31.ルーの答え
嘘ばっかりだ。
いま、あたしはいくつの嘘をついた? いままでいくつの嘘をついてきた? 数え切れないくらいの欺瞞の中、なにひとつ、自分自身さえ信じられずに生きてきた。その成れの果てが、この砕けそうな脆い体だ。
死にたくないなんて、嘘。あたしは、生きていたいと思えない。生きていていいと、思うことができない。あたしは自分を認めない。あたしはこの命に価値を感じない。
あたしを守って欲しいなんて、嘘。あたしが死ぬことでふたりが助かるなら、この使えない体など差し出したって何ほどのこともない。
なんとかなるなんて、笑っちゃいたいくらいの嘘。マヌーサやピオリムやボミオス程度でどうにかなるレベルの魔物じゃないことくらい、全員がもうわかってる。
時間さえあれば、この障壁を解除できるなんて、真っ赤な嘘。こんな頑丈な障壁、あたしひとりで解除できる自信なんて、どこにもない。
すなわち、状況は絶望以外の何者でもない。刻一刻と、死は近づいている。万に一つの番狂わせもなく、三人揃っての死が、すぐそこにある。それがわかっているから、前を向いた。嘘をついた。誰も騙せない愚かな嘘をついて、偽物の希望を目指した。
何の意味もないとわかっていながら。
ピオリムとマヌーサを唱え終えて、印を結ぶ。自身の魔力を一つの回路として、この結界に侵入する。背後の物音など気にしない。カイルの絶叫など、クライスの悲鳴など、なにひとつ聞こえない振りをして、奥へ奥へと意識を没入させていく。
あの日記の娘がうらやましかった。あたしは戦えない。自分のためになんて、何があっても戦えない。他のだれでもない、自分自身のために行動すると彼女は書いた。あたしは、それがうらやましい。焦がれるほどにうらやましい。だって、あたしには、それほど信じられる自分がない。
諦めたわけじゃない。あたしが死のうが、二度と魔法が使えなくなろうが、知ったことじゃない。救える方法があるなら、救う。何に代えてもふたりだけは救ってあげたいと願う。たとえ、頭のどこかの理性が、そんな可能性はゼロに等しいのだと告げていたとしても。
タスケテクレなんていう叫びは聞こえない。イタイコワイだなんていう声も聞こえない。カイルもクライスもまだまだ元気に戦っていると信じる。信じないと頭が砕けそうになる。心が壊れそうになる。すべて幻聴だ。血が飛び散る音も、肉が引き裂かれる音も、壁に体を叩きつけられるこの音も!
この結界の中に、意識まで飛び込んで、あたしは戦う。
そこは、桃源の霧だ。他人の遺した魔力の領域。土足で踏み入れば精神を攻撃されて、魔力を無尽蔵に吸い取られていく。馬鹿みたいな魔力量のあたしだからこそ、意識を保っていられる。これが普通の人間だったら、とっくに精神に異常をきたしていることだろう。
奥へ、深く、もっともっと先へ前へ果てへ! この結界をくみ上げた正体不明の誰かの意識に触れるまで、この精神体の腕を伸ばし続ける。誰かの思いが残っているはずだ。これだけの異界を現出させ、しかも持続的に機能させるなんて化け物じみた偉業を成し遂げた何者かが。
また、音が聞こえる、幻聴が聞こえる。カイルの声、モウダメダと叫ぶ声。クライスの声。ウデガウデガと叫ぶ声。目をかたく閉じる。精神を集中する。全部まぼろしだ。全部嘘だ。本当のはずがない。頬に感じる暖かい体液の感触は気のせいだ。あたしは目の前の結界を解くことにシュウチュウしなければナラない。
が、と嫌な悲鳴が聞こえる。それでも、あたしは前に進む。体を置き去りにして、魔力で編んだ意識だけを機動装置に没入させる。
遠くに紫の光が見える。たぶん、あそこがはじまりの魔力。あそこにたどり着けば、意識がある。誰かの意思が残っている。あたしは必死に泳ぐ。戦っているふたりのために、あたしは必死になってそこに向かう。
遠い。遠い遠い遠い。着かない遠ざかる。なんでどうして? あたしの魔力が底を尽きようとしているなんて、そんな話信じられない。
あたしではたどり着くことができないのかもしれない。能力の限界。妙な言葉が頭をかすめた。能力の限界だなんて知らない。あたしは今までずっと、肉体の限界と戦ってきた。ずっとずっと、この脆弱な体だけが敵だった。それなのに、ここにきてなんで限界なんてくる。どうして、魔力に限界なんか訪れる!
――あなたでは、救えない。
「どいて!」
叫ぶ前から、声の正体は知れていた。弱い心が作り出した幻影。ルビス・ラルハンドの形を奪い取った、あたしの弱さ。あの日から立ちはだかり続けた幻影が、今もまたあたしの前にいる。
――あなたでは、あのふたりは救えない。
「やめてやめてやめて!」
あのふたりのことを言わないで。聞こえてくる聞こえてくる聞こえてきてしまう! 今まで耳をふさいでいた認識。あのふたりの現状、あの化け物を前にして、絶望的な死の気配を前にして、血みどろになって逃げ惑うあのふたりの姿!
イタイコワイウデガオレノウデガチガハラガイタイコワイタスケテクレ!
叫ぶ声が聞こえてくる。カイルとクライスの声が聞こえてくる。イヤだ、シュウチュウできない。戻っていく、心が、魔力が、身体に戻ろうとしてしまう。腕の刻印が悲鳴を上げる。アルビノの呪いがあたしを蝕み始める!
――聞こえるでしょう。聞きなさい。
「いやだいやだいやだ!」
――聞きなさい! ふたりの声を! しっかりと、その耳で聞き届けなさい、ルーミー!
イタイコワイウデガオレノウデガチガハラガイタイコワイタスケテクレ!
声も奪われた。意識が飛んでいく。もぐっていた結界の中から、戻っていく戻っていく。あたしの意識。そこで、あたしは見る。目の当たりにする。
腹の四半分をごっそり削られて、血を吐き散らすカイルと、右腕を根本から引きちぎられて、地面をのた打ち回るクライスの姿を。
その無残な姿を。
「イタイタイタイタイタイタイタイタイ! タスケテクレタスケテクレタスケテクレクソクソクソクソッタレ! けどよ、けどけどけどけどけど!」
「ウデガウデガウデガウデガウデガウデガウデガ! チギレヤガッテクソクソクソクソチクショウ! だがだがだがだがだがだがだがよ!」
このままでは、死ぬしかない、ふたりの結末を。
それでも。
そんな姿になってまでも。
「俺達は、逃げるわけにゃいかねえんだわ、馬面野郎!」
必死に構えを取って、絶対に敵わない悪魔に向かって、正対するふたりを。
――彼らは、戦っているわ。
声が出ない。何も考えられない。無残極まりないふたりの姿を見て、心が砕けてしまっていた。
気を失っているはずの傷みに耐え、逃げ出したい、それこそ死んでしまいたいほどの苦痛にさいなまれながらも、どうしてあのふたりは構えを取れるんだろう。
どうして、まだ戦うんだろう?
内臓から血をしとど垂らして。
利き腕を失って剣もまともに握れずに。
――わからない? わからないなら、ルーミー、あなた、本当に大馬鹿者よ。
なにか、言っている。
小さい声で、二人が何かを。
まるで、夢うつつに歌い上げるように。
「ルーを、守るんだよ」
息を、呑んだ。
「生きて帰るんだよ、俺たちは」
涙が、溢れた。
「俺たちの怪我ならルーが治してくれる。何とかしてくれる。だから、死ぬ直前まで足掻いて、ルーを守る」
「誰一人、欠けるわけにゃいかねえんだわ。三人で帰るんだからよ、ルーがアレを何とかするまでここは通さねえ」
決死の、気合だった。
「だから、てめえの相手はもう少し、俺たちだ」
頭がおかしくなりそうだった。
――見なさい、ルー。あれが、あなたが無価値だと言い切ったあなたの命を、守ろうとする人よ。
再びもぐっていく。戻っていく。結界の中へ。深奥へ。最果てへ。そこには、紫に意識があった。結界を作り上げた人間の、尊い覚悟があった。
――それでも、彼らの姿を見ても、あなたはまだ、自分には価値がないって言うの。その命は、死んでもいいものだって言うの?
紫の命に触れる。はるか昔、この結界のために命を投げ打った誰かの意識に触れてみる。流れ込んでくる。血だらけになって戦うふたりの意識があたしの中に赤い命を投げかける。
「あたしの、命」
――あなたの命に、価値はないの? あなたのために戦うあのふたりの、あの痛みもあの苦しみもあの決意も覚悟も優しさも強さも、全部全部全部意味のないものだって言うつもりなの?
「それが、あたしの価値?」
――そうでしょう、ルーミー。あなただけじゃない。いつの時代だって、人の価値なんてそんなものよ。
「ああ、そうか」
やっと、わかった。
あたしには、そんな意味があった。そんな価値があった。姉さまにだって代われない、あたし自身のあたしだけの価値が、ここにあった。
カイルとクライスという、かけがえのない、命があった。
あたしを救おうとしてくれるこの人たちの命が。
あたしのために戦ってくれるこの人たちの強さが。
すなわち等しく、あたしの命のすべての価値だ。
「なら、ねえ、姉様」
もう、どこにもいない姉様と。
「なら、ねえ、カイル、クライス」
聞こえないふたりに問いかける。
「ねえ、あたしは」
あたしは、生きてて良かったのかな。
あたしは、生きてもいいのかな。
あたしのこの命に、価値は、意味は、あったのかな?
もしも誰かが、この答えにうなずいてくれるなら、あたしは今こそ命をかけよう。
からっぽの魔力を賭して、このあたしの全存在にかけて、すべての命を燃やしあげよう。
刻印を起動する。眠っていた天才の証。すべての災厄の元凶。生まれる以前から上腕に宿り続けた、神秘の悪魔を開放する。それがあたしの身体を食い破ることになって、あたしの意識を引き裂いたとしても、あたしは後悔しない。
だから、ねえ、結界の主。
あなたの命を、あたしは、吸い取る。
他のだれでもない、あたし自身の命のために――!
「その力、全部あたしに寄越しなさい!」
右腕が焦げ付いて、皮膚が燃え上がる。
崩壊の音。
壊滅の音。
結界が霧消し、再び構築される姿を見ると共に。
自分の脳髄が焼ききれる音を、あたしはその時、確かに聞いた。