06.クライスは走る

「それは――」
 夜風が吹いた。ルーからフォロー希望の視線がくる。そんなもんこっちに回すな。何よ、それぐらい拾ってくれてもいいじゃない。次の視線は無視。
「言えないのか」
「解ってはいたけどね」
 ルーはぱんぱんと手を払う。呆れた調子の言葉に俺にだって理由ぐらいあるさとかなんとかぶつくさ言うカイルを見ていると、いじめたくなる俺は嫌なやつだと思う。でももうちょっと嫌な奴が隣にいて、そいつは「夜中に下手なこと言って、ろくなことになんてならないわよ」だとかなんとか。
「ルーには多分絶対言わない。いやなんか言葉おかしいけど」
「ついでにお前の頭もおかしいから修理してもらってこい」
「いやそんなの一々拾うお前はもう何ていうか人間性の修理してこい」
「間違ったこといってねーぞ」
「うっせーよ。じゃあ俺も間違ってない」
「なんだおまえ」
「おまえこそなんだ」
 みたいな感じでいつも通り殴り合いの喧嘩になるわけで、いつも通り「いい加減にしなさい」とさらっと一喝(俺の言葉もなんだかおかしいけど、本当にルーの一喝というのは、さらっとしているのだ)。
 とりあえず二人してルーのお説教を受ける。いい年こいてというフレーズが六回程度出てきて、お前よりは誕生日だった気がするとかなんとか二人で抗議したのがいけない。しばかれる。ルーは僧侶より絶対戦士の方が向いてると思う。
「心配だわ、あなたたち。……特にカイルは、明日が試験なのよ」
「何で心配すんだよ。一応試験勉強は完璧だぜ」
「一応の完璧があるかよ」
「なんだようっせーよ」
「おまえこそなんだよ」
 ぱちん。ダブル叩き。いや痛くないけど怖い。視線。「お前らいいかげんにしろよ」とか「これ以上私の手を汚すな」とか「本当緊張感ねーな」とか「なんでこんなときになってまでそんなことするのよ……」とか。
 おまえが明日いなくなったら、どんな反応すりゃいいの。とかは言えない。
 解っているのだ。そんなの三人とも解っている(カイルはバカだけれど、こういうところはバカじゃない。それは間違いない)。でもそれを言ったら壊れてしまう。三人とも見せていないことがある。そう思うのは、俺だって何も言ってないから。大事なことは――恥ずかしいことでもあるけど――全部、あの家のなかに、閉じこめてある。ふとカイルの顔を見る。本当はこいつにだって何かがあるのだ。でも俺はそれを知らない。
 そして知るべきではない。
「本当、心配よね」
 その声は結構心配そうで、俺とカイルは笑った。ルーは心配性だ。
 碧の布衣が夜風にゆらめく。風がとんでいく。サンヴィレッジの夜の闇を、飛んでいく。どうしてこの風はこんなにも冷たいのだろう、と思う。もう夏なのに。
 さみしさ。そう名付けるには計り知れないぐらいかなしすぎて、そしてなんだかとてもちっぽけな感情。
「カイルが試験勉強を万全にやったというのなら、それはいいとして……。こんなにも寒かったら、身体壊すわよ。寝なさい」
「おう」
 ルーが小さく目を見開いた。そして俺も。ああ、と思う。変わってしまうんだ、と。なにかが、とても小さくてつまらなくて愛し過ぎるようなばかばかしいいろんなことが全部変わってしまう。そういうことが気にくわなくて気にくわなくて仕方ないけどでもそんなことを言葉に出しちゃったら全部おしまいなのだ。
 おしまいなのだ!
「あー、カイル。本当の瞑想、どうせだし教えてやる」
 そんなこと、言えるわけがないじゃないか。ルーがこっちを見た。ちょっとさみしそうだった。ルーもやっぱり同じ気持ちなんだ、と思った。それは配慮でもあるし、そしてちょっと、気にくわない何かでもある。そして、ルーは、笑う。
「ん、いいよ」
 ほらやっぱり、これでおしまいなのだ。俺はちょっと笑って、でもそれはすごく悲しいんだけれどそんなことやっぱり言わないから、「なんか、頑張れよ」って。なんかが何かは解らない。解らないけど「習っておいて損はないわよ」とルー。つなぎとめるのではなく。私からも、何か教えられること、ないかしら。
「鬼のような女に食われないようにする方法」
 ぱし。
 やっぱりルーは戦士の方が向いてると思う。
「まったく、本当に試験大丈夫なのよね。こんな雰囲気で落ちられでもしたら、私なんにも言えなくなるじゃない」「大丈夫大丈夫、受かるって」
 最後とか、お別れとか、そういうことは言わない。みんな解っていた。夏のしめやかなかおりがくる。そう、夏がくるということは、もう春は終わったのだ。
「明日まあ、それなりに頑張れよ」
「それなりってなんだよ」
 カイルが笑う。
「もしも落ちたら、神様に天罰を要求するから」
「お前って本当に僧侶に向いてない」
 明日が来なければいいだなんて、そんな馬鹿げたこと、今更になって思うなんて。互いの目を見る。その男の眼を、その女の眼を。透明過ぎるどこかに運ばれてしまうような気がしたけれど、そんな言葉なんて打ち消して。最後の言葉はもう決まっている。そう、最後の言葉は、いつだって。
「さよなら」
 声を重ねて。

 もう少し、長く続いてもよかったんだけどな。
 走った。走った。河を。風車を。粉屋を。走った。そう、もう少し長く続いてもよかった。いや。走る。走る。そうじゃない、続いてほしかったのだ。走るまで夜明けが終わらないでほしい。夜が。やさしい夜が。革靴が破れればいい。身体が壊れてしまえばいい。骨身が弾ければいい。夏なんて来るな。そうだ。いやなんだよ。俺はやっぱり子供だった。何を言っても何を考えてもやっぱり子供だった。走る。走る、走る、走る。麦畑を、夜を、風を。
 背中の木刀は最後まで喧嘩に使わなかった。

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