02.クライスの生意気

 目覚めるとそこは荷車だった。目覚めると麦が揺れていた。目覚めるのは好きじゃなかった。感覚が戻ってくるから。夏風。
 感覚の眠りとめざめの、動きのない、しずかな曖昧さが嫌いだった。
 そしてもう一つ付け加えると、暑さは嫌いだ。
「麦の様子はどうだ」
 声。
「大丈夫」
 身体を起き上がらせる。顔を見る。厳粛さ。悲しさ。苦さ。いつもの顔だ、と思う。金色の麦が小憎らしくも夏風に揺れていて、俺は小さく舌を打つ。
 見るのも嫌な麦畑の、どうしようもないほどの美しさ。
 その上にはもっと嫌な家がある。
 自分の家。
 荷車から飛び降りて、ゆっくりゆっくりと運び始める。青蝿の羽音。眠気をひきずったままの身体は、初夏の大気にそのまま崩れ去ってしまいそうで、怖い。いや、と思い直す。そのまま崩れ去ってしまえば、遠いどこかに行けるかもしれない。
 遠いどこかとか、自分の家とか、そういった曖昧な物言いは、好きじゃない。そしてそれよりもずっとずっと曖昧な自分がある。でも俺の家は少しも曖昧じゃなくて、麦畑を越えていくとすぐにそこにある。ひなびた一軒家。車輪の音。
「旅に出るのは駄目か」
 問いかけ。
「駄目だ」
「どうして」
「成功するとは限らない」
「そういう問題じゃない」
 青蝿の羽音。太陽が、見える。
 沈黙。
 親父の顔を盗み見る。いつもどおりの、痩せた顔。厳粛な悲しさ、苦さ、何かを待ち続けるけれどどうしようもない人の顔、何かを失っているけれどそれを認められない人間の顔をしている。
 そして俺の一番嫌いで、一番つきはなせなくて、一番別れたいのに、一番どうしようもなく離れられなくて、一番何だか申し訳なくさせられるような顔。
 そういう顔は、嫌いだ。
 兄はそういう顔をしていなかった。
 兄がどんな人間かといえば、簡単に言えば世間知らずだった。本を読んだ。そして戦士たちの記録を読んだ。そして兄は知った。戦士を半分廃業し、ほとんど農夫のような生活をしている俺たちの家が、かつては血と剣の世界に生きていた、ということを。
 兄は旅に出た。手紙は切れた。そして四年、帰っていない。
「お前の兄さんもそうだったが」
 夏雲。
「旅に出て、それでどうなる」
「……どうにも、ならない」
 どうにかなるはずはなかった。頭では、わかるのだ。そう、頭では、わかりすぎるぐらい、わかるのだ。腰の木刀は何の意味も成さない。ただ荷車だけが、自分の手に絶え間なく重さを与えてくれる。自分がしがみつかなければならないのはそういう存在なのだと。わかるのだ。あまりにも、あまりにも。
「でも兄貴のことを悪く言うな」
 沈黙。
「そんなことも答えられないようで、どこに行ける」
 どこになんて、答えられるはずもない。どこでもない、それでもどこかという名前を持ったどこかでしかなかったのだから。俺は荷車を押し続ける。共に押す父の横顔は、憎たらしくなどないから、余計に俺は悲しくなる。ごめん、と言いたくなるのだ。悲しいぐらいに、言いたくなるのだ。
 だから俺は絶対にごめんだなんて言わないのだ。

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