35.未熟者カイル

 ――決着をつける。

 文字数にすればたったそれだけのことだけど、それがなかなかできないもので。
 夕暮れどき、オレとクライスはルーの屋敷を出て、それこそ、勢いよく「せーの」なんて言っちゃって、でも……結局は家でできたことって、実は何もない。
 自分の部屋でひとりあれこれ考えて、それから――瞑想した。
 生まれて初めて、無の境地を知った。親父の言いたいこともちょっとわかった。だけど、まだ一歩踏み出せなかった。まだちょっと、整理が必要だった。心の、整理が。
 だけど決めた。覚悟は決めた。「決着をつける」という覚悟を。
 だから決着はもうちょっと後で。もう少し、武道家カイルで。そんなオレも含めて、やっぱりオレだと思うから。いつか、そんな青臭い頃もあったな、と笑い飛ばせると思うんだ。

 とまあ、そんなことを考えながら、きっとルーが待っているんだろうなあと期待しつつ、川原に向かった。脇腹がすげえ痛む。気を抜くとまだ出血するんじゃないかってくらい。
 案の定、ルーは待っていた。オレたちがきっと決着をつけて来るものと思って。だけどごめん、まだ勝負ついてないんだ。
 だけど。
「よお」
 ことさら明るい声で話しかける。ルーの顔を見た瞬間、ああ、こいつ気づいてるなと思った。
 それから、クライスが来て、右腕がないせいで歩きづらそうにしながらやって来たクライスの顔を見て、オレは気づいた。なんだ、やっぱりお前も一緒かよ。
 決めるのって、案外むずかしいんだ。今まで、短絡志向に何でもかんでもやってきたんだけど、それって単純に、オレは本当の意味で何も考えてなかっただけなんだって、今回の一件で初めて気づかされた。
 ルーは、そんなオレたちの胸のうちを知っているかのように、何も責めなかった。

「あなたたちにとって大事なことが、これからあるんでしょう」
 そう言った。
 なんだやっぱ、ばれてんじゃん。まだ勝負つけてないこと。だから、これは勝負に挑むためのある種の儀式。そう、最初は思った。
 だけど、途中で気づいた。ああ、これは「ルーの決着」なんだって。神秘の悪魔とか白鬼とか言われた、ラルハンドの呪縛と闘う、その決意。
 ルーは魔方陣を用意して、そこに立たせて、それから、蘇生した。
 これまた、文章にしたら簡単だ。たった一文で終っちまう。
 オレたちの経験した試練の洞窟の一件も、言葉におこせばたったの一文。下手すれば、「死にかけた」の五文字で済んでしまう。だけど結局それって、言葉にする努力をしてないだけなんだなって思う。オレたちの冒険の軌跡をなぞれば、きっと、本の一冊じゃ足りない。それだけの想いを、オレは経験したと思う。
 クライスもルーも、オレのことを責めない。だけど、オレは自分の愚かさをずっと責め続けると思う。
 今回はそう、運が良かった。三人とも死んでいたっておかしくなかった。
 色々犠牲にして、だけど得られた大事なこと。
 オレは自分の愚かさを受け入れることができた。オレは自分のやりたいことを見つけた。それは武道家なんかなじゃなくて――。

 脇腹にずっとくすぶっていた痛みが嘘のようにひいた。クライスの失われた利き腕も、冗談みたいに治った。本当に、冗談かと思うくらい、ルーは凄かった。
『私、失ったのよ、魔力を。もちろん、普通の人間よりはずっとあるわ。でも、今までみたいに無尽蔵の魔力を蓄えておくのは、正直にいってもう二度とできないと思う』
 屋敷でルーがベッドの上のオレたちに言ったこと。
 確かに、それに等しい状態になっていたことに間違いはない――と思う。ルーに宿る魔力が、魔法使いのオレから見てとても希薄だったから。
 それからこうも言った。
『それは、これからの話』
 冗談めかして言っていた。それは、さっきの蘇生の儀のことを言っていたのだ。魔法陣を使用して、先人の遺産たる魔力を利用して、さらに、ルーのラルハンドとしての鬼才をもってして、ようやく得ることのできる奇跡。
 ルーは知っていた。まだ、洞窟の結界の奇跡とも言える神代の力が自らの身体に宿っていたことに気づいていた。それを使いきれば、今度こそ本当にただの女の子になってしまうことを知っていた。ただの、ルー。魔力のない、ただの。
 結局のところ、ルーは悩んでいなかったのだと思う。決めていた。すべて決めていた。ただ、ちょっとだけ、自らの心の裡と向き合う時間がほしかったのだと、オレは思う。
 だったら、オレも。いや、オレたちも。 
「さて」
 とオレはうそぶく。さて、も何もない。もう決めているんだ
 ルーに抉られた腹部を蘇生してもらい、利き腕を取り戻したクライスとも別れた。それぞれの決着をつけるために。
 オレはオレのけじめをつけなければいけない。向かう。親父の待つ家へ。

 *

 家に向かっていると、緑の髪の男とすれ違った。うちにもときどき来る、親父の知り合いだった。
 挨拶を交わし、そのまま進もうとすると、後ろから声をかけられた。
「今はこれで何とかなるだろうが、今回の一件もある」
「今回の?」
「魔族の力がまた強くなってきている。セルゲイナスが出てきたのも、そのせいだ」
「セルゲイナスって、あの青い人馬……」
 男は頷いた。その顔は皺に刻まれていても老いを感じさせない。その目の澄んだ輝きのせいかもしれない。
 何にせよ、初めてあの馬の名前を知った。二度と忘れない。
「平和とは、いつまでも続くかわからない」
 言うと、男は背を向け歩き出した。
「あの、あなたは」
 答えなかった。
「次の時代の若者よ、大きくなれ」
 ただ、そう答えて去って行った。ふと、ばらの香りがした。

 *

 男と別れ、家についた。母さんは居たが、親父は居なかった。
 しばし休戦ということで、その前にちょっと思いついて、親父の書斎に忍び込んだ。
 あれだけぐちゃぐちゃに引っ掻き回して床に散らかしたままの本はきちんと本棚に収まっていた。きっと、母さんが片付けたんだと思う。
 申し訳ないなと思いつつ、試練の洞窟についての文献を取り出し、破り取った地図のページを元あった場所に挟み込み、本棚に戻した。そうすることで、何か許されるような気もした。二度と戻らないものも、いつかは戻るような気がした。
 アルビノの鬼才でなくなったルーに、旅立つ決意をその目に宿したクライス。それから――オレ。変わってしまったものも、いつかその変化すら吸収して、もっと素晴らしいものになって輝けたらいい。そう、思った。
 ふと、親父の机に活けられた綺麗なばらが目につく。真っ赤な、ばらだった。
 ふいにルーの屋敷で眠りこけているときに見た夢のことを思い出した。酷い夢だったように思う。とても、悲惨だった。それこそ、あの試練の洞窟の一件でさえも冗談に思えるような、そんな夢だった。
 ひとつの村が燃えていた。名も無き村が蹂躙された。その中で懸命に闘っていた女性がいた。オレの視界には常にその女性が映っていた。誰かに似ているような、そんな気がしないこともなかった。
『勇者を逃がすの! 天空の勇者を……この世界の希望を!』
 その女性は訴えていた。オレの知らない事情を。
 女性だけではなかった。皆が守り抜こうとしていた。オレたちの知らない希望を。勇者という名の光を。
 緑髪の少年を残して、村は滅んだ。赤いばらが、焔によく映えていた。村の最後は、赤く染まっていた。
 さっきすれ違った緑髪の男とばらの香り。一冊の本が目にとまった。そうだったのかと気づく。
『ドラゴンクエスト』
 そう名づけられる、五章とその他からなる物語。オレも読んだことがある。天空の勇者と導かれし者たちについての伝記だった。世界に知らぬ者はいないという、伝説だった。
 その冒頭に、魔族の炎に焼かれ朽ちていった村の話が載っていた。本当に僅かな、たったの一ページの。記憶にすら残らない、ちっぽけな話。
 ――村の人々は、世界の希望である勇者を残すために、その尊い命を犠牲にしました。
 そんな一文で終ってしまう。
「導かれし者たち、数えて八つ」
 親父の声がした。親父は立て続けに、いくつか英雄たちの名前を口にした。ライアン。アリーナ。クリフト。ブライ。トルネコ。マーニャ。ミネア。それから、天空の勇者の猛き名を。
「なあ、カイル。この英雄たちの名前はこうやって永く残り続けている。だがしかし、この伝説の冒頭の村の人々はその名を残すことができない。その功績すら、人々の記憶には残らない」
 親父は悲しげに言う。
「姉の名は、ハインクル。氷の呪文を得意とし、その意志は氷のように鋭かった。反面、弟思いで、親のことをよく聞く優しい女性だった」
 親父がヒャド系の呪文をあまり使わなかった理由がわかった。苦手なんじゃなくて、たぶん辛かったんだと思う。きっと。いろいろ。
「ハインクル」
 その名を口に出してみた。馴染まない名前だった。オレの物語とは無関係で、こういった機会もなければ聞くこともなかっただろう名前。どこか尊い響きがした。親父の感傷のせいだったかもしれない。その名を、誰かが記憶に継いであげなきゃいけない気がした。それはきっと、オレじゃないとできないんだと思う。 “一種の浄化みたいな”ものかもしれない。試練の洞窟で、ルーが言っていた意味も何となくわかった。
「歴史に残らなくても、彼女たちの功績はこうやって今の時代に残っている」
 卓上のばらが綺麗だった。サンヴィレッジも夏の訪れとともに、この真っ赤なばらで咲き乱れる。
「カイル。何が残らなくとも、そのひとつひとつの経験にはやはり意味があるのだよ。それは、そのひとつひとつが偉大な功績なのだ。たとえ、他人にとっては無意味でもな」
 らしくもない。親父はオレを慰めてくれていた。怒ると思っていたのに。
「傷も癒えたようだな」
 服の下なんて見えないはずなのに、親父はただ静かにそう言ってのけた。まったく、何でもお見通しだ。
「何でオレのこと、怒らないんだよ」
「……親っていうものは、難しいのだよ」
 そう答えた。無言のときがしばし流れる。先に口を開いたのは親父だった。
「使えるようになったんだな、ボミオス。それとイオも」
 洞窟の一件を聞いたのだろう。
「上出来じゃないか。今まで火の精霊としかうまくやれなかったのに。地の精霊と折り合いをつけられるようになれば、残るは水と風だけだな」
 またも流れる沈黙の空気。
「なあカイル。村を出て行かないのか?」
「出ない」
 迷いなく答えた。
 オレの返答を聞いて、親父は一瞬驚いた表情を見せ、それから尋ねた。
「オレ、武道家になりたいってことしか頭になくて、武道家になって何をしたいかって、そこまで考えてなかった。オレがほしかったのは、誰かを守る力。ただ、それだけだった。ほんと、それだけなんだ」
 親父はひとつ呼吸をすると、座るように促した。
「立ったままする話でもあるまい」
 親父は机の上の、ばらの花びらを触りながら言う。視線は合わせない。
「きれいだろう。さっき活けてもらった」
「来客?」
 ああ、会ったのか、と親父は呟いた。
「わしの姉が好きだった花だ。今でこそ、サンヴィレッジにも咲き乱れているが、本来はもっと山奥にしか咲かない」
「親父の姉さんって、オレのおばさんか? そんな人いたのか。知らなかった」
「話してなかったからな。それにもう、死んだ。これは、あの人なりの手向けの花なんだろう」
 そんなの、家の前に咲いているのを摘んできたら済むじゃないかと言おうと思ったが、やめた。
 きっと、今このサンヴィレッジを覆っているばらも、すべて、あの男の人が摘んできたものが、根付いたのだと思ったから。
「家の前に咲いているのと、あの人が、山奥の元あるべき場所から摘んでくるばらは同じようでやっぱり違うのだよ。これは、特別なものなのだ」
 しばし、沈黙。
 黙っていると、また、ばらの話をする。
「“サンタ・ローズ”と言う。聖なるばら、という意味だ。神々の加護されるべき、心正しい、気高く強い人々と共にある、花だそうだ」
 昔はこのサンヴィレッジには咲いていなかった。だけど、今はサンヴィレッジを覆うように咲いている。今みたいに時節になると、一面に咲き乱れる。
 ああそうか。この村の人たちは、オレが馬鹿にしていた親父も、クライスが大嫌いだったあの父さんも、みんな誇り高く、懸命に生きている。この赤いばらの恩恵を受け入れる権利があるんだ。それが、一人前っていうことなんだ。
 だけど、オレは――。
「カイル。昔、村を逃げ出したときにお前は言ったな。魔力が尽きれば、呪文は唱えられない。魔法使いなんて、呪文が唱えられないなら無力だと」
「うん」
「あのときにわしが言ったこと、覚えているか?」
「うん」
 ――魔力がなくなるときのことを考えるよりも、今はただ一人前の魔法使いになることを考えろ。
「今なら、その言葉の意味はわかるか?」
「うん」
 わかる。痛いくらいにわかる。
「なあカイル。試練の洞窟での一件は……」
「わかってる。ただ運が良かっただけなんだ。誰が死んでいてもおかしくなかった。オレがもっとたくさんの呪文を扱えたら、オレが無鉄砲じゃなかったら、こんな事件に巻き込まれずに済んだ」
 一人前の魔法使いになれば、少なくとも魔法を使えるうちは戦える。
 魔力がなくなった後の戦いなんて、魔道の道をもっと進んでから、それから身につけていけばいい。
「では、改めて聞く。お前は魔法使いがどうしようもないほど嫌いか?」
 親父はそう言うと、窓際へ移動した。
 会話の間がどうしても長くなる。きっと、それだけ大事なことだから。
「嫌いだ。難しいから」
 だけど。
「だけど、武道家だって、きっと極めようとすれば同じくらい難しい。オレがやっているのは武道家の真似事でしかない。その証拠に、試練の洞窟では一度だって、武道家としての技で戦えなかった。悔しいけど」
 そこで息をため、そして吐く。
「悔しいけどオレは、ガキだった。オレはきっと親父に反発したいだけだったのかもしれない」
 親父は窓の外を眺めて、ふう、と息をもらした。
「村を出なくていい、そう言うのか?」
 オレは頷いた。
「たとえ、お前を縛りつけるものが無いと言ってもか?」
 なお、頷く。
「結論から言うと、お前たちのことをサンヴィレッジの人々は責めていない。むしろ、お前達のお蔭でサンヴィレッジを襲う危機も回避できた。あのままだと、魔界の扉はいつ全開してもおかしくなかっただろう」
 親父は、洞窟の中での一件をひととおり知っていた。ルーが、オレたちの寝ているうちに説明してくれたんだろう。
「半世紀前に、実際のところは魔界の入口は完全に開いてしまう運命だったのだ。それはきっと、魔族が力を強めていたせいかもしれん」
 実際、その後に、地獄の帝王や妖魔の王がこの世界を破滅の危機に陥れたと、伝説にもある。
「この半世紀、あまりに色々ありすぎた。本来は、その十三人のこと、忘れさられるべきではなかったと、わしはそう思う。だが、この半世紀のうちの世界規模の戦乱の中、記録として残す余裕はなかったんだろう」
 だから、と親父は言う。
「だから、少女の力でかろうじて閉じていた魔界の入口は、本来、強力な力を持つ者の手で、いつか完全に閉じなければいけないものだった。そうすれば、魔界のモンスターがこちらの世界に入り込むこともできなかったはずだ」
「今は、魔界の入口は……?」
「完全に閉じている。天空の勇者たちの、手によってな」
 魔物の群れは、親父とクライスの親父が片付けた。
 魔界の扉の封印は、天空の勇者と、その仲間が閉じた。伝説に残らない、小さなことだった。
 すべて無事に終ったのだ。だけど、老いた勇者は言った。平和はいつまで続くかわからない。だからこそ、いつ何が起きても応じられるように、オレももっと頑張らなきゃいけない。
「ひとつ、話をしよう」
 窓の外を見たまま言う。親父の視線の先には、一面のばら。赤い、ばら。
「どうしようもない未熟者の話を」
「どうしようもない、未熟者……?」
「今より数十年前、魔王が君臨せしめんとし、魔族が跋扈する時代があった。人々はただ、恐怖におびえ、暮らしていた」
 オレの生まれる前の話だった。オレの知らない時代の話。だけど、知らない人々のいない、「導かれし者たち」と呼ばれる伝説。
「ブランカの山深くに隠されたひとつの村があった。真っ赤な、サンタ・ローズの咲き乱れる綺麗な村だった。村はただ、勇者という世界の希望を守るために存在し、勇者を守って死んだ」
 地獄の帝王と妖魔の王子は天空の勇者とその仲間たちによって討伐された。そのことを知らない者はこの世界にはいない。だけど、親父の語ることは、誰も知らないことだった。
 忘れられた、人々の死。だけど、途方もない偉業を成し遂げた人々。
 ふと、試練の洞窟の僧侶の少女のことを思い出す。魔界の入口が開くのを最小限にとどめた少女。彼女もまた、誰にも讃えられることなく死んでいった。
「勇者のためにこのサンヴィレッジより集められたそれぞれの職業を極めた鬼才。それらが名も無き山奥の村の住人だ。ある意味で異端な実力者の集う人類最強の村の、な」
 勇者を守る。それだけのためにしか生きられなかった、村人たち――今朝方、見た夢が頭の中で鮮明になっていく。
 ひとりの緑髪の少年を守り死んで行った戦士。僧侶。魔法使い。武道家。数多の鬼才たち。血肉をすする魔物の群れ。燃え盛る炎。恐怖。不安。絶望。暗い感情に灯る僅かな希望。勇気。
「村人たちは死ぬ覚悟をもって、いや、死ぬためにそこに在った。勇者のために、世界のために死ぬ。それが村人たちの……いや、彼女の――姉の意思だった」
 親父の背中が震えていた。いつものような気丈な親父ではない。
「わしが行くべきだった。そうすれば、姉は死ぬことはなかった。だが、魔法使いにないたくないと駄々をこね、その修行を疎かにしていたせいで、わしは勇者を守る鬼才に選ばれなかった」
 オレの知らない話。オレの知らない時代の、オレの知らない人の、オレの知らない親父の――。
「今でも、悔やんでんのか? その、修行を怠ったこと」
 親父は首を横にふった。
「わしがあのとき一人前なら、今この瞬間この場にはおらん。わしも……お前もな」
 親父が振り向く。
「だから、後悔はしておらん。しかし、姉が死地へ赴くときの絶望、選ばれなかったときの挫折。それから幾度となく抱いた後悔の念。この気持ちだけは今でも忘れられん」
 知らない話。けれども、親父の感情だけは、痛いほどに理解できた。あの試練の洞窟を越えた後だからこそ、理解できた。
「お前に、わしのような辛い思いをさせたくなかった」
「オレに一人前になって欲しかったってことか?」
 親父は首を振った。
「そうでなくてもいいのかもしれん。さっき言ったように、当時、わしが一人前なら今のお前は生まれてはいなかった。それに、愛する妻や大切な友と出会うこともなかっただろう。今のこの人生は、一人前になりきれなかったからこそ、享受できている」
 親父の言っていることは一貫していなかった。一人前になってほしいのか。ならなくていいのか。わからない。本当にわからない。
「わからない、といった顔をしているな」オレは黙っていた。「わしも本当のところは何が正しいかなんて、わかっていない。今回の一件でお前を失いかけて、お前がいるこの人生の尊さがわかった。そして、なおさらお前にとって何がいいのかわからなくなったのだ」
 いいか、カイル。誰だって弱い。大人だって何が正しいかわかっていない。
「大人なんて、そんなものだ」
 そう言ってのけた。

 *

 歩いていた。ひとり、目的もなく。
 考えていた。勇者を守るために死んでいった人たちのことを。顔さえ見たことのない親父の姉のことを。
 同時に思い出す。試練の洞窟で死んでいった十三人の少年少女のことを。その最期の一瞬まで、サンヴィレッジのことを想い続けた僧侶の卵を。
「魔法使い、武道家、勇者」
 口に出してみた。どれだって、ぴんと来ない。単語そのものには何の意味だってない。
「魔法をもって人々を守り、己が拳で人々を守り、その勇気で人々を守る」
 そこにどれほどの差があるのか。
 親父は別れ際になりたいものになれ、と言った。合格だとも言った。
 試練の洞窟での騒動の与えた影響は思いのほか小さく、オレはサンヴィレッジを出ることもできるのだと言う。
 親父は言った。好きなところに行っていいって。そんなの許されないだろう。いや、許したくない。誰が許しても、オレ自身が許したくない。
「何が、子供のわがままを聞くのも、子供の責任を取るのも親の務め、だ。あほかっつーの」
 かっこつけやがって。
 だけど。
「だけど――」
 だけど、も何もなかった。何が言いたいのかわからない。声にならない。声にできない。
 道の脇に咲いていた、赤いばらを眺めてみる。
 あまりに自然とそこにあって、ちょっと前までは意識したこともなかった。視界に入っても、意識していないから何も感じていなかった。
 こんなに綺麗に咲くなんて。
「痛っ」
 触ろうとして、棘が刺さった。
「なんだよ、まだまだ一人前じゃないってか」
 なんか無性に笑えてきた。
 結局、考えはまとまらないけど。悩んで悩んで、悩んだ末に、今がある。
 特に何の目的があったわけでもなく、誰かいるとは思えなかったけど、なんだかんだいつもの場所に向かっている。クライスとルーと、三人そろってよく一緒に遊んでいたあの川原へ。
 もう、ずっと一緒の道を進むなんてことは無いのだと知りながら、それでも足を運ぼうと思ったのは、ある意味で、それが特別な儀式であるような気がしたからだ。
 たぶん、これが本当の意味での『試練の儀式』。
 大人になるための、これから長い道のりを歩んでいくための、どんなものよりも尊く、大切な、オレにとての儀式。
 川原が近づいてくると、なぜか涙がこぼれた。寂しさなのか、切なさなのか、よくわからないけど、なんかとっても頬が暖かかった。

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