39.カイル、クライス、ルーミー(エピローグ)

 しのつく雨の中を、その人はすこし急くように歩いていた。目をこらすほどに、視界は白いようになった。近年では記憶にないくらい、よほど激しく降っている。
 影はこちらへ向かっていた。
 窓からでは体格までを見分けることはできなかったが、見当はついていた。カイルだろう。その手にはきっと、墨痕の鮮やかな手紙が握られている。
 わたしの手元にも、同じものがあった。ふたりがどうなっているかわからないから同じものを出す、と記してあった。
 古い友からの、はじめての便りだ。
 わかれて、もう七年になる。

 *

 濡れて束になった毛先から雫が膨らんで、つっと糸を引くようにして一滴、たれた。
「久しぶりね」
「そうだな、七年ぶりか」
「違うわよ」
 ふっとカイルは表情をほどいた。その顎には、いつの頃からか、ひげが蓄えられるようになった。
「八年?」
「あなたと会うのが久しぶりねっていう意味」
「そういえば、たしかに久しいな。前に会ったのは梅の頃だったから、半年ぶりになるか」
 居間に迎え入れる前にタオルを渡し、身を拭かせている間に茶を淹れた。ふたりして向かい合って座った後に改めて切り出したところが、どこか浮ついた会話になった。
 歳月は流れたのだ。誰の上にも、ひとしく。
 しばらく沈黙していると、床の下でなにものかがざわめく気配があった。家には記憶が残る。喋らないので、刻むだけになる。必然、人より長く覚えている。静物からあふれ出したものが、騒ぎながら人に戻る。
 記憶とは元来、そういうものだ。
「変わったのかな、クライスの奴」
「変わったでしょうね」と引き取った。思ったより、冷たい声が出た。「あなたがそうなって、わたしがこうなったくらいには」
「七年か。どう思う」
「長くもないし、短くもない」
 それだけに、不穏な便りではあった。
 長の無沙汰をわびた後に、ふたりに来て欲しいところがある、とクライスは切り出していた。サンヴィレッジからそう離れていない、小さな村だ。それでも、人の足で行けば三日はかかる。詳細な地図と逗留している宿の名前、秋が終わるまでそこにいる旨を書いて、いくぶん唐突に手紙は結ばれた。息災であるかどうかも、呼び出した目的も、なかった。
「いつ、発つ?」
「わたしは、いつでも。数日は曇りと雨が続くらしいから、カイルさえ良ければ早いほうがいいけれど」
「雨だと、道が悪くなるぞ?」
「日光よりはマシよ」
 魔力の膜を常に張り続けるのは、もう難しかった。日傘を併用して、濃度を使い分けなければ渇いてしまう。二十歳になったのを機に、無駄な外出も一切やめた。
「明日を準備に当てて、明後日の朝に出よう」
 うなずくと、雑談になった。傘を差していたのにどうして髪が濡れるのよ、とわたしが囃し、傘のさし方が下手なんだよ、と落ち着いてカイルが受けた。むかしの呼吸になった。一時間ほど話して、雨の中を帰っていった。背中ばかりが、白い霧のなかで鮮やかに残った。

 *

 悪路というほどのところは、三日の行程のうち、数箇所もなかった。足が弱いわたしでも越えられたのだから、それさえ大したことはない。往生したのはむしろ、魔物の方だ。
「よく出るわね」
「最近じゃ、こんなもんらしい。サンヴィレッジに来る行商人も減ったろ」
 目的の村は、視界をさえぎる深い森さえなければ、もう見えてきておかしくない距離になっていた。三日間、役に立たないわたしをかばって戦い詰めだったカイルには、しかし疲労の色は見られない。
 拳についた返り血を丁寧にぬぐって、さてもうひと歩きと踵を返したとき、カイルが辺りを見回した。わたしにも用心が働いていた。森を打つ雨の澄明な音に、濁りが混じった。獣が草を踏むと、そうなる。
「でかいな」
 足音でわかるらしい。傘をかいくぐって、雨が手足をぬらした。皮膚に食い込んで、滴る前に沈んだ。骨まで冷やしていくようだった。
「まずいの?」
「さあな、出くわすまでわからねえ」
 謙遜だとは、すぐに知れた。男の子の顔になっていた。道中の魔物は、研鑽を積んだカイルには物足りなかったのだろう。わたしに回復呪文を使わせることもなかった。頼まれたところで唱えられる呪文がいくらもないと、カイルはおそらく気付いていた。
 風が走った。木々のざわめきのおおかた収まるころに、どうかすると木霊であるかのように、遅れて響く物音が聞こえた。見たこともない魔物の影が、木陰からぬうっと立ち上がった。
 カイルの呼吸が改まったのは、皮膚でわかった。雨中、炎熱系では効率が悪い。魔物が大木ほどもある腕をかかげ、鎌のようにほっそりとした爪を振り下ろそうとしたとき、その腹でイオラの輝きが爆ぜた。次の瞬間には、辺りの草をなぎ倒すほどの風を巻き起こした凄まじい蹴りが、魔物の首筋を捻じ曲げて振り切られていた。倒れた魔物は、四肢を跳ね上げるように痙攣し、ダラリと舌を出した。それが最後の動きになった。
 ふっとカイルが息を抜いた瞬間、辺りの空気が緩んだ。知らず、肩に入っていた力を、わたしもほどいた。
「強くなったのね」
「それなりにな。見たことのない魔物だな」
 絶命した魔物をよく見たところで、たしかに覚えはなかった。魔物にも新種が生まれることはある。
 それで辺りから嫌な気配が去ったわけではなかった。一匹ではないとは、はじめから気付いていた。無駄な昂ぶりは雨と一緒に流れて落ちた。危機が続けば、おのずと腰は落ち着いてくるものだ。
「あと何匹くらいいるの?」
「五、いや、六か」
「ひとりで、勝てる?」
「負ける気はしないが、疲れるから半分はそいつに譲る」
 カイルが視線をやらないまま指差した木の上から、くっと喉の奥で笑うような声が聞こえた。落ちるというより飛ぶようにして、わたしの前に影が立った。
 クライスだった。
「気障な登場しやがる」
「演出は必要だろ。しかし、気付かれるとは思わなかった。腕を上げたな、カイル」
 大振りな剣を持っていた。身長がいくらか伸びていた。危ういほどに立った鼻梁に、見覚えのある笑い皺が寄った。
「ま、積もる話は後にしようか。そっちの三匹はカイルの受け持ちで」
 すこし、険が取れたようだった。聞いたことのないほど柔らかいクライスの声を、それでもわたしは懐かしいと思った。

 *

 村に入るまで、カイルは不平をもらし続けた。魔法使いとしても武道家としても、一流と呼ばれるほどの使い手にはなった。その自信が、あっという間に吹き飛んだ。ふざけてる。まったく、ふざけてる。
 わたしは苦笑して、困ったように頬をかくクライスと目を合わせた。
 カイルがぼやくくらい、クライスの剣技は凄まじかった。空気の摩擦で炎が上がるのではないかと思うほどの打ち込みから、流れるような剣舞に化ける。その境目がほとんどわからない。まともに手合わせをしたら、今のカイルとて数分と保たないだろう。
 七年の間、諸国を流れた。生き抜くために、あるいは人に言えない悪いこともしたかもしれない。そうしたすべてを飲み込んで、クライスは本当に強くなった。
「元気そうで、なによりだったわ」
「お互いにな」
 わたしとカイルの部屋を手配してから、宿のロビーに集まった。雨はすっかりあがった。三日とはいえ旅の疲れもあるだろう、湯を使ってからにしてもいいが、というクライスの気遣いを断ってのことだった。
 近くで見れば、クライスの皮膚には傷が多かった。
「家にはもう、連絡したの」
「まだだが、帰ってからでいいだろう。どうせ幾日もない。ここでの用事がすんだら、お前らと一緒に帰るつもりなんだ」
「それはいい報せね。おじさんもおばさんも、元気よ。ロイスからは、便りもないみたいだけど」
「兄貴のことは、もういい」
 クライスの口元に、不思議な微笑が膨らんだ。悲しみともつかなかった。
「カイルは、親父さんとはうまくやってるのか?」
「看取ったよ。そろそろ二年になる。ルーに送ってもらった」
 わだかまりはなかった。声音に震えもなかった。ただすこし、寂しさが滲んだ。
「そうか。ずいぶん、早かったな」
「急だった。寿命だったと思うことにしてる」
「それがいい」
 悼むような沈黙が落ちた。黙っていても、騒ぎ出すものはなかった。窓から差し込む日がするすると伸び、淡く赤みをはらみ始めた矢先に陰りを見せ、細くひらいた窓から流れてくる子供の声がいっそう高くなった。
 変わらない距離があった。互いの受け答えに芯が通り、背骨を鎧う経験が若い火照りをなだめていたとしても、わたしたちの魂は褪せていなかった。
「行こう。ふたりに見て欲しいものがある」
 腰を上げたクライスの横顔を、もうすっかり柿色になった夕日が、丁寧に隈取った。

 *

 馥郁と香るあでやかな花弁が、ひっそりと散り遅れていた。
 バラの彩る広場に影を曳いて、墓は幽玄を佇んでいた。常緑の大樹をひさしがわりに伴った木墓は、粗末なりに丁寧に彫られていた。村人に、好かれてはいたのだろう。
「もう、サンヴィレッジまで近かったのに」
「帰れなかっただろう。病がなかったところで。旅路は閉じられていくんだ。兄貴もそうだったはずだ」
 五年前ということは、クライスが旅に出たときはまだ生きていた計算になる。どこかで出会う可能性もあった。可能性にとどまった。
「この村で偶然、兄貴の墓を見つけたとき、悲しいとか寂しいとか悔しいとか嬉しいとか、そういう感情はなかった。ようやく、村に帰る理由ができたって、安心した。それでよかったのかどうか、今でもわからない」
「いいもクソもあるか。お前まで生き方を見失って迷っちまうところを、ロイスが引き戻してくれたんだろ。だったら感謝のひとつもするのが筋だ」
「厳しいな、カイルは」
 クライスはお墓に手をあわせたあとで、傷ついたように笑った。
「旅を続けていると、いろんなものが磨耗していくんだ。いつになったら終えられるのか、気がついたらそればかり考えて、そればかり自問していた。帰ればいい。帰り道も分かっている。それでも帰れない。せっかくもらった目的も、果たした瞬間に取り落とした。修羅の道だ。まるで地獄を往くようだ。思い知ったよ。旅ってのは、ずいぶん怖い」
「紙一重で、クライスは帰ってこれた。それでいいと、わたしは思うよ」
 ありがとうとつぶやいたようだったのは、もう小声になって聞き取れなかった。
 五年前、幾年に及ぶ旅路の果てに、ロイスはサンヴィレッジに程近いこの村にたどり着いた。村人によれば、目的らしきものはあったのではないかという。そのときすでに腕を病んでいる様子だった。じきに骨に達して、全身に回った。歩けなくなるまで、半月もかからなかった。怨嗟も呪詛もなかった。頬がすっかり落ちた横顔は、春のように爽やかだった。秋に死んだ。苦しまずにすませた。
「ルー、祈ってやってくれないか」
 墓の前にしゃがみこみ、クライスは両手で顔を覆っていた。さしていた日傘をカイルに預けて、ひと呼吸置いた。
「これを」
 クライスが差し出したのは、香水が入るほどの小瓶だった。濃い橙の液体が、その中で光をためている。
「甘いものを頼まれたろ。喉にいいらしい。さえずりの蜜っていう」
 開けてみると、豊かな風味が膨らんだ。拡散しても薄まらない、吸えば吸うほど甘くなる、不思議な香りだった。口を付けて飲み下すと、甘みが喉に留まって、すっと溶けるようになった。
 歌った。
 声は、いつもより高く拡がった。

 *

「この村で、勇者が生まれた。正確には、一度ほろんだ勇者の村の跡に、この村を作ったらしいが」
 ロイスが探していたのはそれだろう。探して、見つけて、それでどうなるものでもない。そこまでわかっていた。それでも探さずにはいられなかった。旅を終えるためには。
「勇者になれる方法を探しているうちに、ここにたどり着いた。妙な話だ。サンヴィレッジに、こんなに近いとは思わなかった」
「いや、オレは腑に落ちたよ。ここだったんだな。親父の野郎、場所を教えないまま死にやがったからな、気にはなってたんだ」
「何の話だ?」
「終わった話だよ。もうずっと前に、終わってた話だ。そのケリが、オレの中でついた」
 クライスはこちらを見たけれど、わたしにもわからなかった。わからないなりに、悟った顔をしてみせた。
「それでクライス、わかったのか、勇者になる方法は?」
「わかったといえばわかったことになるか。諸説あった。勇者は血だ、という話はよく聞いた。天空人の血を引く人間が勇者になる、単純にすればそういう話だ。他に耳ついたのは、職業としての勇者か」
 日は暮れていた。いつかのように川原に三人で腰掛けていた。サンヴィレッジよりも、闇は濃いように思われた。
 カイルは、水面の月を見ながら、無言で先を促しているようだった。それもまた、いつかのようだった。
「ダーマの話になる。むかし話だ。ダーマがあったころは、一人の人間でありながらいくつもの職業を経験することができた。その頃には、何度も転職を重ねて多くの経験を積んだものだけに開かれる扉があった。特殊な呪文、特殊な能力を授かることができる職業への扉だ。それが、勇者の起源だと」
「クライスは、それ、どう思うの?」
「さあな。眉唾だが、伝説として残るからには、元になった話はあるんだろう。あちこちで同じ源流を持ちそうな話は聞いたから、存外、真実だったのかもしれない。いずれにしても、確かめるすべはないし」
「ダーマはすでにない」
「そういうことだ」
 引き取ったカイルの言葉に小さくうなずいて、クライスは立ち上がった。
「血にしても、ダーマにしても、結論は同じだ。俺やカイルが、そういう伝説上の勇者になる方法は、今はない。ただ、お前のいう勇者はまた別の話だろう?」
「そうだな。英雄としての勇者には興味がない。七年前から、なんとなくはわかってた」
「魔王もいない、世界の危機もやってこない。この平和な時代、勇者なんてのは言葉遊びだよ。勇気ある者。それが勇者だ」
 わたしは、なにを話すこともなく、ふたりの会話を聞いていた。なぜだかすこし、涙が出そうになった。
「なあカイル。七年も世界中を回って、俺が見つけた答えなんて、そんなもんだ。いくら強くたって、誰にも負けなくたって、俺たちは英雄になんかなれやしない。それでも、勇者になることだけはできるんだ」
「小さな勇気だ。ちっぽけな運命と向き合う勇気を得る儀式。オレたちはそれを、七年前にすませたはずだった。そうだな、クライス」
「家という宿命。才能という宿命。血という宿命。それに向き合う勇気を、お互いにわけあった。なあカイル、ルー。七年前のあの小さな冒険の意味に、俺はようやく気付いたよ。あれは、そういう冒険だったんだ」
 それきり、会話は絶えた。一晩寝て、サンヴィレッジに帰る。当たり前のことを確認したときには、日付が変わっていた。
 遠回りをした。それでも、わたしたちは帰ってきた。

 *

「ねえ、帰ったら、三人で記録をつけましょう」
 翌朝、準備を整えて出てきたカイルとクライスは、揃って怪訝な顔をした。
「神話にも伝説にもならない。でも、わたしたちのあの冒険には、意味も価値もあったでしょう?」
 歩き出しながら、ふたりは笑ってうなずいてくれた。
「未熟で、無様で、不器用だった」
「そのぶん、熱くてまっすぐだった」
 気分は、晴れやかだった。
「いつかそれを、わたしの子供に読ませるの。わたしたちも、子供だったんだよって」
「悪くない思いつきだとは思うが」
「ルー、子供作る予定あるのか?」
「さあね」
 そうして、わたしたちは作ることにした。
 わたしたちの、小さな小さな、冒険の書を。

(小さな冒険の書、了)

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