27.クライスは気付く

 失われたもののかおりが――あの地下室のにおいが、確かにした。
「なんだ、ここ」
 カイルの呟きももっともだった。……こんな辺鄙な洞窟の奥に、こんな建築物があるだなんて、誰が想像出来ただろうか。
「礼拝所……かしら」
 ルーが横倒れになった石柱にぺたんと腰掛ける。坐った途端、ぶわりと埃が吹き出した。やだ、というルーの声に、俺たちはちょっと笑って、それから、静寂。音ひとつしない。あらためて、見回す。
 白亜の石柱。欠けた碑石。……そして何より、何者かの不在のにおい。それを神と呼べばいいのかどうかは、俺にはわからなかった。確かに、ルーの推測通りかもしれない。神というにはあまりに小さな、だが日常と呼ぶにはあまりに貴い何かの気配が確かにしていた。三人とも、押し黙る。
「もしかしたら、ここが試練の終着点なのかもしれないわね」
 ルー。見てごらんなさい、と碑文を指す。
「どれどれ」
 カイルが読み上げる。
 職業の神の御座。
「……なんじゃそりゃ」
 カイルの呟きも、やっぱりもっともだった。
「行ってみる?」
 ルーが指さす先には、壁。そこにこじんまりとした階段が続いていた。うなずく。一歩踏み出すと、階段の両端に下げてあった松明に火が付く。まだ魔法は生きている。ここが試験の終着点だったのかしら、とルー。案外あっさり終わってしまったな、とつぶやくと、カイルが笑った。
 まだ終わってない。
 薄暗い階段を手探りしながら、ゆっくりと歩む。蛇の体内でも探検しているような心持ち。どこまでも、静かだった。こんな場所があるなんて誰の話にも聞いたことがなかったから、きっと試練の洞窟が使われなくなってから忘却されてしまったのだろう。忘れ去られるもの特有の、かなしみに似た透明な何か。ふと、兄貴の後ろ姿を思い出す。……忘れ去られるもの、手の届かなくなった何かへの、憧憬。
 後ろを振り向く。カイル。「あぶねーな、急に立ち止まんなよ」
 ちょっと笑って、また前進。どの道、……どの道、そうなのだから。
 神様がくれた、ささやかな奇跡なのだ。ふと、思った。殴るとは言ったけれど。もし本当に、この時間が終わってしまったら。殴れるわけなんて、ないじゃないか。もし俺が本当に大人だったら、一発殴って、ばかやろって言ってもう二度と帰ってくんなって蹴り入れてやって、手紙とか来てもわざと意地悪な返信をしたりとか、こいつのことを思い出したりとか、……そんなことはないのだ。
「……行き止まり」
 長い長い階段は、ルーの言葉通り止まった。小さな祭壇。不思議と埃が積もっていないその理由は、そこが聖なるもののための場所だから、かもしれない。彫像。見たこともない神様の像だ。「何だこれ」「知るか」意外と何の変哲もない終着点に、カイルは幾分かがっかりしたようだった。「本当に、何なのかしら」ルーが祭壇に腰掛ける。「洞窟の行き止まりにこんなものがあって、何かないわけは無いのでしょうけれど」
 その通りだった。カイルは彫像に興味があって仕方ないらしかった。二人で正面に立つ。……女、いや女神の像だった。二つの翼を生やしたその女は、だけれども神様というにはあまりに素朴な、妙齢の女そっくりの顔をしていた。神的なものから連想されるような厳めしい面はどこにもない。だけれど、それだけに一層、緊張させられるような何かを持っている、そんな像だった。
「この洞窟の入口になっていた老人像が職業の神として。ここが神の舞い降りる御座。さしずめこの二人の女性は職業の神の使い……ってところでしょうね」
「職業の神の使い?」
「そうとしか考えられないでしょう」座ったまま、像に目をやって。「それとも、そこらの町娘に翼でも生えた? 一大芸術? そんなもの見せられるだけで試練だなんて、ちょっと考えたくないわね」笑って。「ロマンが崩れる」
「お前に似合わない言葉だ」突っ込む。
「知らないわよそんなこと」
「おい、なんか書いてんぞ」カイル。「……読めないけど」
「おまえ仮にも魔法使いの家だろ」
「関係ねーだろ。ていうか志望は武道家だ」
「任せなさい」立ち上がって、ルー。「あたしの出番よ」
 しかめっ面で、ルーは碑文に目を注ぐ。読み上げる。
「人生は短し。再考し給え、君の選択を。職業、それは君の人生であり、生命である。それは自然の営為であり、何人もその生まれもった支配から逃れることは出来ない。だが君は今この時この場所で、その支配を変えることもできよう。だが繰り返そう、再考し給え、君の選択を。道を変えるのが最良の選択とは限らない」
「なんだそのヘッポコな文章は」カイルは笑った。「説教臭くて、いかにもサンヴィレッジ臭い」
 作り笑いだろうな、と思った。ルーは少しだけ、しまった、というような顔をした。俺もたぶん、していた。「サンヴィレッジ、というわけじゃないかも。古い言葉。随分難しい文法。教養と資質のある誰かが彫りこんだのよ。まったく、職業を大層に述べちゃって。まるで古の神話のダーマ気取りね。おかげで随分難儀させられたわ」ルーが話題を、そらす。
「どこがだよ、すらすら読んでたじゃないか」「本当はもっと早く出来るのよ。ただ、あまりに古かったから」
 修道院上がりというのは、まったく恐ろしい経歴だ、と思った。
「人生は、短し」ヘッポコと言った割に、カイルはやっぱり心の琴線に触れるものがあるらしかった。「本当だな」うなずく。
 人生。今までそんなこと、考えたこともなかった。三人で、祭壇に腰掛ける。……人間には、無数の時間があるとばかり思っていた。そしてそれは、仮初めの事実に過ぎない、ということ。父の姿。時間にあがなうことのない、人間。ただ待ち続けるもの。時間の果てしない流れに救いを、奇跡を待つ人間。……大人になれば何かが変わる、と思っていた。大人になれば、きっと父のもとからも逃げ出して、自由な何物かになれるのだと、思っていた。
 父と、同じだった。
「……これから、どうする」ルー。「あれだけ寝てもまだ襲われていないことを考えると、魔物はとっくに私たちのことなんて忘れているかもしれない」しばらく間を置いて、「あるいは、見つからなかったのは、ただの運命のいたずらかもしれない」
「どちらにしろ」とカイル。「ここから出ないことには、何も始まらない」
 何の始まりなのだろう――誰も答えないし、それは曖昧だからこそ意味を持った言葉なのかもしれなかった。
「行こう」立ち上がるカイル。俺とルーも、それに倣って歩き出す。だがカイルは動くことなく、神の使いの像を見ていた。「どうしたんだ、カイル」いや、と照れたように笑って。「ここが試験の終わりだったら、後は逃げて帰るだけだろ。……でもまだまだ全然、終わってなくて、ここから出ても、やっぱり終わらないんだ、ってなんとなく、思って」ちょっとだけ、悲しそうに。「もっと早くに生まれてたら」
「カイルらしくもない」ルーが肩に手をやる。「あなたが後悔をするなんて、人間もずいぶんと変わってしまう生物なのね」そうやって、笑いかける。その通りだ。カイルの頷き。それでも名残惜しそうに、神の使いの像にじっと目をやって。さようなら。唇で、読めた。……俺は確かに安堵していて、それがひどく胸を痛めた。 
 カイルが背を向けたとき――その刹那だった。「ルー?」さっと、ルーの顔が青ざめる。「離れて!」叫び。振返る。ごぼ。嫌な音がした。いやな、におい。邪悪な、何物かのにおい。像の場所から、得体の知れない紫の気体が吹き出る。死者の腐敗、朽ち果てる花を思わせる、甘くおぞましい邪悪なかおり。
「おいルー、何だあれ」カイル。
「そんなの、解るわけがないでしょう」
「とにかく逃げるぞ」
 邪気は見る間に祭壇を包込む。駆け出す。どこか遠いところで魔物の呻きが聞こえる。道はどっちだ。道は、ひとつしかない。
 松明の火が明滅する。長い長い階段。蛇の胃袋を這いずり回るような。ルーのあえぎ。呼吸の音しか聞こえないはずの階段に、嫌な音がきこえた。……得物を待ちわびた、獣の臭気が、確かにした。走る、走る走る。後ろからも何かが聞こえてくる。嘲りの笑い、逃げ惑うものを追いつめる快楽に酔いしれる笑い。……階段の傾斜がゆるやかになる。もうすぐ入口だ。先のことは解らない。でもそこまで行けばなんとなく助かるかもしれない、というその期待は。
「最悪だ」
 カイルの呟き。
 老練の狩人。人面だけ見るなら、精々そんなところ。だがその眼からは邪悪な性向が明らかに現れでていて、でもそれだけなら精々気が狂ってしまったかわいそうなおじさん、ってところじゃないか。そいつは歯を剥き出しに、唸る。怖いぞ怖いぞ、と言わんばかりに。その手には、竜の首でも狩るのかといわんばかりの、お伽話に出てきそうな戦斧。そして何より気味が悪いのは、エメラルドの馬の肉体。頭がぶっこわれた奴が彩色したみたいなその色合いが、炎に怪しく映えた。
「気狂いに刃物」
「不謹慎なこと言わないでよ」
 そう言ったルーの笑いは、引攣っている。とても、正面から戦って勝てるような相手じゃないことは、どんな人間にだって解る。でも解ったところでどうしようもないそいつは、斧を振り上げて、笑った。俺は、人間の顔がここまで残虐な笑いを作れるだなんて、知らなかった。汗が滴る。
「どうする」カイルに。
「どうしようもねーよ」
「じゃあ死ぬのかよ」
「それは勘弁」
「……じゃあ」
 逃げろ!
 俺たちはせっかく下ってきた道をまた上り始めていた。あの化け物が下から来たのだから、逃げ道なんて上しかない。
「なんか損した気分だな、オイ!」
 階段を駆け上りながらカイルが喚く。そんな愚痴に耳を澄ませる余裕はない。
 両脇を壁に囲まれたこの一本道の階段に逃げ道なんて、ない。ここをひたすら上ったところで、あるのは行き止まりの祭壇のみ。それも、毒ガスが出ている。あの。
「ルー、大丈夫か!」
「ええ、なんとか!」
 ルーは応じる。まだいける。俺たちは、まだ。
 チャンスは一瞬だ。祭壇の間はある程度の広さがあった。毒ガスは吸わなければまあ何とかなるだろう。それに、こちらには解毒のプロフェッショナルのルーがいる。
 俺たちは祭壇の間まで逆戻りする。案の定、毒ガスはまだ出ていたが思ったほどではない。俺たちを追って間髪入れずに青い化け物が現れる。みんな分かっていた。最良の手段を。
 職業の神の御座を壁に、青い化け物をやりすごす。
「むかし、木を壁にしてぐるっと逃げ回ったよな」
 カイルが言う。
「何がよ」とルー。
「何がって、鬼ごっこ」
 鬼ごっこ。目前にいるのは正真正銘の、鬼だ。「冗談じゃない」
 俺たちは神の御座を一周ぐるっと回ると、再度、階段のあった入口を目指した。そして、ひたすら下る。
「降りて、上って、降りて……ちくしょう、一ゴールドにもならねえ、損な仕事だぜ!」
 カイルがまだ減らず口をたたく。そうでもしないと、挫けそうな様子だった。俺たちの後ろを奴が追ってくる。
 ただひたすら走る。走る走る走る走る、さすがに死ぬのは嫌だ! 大人とか職業とか別れとか人生とかそりゃ世の中色々あるだろうけれど、死んだらおしまいだ! ルーのスピードがどんどん落ちてくる。カイルが手を引く。奴は追ってくる。咆哮。嗜虐するもの特有の、あの勝ち誇った笑いが、だんだんと迫ってくる!

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