32.カイルの悟り
「その力、全部あたしに寄越しなさい!」
瞬間、ルーがはじけたように見えた。ルーの奇跡が完成した。いったい何がどう完成したんだかよくわからないけど、とにかく成功したんだという確信があった。
証拠に、忌々しい障壁は消えていた。神代の時代の力に立ち向かうという困難を、オレたちが――オレとクライスが必死に(それこそ文字通りに!)凌いだ時間の中、ルーはやってのけたんだ。オレたちが稼いだ時間はほんのちょっとだったけど、決してそれは無駄じゃあなかった。
――時間を稼ぐ。文字してたったこれだけ。
たったそれだけのことが、どうしようもなく難しく、途方もなく大きな壁だった。
ルーはオレとクライスにピオリムを唱え、素早さをあげてくれた。そして、敵にマヌーサをかけ、命中率を下げた。そんなアドバンテージに関わらず、こうしてなんとか生きているだけで精一杯だなんて!
今、青い人馬と向かい合うクライスに、右腕はない。握った剣とともにどこか遠くへ飛んでいってしまった。
オレは腹の肉を持っていかれた。イオで目くらましできていたのは精神力のあるうちだけだった。疲労の少ないメラにしておいたらよかった。途中から呪文は節約してすばやい動きで相手の目を引こうとした。武道家としてなんとか頑張っていたんだから、ちょっとは役立つかと思った。
そしたらこのザマだ。内臓がだいぶ見えている。抑えるこの手をどければ、勢いよくはみ出すだろう。もう、死ぬのかな……。すべて、オレの未熟さが招いた結末だった。
所詮、武道家の真似事なんて、こんなもの。戦士として生き続けていたクライスでさえ、まだまだ未熟で手も足も出なかったんだ。魔法使いとしてちゃんと修行してこなかったオレの、魔法のキャパシティなんてたかだか知れている。
――だけど、ルーはやってくれた! こんなオレを守るために、やってくれたんだ。オレたちを信じて!
「はは、見なさい……やってやったわ」
オレたちの前を、洞窟への出口を塞いでいた障壁は今かき消え、外から差し込む日差しがより一層明るく見えた。
「だけど、もう――」
ルーはそう言って、倒れた。
「あと五年……いや、三年! 二年一年あと一年! あとちょっとでお前なんか倒して見せるのに!」
さっき頭をぶつけたせいで、その額は血みどろだった。血と悔し涙とを混じらせ、クライスは吠えた。
「くそ、くそおおお!」
クライスはまだ対峙している。おどろおそろしい魔界の人馬と。
利き腕を無くし、剣を無くして、戦士として機能しなくなってもまだ、立ち向かっている。その瞳には、戦士としての意思が燃えていた。あるいは、執念。
魔界の人馬が、追い詰めた獲物をいたぶるように、ゆっくりと歩みを進める。今そいつの意識は、完全にクライスだけに向いていた。
――成功するかどうかはわからないけど、やるしかない。
メラでは役に立たない。イオは放てても、効果はきっとさっきと変わらない。
だったら――倒れている場合なんかじゃあない。このまま、友を守れずうだうだしていることが、オレのやることなんかじゃあない!
「クライス!」
起き上がり、叫ぶ。
「手伝え!」
叫び、糸の切れたように倒れているルーを抱き起こす。内臓の出ているこの身体にはちと重過ぎる。
「くっ」
一瞬、クライスは怪訝そうな表情を見せたが、すぐに頷いてみせた。クライスはこんな未熟なオレでも信頼してくれている。ルーだって、オレとクライスを信じて、神代の結界に臨んだんだ。
クライスは短く呻き、隻腕で巧くバランスの取れない身体に鞭を打つ。
魔物は成り行きを愉しげに見ている。ただ嬲り殺すことを確信している。
「精霊よ!」
呪文は声を媒体とする。強き想いは、願いを具現化し、そして呪文と呼ばれた。そして、その呪文を用いる者を人は「魔法使い」と称し畏怖した。
始まりは何だっけ。それはいつだっけ。
魔法使いになりたくなかったのか? なりたくないから武道家を選んだのか? 武道家になりたいから魔法使いを捨てたのか? 違う。たぶん、いや絶対に。ぜんぶ、ぜんぶだ。ぜんぶ違う!
「大地の精霊よ」
できなかったイオだってできた。できるはずだ。
「悪しき者の歩みを止める大地の足枷を」
オレはただ、こいつらを守りたい。
「歩みを止める足枷を」
クライスが片腕というハンデを乗り越え、オレたちと合流する。そしてその瞬間、完成した。
「――ボミオス!」
恐らく、最後の魔力と精神力を振り絞り、渾身の呪文を吐き出した。
魔物の動きは遅くなる。比べて、オレたちは早くなっている。魔物は攻撃をうまく当てられないでいる。ルーがかけてくれたピオリムとボミオスが相乗効果を生み出し、さらにマヌーサでチャンスは倍増した。
青い人馬は追って来る。オレたちはひたすら逃げる。クライスは右腕の付け根を押さえながら左肩にルーを、オレは左手で腹部の出血を抑えながら右肩にルーを支える。今のオレたちは「三人で生き残る」という執念だけで動いていた。
「生きたい」
ルーが、小さく願う。
「俺だって」
クライスは言いかけたがその先は出ない。わかっていた。洞窟を出たからと言って、どうというわけではない。人馬にかけた呪文だって、オレたちにかかった呪文だって無限には続かない。
「くそ、天の神様、この青い空のどこかにいる竜の神さま。全知全能の神さま!」
どうか、オレはどうなってもいいので、助けてください。
青い空を仰いだけど、頭に思い浮かんだのは竜の神でも何でもなく、なぜかよく知った顔だった。
クライスが膝をつき、倒れる。連鎖的にルーが投げ出され、オレが倒れる。クライスはそれでも、ルーを守ろうと覆いかぶさっていた。オレもそれに倣おうとし、青い人馬を睨みつけ――る気力さえ、もはやなかった。意識が飛びそうになる。身体が宙に浮いているような感じ。もう、死ぬのだと、そう思った。
さっきまで動いていたのは何だったのか。これもう死ぬ。
それを見て青い人馬が残忍な笑みを浮かべる。ここにきてまだ、こいつは余裕そのものだった。まだいたぶるだけの余裕があるなんて。こっちはもう、生きているのだっていっぱいいっぱいだってのによ。
生きているのって、案外しんどいんだな。腹が痛い。頭がくらくらする。そんでもって、なんか悔しい。ここまでだっていうのが、どうしようもなく悔しい。激しい怒り。自分の情けなさ。色んなものが消え入りそうな意識の中で混ざり合う。
いたい。くやしい。しんどい。つらい。ごめん。おれなんかのために。おれのせい。せめてあいつだけでもたおしたい。せめてふたりだけでもいきてほしい。でもしぬ。
「し、ぬ」
そう口にした瞬間、全てがどうでも良くなってきた。頭がばらばらになりそうになる。身体が熱い。
「たすける」
短いが、力強く暖かい言葉。聞きなれた、その声。
「獅子は兎を狩るのにも全力を尽くす――地獄の帝王にはそう習わなかったのか?」
またひとり。
「どうでもいいだろう。どっちにしてもよくやったよ」
そしてまたひとり。誰と誰だっけ。もう、わからない。そもそもこれは夢? だってオレもう、死ぬんだぜ。
「ああ。まさか、セルゲイナスが相手とはな……」
このむかつく声、誰だっけ。もう、よくわからないな。
「もういい、カイル」
カイル、あとは任せておけ。
安堵――。そして、意識は深い闇に消えていった。