第1話

「そうね。ある意味で源氏物語は最古の“萌え”小説であると言えるわね。けれども“萌え”を語るにはこれだけでは足りないわね。教科書の次のページを開いて頂戴?」
 教卓で“萌え”について語るのは、ロングヘアーのよく似合う女性だ。身体のラインを強調したデザインの服は初夏には少し寒いのではないかと思えるが本人はいたって平気なようで、それは普段からそのような服を着ていることを伺わせた。
「なあ、こーしん! 義恵先生のスカート……今日はいつになく短くねえ!?」
 こーしん、本名を江口光信(えぐちみつのぶ)と呼ばれた男子生徒はその言葉を聞いて、美形と呼んでも良いであろう整った顔を露骨に崩す。そして、なおもスカートの丈について力説する悪友の少し猿にも似た顔を見て真剣に答えた。
「おまえさぁ……そんなの見てる暇あったら勉強の一つでもやれよ。そんなんじゃ来年は同じ学年にいられなくなるぞ?」
 しかしため息をもらしながらそう説教する光信の視線も、明らかに教卓先生に向いているのがわかる。
 ただ、その視線は、どこまでもグラマラスな先生をまるで不潔なものとして扱っているように見える。
 それも無理はない。光信はなんと言っても――
「……やっぱ女ってぇのは小動物みたいな小さくて、かわいらしい方が断然いいよな」
 ――なんて呟く、極度のロリコンなのだから。
 それ故か、黒板の前で“萌え”についてを語る先生の、年頃の男子に煽情的なものを抱かせるには十分すぎる程に豊満な二つの巨塔に目をくれることはなく、光信は、それとはまるで対照的な一人の少女、クラスメイトの桜崎さくら(おうざきさくら)に視線を移す。
「可愛いなあ」
 光信は消え入りそうな程に小さな声でそう漏らし、卑しさを孕んだ双眸でひたすらに少女を見つめる。しかし光信が無駄に熱の篭った視線を送ろうが、席の離れた少女がそれを察知することはなく、板書された文字を機械的にノートに書き写していた。
 光信は、少女に気付かれなかったことを少々遺憾に思いながらも、再び視線を先生へと向ける。そこで何か思い付いたのか、次には悪戯を思い付いた少年のような邪な笑みを浮かべて口を開いた。
「――先生」
「何かしら、江口光信くん?」
 落ち着いた、それでいてハスキーな声で訊ねる先生を嘲るように、光信はクスッと笑いを雫した。
「……古文の授業で“萌え”を語るのは真に結構ですが、少なくとも俺はあなたという女性に“萌え”なるものを感じることはできませんでした」
 しかし、その挑発めいた言葉が義恵先生を翻弄することはなかった。
「ふふ……江口くん? 私は古典の授業をしているのよ。古典の中の萌えはさておいて、私に関して萌えるかどうかはこの際、関係ないと思うのだけれど?」
 そもそも古典と萌えがどのように関連し、来年受験生になる光信たちに必要だと言うのか、光信は理解できなかった。
 しかし、光信のような年代の男子にとって義恵先生のような大人の女性――否、でか乳の言うことは絶対だった。正に神とも言えよう。乳神が白だと言えば黒も白になるし、黒だと言えば白も黒になる。
 つまり、他の男子生徒に光信が弾劾されるのも無理はないことだった。
「こーしん……おまっ! 義恵先生に何てこと言うんだ!」
「そうだ! 毎日毎日、エロい……あ。いや、エラい授業してくれてるのに!!」
 罵声を浴びせる中に先ほど声をかけてきた猿――否、悪友の徳川秀吉(とくがわひでよし)も加わっている。
 騒ぐ男子とそれを白けた目で見つめる女子。それを見てどうしようかしら困った子たちね、と微笑を浮かべる義恵先生。
 喧騒を一時休戦させたのは――チャイムの音であった。まったくもっていつものパターン。いわゆる、お決まりというやつである。

 *

 休み時間になりざわつく教室。もちろん話の話題はさっきの義恵先生について。皆それぞれに光信に義恵先生の良さについて力説してくるのだが、こればっかりはどうしようもなく本人の趣味によるものと思われるので、光信はただ「うん」とか「ま、確かにな」といった言葉を適当に返していた。
 ――その時、教室の端っこでドンガラガッシャーンという音が教室に響きわたり、皆一斉にそっちを見た。
「えへへ☆ またやっちゃった♪」
 アニメ声で謝っているのかいないのかわからないその子のセリフを聞くと、皆いっせいにため息をついた。その子の名前は村上唯(むらかみゆい)。本人は天然キャラクターをやっているつもりのようだが……なかなか痛いものがある。
 だが、その痛さを許容する程の寛大さを、自分は持たねばいかぬと、光信は自分に言い聞かす。その理由は他でもない。光信の心の香辛料、刺激バリバリの鋭い目付き、身長百四十センチにとどくかとどかぬかといった小柄さ。更にはツインテールにツルペタと、ツンデレ女王の名を我がものとせんとす、さくらの親友なのだから。
 因みにこれは余談だが、桜崎さくら自身はツンデレという単語を知っているはずなど、ない。だがそれがいい。知らないでツンデレを展開している方が、知っていてやるよりは遥かに萌える。とにかく、仕草一つをとっても他を超絶する程に愛くるしい。
 光信は、さくらを遠目で見つめながらそのようなことばかりを考えていた。顔は緩むとこまで緩みきっていて、美形と言ってもいい程に整った顔立ちが台無しになっている。この緩みきった顔がクラスで定着しており、光信のもてない一因となっていることに本人は全く気づいていない。
 愛しいさくらが唯なんぞと親友でなければ、電波ぶりを周囲に巻き散らすような痛々しい女に関わらずとも目的を達成出来たはずだ。しかし光信が運命を嘆いたところで何らかの変化が起きることはなく――
「こーし〜ん! えへへ☆」
 ――いつものように“ミス電波系”こと唯に喋りかけられるのである。さくらに近付くためとはいえども、少々関わりすぎた感が否めなかった。光信は今更ながら後悔の念を抱く。
「ねえ、こーしん! 聞こえてるにょろ? あのねあのね! 小学校のときに作った図工の作品が出て来たんだけどぉ〜、それがまた可愛いにゃりん☆」
 唯が語尾にわけのわからない言葉をつけるのは周知の事実だ。皆、半ば黙認――否、諦めている。
「ハイハイ、ヨカッタデスネ」
「ひでよし、なーんで片言なのよぅ〜! とにもかくにも、一度見に来てみてちょん☆ ほんとすごいんだからぁ〜☆」
「はん! 宣伝お疲れさん、誰もいかねーよ」
「むっきー、ぷんぷん! 宣伝じゃないもんもん★ それにそれに、さくらは来てくれるよね? ね♪」
 秀吉が片言で言い、光信が軽くあしらうと、唯は両手を振り回して怒った。それもただ怒っているのではなく、作られたブリッコであることに秀吉も光信も気付いていた。気付いていないのはブリッコ本人と――
「もちろん見に行くよ、唯」
 ――光信の思い人、さくらだけだった。
「やっぱさくら大好きだようかん〜!」
 そう言うと唯はさくらに抱きついた。
「別に暇だったから……」
 そう言いながらもちょっと嬉しそうなさくらを、光信はなんだか複雑な気持ちで見ていた。
 だが、この時光信の脳裏にふと、祖父の口癖が浮かんだ。
『ピンチを、チャンスに変えろ』
 ……これである。
 なんかハイカラなお祖父さんだなとか、第一ピンチな状態でないというツッコミはこの際忘れよう。脳裏に浮かんでしまったものはしょうがない。
「……そうか、これはさくらと放課後を過ごす、チャンスなんだ」
 光信はポツリと一言。
 このチャンスは必ず掴みとる――そう決意した彼の行動は素早かった。
「ちっ……分かったよ、唯。俺も放課後見に行ってやる」
 そんな光信の言葉に、一人は瞳を輝かせ、一人は明らかに表情を不快に歪ませた。その前者が唯で、後者がさくらなのは言うまでもない。
「……ど、どうして江口光信まで来るのよっ」
 さくらの小さな口から発っせられたツンツンな台詞は、光信の耳の奥にまで届いた。
 光信にとっては、このツンツンが何にも代えがたい程にいいのだ。まさにエクスタシー、快感の波は押し寄せるどころかハートの奥で轟いている始末だ。誰に罵られようが、この感触に酔いしれるのを止められはしないだろう。絶対に止めない。
 気付けば緩みきっていた光信の顔は、他の追従を許さない程の気持ち悪さを誇っていた。正直、気持ち悪い。元の顔がよくてもこれでは台無しである。
「ちょ、ちょっと江口光信! その顔気持ち悪いんだけどっ」
「でも〜、こーいう光信の顔も中々キモ可愛いにゃんころ☆」
 唯の千変する語尾――通称、“唯病”――は完全スルーの光信。元より、目の前の愛しきロリ系、さくらしか眼中にない。
 さくらはとにかく冷たい、だがそのつれない態度がいい。邪険にされればされる程、光信はゾクゾクするのであった。さくらが至高のツンデレだとすれば、光信は至高の変態である。
「じゃあ、俺、放課後は二人にお供するにゃみん☆」
 いつの間にか、光信にも唯病がうつっていたのだった。

 *

 そして放課後。
 唯の家に行くに至って渋る理由があるとすれば、それは唯のキャラのみであろう。あれさえなければ、光信も二つ返事で応えたはずだ。
 唯の家は――とてつもなくでかいのだ。豪邸という単語は唯の家のためにあるようなものだ。都内にこのような規模を構えるなど、そんじょそこらの職につくものでは無理であろう。弁護士? 医者? 芸能人? そのどれでもない。唯の父親は国会議員だった。
 疑問があるとすれば、何故、唯のようなお嬢様が私立とは言え、須戸寺高校のような学校に通っているかだ。須戸寺高校はいわゆる普通の私立学校だ。探せばもっと上品な学校もあるのに、唯は須戸寺高校に通っている。
「何してるにょ? はやく唯のかぁいい作品を見るんだにょ☆」
「俺、サッカー部の活動あるのに……」
 なぜか強引に連れて来られた秀吉の呟きを唯はこれっぽっちも聞いていない。
 例によって例のごとく、唯は自分自身の世界を展開している。他人の意思など関係ない。天上天下唯我独尊。唯一、我こそが全ての世界――略して唯我ワールドを見ていると、お嬢様の唯が何で須戸寺高校などに通っているかなど、光信にはどうでもよいことのように思えるのだった。
 実際、ただ近かったから通うことにした、などという本当にどうでもよい事情であるのだが、光信には知る由もない。
 青い空の下。昨日降った雨が残した水たまりをかかとではじいて走る二人を見ながら、光信たちに付き合わされる羽目になった秀吉が一つため息をつくと言った。
「あいつらも口さえ開かなけりゃ普通にかわいいのにな……」
 ……そう、唯は中身は常に理解不能暴走機関車型電波をビンビン発信する唯我女。そしてさくらはかなり小柄なくせして、ゲーセンでカツアゲしてるアンちゃんも裸足で逃げ出す鋭い眼光を持ち、さらには相当の男嫌いとの噂もたっているツンツン娘。
 だが、神はやはり一つは長所を与えてくれるのか、二人のそれぞれ整った顔立ちには、メイン属性がデカ乳という秀吉でさえ、その視線を奪われていた。
 ――が、突如四人の後方から飛んできた(比喩ではなく本当に!)ワインレッドのスポーツカーによって、その視線は空へと飛んだ。
 ……いや、体もろとも空へ――飛んだ。
「あら、めんごめんご。ひょっとしてぶつけちゃった?」
 そのスポーツカーを運転していた人物は、車内から死語全開の謝罪を述べ、車を降りる。
 車の持ち主は――
「……やっぱアンタか、義恵先生」
 ――“須戸寺の雌豹”と一部で恐れられている(らしい)、古典科教師、吉永義恵。
 光信は、その人の顔を険しい顔で睨んだ。
「いってーな、おい! 徳川家に伝わる武道、徳川流柔術の受けの極意をマスターした秀吉様だから助かったものの下手したら死んでるぞ!」
 先ほどはね飛ばされた秀吉が憤慨して起き上がる。
「あら、ごめんなさい、徳川くん」
 義恵先生が色っぽい声で謝ると、車をぶつけてきたのが義恵先生であったことに、秀吉は初めて気付いたらしい。
「……ち、乳神! いや! 義恵先生じゃないでしゅか〜今日もヤらしい……いや、綺麗ッスね!」
 秀吉の目は車内の中の豊かな胸に釘付けで、口からは涎を垂らしている。先ほどは唯とさくらに見とれていたが、何だかんだで大人の女性がもっとも好みなのは変わらないらしい。
「うふ。お上手ね……ところで皆に相談なんだけど、じゃあ一つ頼まれてくれないかしら?」
 義恵先生はもったいつけるようにして言った。内容も聞かずに二つ返事で答えたのは秀吉だけで後は皆、半信半疑であった。
「皆そんな顔しないで。大丈夫、ただ届け物を頼みたいだけなのよ」
 その視線をはねつけるように、ふふっと意味深に笑う義恵先生に向かって――
「大丈夫ッス! 俺らに任せてくださいよ、センセ!! ――な、皆?」
 ――と言い放つ、忠犬ひでよし。犬と言っても顔は猿なのだが。
 そのキラキラした瞳は「良いだろ?」と言わんばかりであった。
「――却下。徳川君、行きたいなら一人で行きなさいよ。私は唯の家に行くから」
 ……隣で、自分にときめいている男――勿論、光信である――を無視して、さくらは即答した。
 無論、無視された男、光信は、さくらの行く所へとついていくと心に決めているので、この出来事に口を挟む気は皆無である。
「お前ら、せっかく義恵先生がここまで来て頼んでらっしゃるのにそりゃねーだろ?」
 秀吉が抗議の声をあげる。もはや義恵先生が何も言わなくても味方をする、まるで忠実な武士のようだ。否、尻尾を振らんばかりの媚びへつらいはやはり忠犬と言うべきか。
「だって私たちに関係ないし。大体ここまで来たのなら、自分で届けたらいいんじゃないの?」
「さくらの言うことはもっともだ。それに俺はデカ乳よりもナイ乳を信じる」
 さくらの言葉に、光信は大げさに頷いてみせた。その態度は先ほどの義恵先生に対する秀吉のそれと同じだが少し異なる。
 それは――秀吉は忠犬、飼われる側であるが、光信は鬼畜ドS、飼い慣らし調教する側であるということだった。
「だ、誰がナイ乳よ! この変態!」
 さくらはそう言うとグーで光信の頬を殴った。
 ――飼い慣らし調教するのは遠い遠い未来の話であるようだ。
「くすくす。相変わらず賑やかねえ……あなたたちって。あのね、直接行けないのは“大人の事情”ってやつなの」
「お、おとなのじじょう! ハァハァ――」
 何を想像したのか緩んでいた顔をさらに緩ませる秀吉。義恵先生は流石にもうそれを無視して続けた。
「届け先はあなたの家よ、村上唯さん? お父様に渡して欲しいものがあるの」
 義恵先生は一つの封筒を取り出した。
「ハ……ハイ!」
「バ、バカザル! あんたなに勝手に決めて――」
 さくらが叫ぶも時すでに遅し、柴犬スマイルで秀吉が義恵先生から封筒を受け取っていた。
 義恵先生はそれを確認すると「いい子ね♪」と微笑み、バカザルのおでこに小さくキスをして「じゃあね、グッドラック☆」と手を振り、現れたときと同じようにどれほどアクセルを踏み込んでいるかわからないような猛スピードで去っていった……。
 ところで、先生が生徒のおでこにキッスなどという性的接触行為が許されるのだろうか?
 ――答えはもちろん、ノーである。
 腕章つけた風紀委員という訳ではないのに、今の光景にさくらは腹を立てていた。
 その理由は秀吉の事が――というピンク色なものではない。ただ恥ずかしがっているだけだ。
 そんな彼女の表情も見ることなく、一人開いた口が塞がらない状態の秀吉。数秒の間をもって、ようやく口が閉じたかと思うと、おでこに中指を当て、先生のくちづけの感触を確かめるが如く、中指を口でくわえた。一人、変態(M版)ロードを爆走中である。
 さくらは汚物を見るかのように秀吉を見ていたが、なおもニヤニヤと笑う秀吉を見て流石に気持ち悪くなり目を背けた。
 気分転換に一つ整理してみよう、とさくらは思った。
 フェロモンを撒き散らして歩く大人の女性、吉永義恵。そして、さくらの大切な友人である村上唯の父。この二人を繋ぐ接点は秀吉の手にしている封筒だ。――秀吉の表情は気色悪いので、見ないように気をつけつつ封筒に視線を送る。あの封筒は何かという疑問が生ずると共に、二人の関係に関する一つの答えが思い浮かんだ。
 ――不倫。あの封筒の中にはラブレターとかそんなものが入ってるんじゃないだろうか……。さくらは親友の家庭に迫りつつある危機に気付いた。
「……さくら! さくらってばぁ!!」
 唯に肩をたたかれてふいに現実に戻された。
 ――そうだった。今は友達の家に遊びに行く途中だっけ。
「なにか考え事でもしてタンバリン?」
 不思議そうな顔で問いかける唯に笑顔で返す。
「大丈夫だよ。それよりも唯の家に早く行こう?」
 ――唯の家に早く行こう。よくこんな言葉が発せられたものだと、さくらは思う。
 秀吉が受け取った手紙はきっと村上家に波乱を起こす。きっと。
 それを理解していて言ったのであれば、私は何を望んでいるのだろうか? さくらが一人シリアスモードのまま、四人は再び歩きだし、そして――
 ――これより戦場と化す、村上邸の前に、立った。

←top  next→
inserted by FC2 system