友達だろ、お前も?」
「ぼ、僕が……君の友達!?」
 驚いて声の裏返る拓。
「ああ、正直、今までお前のこと気持ち悪いやつだと思ってた。すまん」
「え……」
「お前がこんなにいい奴だって知らなかった……お前、きもくなんかねえよ」
「きもくない……? いいやつ……?」
 拓は、信じられないといった様子で、その言葉を反芻する。
「そうだ。お前、ちゃんと自分の意見しゃべれてる。これからもそうしてろよ」
「僕は……きもくない」
「そうだ、お前はきもくない。それに一人でもない。俺たち友達だからな」
 しばしの沈黙。
「……ありがとう。……うっ……うっ……」
 拓の嗚咽が受話器を通して聞こえた。
「バカ! 慰めに電話かけた奴が泣くな!」
「だ、だって。嬉しくて……」
 その後、拓が泣き止まないので、今度は俺が慰める番に回ったりと、色々大変だった。
 結局は、遅くまで開いている大学前の飲み屋に、今から二人で行こうと約束した。未成年だが、今日ばかりは無礼講だ。
 待ち合わせ時刻を決め、待ち合わせ場所も決めると、電話を切った。
 心に突っかかってた何かが溶けた気がした。オレは、一人じゃない。
 ベッドから立ち上がると、手探りで電気をつけた。眩しくて、しばらく目が開けられなくなる。二十四時間ぶりに、部屋が光に包まれた。  
 オレは服を着替え、歯を磨き、髪形を整えると、外に出る準備を終えた。しばらく身体を動かしていなかったためか、関節が痛い。その痛みが今は何故か心地よかった。
 あとは……携帯と財布を持てば終りだ。財布を手に取り、携帯を手に取ろうと手を伸ばして――やめた。
 もう美紀から、電話はかかってこない。待つのは終りにしよう。
 未練を断ち切るため、あえて携帯を残し、ドアに向かおうとした。が、ふと思い直すと、メモリに残った美紀の番号に電話をかけた。
『お客様のおかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かないところにあるため――』
 流れ出す無機質なアナウンス。オレはそれを無視して、話し始める。
「美紀のこと、きっと一生忘れられそうもない。でもな、気を紛らわすことならできそうだ。心配すんな、オレは何とかやってける。
 一人じゃないからな。もう大丈夫だ。今から友達と出かけてくる、じゃあな……バイバイ」
 それは自分へ言い聞かしていたのかもしれない。
 天国に電波が届くのかはわからない。だけど、願わくば、携帯よ。この想いを美紀に届けてくれ――
「誕生日おめでとう……いってらっしゃい」
 ――美紀!?
 慌てて耳を澄ますが、聞こえるのは先ほどと変わらない、アナウンスの声だけ。オレの想いが届いたのかはわからない。
 だが、電話を切る直前に聞こえた小さな声は、きっと美紀の声だったんだと、オレは思いたい。

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