36.クライスの解決

 結局俺は、何ひとつ解決することができなかった。
 カイルと「せーの」で屋敷の扉を開けて駆け出したはいいが、何もしないまま河原へ戻ったら、俺同様にやっぱり何もしなかったカイルが居て、それから、何かをしようと決めたルーが居て、ルーはルーなりに自分自身の問題を解決した。そして、親父さんのもとへ向かったカイルも、カイルの問題を解決するのだ。
 ふう、と息を吐く、畑。相変わらず太陽は煌々と輝いていて、見えるものまで見え過ぎさせて、消してしまう。あらためて、思う。結局俺は、なにひとつ解決することはできなかった、と。
 それで? 笑いながら、一歩。――あなたたちにとって大事なことが、これからあるんでしょう。太陽。太陽がいっぱい。ねーよ。なんにもない。……その前に、ちゃんとしなくちゃいけないことが、あるの。声。立ち止まる。からっぽ。空はからっぽ。太陽はいっぱい、空はからっぽで、透明過ぎて、俺はちょっと、歩いては立ち止まって、こんなものもまた、生きていくということなのだろうか、と右手を握りしめて。感覚、右手の、再確認。――これから、あるんでしょう。これから。
 これから。俺はまた笑って、それでもう何かがふっ切れたのだ、走って。
 麦を見るのは嫌だった。それはこれからも、変わらない。右手を失って、右手が蘇って、兄さんが消えて、カイルが消えて、ルーと別れて、そして、そこからも、これからも、ずっと。走って、走って、走って、息を、ついて、過ぎ去っていく、荷車、走って、また走って、走って、「あー」って叫んで、「……何だ、騒がしい」とぶっきらぼうに言うその人は、俺の右腕に、目を見張る。
 畑の脇道。鍬を持って、今日もひとり。
「あの子か」
「ああ」
「……さすが、だな」
 そうしてその人はまたいつも通り、土を耕す。俺は太陽を見る。路を。麦は、どこまでも、続く。たった一人のこの人の手で、麦は虫のたまごのように無数に産み付けられていった。俺はただなんとなくだけれど、少しだけ、悲しくなった。
「ルーは、さすがだ」
「そうだな」
「でも俺はそうじゃない。俺には何の能力もないし、……発展途上だっていったって、たかが知れてる。もちろん、高い目標を定めるのは悪いことじゃない。たかが知れてる、なんて言葉は、そうじゃないと出ないから」
「……理屈っぽいな」
「遺伝だよ」
 ふうむ、とその人は唸った。俺は車の上に座る。目をつむる。息を。開く。
「……でも俺はそうじゃない。俺は普通の、ごくどこにでもいるバカヤロウだ」
 でも、と。一つ、間を。
「でもあんたはそうじゃない」
 ちょっと笑った。俺も、その人も。
「……昔は俺も、おまえと同じように夢を見ていたな」
「旅に出た?」ちょっとだけ、得意な気分になって。「ああ」「ははっ」笑った。
「笑うことはない。……それでひどい目にあった。自慢のはずの剣の腕だって、何のことはなかった。それどころか流れ者の謀略には、とても剣では適わない」
「いつかその話を聞きたい」
「いつかでいいなら」
 いつかで、いいなら。そう、そんな話は、いつかでいいのだ。俺は自分の顔が自然と緩むのを感じた。まるで涙を流すように緩み切って、このまましわくちゃになってしまうんじゃないか、と。
「もしもあのまま腕がなくなっていれば、どうするつもりだった」
「そうだな」腕を後ろに組んで。「詩人にでもなって、旅をするつもりだった。もし詩才がないなら、自分にうってつけの義手を探す旅に出るつもりだった」
「どのみち」鍬を、一振り。「出るつもりなんだな」
「ああ」
「本当にそれが正しいかどうかは、誰にも解らん。俺にもな。俺はひどい目にあったし、お前の兄は手紙一枚よこさん。お前もそうなるだろうな」
「そんなことない」身体を上げて。「出すよ」
「……いいや。出さないね」
「なんで」
「もう、自分の家はいらない年頃になりつつあるわけだ」
 親父は、深い、息を吐いた。俺はそれを見ていた。夏はもう終わりに近づこうとしている。自分の家が、金色の麦のかなたに、ぼんやりと浮かび上がっていた。何か、どうしようもなく哀しい、そのためにこそ、一つの明るさを伴うなにかが、今ここにあった。そしてそこには、俺のこれからにつながる何かがあった。
「許すのか?」
「解っているはずだ。もう、許す許さないの話じゃないんだろう」
 黙る。親父は笑った。輝かしい、透明な笑顔で。剣を立派に握れるその腕には、あれだけの太刀筋で切りかかれるその腕には、今は鋤しかない。俺も笑った。
「兄さんを探しにいってくるよ」
「今更か」
「勘当?」
「いいや」一振り。「いつでも待ってる」
「そうか」
 あえて理由を言うなら、と父は語る。似ていたんだ。お前は俺に。あの子もそうだったけれど。無鉄砲なところ。腕を亡くしても諦めない、そのどうしようもない頑迷さ。泣き叫びもしない、その妙に可愛げの無いところとか、全部が。俺は、やられた、と思ったよ。お前だけはもう手放さないつもりだったんだが、どの道俺の子だ、無理な話だったのかもしれんな。
 それで? ……それだけだ。そうか。
 一振り。
「大丈夫」
「何がだ」
「何も言わずに出ていったりしない。手紙は……たぶん出すよ。一年に何回かは帰ってくるはずだ」
「嘘だな」
「何でそう言える」
「すぐに悪い遊びを覚えるからな」にやり、と笑って。「ねーよ」「いいや」
 風が、ふいた。俺は申し訳なさと、強烈なまでの何かのうごめきを感じた。坂の上の、小さな小さな、やさしい家。農夫の家。戦士の家。そのうごめきが、俺をこの愛すべき家から追放してしまう。なくなれ、とは言えない。それと父さんを、俺は天秤にかけた。そして父さんは負けてしまった。
「親父があんなに凄い剣撃の持主だと知ってたら、……とっくに家出してたよ。うんざりしただろうな。今まで知らなくて、良かったよ」
「それは幸いだ。明日からもう、帰ってこなくていいぞ」
「お生憎様。大歓迎だよ、こっちはな」
 太陽のゆらめきのなかで、白い手がゆらりと見えた。母さん、だった。不安そうな顔をしていた。俺の腕が治癒したせいで、その心配は一層かき立てられたらしかった。俺はごめん、と小さく呟いて、てのひらを母に振った。どろりどろりと、手はゆれた。泣いているような手だった。実際に泣いているのかもしれなかったけれど、俺は彼女の顔は見ずに部屋に飛び込んだ。整理をするのだ。



 結局俺は、何ひとつ解決することができなかった。荒い解決法だった、それは。兄さんなら、たぶんこんな不器用なやり方はしなかったろうな、と思った。整理の手を、止める。これを整理して、そして俺は次にどこに向かうのだろうか。そう。旅に出るといったからといって、どこに行く当ても、ないのだ。兄さんが見つかる保証も、どこにもない。
 ――なんか、いろいろあるよね。
 そう、ルーの言う通り。
 なんか、いろいろあるのだ。
 いろいろありすぎるのだ。いろいろ。とても俺の手だけでは収まり切らない程、いろいろ。そんないろいろに俺はこれからどう立ち向かうというのか。そんないろいろの世界すべての何もかもが俺の前に立ちはだかろうとしていて、それでも俺はこの温かな家には居られなくて、俺はどうすればいいのかも解らず宙ぶらりんになっていて、それでも一歩を踏み出すと口にしてしまったのだから。母の手を、父の手を振り切ってしまったのだから。兄さんの後を追おうとしているのだから。
 そんなぐらいでは整理がつくはずもなかった。心も部屋も。俺の部屋は、相変わらず捨てられないものでごちゃごちゃとしていた。頭をかいて、息を漏らす。
 思い付いたのは本当に下らないことだった。誰かがいるはずなんて、なかった。そして俺はその誰かと、もう出会ってはいけない、そんな気までしていた。けれど。けれども。俺はまだ弱かった。兄さんのように、何も言わずに消え去ることなんて、とても出来そうになかった。だから兄さんは俺を連れていってくれなかったのかもしれない、とふと思って、打ち消す。何もかも捨てるなんて、そんなの、なかなか。
 それで俺は整理の手を止める。また止める。さっきから止めてばっかりだった。三つの決着があった。一つの決着は俺の負けで、ヘルプが入ってようやく命をつないだけわけだ。次の一つの決着は、ルーの献身に助けられたわけだ。そうして最後の一つは、今ついさっき、ついたわけだ。俺の、勝ちで。
 そして俺は、まだもう一つだけ、ついていない決着があることに気がついた。
 カイル。ルー。
 それはつけるべき決着ではないのかもしれなかった。
 それはもう、何もなかったままに終わらせるべきことかもしれなかった。
 あの河原にいるはずないなんて、当たり前のことだった。
 それでも。それでも俺は、最後にあの河原へ、向かうことにした。

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