15.クライスは響く

 君たちはカイルとは違う。
 それは正しかった。どこまでも正しい大人の言葉だった。そう。正しいと思い込んでいるだけのはずの人間の言葉が、しかしどうしようもなく正しく見えた、呪文のように、俺の心のなかに深くまとわりついた。足を動けなくさせた。
 そしてその言葉の正しさが、同時に俺とルーを何より駆り立てた。
「行こう、クライス。……カイルを探さなきゃ」
 君たちはカイルとは違う。そう、俺はカイルではなかった。カイルの親父さんをどれ程深く嫌悪しようが、自分がどれ程別れを惜しもうが、そんなことは何ひとつ関係がなかった。そう。俺はカイルでもない。
 ならば何故俺たちはそこへ向かうのか。
「ルー」
 ルーは振り向かない。彼女の身体のうちに、激情は驚く程になかった。ただ静かな何物かがあった。まだまだ及ばないな、と俺は溜息をついた。
 俺たちは歩く。坂道。夏のサンヴィレッジの坂は、瀑布のように光を垂れ流していく。一言も口にしない。ただ感情の線だけが、俺とルーのなかで弦のように張りつめていた。もし手を触れれば、血の筋をぷつりと描く、そんな弦だった。
「準備が出来たら、洞窟の前で」
 ルーはただそう言った。
「準備か」
「心の準備もね」
 そう。心の準備が、必要だった。俺のなかで、一つの予感がしていた。あのちっぽけな洞窟が、この許されたわずかな別れの遅延が、俺たちにどうしようもない何かをもたらすのではないか、という予感が。そこに向き合う覚悟が。
「いよいよ、あなたの木刀も役に立つわけね」
「使わなくないのを祈ってるよ。あんなもの、子供の腕で振り回しでもしたら、ひどい怪我をするのは目に見えてる」
「子供」ルーはからからと笑った。「言葉の悪用ね」
「世間知らずめ。世の中じゃ、そんなアンフェアな利用はどこにでもあるんだよ」
 そう。子供なんて言葉を口に出せるのは、もう子供であることを忘れてしまった人間だけだ。そして大人なんて言葉を何の臆面もなく使えるのも、大人になりきれない生半可な人間だけだ。
「冒険か」
 その言葉が一番ふさわしいように思えた。どれ程小さなものであろうとも、俺とルーが今から向かおうとしているのは、確かに一つの冒険だった。
「あら、随分な夢を見ているのね」
 やりこめられる。
「夢かよ」
「そうであってほしいわ。出来るだけ、簡単に見つかってほしいでしょう。何かあったら大変なんだから」
 現実主義らしい顔をそれとなく装ってはいたが、声の調子は妙な明るさがあった。まったく、俺もルーも、そしてカイルも、似たもの同士だから仲良くなれたのだ。そして似たもの同士らしく、カイルの親父さんの言葉には、互いに思うことがあった。だけれども、そんなことは、表には出さないで。別れを告げた。
 そう。
 カイルの親父さんの言葉には、思うことがあった。正しかった。それは間違いなかった。だからこそ俺も反撥したのだった。しかし正し過ぎたともいえた。あまりにも明確な言葉に、俺の心は静かに反発を覚えた。俺は心を留める術を知らないから、それは一つの暴力として、粗暴な言葉として、飛び出した。そしてそれは溜息の前に消えた。俺は立ち止まった。暑さは虫の卵のように纏わりつく。無音。
 正し過ぎるものが、本当に正しいのかどうかは、俺にはまだ見極められない。
 そう。カイルの親父さんの言葉は正し過ぎた。現実を口上にする人間は死ぬ程嫌いだったが、またどこかでその正しさを認める自分があった。夢見がちの兄か、と俺は言葉を反芻する。その言葉にもやはり、間違いはなかった。熱病に浮かされたように、火の車に縛りつけられたかのように、兄は情熱に苦悶を覚えていた。それは確かだった。この世の中には、温度を持ち過ぎるあまり苦しむ人間がいる。
 生憎俺はそうではなかったが、中途半端な熱情だけは持ち合わせていたのだ。
「おかえり」
 麦の穂はいつもと変わらず、生暖かい微風にただ首を揺らすばかりだった。ゆうらゆうら。ゆうらゆうら。空間に、音楽が見えた。麦は空に直角に、揺れ続けていた。俺は一種の薄気味悪さを、静かにおぼえた。
「儀式はどうだった」
「失敗」
「そうか……」
 残念だったな、と彼は低い声で言った。残念だったな。そう。口のなかで、頭のなかで、繰り返す。
「兄さんが旅に出たのは?」
 父は笑った。
「残念だったかもな」
「かもな、か」
「そう、かもな、だ」
 背中を向けながら、父は語った。土を、耕す、音響。可能性ということを。自分も母さんと同じで心底悔いてはいる。だが。母さんと自分がどこまでルイスを縛りつけられたかそれは解らない。解らなさ過ぎる。可能性は。ここで俺は口を挟んだ。同じ話は、俺にだって当てはまるんじゃないのか、と。ああ、と父は言った。一日の間に、こんなにも父が言葉を発したのは珍しかった。俺は小さな変革の予感に、半分だけ、喜んだ。もう半分は、怖さだった。そう、母さんにも自分にも、お前達を止める権利などは、ない。それは、明確な、諦念だった。俺のなかの半身が、悲しい、と呟いた。かなしい、と。
「俺は父さんからそんな言葉を聞くつもりはなかったよ」
 ふん、と鼻を鳴らし、鍬を下ろす。「どちらかにしろ」
 父はそれきり、黙った。
 鍬が、降りた。麦の穂が、揺れた。俺は眼をこらした。光の反射の具合で、麦は金色にも銀色にも、ところどころにはおぞましい、言葉には言い表せない色のようにも見えた。広がりがあった、そこには。狭苦しい、そして温度の残り続ける、まだこれからも、生き永らえ続けていくであろう、一つの体温が。俺は父を見た。そこに、熱源はあった。待ちながらも。なお耕し続ける者。なお働き続ける者。既に動きはしない。しかしそこに力はあった。力。そんな簡単な言葉だけでは語り切れないぐらいの、一つの力だった。俺は選択肢を見た。そこにもまた、力はあり、運動はあった。だが俺は、――俺ごときの言葉では言い尽くせないものが、既にこの矮小極まりない畑にさえ、あったのだ。輝ける雲の断片から、夏の光が水門を打ち破るように流れ出した。
 俺がぐるぐると何物かを考えている間、彼はずっと耕作を続けていた。
「考えるのはいい。だが」
 一回。重い、音、鉄が土を打つ。
「考えることだけが正しいとは、どうやら限らんようだ」
 二回。腕が盛り上がり、静かに、運動は収まる。背中を向けたまま。
「俺には――よくわからないことが多いよ。旅に出て、それでどうなるかなんて、俺には永遠に解らない。解らないことに満足出来るだけの心意気も、謙虚さもない。なんか、いろいろ、なんだろうな。なんだと思う」
「知るか」
 いい年こいた若い人間が、なんだと思う、だなんて未成熟な言葉を使っちゃいけない。そう言わんばかりに、父は呆れた眼でこちらを見た。そんな言葉は、外に発するべきではない。
 三回。
「理屈ばかりが先行するところは、俺に似たな」
「そんなこと、普通は息子に言わないもんだろ」
「まあな……」
 四回。五回。六回。七回。八回。そこには、厳粛な、力があった。俺は自分の腕を見、てのひらを見た。軟弱で細っこい俺の腕。まだ何も知らない、この麦畑の土でさえ知らない、俺のからだ、俺のすべて。眼を、つむった、強く。
「もう言葉を聞くには程遠い歳だ」
「どっちが」
「両方だ」
 鍬が降りた、鍬が降りた。
 鍬が、降りた。
 鍬が止まった。
「俺はお前たちを永遠に認めん」
 もっともお前の意志がどうかは解らんが。
「兄貴のことを悪く言うな」
「力がこもってないな」
「慣れたんだよ」
 旅に出て、それでどうなる。それも聞きなれた問だった。そして俺はまだここでも、答えを持ち合わせていなかった。黙っている俺に、父は気長にやれ、と言った。その瞬間に、俺は父のなにかが、閉じたのを感じた。これ以上は話しても無駄だった。機械のように、糸車のように、鍬の音は響き続けた。
 地下室に降りていく俺の背中にまで、鍬の音は響き続けた。

 昨日お前が旅の話をしたので、もう百五十回目だ、と去り際に父は言った。
 そして俺がお前に問いかけたのも、もう百五十回目だ。
 そしてお前が答えられなかったのも、もう百五十回目だ。
 辟易させられたよ、お前には。父は言った。百五十一回目はなしだと祈ろう。
 もっとも考えばかりが先行するのは俺の息子だから、仕方なくもあるんだが。
 真剣を持った俺に、父は何も言わなかった。これは一回目だ、と俺は考えた。二回目があるのを本当に願えるかどうかは、自分でも解らなかった。

 歩きながら俺は考え続けた。カイルのお父さんも、親父も、なにもかもが正しかった。そして俺はまだ何も知らなかった。真剣は重く、どこまでも重く、俺の手に、一種心臓のような重みを加えた。ときどき立ち止まり、俺は夏の空に眼をやり、高過ぎる天頂にまでも眼をやって、首が痛くなるので、また歩く。
 どちらかにしろ。どの二つかは、父は告げなかった。どれでもある気がした。俺の頭のなかでは、形のない言葉が相変わらずぐるぐると囁き合っていて、俺はその音を打ち消そうと必死に歩き続けた。考えすぎだと自分でも思った。おそろしく気が滅入っていたけれど足だけは動いたので、歩いて、歩いて、歩いて、俺はそしてそこにたどり着いた。
 試練の洞窟というよりは、寺院か神殿を思わせる入口。いつの時代に彫り上げられたのやら、大時代でくたびれた巨大な老人の石像。巨像の腹には、穴。それが洞窟。眼は鋭く、しかし激しく泡立ちながら流れ行く時の泥に、ひとつの濁りを溜め込んでしまっている。その両側にはグロテスクな翼のレリーフが、二つ。
 カイル。
 心のなかで呼びかけた。
 お前は偉いよ。俺なんかよりずっと。
 いつからこの像があったかは、正確には知らない。俺の生まれるずっと前、ずっと前には既にあったと聞いている。そしてこの穴も。サンヴィレッジの中心から大きく外れたこの場所で、老人は沈黙して時間を見続けてきた。その腹の中には何が溜まっているだろうか、と俺は眼を凝らす。しかしそこには暗闇しか、ただ暗闇しかなくて、俺はやっぱりまだ何にも勝負はついていないし、ルーはまだ、来ない。

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