38.風来のクライス

 それはつけるべき決着ではないのかもしれなかった。そう。そういうものは世の中にたくさんある。それは進むべき道ではなかったのかもしれない。
 怖かった。
 向き合うことはあまりに怖かった。それは、壊れかけたものを、本当に壊してしまうことだった。美しいことばで飾るには、あまりにも辛すぎた。
 それでも俺は歩いた。透明な流れにむかって、蜂蜜色の光に、あでやかに透き通る河辺に向かって。石の、水を弾く音がした。タン、タン、タン、と。小気味よく。流れる音がした。流れる音と、跳ねる音とが、小さな音楽をつくっていた。ああ、俺はこういうもののなかで生きていたのだ、と思った。そして俺はそういうものとお別れしなければならないのだと。愛すべき時間を、そう、その姿を認めてしまったのだから、もう俺にはそこに安住する資格などないのだ、と思った。
 手に石を。
 投げて。
「三十五か」
 そいつはにやりと笑っていった。
「化けもんだな、もはや」
「人のことを、勝手に化け物扱いするな」
 カイル。とても、伸びやかな眼をしていた。見ていて気持ちがよかった。ああ、なんだか負けた気がするな、と自分らしくもなく思った。だが確実に、そう思わせる目をしていた。何かを知ってしまった目。そして知りながらも、なお立ち向かおうとする目。
 いつか、俺もこういう目が出来るのだろうか、と思った。気がつけば追い越されていた。いつからだろうな、と俺は笑顔を浮かべながら、もう一つ石を。カイルも、石を。ルーも。
 ぽちゃん。
 ルーの石が一番早く音を止めた。俺とカイルは笑った。
 彼女の眼は、飴色の光がさざ波をたてるなかで、やわらかい光を見せていた。俺はやっぱり彼女には申し訳なく思ったし、きっとそれはカイルも同じだろうと思った。だがそれを、その言葉を、言わせない何かがあった。それは力ではない。あえて言うなら、慈しみだった。
 俺の石が途中で落ちた。
「負けた」
「ざまあ見ろ」
 最近負けっぱなしだったからな、とカイルは鼻をこすりながら言った。もう一つ、石を拾った。だけど投げなかった。置いた。河の呼吸が、聞こえた。水のにおいが、時の重みが、太陽の痛さが、きた。どう言えばいいのかわからなかった。でも言葉は、俺の頭よりはるかに多くを知っていて、聞くべきことをちゃんと言う。
「これから、どうする」
 つい数日前なら、銃弾のような言葉のはずだった。だけどそれは、やわらかな放物線をえがきながら、水音にまじりあい、俺たちのあいだに溶け込んだ。
「あたしは変わってないわよ」ルーは笑った。「これからも、あたしはここに残る」
 ルーは何か呪縛めいたものから放たれた上で、そう言っているのだと思った。
 それは選択だと、俺は思った。カイルもそう思っているはずだった。
 動くことが選択なら、動かないことも、同じ選択を名乗る資格があった。少なくとも彼女にはあった。彼女は動かない。そして、小さななにかを、美しいなにかを、俺やカイルには決して手の届かぬなにかを守るのだと、そんな気がした。
「オレは」カイルは、息を少し、止めて。「オレも、だ」
 予想していなかったわけではない。
 だが、予想の上でも耳を疑わざるをえない。それほどまでに数日前のカイルとは違っていた。
「どういう心境の変化だ」
「いろいろあったんだよ」
「いろいろ、か」
 いろいろ。
「いろいろあるよね」
 ルーは前と同じことを言った。そう。いろいろあるのだ。いい言葉だと思った。いろいろ。すべてを許してくれる、そういう言葉だ。自己欺瞞ではなく、やさしい、身振りのない、ひっそりとした受容。だがそれは、ちっぽけだけど、確実な真理だと思った。いろいろ、あるのだ、いろいろ。何故あるかは解らない。神様のせいだろうか。だとしたら神様は最低に最高だし、俺はそういう神様のことは嫌いではない。そしてこの言葉も、やっぱり嫌いじゃないのだ。
「なりたいものに、なるんだ、オレ」
 カイルは何だかよくわからないことを言う。なぜか心地よく響いた。
「なりたいものに」
「そう」力強く。「なりたいものに」
 それは輝かしい言葉だった。神様に近づく言葉があるなら、そういう力のある言葉だと思った。俺はこいつの行き先を見てみたいと思った。一生、いや一生が無理なら、まあ十年か二十年ぐらいは、こいつに付合っていってもいいんじゃないか、と思った。それぐらい、いい、言葉だった。
「お前はどうする」カイルは訊く。
「旅に出る」
 カイルの問に、俺の言葉は自然と応じた。
「そう。行き先は?」ルーはにやにや笑いながら。
「ああ……あんまり、ないな。そういえば。考えたこともなかった」
「風来人だな」
「難しい言葉知ってんな」
「あのなあ。オレ、一応は魔法使いの家の子なんだぜ」
 いくらなんでもバカにしすぎだろ、と拗ねたように言う肩を、ぽん、と。
 ふっと思い付いた。身長比べようぜ。
「クライス。お前、その戦士のブーツ脱げよ」
 カイルが言うので脱ぐ。マンダリンオレンジの夕暮れに、黒い影が三本並ぶ。
「わかりきってたことだけれど、さすがに一番下というのは、良い気はしないものね」
 二人がルーを笑うと、ルーはもう、といいながら、それでも晴れやかな顔付きをしていた。残るはもちろん、俺とカイルだった。「頭止めて」とルーがいって、彼女のこじんまりした手が、そっと横切っていく。 俺の頭から。手は。手はカイルの頭に通せんぼされた。俺は溜息をついて、カイルはやった、と言った。
「嘘だろ俺お前に負けるとかもう何年振りだよありえねえまじでありえねえ」
「いやありえてるだろ」カイルは得意げだ。「ありえてるじゃん」
「ありえねーよ俺は認めねえ」
「まあ所詮はクライスだってことだな。オレずっとお前に身長負けてるって思ってたけど、それってそのブーツのお陰だったのな」
「うるせえー」
 本気でちょっとうるさかった。それで負けるとは思いもしなかった。身長はたぶん今までずっと俺の勝ちだったはずなんだが。牛乳でも飲むかと旅立ち前の決意。
 旅立ち前の。言葉を頭のなかで転がすと、その質感が言いようもなくどっしりと響いた。その響きが聞こえたかのように、二人も黙った。
「で」
 ルー。
「どこにいくの?」
「……ぐう」
「ぐうじゃないわよ。行き当たりばっかりでどこかに行ける程、世の中は優しくないわ。そんなこと、解らないはずないでしょう、クライス」
「説教臭い」
「説教じゃないわ。事実の確認」
 どこか。
 どこかか、と思った。そのときに、なんだか、気付けた気がした。俺のどこかは不定の未来だ。これは猶予なのだと、今更ながらに気付いた。どこにも行ける、と可能性を許すことは、しかしきっと、どこにも行かないのだ、と。そう。目的のない旅はある。あるけれど、それは、生きるということではないのかもしれない。あるいは、目的のないことそのものが、生きることそのものなのかもしれなかいが。
「どこかなんて言ったら、きっと楽しくなくなるだろう」
「行き当たりばったりか」
「ああ、まあ。……嫌なところ、兄弟で似たな、と思うよ自分で」
 どこか。本当にそれは、正しいのか。選択しろ、と俺のなかでなにかが言った。お前はロイスじゃない。お前はクライスだと、なにかは言った。いや、と俺は口を開く。いいや、楽しくなんかないよな、やっぱり、と。言ってること、二転三転してるようで、旅なんて大丈夫なの? ルーの心配ももっともだったが、俺はもうこれで決めるよ、と言った。きっちりと、力をこめて。そう。決めるのだ。決めろ。
「ただ、行き先は……ちょっと具体的なところまでは、決まりはしないな」
「なんだそれ」
 カイルが声をあげて笑った。
「肝心なところで優柔不断だ」
「うるせえ」
 カイルがまた笑う。不思議と腹は立たない。
「だからさ」手を、ひらいて、とじて、眼を、まっすぐ。「決めてほしい。目的」
「おいおい」呆れられる。「そんなのは、お前の決めることだぜ」
「そうだな。……そうだよな。実際情けないと思うんだけど、だがこればかりは、お前とルーに決めてほしいんだ。何年かしたとき、俺が帰ってこれるように。それと、このままだったら、兄さんと同じで面白みがないだろ?」
「ロイスの弟らしいわ」笑いながら。「邪険で、ひねくれ者で」
「褒め言葉か?」
「まあね」
「兄弟よく似てるだろ」
「似過ぎよ」
「親父がああいう性格だから、どうしても子供はそうなっちゃうんだよ」
「何それ、お父さんに失礼じゃない。あんなに真面目な人なのに」
 失礼だなあ、とは自分でも思った。許せ親父。
 真夏の夕暮れは、早い。あっというまに、過ぎ去ってしまう。俺はもう、こいつらに顔を合わせることはないんじゃないか、と思った。俺はあらためて、言った。
「そう、何年かしたときに、俺が帰ってこられるように、何かを持ち帰れるために、お前達二人に決めてほしいんだ。そうじゃなかったら、俺は本当に、何もかもを忘れてふらふらしてしまう。風に飛ばされた星くずか何かみたいに、本当にくずみたいな生き方をやってしまう気がするから。……自分で解るんだ。俺は何かがないと生きていけない。ここで一つ――そうだよ、ここでだ――何かを一つ捨てるなら、もう一つ何かを、受け取らなきゃいけない。厄介な性分だ」
 言葉よりも、頭よりも、感情が先に動いた。なんだか恥ずかしい言葉も一杯言った気がするが、それが俺の本物の言葉だった。
「そういう生き方は、大変よ」
「まあな」
「でも、あらためるべきだとは思わない」
「どうして?」
「今更無理よ」手を口に当てて、ちいさく笑って。「苦労しなさい」
「存分にするつもりだよ。……で、とっとと俺がお別れ出来るように、目的を決めてくれないか、ルー」
「何て言い草」ルーは本当に呆れているらしかった。「あたしにそんな資格ないし、第一決める目的自体私には何もないわ。私はただここで、静かに暮らすつもり。あたしなんかより、どう見たってカイルに聞くべきでしょ。まあ、あえて言うなら、女の子の喜びそうなお菓子の一つでも買ってきて、ってところかしらね」
「庶民的」
「庶民よ。さあ、そんなことは、あたしじゃなくてカイルに聞きなさい」
 そのカイルは、何かを真剣に悩んでいるようだった。言うべきか、言わぬべきか。そこまで口にするのをためらう目的ってなんだ、と興味本位で、俺はカイルの答えを促す。カイルはさらに躊躇した後で、だがきっぱりと、言った。
「勇者になれる方法ってのを、探してきてくれないか」
 言ったそばから顔を真っ赤にしたので、俺もつい、笑ってしまった。
「何だそれ」
「そのまんまだよ」
 勇者、と俺は心のなかで繰り返す。ああ。こいつは変わったな、と俺はカイルの目を見る。
「別に勇者になりたいわけじゃない。ただ、勇者への道を知れば、きっとそれが誰かを守る強さに繋がると思うんだ。もちろん、そんな夢物語を心から信じているわけじゃない。だけどオレ、色んな知識を積んで、強くなりたい。守れるものを、しっかり守り通せるように、強くなりたいんだ」
 真剣な目だった。顔は真っ赤だったけれど。
「で、その方法を探してこいと。知るか」
「いいだろそれぐらい。お前のぐーたらな旅に目的を付けてやったんだよ」
 なんつー目的か、とあきれながら、――でももし本当にその方法とやらを知って村に持ち帰ったところで、カイルにはきっといらない気がした。俺はそれに、少しぐらいは、いや結構、賭けてもいいかな、と思った。俺より身長上だし。
「人生ってなんだ」
 俺は言った。今度はカイルがぶっと吹き出して、俺の顔が真っ赤だ。逆転。
「知るか」
「まあな」
 そんなこと、考えない方がいいのかもしれなかった。人生がなにか、と考えるより、人生を生きるほうが先なのかもしれなかった。俺はなにかと頭でっかちな性質だから、ついそちらばかりを考えてしまうのだが――それは、これからの時間で、ゆっくり考えよう、と思った。そして人生が終わったころに、きっと何かが見つかるのだ。そういう、神様のいじわるが、きっとあるのだと、俺は楽しく思った。
 初夏の夕暮れは早い。早過ぎる。
「まあ、……見つかったら、持って帰ってくるよ。そのときまで達者で」
「手紙はいらねーぞ」
「おいおい、書くつもりだったんだぞ」
「いいや。お前は筆無精だからな」
「筆無精。難しい言葉知ってんな」
「やっぱお前オレのことバカにしてるだろ」
「いやしてねーよ。身長上だし」
「それはどーでもいいんだよ」
 カイルは無視してルーに向き直る。
「ルーは? 手紙、書こうか」
「わたしもパス。返事を書くのがめんどくさい」
「冷たい間柄だな、まったく。これが長年の幼なじみかよ」
 もちろん、そう言いながらも、俺は二人の言葉が長年の幼なじみからしか出ないものだと十分にわかっていた。そう、そんなまどろっこしくてわずらわしい手紙なんか、要らないのだ。やさしい闇が、俺たちを包込んだ。
 最後に祈りを、とルーはいった。何に? と俺は訊ねた。風来人クライスに、と彼女は言った。それと、親愛なる友――もちろんこれからも一緒に居続けるんだろうけど、とちょっと訂正して――カイルに。それと。それと? カイルが聞く。ちょっと照れ臭そうに。いろんなことに。ああ、と俺もカイルも納得した。いろんなことが、あったし、これからも、きっとある。そしてそのために、彼女は祈りを捧げるといった。
 小さな、祈りだった。俺もカイルもルーも、目を瞑った。そして自分たちのなかに静かに渦巻く何かとともに、彼方へ祈った。彼方へ。はるか、彼方へ、俺たちの今には関係ないかもしれないけれど、きっといつか必ず訪れる日々のために。祈った。俺たちは祈った。ルーが目を開いた。俺は手を握った。祈りが終わった。次は手だ、と思った。やるのだ。手で。
「さよなら」
 旅立ちは家に荷物を取りに帰ってからだが、あえてそう言った。
 うん、とルーはうなずいた。カイルも。きっと二人は、見送りには来ないだろう。俺はそのことを、とてもありがたく思った。きっと来られたら、もう旅になんか出られないだろうから。
 もう言葉は要らなかった。二人に背を、向けて。
 なめらかな初夏の闇のなかを、俺は静かに歩み去っていった。

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