33.クライスは太陽の路を歩く

 その人は、カイルの憎んでいた相手その人だと思う。
 認識できない。意識が飛びつつあった。人間は血を失うとくらくらくるものだ、という自明の事実が、ようやく解りつつあった。
 たすける、と倒れたままのルーが言った。そして、力を振り絞って回復呪文をかけた。なんだか、いつものルーのそれとは違った何かを感じた。きっとこれが、失われた奇跡ってやつなんだろう。祈りの海が、俺たち三人を優しく抱きしめるのを感じた。生命の水脈が、再び身体のなかを流れ出したのを、俺は感じる。ルーの息はいよいよ乱れていて、そしてありったけのアルビノの魔力を芯から出し切って、そして力尽きた。傷は癒えた。右腕はもうないけれど。
 だけど、俺も負けてなんかいられない。危機はいまだそこにある。それなのに起き上がれない。力が入らない。気力が尽きかけているのだ。
 その人は、こう口にした。
 クライス。
 懐かしい、優しい声。その主は地に伏した俺の肩を軽く叩くと、休んでろ、とまっすぐ洞窟へと歩み寄った。……魔物をこのまま放っておくわけにはいかない。誰かが、剣を抜く音がした。……俺が前に出よう。久々だが、お前の魔力を頼りにしてるよ。……とっとと片づけようか。声は応えた。……俺は笑った。そんな簡単に片づけれるわけないだろう。あんなに強いんだぜ。見覚えのある声がそれにうなずいた。ああ、と。刃と刃を打ちならす音。轟音。意識が飛んでいく。うめき。憤怒の。ああ。飛んでいく感覚がした。俺たちは助かったんだ。ああ崩れてしまう、壊れてしまう、意識が。だが俺たちは、負けたのだ。誰かが俺の身体を運んでいったけれど、俺にはもう何がなんだか解らなくなってきて、暗転。

 *

 人生も世の中のことも、人のことも何ひとつ解らないし、守りたい人だって守れないし、見たくないものだって見てしまう。俺はそういうこと全部が許させなかった。だから斜に構えた。少しでも、少しでも上へ。垂直は、だが、厳格だった。俺はだから、傾いた。
 兄は違っていた。兄にとって、サンヴィレッジから出る道は常に地平線と平行で、時たま村の外に眼をやっている兄なんかを見ていると特に――ああ、俺とこの人は別のものを見ているんだ、って解ったのだ。
 変人だった。情念にとり付かれる日の翌日は理論固め。自分でも何がしたいのか解らないようだった。おかしいぐらいに冷えきった頭と、年中噴火しっぱなしのボルトが外れたバカなところがあった。俺はそういうところが好きだった。父と母はおとなしい俺と比べて持て余し気味だったけれど――それだってまあ、一つの愛情だった。
 だから兄が出ていったときには、納得はしていたのだ、俺は。予期していたのだから。痛みの受け止め方も、別れの見送り方も全部、知っていた。
 そして兄は、膿のような夕陽を背に、世界へ出た。
 兄のそれからは、誰も知らない。太陽のように燃え上がったまま、ぷっつりと消えたか。月のように凍り付いたまま、世捨て人にでもなったか。手紙はなかった。兄は行く前に荷物の整理をした。日記を捨てた、書物を捨てた、すべてを捨てた。家族三人の寝ている夜中に、兄はそれをやり通した。徹底的に自分を消し去った。痕跡を、すべて。
 兄さん。あなたはなんだったんだ。あなたは日常を受け入れなかった。父のように、そして俺のように、諦めはしなかった。何を。世界の外に待ち受けていたのは何だったんだ、兄さん。それは本当に、進むべき路だったのか。
 路は語らない。何も語らない。当たり前だ。世界は言葉を発してくれない。俺も父さんも、沈黙の畑のなかにいつづけた。眠るように目覚めていた。母は、沈黙していた。
 俺は何を恨んでいるのだろうか。そう、俺は恨んでいる、兄を。何に? 父を損ねたことか。手紙を出さなかったことか。曖昧に消えうせたことか。違う。答えはとっくにわかっているのだ、あまりにも、あまりにも自明に。
 俺を連れていかなかったことだ。

 *

 起きて速攻せき込むっていうのは気分がよくないのに、起きて自分の腕の不在を確認するとか、そんなことならなおさら。俺の目覚めに、声。ぼやけた視界に映る人。
 ルー。
「気がついた? 看病のお礼、ちゃんとしてよね」
 ルー!
 思わず叫んでいた。目がゆれる。まわる。はきそうになる。感覚がまだ繋がってない。だけどそこが丘の上のルーの屋敷で、隣を見れば、ぐがあぐがあ、と。
 俺はちょっと笑った。カーテンから、夏の光。
「信じられない。なんで、生きてるんだ、俺ら」
「そうね。たしかに、ちょっと信じられることじゃない。あれだけの魔物を相手に生きているなんて、私たちって、きっと相性が最高に良かったのよ」
 ルーは眠りこけるカイルの頬を撫でる。身体を起こそうとしたが、できなかった。俺はそのときになって、腕を片方なくすということがどういうことか解った。ルーの眼は少し悲しそうだったし――一番申し訳なく思わされたのは、その眼は本当に申し訳なさそうだった、ということ。
「誰も悪くない」俺は笑いを装った。「誰もな」
「もし悪い人がいるとしたら、問題を作った当人かしら」
 そう言って、ルーはカイルの頬を弱くつねる。二人は笑った。そう、誰も悪くなどない。もちろんカイルも。
 俺は腕を失った。カイルは二目と見れぬような惨い傷を作った。そしてルーは。その眼を、見ない。何かが、失われたのか、あるいは失われつつあるのか。言葉とか、ささやかな動作の一つ一つに、その印があるような気がしたた。
「冒険をするってこういうことなんだろうな」
「どういうこと」
「傷だらけになって、身体壊して、本当にもう生きていけないぐらいのひどい目にあって、でもぎりぎり助かって、だとしてもそこはどん詰まりで、その冒険がいったい何だったのか、さっぱり解ったもんじゃない」
 一息、置いて。
「でもそれを後悔しない。おかしいぐらいに。実際おかしいと思う。本当なら腕がなくなったのを泣いて、愁嘆場に直行しなきゃなんないよな。たぶん、ルーもカイルも、それとカイルのお父さんも、みんな責めただろうな」
「やめてよ」ルーはちょっと、笑った。「泣いてしまう」
「おまえは泣くような奴じゃないだろう」
「さあどうかしら」水差しを取り替えて、シーツの皺を丁寧に延ばしていく。女中にやらせればいいのにそうしないのは、きっと俺とカイルを全快させられなかった後悔の念かもしれない。あらためて自分のふがいなさが申し訳なかった。そしてそう思うことが一番ルーを苦しめるだろうと思ったから、見ないでいた。眼が合えば、わかってしまう。
「でも何だろうな。本当に不思議なぐらい、さっぱりした気持ちなんだ。今回のことは、本当に誰のせいでもないから。これは嘘じゃない」
 ルーは黙っていた。嘘、と短く言った。俺は笑った。本当の笑いで。誰のせいでもないのは、嘘じゃない。
「今までにたぶん五十回はおまえに嘘ついたけれど、五十一回目の不名誉を重ねることはなさそうだ」
 ルーの手は、もろい。ふるえている、弱く。カーテンを、開いて、窓を。細い光と夏風が吹き込んできて、俺はちょっと背伸びをする。右腕はなかったけれど、左腕で十分に背伸びはできた。何とか起きあがって、立ち上がる。痛みは、あった。ルーは外を見ていた。肩が、少しだけだけれど、震えていた。歩み寄った俺も、外を覗く。庭。夏の野ばらがゆれていくのを、俺は見ていた。ルーは小さく目をつむって、ありがとう、と小さく口にした。
「私、失ったのよ、魔力を。もちろん、普通の人間よりはずっとあるわ。でも、今までみたいに無尽蔵の魔力を蓄えておくのは、正直にいってもう二度とできないと思う」
 だからこれからは普通の女の子なの、とルーは笑った。俺も力なく、だけど一応は、笑みを返した。
「なんて、それも嘘。それは……」
 それは、これからの話。
 そういったよくわからない言葉を残して、ルーは部屋を出た。扉を閉める音がして、俺は自分の存在が馬鹿のように情けなく感じれて、本当に何でルーをあんな気持ちになせてしまったのか、つくづく自分の無能が思い知らされて、ああごめん、ごめんとか絶対思っちゃいけないんだろうけれど、それでもごめん、と俺は小さくささやいて、ばらの花びらがひとひら落ちるのが見えて、サンヴィレッジはもう、夏の終わり。
 後ろから声が聞こえた。
「嘘つき。それと、ごめん」
「おまえがごめんなんて言うの、初めて聞いたかも」
「……嘘つけ。さっきのと合わせて、五十二回目の嘘だ」
 俺は笑った。
「俺が一番つらいのが何だかわかるか」
「……さあ。ありすぎて、わかんねえ」
「本当だな、ありすぎる。じゃあまず一つ。一番の親友が二人、傷ついたこと。それと、そのうちの一人は、たぶん村を出れないだろう、ということ。きっと大変な騒動を巻き起こしたと思うぜ。最後に一つ。そしてそいつは、もちろんそいつじゃなくて、後一人も、そして笑えることには俺もなんだが、お互いがお互いに申し訳なく思ってるってこと。そのせいでなんだか、……なんだか、なんだろうな」
「離れてしまっている」
「そういうことだ」カイルに指を向ける。「おまえがごめんって言ったから、俺も言うよ。ごめん。お願いだから悪いのは自分だとか言わないでくれ。不慮の事態だ」
 不慮の。なんて簡単な言葉だろう、と思う。そしてそれは実際そうだった。兄が消えてしまったのも、その痕跡がすべて消されていたのも、そしてカイルがあの洞窟に入ったのも、すべて。それは誰も悪くなくなる、魔法の言葉。免罪符。俺は胸糞悪くなって、窓を閉める。
「じゃあオレも自分のつらかったことを言わせてくれ。まず一つ、あれだけの迷惑をみんなにかけたオレを、誰も責めないこと。二つ、これはお前と一緒だけど、オレたちがなんだか、友達じゃなくなってしまったみたいだ、ということ。三つ、友達に気を使われたこと……ひどいぜ、クライス」
「ひどいな」俺は笑った。作り笑いではなく。「あえて言うなら、それが俺の責め方かもしれない。頭はでも本当に冷めてるんだ。……本当に。これは五十三回目じゃない」
「どうだか」カイルは四つ目の指を折った。「四つ目、オレたちを助け、結局あの事態をあのあと全て収拾してくれたのは、大嫌いな大人だったこと」
「……そうなのか」ああ、と思った。あれだけの結界とはいえ、あのまま魔物を放逐していれば今頃は大惨事だったろう。それを食い止めた人間がいたのだ。聞くまでもない。だけど、聞く。それがきっと気持ちの整理になる。「誰だった」
「オレが一番嫌いな人間と、お前が一番嫌いな人間だな。もうわかってるだろう」
 俺はもう一度、窓を開けた。渡り鳥の声が、した。夏のにおい、終わりゆく夏の薫りが、しとしとと流れ込んでくる。俺はそれを息いっぱいすって、ああ、と吐く。
「負けたな、俺」俺。「オレも負けた」カイル。
「五つ目」「多くないか」「これでも絞ってる」
 息をはいて。
「まだ何にも、決着はついてないこと」
 カイルの顔を、見る。その眼は敗北に打ちひしがれていたけれど、同時に戦う男の気力を十分に伺わした。俺はちょっと笑って、こいつは本当に大馬鹿で大馬鹿でたまらないし、そしてだからこそこいつを好きな俺も結局は馬鹿者なのだ。そしてそれでいいのだ、と思った。
「じゃあどうする」俺はにやにやしながら尋ねる。
「決まってるだろ」その手が、肩に。「つけるんだよ」
 そう。何もまだ、終わっていない。冒険は終わったかもしれなかった。だが俺もこいつも、そしておそらくはルーも、何一つまだ解決していない。勝負さえしていない。
 腕が片方ないというのは存外どんな動作にも響くもので、俺は歩くのもなかなかバランスがとれないで難儀していた。そんな俺に肩を貸してくれる奴がいて、俺とそいつは「お前なんでわざわざそんなことするんだよ」「うっせーよ知らねーよいちいちつっかかんな」とか言いながらこそこそっと玄関にまで出てきて、せーので扉を押して。
 そこに世界はあった、そしてそこに、路はあった。
 二人は歩いた。分かれ道が来た。頷きあった。別れた。ここからは一人の勝負だった。あいつがどういう決着をつけるのか考えている時間も、あいつの背中を見ている暇も、今の俺にはなかった。手を振るのももうやめだった。俺はゆっくりと、身体をがたがた傾けながら、またあのうんざりするような坂道を、上っていく、頭上、太陽。

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