09.クライスは剣を持つ

 走りながら、走りながら、どんどんと自分のなかにいやなものが沸き出してくるのを感じた。そしてどこに向かってるのかも段々解らなくなって、止まって。
 月。
 兄貴はどこを目的地にしたのか、それはわからない。自分がどこに向かおうとしているのか、そしてどうして父のように荷車を押す生活を、なにかを待ち続ける生活を拒むのか、それさえも言葉に言い表せない。
 そういうときに――そう、自分とか、父親とか、そういうくだらないもの全部を、あるいはカイルとかルーとか、そういった大切なものとかが全部ぐちゃぐちゃになって、青海のなかに放り出されてしまったような、漂流したような気持ちになるとき。救ってくれる場所があった。
 遅くに帰ってきたというのに、両親は何も言わなかった。それはカイルとのことを察してというより、もっとつまらない理由のように見えた。そして俺も何も言わなかったし、何も言わずとも納屋の地下室の扉は開いた。
 今日の自分はなんだかおかしい、と思う。理由はすぐに思い当たった。
 ――見送る人間にはなりたくなかった。
 どうして?
 ――見送るということは、その分だけ、距離をおくことだから。そしてもう一人見送った人間は、どこか彼方に消えてしまったのだから。
 待ち続けるということ、見送るということは、そんなにもいけないことなのか。
 いけなくはない。……そうではなくて、退屈なのだ。今日この日が退屈で、昨日が退屈で、それで明日が退屈じゃないなんて、そんな保証はどこにもない。…… 退屈? そんなもののために、平穏な生活を捨て、荒海の外界に出、そして兄のように失踪してしまうというのか? ……そうだ。おかしなことだと思わないか? どうしてお前の兄は消えたんだ。そもそも死んでいるかどうかも解らないのに。生きているかもしれない、本当は。だとしたらどうして手紙一つよこさない?
 息を吐く。真剣だの、夢物語の紋章だの、家系図だの。……ああ、と思う。そうなんだ、単純にきっと嫌なんだ。兄貴は俺にも、父にも、母にも、そしておそらくはこのサンヴィレッジに死ぬほどうんざりして、そしてサンヴィレッジのなかの自分は死なせてしまうことにしたのだ。――あるいは死んだのかもしれない。だとしても同じだった。旅をするということは、痕跡を消していくということ。定住しないということ、不断に自らの歴史を消していくことなのだから。
 ……今まで保たれてきた何かが壊れつつある。……もし俺が旅に出たとしたら、父母は何を言うだろうか。あの何も言わなかった父母でさえ、悲しむのではないか。それはきっと甘えの裏返しなのだ。思い切れない言い訳にしているだけ。
 じゃあどうすればいい?
 そう、それじゃあどうすればいい?
 兄は出たのだ。恩知らずの兄、醜い兄。自分は? 感謝はしているのだ、育ててくれて。それならば当然、その恩に報いるよう、この村に留まるべきではないのか。そう、父の言う通りだ、俺にはどこにも目的地なんかない。だが俺のなかで、どこでもないどこかが確かに根を這っている。どこでもない、どこか。
 剣を、持つ。
 木刀の比ではない重さによろめきそうになって、踏ん張る。
 踏ん張れクライス。言い聞かせて。一振り。二振り。三振り。重い。重いけれど、できないことではない。庭に出る。庭の手入れをしていた兄が出ていってしまって以来、庭は小さな荒野のような有様になっていた。夏だというのに、風はまだまだ冷たくなりそうだった。
 呼吸がしたい。
 剣を振る。風を切る音。酸素を求める音。呼吸が、したい。嫌なもの全部を投げ出してしまって、新しいどこかを見たいのだ。そう、それは忘恩であるし、愚行でもある。だから何だ。さらに振る。邪魔な木刀を投げ捨てる。
 気がつくと父が見ていた。
「駄目なんだ、クライス」
「知ってる」
 知り過ぎているぐらいに。
「なんで、駄目なんだろう」
 庭は荒れていた。父の顔は荒野の肌のよう。待ち続ける人間の顔。憎たらしい男の顔。……いや違う、憎たらしくはないんだ。憎たらしくは。そうではなくて。
「……なんで、駄目なんだろうな」
 父を尊敬しているのだ。それ程までに待ち続けるその心の強さを、確かに知ってはいるのだ。だからこそ、どうして、と。
「悪いのは私だ。止められなかった私が悪い。いや、止められなかったとしても、もっといい止め方があった。そうすればお前の兄も、きっと行方知れずということにはならなかったろう」
「やめろよ」
「お前は?」
「なにを」
「剣をやめるのか、と聞いている」
 その眼は鋭く。一流の戦士にも比肩しうる眼光。
「やめない」
「どうして」
 黙る。どうして? ――それはこっちの台詞だ。どうしてお前は、そんなにも苦しんでいるのに、何一つ見せない。ただ静かに荷車を引いて、ただ静かに待ち続け、ただ静かに生を続けられるのか。確かにお前にもあったはずだ、辿り着き得ぬ、そしてだからこそ夢見たはずの地が。戦士の血が。旅人の血が。
「自分でもよく言えない」嘘じゃなかった。
「……そうか」
 父親はそれで引き下がった。俺はそれがなんだか物凄く嫌になって、本当に悲しすぎて、消えていく父親に刃先を向けて、それで何十回も何十回も素振りをやって、母屋に帰る気なんて毛頭しなくて、汗まみれの身体で地下室に降りていって、疲れ切ったまま倒れる。

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