34.さようならと、ルーは言う

 帰ってきて、すこし落ち着いた。
 おとがめなしってわけにはいかなかったけれども、深く傷ついたあたしたちを容赦なく叱り飛ばせるほど、この村の大人は人でなしじゃなかった。
 あたしたちが抱えていた苦悩。
 大人たちが感じていた不安。
 それぞれをそれぞれに許しあえる隙間が、あの日を境にわずかに生まれた。冒険に価値はあった。意味もあった。傷ついて傷つけて失った未来もあったけれども、折り合える場所を誰もがひそやかに見つけていた。
 毎日の積み重ねでいい。もう冒険は必要ない。ようやく湧きだしたその泉の水を、大切にひろげていく。お互いにその気持を忘れなければ、季節を重ねていくごとに、この村に差す陽はやわらかくなるだろう。
 膝を抱えて、目じりにふくらんだ涙を、そっとぬぐった。追悼の涙だった。

 *

 死んでいた風が立って、窓にかけたカーテンがゆらいだ。太陽は、とろりと滴る蜜のような夕陽になった。
 カイルとクライスが屋敷を出て行って、いくらか時間がたっていた。決意は今日だとしても、行動を起こすには猶予が必要だろう。あたしが今日一日を、姉様との別れに費やしたように。
 河原へ足を送った。日ぐれた畔をわたる風が、辻にさしかかるたびに、わだかまった砂埃をさらっていくのを見た。長く伸びた影を踏んで、あたしは細い歌をうたった。
 パスは、まだ通っていた。
 あの時、洞窟を脱出した瞬間、カイルとクライスはほとんど人間としての機能を失いかけていた。そんな状態であれば、ほとんど回復呪文なんて意味を持たない。死んでいる人間を生き返らせるに等しい荒業でなければ。
 だから、あたしはあの時、それを試みた。
 カイルとクライスをこちら側に呼び返すためには、一度あたしという存在で彼らを飲み込む必要があった。結界の主から奪い取った魔力で、あたしの領域は混沌たる生命の源で満たされていたから、魂さえ無事であれば、そこから型を取り出すことは、さほど難儀なことではない。生きるという意思をわずかも揺るがせなかったふたりの蘇生は、だから実は完全な形で行われるべきだった。
 それが、カイルに深い傷を負わせたまま、クライスに片腕の代償を払わせたままの仕儀になったのは、ひとえにあたしの精神力の問題だった。すでに精神の糸は途切れ途切れになっていて、陽炎のように立ち上る使命感だけが命を支えている状態だった。魂ふたつを飲み込むとなれば、ことは荒くなる。収めどころを手さぐりに探すうちに、とにかくなんとか形になった、命だけは助かることが明らかに理解されて、それがかえって悪かった。糸が切れて、意識は深く惹かれるようにほの暗い底に沈んでいった。ふたりの蘇生は半端になり、村に運び込まれた時には魂の整形も終わっていて、それがあるべき形であると肉体が了解してしまったので、回復呪文ではそれ以上の再生は不可能になった。
 ただ、あたしにはその時に通したパスが細く残っているのが分かっていた。上腕の刻印が魂の記憶を保持し、あたしという肉体が一時的に流れ込んでいた魔力を持て余しながらも血液に乗せたゆえのことだ。
 いずれ、奇跡以外に形容のしようもない。

 *

「よお」
 河原の先客が、残った方の腕をあげて、場違いに明るい声を出した。振り切った男の子の声音だった。遠く、夕陽はまだ雲を染めており、川面が映じたつめたい炎がたゆたっていた。
 草をくわえて腰かけていたクライスに並んで、あたしの方は腰を下ろす勢いに任せて寝転がった。
「さっきより、ずいぶんましな顔になったわね」
「お互いにな」
 返す言葉もなく、沈黙が流れた。間もなくカイルもやってくるだろうという確信がふたりの間にあったから、言葉はそれからでいいと思っていた。話したいことも聞きたいこともたくさんあったけれど、三人にならなければ言葉は空間にとらわれて、意味を宿さないだろう。
 ときおり、魚でも跳ねるのか、涼やかな水音がした。
 空が蒼を孕みはじめたころ、カイルがゆっくりと歩いてきた。
「なんだ、オレが最後かよ」
 約束もしていなかったのに、いや、だからこそか、不満げにそう呟いて、あたしを挟むようにカイルが座った。あたしも上体を起こした。穏やかに流れるだけだった風が一瞬、なにかの合図のように走って、肌を舐めた。昼の名残のぬくもりが空へ抜けて、かなしみのようなものだけが、河原に残った。
 水のにおいがふくらんだ。今まで聞こえていなかった波音に耳が行って、すぐに耐えきれないくらいになった。あたしはそれでまた、細い声をあげて歌った。
「なんだよ、それ」
「知らない? 讃美歌よ」
 カイルが苦笑して、そこらに落ちていた小ぶりな石を、ゆっくりと川に放った。川面がふるえて、数秒もしないうちに、戻った。
「あの日から、まだ何日かしかたってないのよ」
 鼓動が聞こえるような心地に耐えて、あの夜のことを思った。カイルが試練を受ける前日の夜。あたしたちはここで、友達だとか仲間だとか大人だとか子供だとか、そういうことをそれぞれに確かめ合った。たった数日前のことには違いないけれど、そこにはもう、隠しようのない溝が穿たれている。
 踏み入ったわけでもないし、吐きだしたわけでもない。あたしたちは濃密な空間と時間を共有することで、お互いの心に指先で触れ合った。未来と、過去の入り混じった魂のさすらいの、その途上で手を振りあった。
 東の空にたまった赤い光が川に流れて、そのまま夜へ傾き始めた。
「あなたたちにとって大事なことが、これからあるんでしょう」
「そうだな」
「そうなる」
 視線を交えないまま、ふたりは似たような声で言った。
「その前に、ちゃんとしなくちゃいけないことが、あるの」

 *

「友達とか仲間とか、苦しみとか悩みとか、距離感とか信頼とか、なんかいろいろあるよね」
「なんだそりゃ」
 声を合わせて、ふたりは笑った。それで、いつかの答えとしては十分だった。あたしたちの選んだこの道が正しいだなんて自信はないけれど、息絶えるその時まで、あたしは今日を後悔することはない。
「それじゃあ、はじめるね」
 河原に描いた魔方陣の上に立ったふたりの、存在感が希薄になった。魂の情報を一度薄めて、そこに過去の情報を上書きする。一瞬の隙が生じるから、そこに全力で回復呪文をかけてやれば、蘇生のやりなおしは可能になる。パスを通し続けたあたしにだけできること。カイルの傷も、クライスの腕も、全部なかったことにする。あたしの魔力すべてと引き換えに。
 いらなかった。
 この魔力も、この宿命も。
 ただ、どんな道であれ、このふたりの背中を押してあげることができるなら、このふたりの抱えた傷を癒せるのなら、呪い続けた力の業にも、最後に一度、感謝くらいはできるかもしれない。
 これで本当に、すべての特別を失うことになったとしても、ねえ本当に、あたしにはこれっぽちの悔いもないの。
 淡い輝きが、わずかに赤みを帯びて、青に移って、黒を宿して、白くなって、やがて光としかいいようのない色になった。そこに燃え上がる天体があり、いつの間にか頭上に駆け上がっていた月に共鳴して、大気がゆらいだ。
 あたしが指先で触れてきた世界が、はるかに遠ざかっていくのがわかった。姉様の幻影が遠ざかり、上腕の刻印が血液を吹き上げながら蒸発していくのがわかった。さようなら、とあたしの唇は動いただろうか。
 さようなら、神秘の悪魔。大嫌いだった、ルーミー・ラルハンド。
 光が収束して、輝きが球のように凝縮された。さかしまになった世界に、姉様のまぼろしが見えた。にじむように瞼を細めた懐かしいその顔に、あたしは姉様によく似ていると言われた微笑みを、しっかりと返す。

 *

 ふたりが走り去った夜の河原に、あたしはひとり、寝転がった。全快したふたりの後ろ姿を見送る必要は、もうないだろう。彼らは、新しい道に確かな一歩を踏みだしたか、あるいは踏み出そうとしているのだ。
 とどまり続けることを選んだあたしには、今夜、あの背中はちょっとまぶしすぎる。
 きっといつまでも友達でい続けるだろう。あたしたちは同じ子供たちとしてではなく、違う人間同士として、今までとは違う関係の中に生きていく。それはとても誇らしいことだし、泣きたいくらいに痛くて辛くて寂しいことだ。
 それでいい。
 細い歌を、また歌いだす。
 こぶしを握って、開く。吸う息にも、吐く息にも、新鮮さを感じた。世界が、色を変えていた。
 アルビノを保護する膜を張るだけの魔力は、どうやら残った。でも神秘の悪魔は失われたし、今までのあたしを支えていた自意識みたいなものも綺麗さっぱりなくなった。すっかり空っぽになって、気分は結構、爽快だった。
 つまるところ、ルーミー・ラルハンドは、死んだのだ。
 そして生まれた。いま。

「お誕生日おめでとう、ルーミー」

 ひとりでひっそり呟いて、あたしはゆっくりと目を閉じた。
 暗闇の中、もう夢は見ない。

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