22.カイルの集中

「くっ……」
 自然と声が漏れた。肺の中の空気が漏れるような錯覚を抱く。もしかしたら、呼吸の方法さえ忘れていたかもしれない。
 それほどまでに、意識を失っていた時間は長かった。
「カイル、よかった……」
 声が聞こえた。耳に馴染む、仲間の声が。その声によって、冷たいモノクロの世界に温度と色彩が戻った。
「オレは?」
 寄りかかるようにして倒れているルーの肩を抱え、半ば自分自身に問いかける。
 そうだ。オレはあの青白い人馬から逃げ、細い抜け道へと潜った。体躯の違いから、アイツはオレを追ってくる事はできない。そう、考えたのが甘かった。
「あのクソヤロウ……穴の中に呪文かましやがった」
 マホカンタなんて、意味がない。
 狭い場所で、それこそオレ一人の身体がぎりぎり入るようなところに向けられたマヒャド。マヒャドは直線状に進んだ。その先にいるのは、マホカンタの呪文の膜に包まれたオレ。
 その上、あの青白い人馬は、その小さな穴の入口を崩しマヒャドの跳ね返る先を遮断した。

 獅子は兎を狩るのにも全力を尽くす――親父の言ったとおりだった。
 続け様に親父が呪文の講義の中で言っていたことを思い出す――密閉空間の中での呪文行使は危険である。
「何もかも……あんたの言う通りかよ、クソ」
 髭面を思い出し、毒を吐く。
 いつも自分が正しいというような顔をしていた親父。悔しいけど、本当のことだった。大人はきっと、いつも正しい。
「っ……」
 身体がまだ痛む。しかし、それは傷からくる痛みではない。あの恐怖を思い出すと、自然と痛むのだった。
 オレはマヒャドの攻撃は受けなかったが、それ以上に恐ろしい地面の重みを味わうことになった。
 土に押しつぶされる感覚、かろうじてできた隙間に運良く入り込めたと気づいたときの安堵感。生命を取り留めたことは奇跡だった。完全な生き埋めではなかったのもまた――身体が動いたのだ。動くだけの余裕がまだあった。
 偶然にも何か人工的な抜け穴のようなものがあり、そこを先に進むことができた。非常時の脱出口のような細い横穴を延々と辿り、障害があっても突破口を見出し、先へ先へと進んだ。そこで――襲われたのだ。モンスターに。
 無我夢中で広間に脱出したときのことを考え、身震いした。
 一匹だ。たったの一匹だ。そのただ一匹のスライムにオレは負けた。
 弱くてもモンスター。体力が尽きかけていて身動きがとれない状態なら、どんな屈強な大人だって死に至る。
「そうだ、モンスターは!?」
 叫んだオレに、怒声で返したのはクライスだった。
「そんなもの、ここに山ほどいる!」
 一匹のはずなかった。一匹いれば、他にモンスターがいてもおかしくはない。
「目が覚めたならカイル、ルーを連れて走れ! 退路は俺が確保する!」
 クライスは闘っていた。数多の魑魅魍魎と。スライム、スライムベス、みみとびねずみ、おおみみず。一匹一匹の身体は小さいが、その数はあまりに大きすぎた。オレの知る魔物の他に未知のものもオレたちを取り巻いていた。
 視界一面に広がるモンスターの群れ。その中にはあの人馬のバケモノが混じっている可能性も否定できない。危険のど真ん中にオレたちはいる。
「退路を確保するっつったって……」
 クライスは壁だった。オレとルーを守る、唯一にして最大の。みみとびねずみが空を飛び、おおみみずが足元を抜けようとすれば、上空のみみとびねずみを剣でなぎ払い、足元のおおみみずを踏み殺す。クライスの綺麗な金髪は血と肉片でどろどろだった。
 食い止めるだけで精一杯で、決して攻めになんて転じられるわけがない。
「早く行け、俺も逃げられんだろう!」
 叫びながら、飛び掛るおおねずみを一突き。また、血がレイズの顔を赤く染める。
 慌ててオレは腰をあげようとし、ルーを見て絶句する。
「……ルー?」
 生きているかどうかもわからないほど、その顔は恐ろしく青白かった。
「……どこかのお寝坊さんのせいで、疲れちゃったじゃない」
「いい。しゃべるな」
 消え入りそうな声で冗談を口にするその姿が痛々しかった。言うまでもなく、限界を超えて呪文を行使し続けた結果だった。凡人には覗けない、限界の向こう側をルーは知っている。そこに到達できる。それを、オレなんかのために……成し遂げちまう。
「ルー、ちょっと我慢しろよな」
 オレはルーをおんぶし、右手でその体を固定する。とても、軽かった。こんなひ弱なヤツにオレは無理をさせていたのかよ。
「地の精霊よ」
 すべての源。四大精霊がひとつ。
 火の精霊ではない。オレが唯一得意とする一点集中の攻撃呪文ではこの場は切り抜けられない。
 親父が教えてくれた、広範囲呪文。親父のイオナズンの爆発ほど強力でなくたって、いい。
「カイルディ・ハズバーグにその力を与えたまえ――」
 今までオレに愛想つかしてきた、大地のバカヤロウ。
 だが、今は心の底から祈る。オレの魔力もルーみたいに全部尽きてしまってもいい。この窮地を脱するチャンスを与えてくれ。バカみたいに村を飛び出して勝手に死にかけたオレなんかのために、我が身を投げ打って助けに来てくれたオレの友達を助けてくれ。
 オレは目を閉じる。ルーを担いだままの格好で、唯一あいている左手を前にかざし、精神を集中させる。大地の鼓動を聞け、地の精霊の言葉に耳を傾けろ。心を無に、一切の雑念を捨て払え。
『――イオ!』
 地の熱がオレの身体を通り抜け、体内で魔力を蓄える。そして、掲げた手を門に、空気中の元素に伝わり、爆発を巻き起こす。
 それは、小さな爆発だった。しかし、広範囲に及ぶ。取り囲んでいた魔物の群れの一部が吹き飛び、退路ができた。クライスはそれを更に広げるべく、左右の魔物の群れに切りつけ、叫ぶ。
「通路だ! 通路がある!」
 オレは掲げていた左手もルーの身体にそえると、全力で地面を蹴った。全速力で駆け出すと、クライスもその後に続き――オレたちは逃げ出した。

 *

 いくつもの分岐を経て、坂を上っては下り、また、亀裂のような隙間を潜り抜けて、オレたちはただひたすらに奥を目指した。息も上がり、いい加減、体力に限界が訪れようとしていたところで、先を行くクライスは足を止めた。
「なんとか、撒けたか?」
 クライスは背後の暗闇を凝視して、言う。
 実際、この暗闇の中を明かりもなく、転ぶこともなく走ることができたのは奇跡に近かった。ルーを背負ったオレが転ぶこともなかったなんて、信じられなかった。しかし、それが事実。オレはずっと先を走るクライスの気配を頼りに走っていた。段差がありそうなら、クライスが僅かに動く気配がしたし、地面がぬかるんでいるときにはクライスは速度を落とした。それが見えたわけではなく、オレはただクライスの走る姿をイメージして、必死に追いかけていただけだった。
「クライス、お前ってすごいやつだな」
 クライスは黙って、何かをこする仕草をする。と、明かりがついた。もう追手はないと判断したのだろう。松明だった。
「俺は夜目が効く方だからな」
 それに鍛えてる、とクライスは周囲を窺いながら答える。
「カイル、あそこ、少し高いが横穴がある」
 クライスは松明の先を洞窟の高みに向ける。明かりの照らす先に、確かにぽっかりと穴が開いていた。
「だけど、ちょっと高すぎるな……」
 言うや否や、腰の道具袋を探り始め、ロープのようなものを取り出した。そのあたりに落ちていた石をロープの先に巻きつけ、クライスはそれを横穴へと放った。何度かロープを引き、うまいこと何かでっぱりに引っかかったことを確認したクライスは松明を加えて土壁を登り始めた。
「おい、クライス。無茶すんなよ」
 オレの心配をよそにクライスは巧みに上ると、奥を観察してこちらに声をかけた。
「カイル! ルーを担いで一緒に上ることは可能か!?」
 声を大きくして、こちらに呼びかけるクライス。
 バカ言うなよ、クライス。できないわけないだろう。ルーはこんな細い身体で、オレなんかのために生命を捨てようとさえしたんだ。はやくルーを安全な場所で休ませてやりたい。
「しっかり持っててくれよクライスッ!」
 言うと、上からもう一本ロープが落ちてきた。これで、ルーの身体を固定しろと言うことだろう。どう結べばいいのかわからなかったが、オレと背中合わせになるようにロープをしっかりと結び、何度かジャンプして安全か確認した上でクライスのいる場所を目指した。
 ロープを上りながら、クライスの準備の良さに感謝した。昔からクライスはそうだった。よく気がつくヤツで、農家を営む親父に褒められていた。あの頃のアイツは素直で、兄貴のロイスとは反対の性格だった。今となっては、ロイスによく似てきたとは思うが、それもクライスなりの事情ってもんがあるんだろうとオレは思う。
 危うく思い出に浸りかけたオレは、ロープを手繰る手を滑らせかけた。慌ててロープを持つ手を強く握りなおすと、ほっと息がこぼれる。
「待ってろよ、ルー」
 その一言は、自らを鼓舞する魔法の言葉だった。オレは他の一切の考えを振り払い、岩壁を上ることだけに専念する。いつもは気の多いオレだが、不思議と集中することができたのは仲間のためだったからに違いない。

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