18.焦燥と鼓舞入り交じるクライス

 例えば動悸の織りなす恐怖。例えば世界からの逸脱感とほんの少しの興奮。自分の今の感情をもし表現するなら、そんな感じなのだろうかとふと思う。頬に当たる冷気と暗闇の中に煌めく彼女のトーチの弱々しい炎心が心を撫でる。
 白昼夢のような濃密な夜に肺をかき回されながら洞窟の壁を見る。ルーの左手から奏でられる小さな光は彼女の魔力の結晶だった。戦士である自分には解らないが魔力を強引に形状化した物――と簡単に説明された。
「……声は奥からだ」
 長らく封印されていた空気は埃と暗闇と混ざり合い黴臭い匂いを作り出していた。靴の感触は少しずつ柔らかくなり足下に生える苔の緑がちらちらと視界に入る。洞窟内の乾燥した空気の中に僅かに生えた苔を故意に力強く踏みながら前進していく感覚。ゆっくりと彼女の方を見る。
「……何」
 彼女の顔にはほんの少しの疲弊と大きな杞憂が含まれていた。カイルのために投げ捨てられた彼女自身の体裁に微かな罪悪感を感じた。カイルへの叱責ではなく自身への。彼女の勝ち気は体裁なのかも知れないし真実なのかも知れない。どちらであろうと状況は一刻を争う自体と言いざるを得ない。
「……珍しく気弱だな」
 長く息を吐いた彼女の白い髪に光の粒子がまとわりつく。噎せ返る程濃密な闇の中二つの足音が厳粛に響いていた。意識的にでは無く無意識的に早くなっていく足音と彼女の細い息に献身を感じた。強気に振る舞う彼女の根底に有る献身。
「……一刻を争う自体なのよ。無駄口なんて叩かないでよ」
「息が荒れている。落ち着け」
 彼女の焦った呼吸音が長く闇に吸い込まれていた。それでも歩みを止めない彼女の前を右手で防ぐ。彼女の荒い呼吸音と共に光が一瞬だけ弱まる。複雑に絡み合う感情を整理しながら――杞憂、心配、苛立ち、誰を優先するべきなのか、彼女の体裁を捨てる事、闇へのささやかな恐怖感――彼女の瞳がこちらを見つめるのを感じる。
「私だって――」
「……お前無しでは、止血も出来ん男なのだがな」
 彼女の言葉を思い出しながら少し右腕を後ろに下げる。一瞬の光の弱みが再び輝きだし足下を明確に照らす。洞窟の奥から響いていた声の途切れに恐怖と微かな絶望を感じながら走り出したい感情を必死で抑える。
「……そうね。そうなんだけど。あたしは、……少し怖いし」
 俺だって少し以上に怖いさと小さく呟きながら彼女の表情に焦燥と自分への抵抗を微かに感じた。苦渋に揺れる彼女の前から手を離し先程よりやや緩めた歩調で――それでも小走りで――歩き出す。真剣の剣先が無闇に闇を傷つけその度に微かな重みを助長させる。
「……誰しも焦燥を感じながら、その焦燥故に失う」
「誰の受け売り……というか」
 即座に聞く彼女に苦笑しながら正直にその答えを言う。眼前に響くその忌々しい姿に視線を細めながら、父親だと言う。彼女は自分の無神経と装った冷静さにやはり苦笑して肩を叩く。そして、後退する。
「そんな言葉求めてない」
 彼女の細い唇の先で土の匂いが強く漂う。噎せ返る程濃密なあの特有の臭いに何故か嫌悪感を感じながら彼らを強く睨む。地面から影のように浮きだし光を遮る者達。泥人形だった。木製のパペットの様にぎこちない動きが作り出す滑稽さと奇妙なかけ離れた感覚に一瞬魅入られてしまったように感じ。強く足下を踏む。
「……後方に下がっていろ」
「もう下がっている。……頼りにしなさいよ」
「当たり前だ。死にたくない」
 次々と土塊から溢れ出す泥人形を目測で数える。たった三体ながら今の自分たちには少し重すぎるぐらいだと考える。実戦経験など殆ど無いし訓練や練習で培ってきたに過ぎない技術が本当に頼りになるのかと思いながら泥の締め付けるような音に身を引き締めさせる。
 壁を作るように横に並んだ泥人形達の手が一斉に自分へ振り下ろされる。微かに肩当てに当たった衝撃は重く本当に泥から生み出されたのかと一瞬唖然する。固形の泥の重さに舌打ちしながら肩を抑える自分にすり寄る三体を剣で薙ぐ。ぐにょりとした、液体と固体の中間をえぐり取る感覚は絶対に心地よい物では無い。
 薙がれた人形達は洞窟の床に飛び散りすぐに立ち上がる。後方の彼女の高い声がバキ、とそっと呟く。衝撃波が一瞬自分の頬を掠め細胞片が飛ぶ感覚がした。泥人形達は回避する暇も無く衝撃波に押し倒される。今よという声。
 剣で泥人形一体の中心部分をぐいぐいと床ごと突き刺す。人形はまるで生きている様に苦悶の声を上げる様に手足で力強く抵抗する。大人しくしろと理不尽な呟きを漏らして三体を処理していく。土塊の意志がゆっくりと失われ手足を微塵とも動かさなくなった人形達の身体がゆっくりと崩壊していった。
「……頼りになるんだな、僧侶って」
「言ったでしょ――ラルハンドの天才を甘く見ないでって」
 そう言った彼女の作り出す光はほんの少し柔らかい感じがした。少しだけ荒くなった呼吸と剣先に纏わりつく泥の粒子を払う。彼女の腕を引いて再び歩き出す。彼女の白い髪がゆっくりと光に反射して揺らめく様は玉音の様に似ているなとふと思いながら再び焦燥を回復させていく。再び足音は速まりだしていた。

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