25.ルーの追憶

 ルビス・ラルハンド。
 あたしがもっとも敬愛する女性の名前は、ある女神にちなんで付けられた。
 彼女はあたしよりも七つ年長だった。輝くような金色の髪に、健康的な蒼い瞳。彼女が笑うと、辺りに花が咲くようだった。誰からも慕われ、誰からも憎まれず、誰よりもあたしを理解して愛してくれた。
 姉さま。
 よく出来た長女に続いて生まれた次女は、ラルハンドのアルビノ、神秘の悪魔だった。膨大な魔力と引き換えに、生き延びるという能力に徹底的に欠如した、異端の仔。あたしは、いつだって特別扱いだった。父さまや母さまでさえ、あたしを見る眼には少しだけ怯えを滲ませた。
 だから、姉さまただひとりだった。
 あたしを、真正面から受け止めて、愛してくれたのは。
 魔法の才能のある人ではなかった。得意としたのは、回復呪文よりも、むしろ解毒や補助の魔法だったけれども、それさえあたしには遠く及ばなかった。その代わり、彼女は完璧な人間だった。心清く、見目麗しく、慈愛の心を忘れず、生命力に溢れ、誰よりも命を愛していた。
 僧侶の名門、ラルハンドの名を受け継ぐに、彼女ほどの適材はいなかった。
 ルーミーという名は、神代の言葉ではルビスに侍る、という意味になる。両親の長女にかけた期待の大きさは、その一事だけで知れた。あたしはそれが、ぜんぜん不満ではなかった。みんなに好かれる姉さまだったけれども、だれよりも、あたしが姉さまを愛していたから。姉さまに憧れていたから。

 心ない村人や村の子供に罵られることが、たまにあった。白鬼、というのが蔑称だった。魔道の天才は、いつか必ず災厄をもたらすと信じる人間は、サンヴィレッジにも少なからず存在した。
 何を言われても、あたしは泣かなかった。言い返して、相手を論破して、さらなる憎しみを買った。その様子を見て、両親は頼もしいと言ってくれたし、メイドは誇らしいと言ってくれた。
 姉さまだけだった。
「後で、私の部屋でいらっしゃい」
 あたしが誰かと揉めて、相手をこてんぱんに言い負かして、鼻の穴をふくらませて帰宅した時に、姉さまはそう言ってあたしを自室に招き入れた。いい香りのする部屋だった。いつも、季節の花が窓際に咲いていた。
 姉さまはあたしを怒らなかった。あたしにその日の事情を聞いて、笑いながら頷いてくれた。あたしはよくしゃべった。こんなことを言ってやった、あいつはこんなに情けないこと言った。泣かしてやった。ざまあみろだ。悪態はとめどもなかった。何が白鬼だ。何が悪魔だ。そんなことあたしには関係ない。そんなことを言われても、あたしは絶対に傷つかない。ざまあみろだ。
 姉さまはあたしの話が途切れるまで、ずーっと微笑んでいた。それから、ハンカチを差し出してくれた。
「涙を拭きなさい」
「姉さま、あたし、泣いてなんかいません」
「そうね、でも、どうせ後で、ひとりで泣くのでしょう?」と姉さまはやさしく、ゆっくりと言った。「ルーミー。悲しい時は泣きなさい。このハンカチで涙を拭きなさい。私の前では、あなたはいつだってかわいい妹なのよ」
 あたしは、それでもしばらく、泣かなかった。傷ついていることを認めたくなかった。自分がかわいそうな子供だなんて、絶対に認めたくはなかった。それでも、無言で微笑み続ける姉さまを見ていると、いつの間にか涙が出てくるのだった。
 あたしは、ハンカチを目に当てて、姉さまの胸で泣いた。
「ルーミー、あなたは本当に、かわいいわ」
 あたしの頭をなでながら、姉さまは決まってそう言った。
 あたしを誰より泣かせたのは、そのぬくもりだった。
「さあ、時間ですよ、ルーミー」
 姉さまがそういうと同時に、窓の外で声がした。悪友の、わんぱくな声だった。涙を拭いて、姉さまの胸から離れて、窓の外を見ると、悪ガキふたりが決まり悪そうに傷だらけの顔をさらしていた。
「よお、ルー」
「何してんだよ。降りてこいよ」
 カイルとクライスは、顔中に引っかき傷をこしらえていた。あたしは必死で笑いをこらえた。
「あんたたちこそ、何してきたのよ。そんな顔で」
「ん、あー、ちょっとな」
「ケンカだ。ケンカ」
 もうほとんどわかっていながら、あたしは尋ねた。「相手は?」
「アックスたちだよ。前から気に入らなかったんだ」
「五人もいやがったからな。ちょっと手こずった」
「それで、勝ったの?」
 ふたりは、少しだけ黙って、豪快に笑った。
「負けた!」
「派手に負けた!」
「馬鹿ね」
「でもよ、アックスだけはぶちのめしてやったぜ!」
「ああ、泣きながら謝らせた」
「馬鹿ね」また流れそうになった涙を押しとどめて、あたしも無理に笑った。「でも、ありがとう」
 昼間、あたしを白鬼あつかいしたアックスのことを、ふたりは決して許さなかった。あたしには、素晴らしい姉さまと、素晴らしい親友がいる。
「いいからさ、川で遊ぼうぜ。今日は暑いから、気持ちいいはずだ」
「先に行ってるから、追いかけてこいよ」
 そうして、ふたりは去って行った。姉さまはあたしの顔を見て、静かに笑っただけだった。

 その二週間後、あたしはミストーラへの旅に出た。

 *

「起きたか、ルー」
「うん、どれくらい寝てた?」
「三時間ってところか。体調は?」
「完璧。ちょっと寝すぎちゃったわね。方針は決まった?」
 カイルとクライスが顔を見合わせて、こくり頷いた。
「この奥の道を行く。下に戻って魔物とはち合わせたら、今度こそ命の保証はないからな」
「そうね、賛成だわ。それじゃ、さっそく行くとしましょうか」
 ぐっと体を起こす。姉さまの夢の残り香が、それで体から抜けていった。あたしもそのうち、姉さまの享年を追い越すことになるだろう。あの人みたいな、綺麗で、美しくて、素晴らしい人にはきっとなれない。でも、それでいい。
 洞窟の先を見据える。暗い暗い道の奥に、ほんのりと、光が宿っているような気がした。

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