12.クライスは小石を握って

 地下室は、ちょっとしたシェルターだった。埃っぽいし、もう何度も訪れたような場所に、特別な収穫があるわけではない。ただ、そこにある時間の重みが、好きだった。動いていないようで、本当はとても俊敏に動いている、そんな時間の動きが、好きだった。
 意識が、少しだけ、飛んだ。ぐらり、ぐらりと、壺が重々しく転がりながら、ゆっくりと欠けていくように。大分参ってるなと気付くには時間がかかった。痛むということを、俺は少しだけ忘れていた。少しだけだから、思い出すのにそう時間はかからない。
 訣別。親父と。喉を鳴らす。そんな資格はない。それが第一番の答えだった。思わず口に出して、その言葉が出た分だけ、吐きそうになる。食べてもないのに吐くというのは、ちょっと不健康に過ぎやしないだろうか、と妙に呑気に考える。吐きそうだから、吐かない。ただ感情は嘔吐していた。必死に。毒を吐こうと。ちょうど沈みかけの船が死に物狂いで、それもなかば死を予感しながら塩水を汲出しながらも、ついには船が溺れてしまうような。
 何かが俺のなかで沸き起こっているのは確かだった。それをどう言葉で言い表せばいいかは解らなかったが、しかし引き金が何かは解っていた。
 カイルディ・ハズバーグ。
 十分過ぎるほどにわかっていた。
 ルーミー・ラルハンド。
 イメージが、見えて、消える。人間の顔というのは、それがどんなに親しい仲であっても、思い出しづらいものだと俺は思う。あるいは俺が顔というものを信じないからかもしれなかったが……だが俺は、埃のなかに泳いだその映像が消えうせてしまうことに、小さな声を上げた。弱く、ちいさな、鳴き声を。禽獣、というよりは、腐り切った野犬かなにかのような声だった。情けなかったが、止められなかった。色んな言葉が、像が、そこに連なった。兄さん。親父。カイル。ルー。
 俺は弱い。
 当たり前のことだったが、あらためてひしひしと感じられた。俺は弱い。どうしようもなく。溜息をついて、両手で顔を覆った。透明ななにかが、鉄鎖のように俺を縛りつけた。俺は埃のなかに倒れる。あっさりと倒れる。俺は不満足だった。何かに。俺のこの弱さを、残酷なぐらいに見せつけてくれる何かがないことに、奇妙な不満をもっていた。それは、驕りというよりも、哀願だった。俺は、弱い。そう、弱いのに、俺はとりあえずは、歩いていけてしまう。歩いていけなかったとしたら、何かそこに立ちふさがるものがあれば、俺はそれに打ちのめされる。そしてそれが、俺にささやかな復活を与えてくれるのではないか。甘い希望だった。だが確かな希望だった。俺は苦痛を、やさしい苦痛を求めた。それは倨傲だった。
 夢を見るときは、いつも切れ切れだ。俺は回る夢をみた。しずかな世界で、俺ひとりだけがいる。ざらりざらりと、砂を噛むような、錆びた歯車を無理に回すような音が聞こえていた。音楽はそれだけで、俺はそこに不快感を覚えるけれど、音は世界の天辺からしとやかに降りしきっていて、どうにも止めようがない。だから俺は、不透明で色のない音とともに、ぐるりぐるりと、回り続けていた。ところどころ兄さんの顔が見えたし、それと爆発する人間の顔が見えた。カイルもいた。
 夢を見るときは切れ切れだ。だから、その夢の意味を、俺はいつも考えてしまう。頭ばかりが先に行ってしまうのが自分の悪いところだとは解っているのだが、俺はその爆発に、深い示唆を覚えた。だがこのことを謝ったところで、カイルは何も解らないだろうし、それにこの問題はやはり、俺の中でしか解決出来なかった。
 地下室は家出にはうってつけだった。もうこれで何回目だろうか、と思った。色んな記憶が詰まっている。畑を踏み荒らしてしまい、親父に怒られて泣いた晩も、ここに来た。親父は何も言わなかった。兄さんの消息がついに解らなくなり、母さんが泣いた日も、俺はここに来た。誰も何も言わなかった。そして俺は自分の感情をこの場所に捨て去っていった。俺は埃に咳込んだ。汚れた靄の向う側に、なにかが重く影を落としているのが見えた。なるほど、と俺は思った。もう、この場所に置いていくには、俺も大人になり過ぎたということらしかった。
 気分が悪かったし、その確信は俺を立ち去らせるのに十分だった。俺は真剣をほうり投げ、まず何より自分にうんざりした気持ちで、その場を去った。木刀で十分だった。俺にとっては、真剣の方が子供じみた玩具だった。
 庭には夏のばらがふわりと花を結び、ゆるやかな風にゆうらりゆうらり遊んでいる。俺はそれを小さく指でなぜて、溜息を付きながら、少し引っ張ってやろうと考えたが、やめた。兄が出ていってから塞ぎがちの母にかわって、庭仕事をしているのは父だった。こじんまりしたその慎ましげなばらは、愛らしくも、憎らしくも見えた。見れば、目立たぬながら、丁寧にこしらえた花壇があった。俺は何をやり過ごすために、その時間が使われたのかが、はっきりと分かる気がした。
 ここは荒野だ、と思った。完全な、荒野だと。茂みは太陽光に、燃え上がるような輝きと、凍りつくような冷たい緑の笑みを漏らしていた。風が、止まった。
 小川に並行した坂道を、そっと下っていく。音を立てぬように。音を立てることにすら、俺は一種の恥辱を感じた。渇いた土を蹴る、蹴る、大地を蹴り倒してやりたいが、音は立てたくない。白い砂利道は、不思議に勘に触った。昨日までの路は、こんなに輝いていなかったに違いない、と俺は考える。
 水は、静かに、しかし着実に流れていく。坂の傾きが弱まっていき、河原。ぽちゃん、と沈む音。アルビノの髪が、再び息吹を始めた風に、さらさらと揺れていた。ほっそりとしたうつくしい手に、石を。もう一度。人並みに跳ねて、沈む。
「よお」
 声をかけるまで気付かなかったのか、ルーはさらに拾った石を後ろに隠した。
「なにかしら」
「なにもねーよ」
「ふうん」
 俺は、ルーがこっそり石を落とす音を聞いた。何となく小気味よかったし、安心もした。自分たちより一回り二回りも大人に見える彼女だって、石を投げる遊戯に楽しみを見出せるわけだ。そしてそれを恥ずかしく思って、隠すわけで。
「なんにもないから、困るんだよな」
 俺も石を拾う。石を投げるのは昔から得意中の得意で、カイルにも絶対に負けない特技だった。石は、だが、すぐに落ちる。波紋。鳥の声が、遠くからした。水音、河の。眼を凝らし、瞬きする。石は確かに、落ちていた。あら、とルー。調子悪いみたいね。そんなはずない、と躍起になって、もう一度。いけ。放つ。落ちる。
「スランプだな」
「あらあら。あなたにも、そんなことってあるのね」
 そう言って、ルーはもう一度石を拾う。俺も拾って、同時に。こいつにだけはまさか負けまいと思って、今度こそ。久々にやったからコツを忘れただけだ。たん、たん、たん。同時に投げて、軽やかな音が、重なる。たん、たん、たん……ちゃぷん。同時に投げて、やさしい音が、重なった。
「まあ」ルーは、気分がよいと言わんばかりの表情を見せた。「引き分けね」
「お前に負けるとはまさか思わなかった」
「何かあったの?」
 ルーは、ぺたりと砂利に腰を下ろす。
「女の子がそんな汚いところに座っていいのか」
「いいのよ。むしろ私は、汚いところが好きなぐらいなのよ」
 それは強がりなのか、あるいは反動なのか。どちらにしろ、そんな深い所を詮索するのは、おせっかいだし、意地悪でもあるな、と思って、やめる。
「まあ、何かあったといえば、何かあった」
「聞き出してもいい?」にやりと笑って。「私、お節介なのよ」
 それは俺のおせっかいとは違って、優しさを謙虚に言い表したものだった。
「夢を見た」
「それだけ?」
「それだけ。夢の話って、この世で一番つまらないんだよな」
「私はそうは思わないわよ」石を拾って。「人の話を聞くのは、いつだって好き」
 投げて。すぐに、沈んだ。水の音しか、しない。
「俺だけしかいないんだ。で、ぐるぐる回ってるんだ」
「ぐるぐる」
「そう。ずっとぐるぐる回ってる。俺一人。ずっとだ」
「誰もいない」
「誰もいない」繰り返す。「そう、本当に誰も。宇宙に似てた。俺はそこで一人だけでぼんやりとしてるんだ。本当は。でも何かが俺を回す。外から何かがきて、それが俺をかき乱して、こう、なんだ」手を、にぎったり、解いたり。「停止」
「わかるわ」言ってから、笑った。「なにもわからないけれど」
「なら言うなよ」
「でもわかるのよ。私も、夢を、見たから」
「で、そこから得られた結論は? ご教授願いたいね、まったく」
 無礼な生徒ね、と笑いながらルーはサンダルを脱ぐ。そして川の浅瀬に、ぺちゃぺちゃと足を遊ばせる。ルーのこんなところを見るのは、もしかして初めてではなかっただろうか。もしかすると――もしかすると、ルーも己の夢に苛まれたのかもしれない、と俺はようやく気付いた。
「私、夢は自分の望みだと思うの。夢は、自分の頭で作るものだから」
「望んでなんかないはずなんだけどな」
「どうかしら?」ルーは、もう一度、水を掻いた。「人間って、結構自分に正直になれない生物なんだな、と最近私思うのよ。思うままにやるって、どんなに難しいことか、とても言葉では言い表せないぐらいだって、そう思うの。一番厄介なのが、自分だなんて……そんなの、どうすればいいの、って思わない?」
「ああ」俺はまた一つ、石を。「わからなくもない」
「だから、夢って自分の本当の望みを表しているものじゃないかな、と思うのよ。自分のなかの伝え切れないもの、言い切れないもの、自分ですら認め切れないなにかのかけらが、一杯になって、頭から溢れ出して、それで、夢が生まれる」
「じゃあ俺も、本当はひとりぼっちを望んでいるのだ、と」
「そういうことね」彼女は誰にともなく、そういうことだ、ともう一度繰り返した。俺は石を投げる。きれいに放物線を描いたそれが、飛ぶはずは勿論ない。
「ひとりぼっちか」
「孤独は悪くないわよ。人を強くする」ルーはからからと笑いながら言った。「ついでにどうでもいいことを山ほど考えられるチャンスよ。自分と向き合えるって、こんなにも大変でめんどうくさくて非生産的なことだなんて、私は本当に孤独になるまで一度も知らなかったのよ」
「めんどくせえよな。何の役にも立たない」
「そうよね。実際、ほんとそう。でも、それが、必要なんだから、面倒よね」
 はは、と俺は笑った。どうしたの、と彼女。いや、僧侶なんだなあ、と思ったんだ、と俺は正直に言った。褒め言葉ととるべきかどうか迷うわ。そう言った矢先に、俺は石を握り、素早く投げる。石は、空を、切った。川を。川を、切った。流れゆくもののなかに、鳥と矢を混ぜ合った化け物かなにかのように、奇妙なバランスを保ちながら走り込んでいった。そして、泡を、見せた。泡と、光と、音を。
「役にたった?」
「ああ。……スランプはもしかすると、終わりかもな」
「早いわね」
「そうだな。……たぶんあんまり、悩んでなかったんだよ」
 それは半分までは嘘だし、半分までは、本当だった。心は痛んでいた。でもその痛みは、面倒くさいし、何の役にも立たないだろうけれど、必要なものであるということは、はっきりと分かった。孤独だって、悪くないな。俺はあの地下室に、お礼を言いたい気持ちになった。これからもまた、使うかもしれない。俺はやっぱり、孤独になることを避けれるほど、大人ではないのだ。
「何しに来たんだ」
「お散歩よ。お散歩と、それと悪い遊び」
 彼女はふざけて言いながら、濡れた足をハンカチで拭いた。細く、いまにも折れてしまいそうな繊細な足首には、しかし人間らしい生命力が漲っている。
「俺はカイルの所に行くつもりだ」
「……そうね。そうすることが、筋よね」
 それは確かだと思ったし、それに俺はもう避ける理由なんて、何ひとつ持っていなかった。歩きながら、俺は彼女の肩に手をかけて、こう言った。
「助かるよ」
「何が」
「何だろうな」
「何それ」
「でも助かった」
「お礼の言葉は?」
「ありがとう」
「どういたしまして」

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