28.ルーの恐怖

 欲張るのは良くないわ。あなたは私より、いいえ、他のだれよりも優れた部分をたくさん持っている。だから、ちょうどいいのよ。それくらいのハンデがないと、私が嫉妬しちゃうもの――。

 姉さまが言ってくれたのだった。自分の脆弱な体が嫌で嫌で、恨んで呪って泣き言をこぼした時だ。あの時は、その言葉が何よりも救いになった。でも、でも姉さま――。
 やっぱり、あたしはこの体が大嫌いです。
 声にはならなかった。肺が焼け付いて、筋肉が千切れかけていた。これ以上は走れないと思った矢先、あたしは見事にすっ転んだ。
「ルー!」
 わずかに先を行っていたふたりが振り返って、表情を凍りつかせた。もう、あたしの背後に魔物が迫っているのだろう。うつぶせに転んだまま、あたしは必死に手を振った。声にならない声を出して、ふたりを見つめた。
 行きなさい!
 不思議と、死の恐怖はなかった。死なないと思っているわけでもないし、死んでもいいと思っているわけでもない。それで、ようやく悟った。あたしは、死というものをまったく理解していないのだと。
 姉さまが死んだと聞いた。不幸な事故だったのだと。あのとき、あたしはひとりで夜通し泣いたはずだった。僧侶の修行をしていく上で、様々な人の死に様を知った。悲しかった。魂が消えていくその様子を見るのが、耐え難いほどに辛かった。いつだってあたしは涙をこらえ切れなかった。
 それは、でも、死への追悼ではなかった。
 それは遺された者たちへの、残されたあたしへ自身への、悲しみだったのだ。
 一人前の僧侶になんて、なれるわけがない。人が死ぬ、ということの意味を、あたしはこの期に及んでまったく理解できていないのだから。
 残った力を振り絞って、仰向けに転がった。そうして、少しでも時間を稼がなければと、自分でもあきれるくらいの冷静さで考えていた。ふたりが逃げ出せる時間を、何とかして作り出さなければ、と。どうせ死ぬのだったら、それくらいはしてあげたい、と。
 魔物は、もう目前にいた。
 頭が恐怖に沸騰した。
「……お前、逃げないのか」
「お前こそ、震えてるぞ」
「武者震いだよ、バカ」
「奇遇だな、俺もだ」
 いつの間にか、ふたりがあたしと魔物の間に立ちはだかっていた。
 その瞬間、あたしははじめて恐怖した。耐えられないくらいの恐怖が全身を満たした。何をしてるのかなんて、考えなくてもわかった。勝てるはずがない。このままじゃ三人とも死んでしまう。殺されてしまう。なのに、このふたりは、あたしの前に立った。
 あたしを、守るために。
「やだ、やめて、やめてよふたりとも!」
「嫌だね」
 揃って応えたふたりの声は、隠しようがないくらいに震えていた。
「だめ! 逃げて!」
 もう嫌だった。これ以上の罪は嫌だった。姉さまの亡霊が眼前に迫る。古い傷跡がうずきだす。じくじくと、にごった血を流し始める。
「逃げて、よぉ……!」
 いま、生きているという、罪。
 ――代わりに、あたしが死ねばよかったんだ。
 姉さまが亡くなったと聞いたとき、そんなありふれたことを思った。そのありふれた自己嫌悪が、あたしのすべてだった。あたしは認められない。あたしは、自分の命に価値を認められない。誰かに守られながら、誰をも助けることができず、誰からも嫌われてしまう自分の血を、尊いなんて思えなかった。
 昔からずっと思っていた。
 あたしには、生きる価値がないんだ。
「お願い、ふたりとも!」
 それなのに、またあたしの目の前で人が死ぬ。あたしのせいで、あたしのために、あたしではなくて、あたしじゃない人が死んでいく。許されない。この身は、この血は、災厄を招く不幸の化身。だから呼ばれたのだ。だから蔑まれたのだ。だから疎まれ嫌われ憎まれたのだ。
 神秘の悪魔と、そんな名前で。
「い、いやああああああ」
 のどを切り裂く絶叫を上げて、あたしは髪を振り乱した。
 その瞬間。
 光が、炸裂した。
「――え?」
 それは、何の光だったのだろう。
 魔法の力ではなかった。奇跡の類でもなかった。それはおそらく、一つの神秘だ。神の恩寵を利用した、人の叡智の結晶。神殿を守るための、ひとつの仕掛け。
 聖域の、結界。
「な、なんだ、これ」
 カイルとクライスが間抜けな声を上げる。わからなくたって当然だ。おそらくこれは、神代の仕掛け。それこそまだ、この地が聖なる神殿として完全に機能していた頃の、遺物だ。詳しいことなんてこれっぽっちもわからない。
「呆けるな! 見ろ!」
 安堵で息もつけないあたしに向かって、クライスが声を上げる。え、と視線を上げた先で、結界に阻まれた魔物が眼を剥いてこちらをにらんでいた。
 思わず後ずさったあたしの腕をつかんで、カイルが立ち上がらせてくれる。
「結界、だな、これ。でも見ろ、アイツ、結界ごと破ろうとしてやがる」
 見れば、たしかに戦斧が、聖域を侵しつつあった。長くは持たない。ここはまだ、安全な場所に変わったわけじゃない。
「だが、とりあえずは助かったんだ。この間にまた逃げるぞ」
「でもルーが……」
「ううん、動ける。平気だから」
 本当は死にそうなくらいに辛かった。でも、動かないといけない。進まないといけない。あたしだけで死ぬことは、きっとできない。この洞窟を抜けるまでは、きっとふたりは、命がけであたしを守ろうとする。
 なら、いくら自分が嫌いでも、あたしは生き抜かなきゃいけない。これ以上、あたしのために誰かを死なせるわけにはいかない。
 あたしの問題は後回しだ。とにかく、今はここから村に戻ることだけを考える。
 ふたりが歩き出す姿を見送って、それに、とあたしはつぶやいた。
「ん? なんだ、ルー?」
「ううん、なんでもない。進みましょう」
 何かが、あたしの中でつながりかけている。だんだん、色々なことがわかりかけている。
 疑問は多くあった。その疑問それぞれが、ひとつの答えを指しているような気がする。たかだか村の試練のために、職業の神の遣い、神の御座、あんなに立派なもの作らない。洞窟の壁の経年劣化が、場所によってあまりにも違いすぎる。魔物がなぜか多く出る。あんなに強力な結界が残っている理由がわからない。そもそも、なぜこの洞窟が試練の場所に選ばれたのか。
 確証はなかった。それどころか、ほとんどあてずっぽうに近い推測でしかない。推測が正しい可能性なんてゼロに近い。それでも、考えが正しければすべての謎がつながる。
 まだ、ふたりには話すべきじゃない。
 もっと落ち着いた状況で、よく考えてから結論を出すべきだ。
 あたしは暗い暗い洞窟の奥を見据えて、ひとり唾を飲み込んだ。

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