第二話 『長い船旅の果てに』

 港はだんだんと離れていく。船はだんだんとその速度を上げ始めた。
 海の匂いがする。風の音が耳に心地よい。その冷たさが、火照った身体を優しく冷やしてくれる。
 今までいた港は小さくなり、遠くなり、やがて水平線に重なり、海の彼方へと消えていった。陸が見えなくなり、海だらけになると何だか景色が止まった気がした。
 俺たちは誰ともなく、船首へと向かった。もうそのはしゃぎっぷりと言えば、大学生とは思えないほどのテンションだった。
「ぎゃははは、面舵いっぱーい!」
 ピーコがけたけた笑いながら甲板を走り回る。
「ばっかだー! きゃははははははっ!」
 メグが頭のネジが外れたように、げらげら笑いながらその後ろを追いかける。
 ノゾも控えめではあったが、「海だ、海だ!」と大喜びしていた。もちろん、俺も皆の雰囲気に包まれ、すごく楽しかった。どんなことをしてどんな恥をかいたかなんて誰にも言いたくないから、俺は今後の人生ずっとそのことを黙り通し、墓の中まで持って行こうと強く思う。
 船首。船の最先端。
 そこまで行って海面を見ると、船がぐいぐいと水を切っていく様子がしっかりと見えた。船はゆっくりと、けれども、しっかりと進んでいる。
「タイタ二ーック!」
 ピーコが船首で両腕を広げて、昔、流行った映画のワンシーンの物真似をしている。一瞬、後ろから突き落としてやろうかという邪念が浮かんだ。
 俺がそれを実行しようか真剣に悩み出す前に、
「この船、タイタ二ックみたいに沈んだりしないかしら?」
 メグが笑いながら冗談を言った。
「タイタ二ックみたいに沈んだら嫌やなあ。あれやろ、舟が何かでっかいサメに襲われて沈んで……」
「それ、ジョーズですよ!」
 ピーコが振り返って言うと、ノゾがすかさず突っ込んだ。
「ナイス突っ込み!」
 ノゾのあまりにも絶妙のタイミングのツッコミに俺は思わず感嘆の声をあげてしまった。
 それを見たメグとピーコは大笑いをする。
「わははははは! 翔、お前より突っ込みうまいで!」
「ノゾー、順応するの早すぎよっ!」
 俺もつられて噴き出してしまう。笑いの渦に包まれるノゾは少し恥ずかしそうだったが、とても楽しそうだった。
 俺たちはなおもわいわい騒いでいたが、やがてどこまで行っても海ばかりの風景には飽きてきた。最初は珍しくても見慣れればなんてことないってやつだ。
 そろそろ、割り当てられた船室へと向かうことにする。俺とピーコだけではなく、ノゾもメグも個室のチケットは購入していなかった。集団の船室、つまり、雑魚寝の部屋である。どうせここで一夜を明かすわけではないのだからこういった大部屋で良いのだ。
 適当な場所に荷物を置き、四人で陣取る。
 こうしていると何だか修学旅行のような感覚で何だかすごく楽しかった。俺も高校を卒業してもう二年経つのだな、と少し感慨にふける。
「そだ、ノゾ、トランプやろ、トランプ。あんた持ってたでしょ」
「あ、うん……、でも、翔さんたちはトランプやりますか?」
 メグはあっけらかんとしているが、ノゾは丁寧なものだ。対照的な二人なのに何故か仲が良い。まるで俺とピーコを見ているようだった。
 俺とピーコが了承するのを確認して、ノゾは鞄からトランプを取り出した。可愛らしいキャラクターの描かれたトランプである。俺はそのキャラクターに見覚えがあった。
「これ、『人魚の涙』のトランプだよな」
「そうなんですよ。映画見に行ったんです。翔さんは行かれましたか?」
 人魚の涙。この夏もっとも人気のある映画であり、俺も見に行った。……ピーコと二人で。
 とてもじゃないが言えない。野郎二人であんなファンシーな映画を見ただなんて、言えない。
「翔と俺と二人で見に行ったで!」
 ピーコが高々とカミングアウトする。言うなよ。
「仲良いんですね、二人とも」
「何でか、大学入ったときから一緒にいるんだよな……俺とピーコ」
「腐れ縁ってやっちゃな」
「ほんと、腐ってるけどな。特にお前」
 ピーコがああだこうだと反論し始めたが、無視して何のゲームをするか二人に尋ねた。
「あたし、あれがいい、大貧民」
「俺、大富豪がええ。大富豪」
 メグが意見し、ピーコはノゾをそっちのけに答える。お前には聞いてない。
「そりゃあ、『大貧民』やるに決まってんじゃん」
「おまえ、『大富豪』に決まっとるやろ。それ以外は認めへん」
 ピーコとメグの意見が二分する。俺とノゾは完全に蚊帳の外だった。
 真剣に討論を始める二人だが、何となく察しはついていた。二人は同じゲームのことを言っていることに。……てか、気づけよ。
 いつまで経っても話は平行線だったので、地域によって名称が違うのだということを二人に説明すると、二人は一致団結して『大富豪(大貧民)』をプレイするのだと主張し始めた。俺もノゾも異論はなかったし、あったとしてもまず間違いなく無視される気がしたので、ゲームはそれに決定した。ノゾがトランプを取り出し、カードをきり始める。
「ところで、智彦さん。何でピーコって呼ばれてるんですか?」
 カードをきりながら、ノゾは質問した。実は俺も疑問だったことだ。ちょうど良い。この機会にその謎が明かされるのもいいかもしれない。
「翔が言い出して、それっきりピーコになってもうたんやで」
「え、俺が言い出した?」
 ピーコがピーコである由来。俺はその由来を全く知らない。
 今この場で初めてそれが明かされると内心わくわくしながら待っていたのだが、ピーコの口から出てきたのは予想だにしない一言だった。これがバラエティーなら、コマーシャルを挟むくらいに衝撃の事実であった。
 しかし、俺は騙されない。なぜなら、俺にそのような記憶はないからだ。身に覚えがないのだから、ピーコが俺をはめようとしているか、勘違いしているに違いなかった。
「他のことと勘違いしてんだろ」
「お前が言い出したんやんけ! 忘れもせえへん、あの日! 入学して初めてのテストの打ち上げの飲み会!」
 俺が冷ややかな視線を送っても、ピーコの表情がそれを強く否定していた。
 そこまで言われても俺はまだ思い出せない。あの日っていつだ。入学して初めて、ということは一度目のテストだ。確かに打ち上げをした記憶はあるが……。
「翔が酔った勢いで、『トモヒコ、トモヒ、トモピコ。ピコ、ピーコ!!』とか言い出したんや。おかげでそれが学校内での俺のあだ名になってしもたんやんけ!」
 記憶になかった。まったくもってない。これっぽっちもない。でもそう言えば、あのときは酔いつぶれて目が覚めたら自宅近くの道端だった、とかそんな記憶が蘇ってきた。はたしてあのとき一体どうやって帰ったのか、それすらも今となっては謎だった。それだけ謎に包まれた一晩なのだから、俺が何を言っていても不思議ではなかった。
 つまり、犯人は俺ということになる悲しい事件だった。あの結末は今でも思い出せない。遠い日の、失われた記憶。消えて行った過去――これが推理小説ならばもうここで物語が終わっていてもおかしくなかった。しかしここで終わるわけも無く、
「あはははは! うけるソレ!」
 メグが大声で笑い出した。いわゆる箸が転んでもおかしい年頃の笑い方だ。何歳まで箸転ばして笑ってんだよ、お前は。
 ノゾはその隣でトランプを配りながら遠慮がちに笑っていた。
 こうやってみると、二人の性格は対照的なんだって思う。けれど、それがそれぞれの魅力になってるのかもしれない。
「配り終えたよ」
「よーし、じゃあ……ゲーム、スタートッ!」
 ノゾが終了を告げ、メグが始動を告げた。

 トランプをしている間もずっと、他愛ない会話は続いた。
 俺たちはささいなことで大笑いしたり、ゲームに熱中したりした。
「え、じゃあ、翔さんって沖縄人なんですか?」
「沖縄で生まれたけど、大阪暮らしが長いんだ。だから、日系沖縄人かな」
「何それ、あはははははっ!」
 メグが大爆笑する。演技じゃここまでは笑えないだろう。どうやら生まれて初めてうけたらしい。びっくりだった。
「そういえば、翔さんたちって何歳なんですか?」
「俺もピーコも二人とも現役で大学入ってるから、二十歳だな」
「あー、全員タメだ!」
 俺が答えると、ノゾが嬉しそうに答える。
 お互い同年齢だとわかった安堵感からか、ようやく敬語のスタイルを崩してくれた。他人行儀じゃなくなって、やっと友だちになれたって感じがして少し嬉しい。
 二人は俺たちに色々と質問を浴びせ、時には俺たちも二人に質問をする。そうやって『大富豪』は続いた。
 会話も白熱するが、もちろんゲームも白熱する。数十ゲームを終えて、ピーコが予想以上に強いことに気づく。そして俺は思い出した。
 以前、ピーコが携帯電話のミ二ゲーム『大富豪』をプレイしていて、そのスコアが凄まじかったことを。そうか、ピーコのやつ、自分が強いからあれだけ主張したんだな。誰だって自分の得意分野は好きだ。そりゃ主張もする。
「なんで、あんたそんなに強いのよ! ずるいわよ、卑怯よ、訂正しなさいよ!」
「聞こえまへんなあ、大貧民のメグさん?」
 主張しても弱いという、例外も目の前にいたが。
 何戦も何戦も繰り返したが、順位は全く変動しない。大富豪(一位)がピーコであり、富豪(二位)が俺、貧民(三位)がノゾであり、大貧民(四位)がメグだ。
 このゲームは順位ごとに、弱い側が強い側に、手持ちの中で一番強いカードを渡さなければならないため、順位が固定されればされるほど飽きる。特に、順位の低いものほど飽きる。負けっぱなしなのだから当然だ。
 メグは不満気に口を尖らしてるし、ノゾも少し疲れ気味だった。もう何時間、このゲームやってんだよ、俺ら。俺もそろそろ飽きてきたが、ピーコは自分が一位の座を退くまでは終らない、終らせない、と宣言していた。正直、死んだらいいと思う。
 飽きることなく繰り返されるゲーム。また、最下位のメグが皆にカードを配る。またいつもの一周が始まるのかと思った瞬間、自分の手持ちカードがなかなか良いことに気付いた。うまくすれば勝てるかもしれない。それほど良い手札だった。
 けれど、足りない。切り札が足りない。これだと勝率は五分五分のように思えた。
「翔、これ」
 隣に座るノゾがそっと小さな声で話しかけてきた。
 呼び名が、さん付けでないのが、ずいぶんと馴染んで親しくなった証拠だ。新しい友だちができたのは素直に嬉しかった。
 しかし、今は喜んでいる場合じゃないのだ。この無限ループを終らせないとそろそろ頭がパンクしかねない。
 ノゾはそっと俺の手札に一枚のカードを加えてきた。通常、渡すカードよりも一枚、多く。増えたのは二人の人魚、いや、二枚のジョーカーであった。
 ジョーカー、このゲーム最強の切り札。ジョーカーはそれ単体が強いだけではなく、他のカードに付け足すことでペアにすることができる。
 俺の手札には、“6”のカードが三枚ある。三枚だけではまだ弱く、たいした意味を持たないカードだ。しかしこれに、絶対的な強さを持つジョーカーを加えることによって、革命を起こすことができる。絶対に覆せなかったこの状況を打破することができるのだ。
 俺とノゾの共犯をピーコもメグも気づいていない。もちろん、イカサマだ。
 けれど、今はそんなことどうだっていい。勝てばいいのだ、勝てば。このゲームを終えられるのなら俺はイカサマだって何だってしてやろう。俺はノゾに心の中で礼を言うと、勝負に臨んだ。手札の中で、人魚の絵柄のジョーカーが一際輝いて見えた。

 結論から言うと、勝った。逆転勝ちだった。
 ピーコは負けてもなお、まだやる、と騒いでいたが、満場一致の意見で却下された。当たり前だ。こっちも誰かが勝つまで途中で投げ出さないという意見を聞き入れていたのだから、誰がそんな我がままを聞くものか。まあイカサマで勝ったのだから、本来ピーコはその意思を主張できる立場なのだがそんなことは黙っておけば誰にもばれない。
 すでに夜もふけてきている。周囲で仮眠をとっている人もちらほらと目につく。迷惑をかけないためにも、そろそろ良い引き際だったと思う。
「とりあえず、甲板行くか?」
 長らく船室にこもりっぱなしだったので、新鮮な空気が吸いたかった。
 それは皆も同じだったようで、全員そろって甲板に出ることにした。
 甲板を駆け抜ける夜風は、夏だと言うのに冷んやりとしていた。船室にずっと閉じこもっていた身体に、心地良い。しばし時間を忘れて、ただただ風に吹かれた。
「……人魚おる言うけど、証拠でもあるんかいな?」
 よほど『大富豪』が楽しかったのか、トランプケースをそのまま持ってきたピーコがその外箱を見つめながら言う。もしかしたら、まだやるつもりなのかもしれない。仮にそうだとしても、ごめんこうむるが。
 ピーコは人魚の絵柄をぼうっと眺めていた。その目からはピーコが半信半疑である様子がうかがえた。
 俺もピーコも大学では生物学を専攻している。だから、人魚の存在に関しては懐疑的になってしまうのだろう。実際、俺も信じていないし、信じられない。だが、少なくとも乙女二人組は信じきっているようだった。
「人魚はいるっ! 証拠もあるのよっ!」
 メグがきっぱりと言い切る。その言い方があまりに男気溢れていたので、その勢いの良さにピーコも俺もたじろいだ。
「南月島ではずっと昔から人魚のミイラが保管されてるんだよ。テレビでミイラの映像も出てたし」
「テレビでも放映されたのか」
 ノゾはそう言うが、テレビで人魚のミイラが報道されるのはよくある話だ。別に不思議でも何でもないように思えた。
「腹減ったわー」
 ピーコは興味をなくしたのか、はたまた単なる空腹なのか、話を変えた。たぶん、両方の理由なのだと思う。
 時計を確認してみると、どんなに遅く夕飯をとる一家でもすでに食事が済んでいるであろう時刻を指し示していた。
「あたしもお腹すいたー」
 メグも空腹をうったえる。
 一体どれだけトランプに夢中になってたのか、夕飯の時間もすっかり忘れていたようだ。まるで修学旅行のような気分だった。
「そうだな、食べに行こうか……ん?」
 俺も同意し、船内のレストランを探そうとしたが、ノゾの様子がおかしいことに気づいた。
 何やら表情が重たい。一目見て、青いと表現できるくらい、その顔は蒼白だった。
「どうしてん?」
「ちょっと、ノゾ顔色悪いよ?」
「何か気持ち悪くて動きたくない……」
 メグとピーコも心配そうに声をかけるが、ノゾは力なく笑うだけだった。おそらく船酔いだろう。
 慣れない船で、長時間トランプしたもんな。そのせいで酔ったのだとしても、何の驚きもない。それほどまでに長い間、俺たちは『大富豪』に明け暮れていた。
「じゃあさ、俺残って見てるから、ピーコたち二人行って来いよ」
 俺も小腹がすいていたが、そんなのは関係ない。一人にしておくのはノゾが可愛そうだった。
 ピーコとメグも心配して残ると言うが、ノゾが軽い船酔いだから、と告げると、どうやら空腹には勝てなかったらしい二人はしぶしぶと了解した。
 人一倍はしゃいでた二人だから、俺よりも空腹なのも仕方がないというものである。
「じゃあ、ちょっとだけ行って来るわね、ノゾ」
「何かあったら電話かけて来るんやで、翔」
 ピーコとメグが手を振りながら船内へと戻っていく。
 憎まれ口を叩きあってるけど、実はあの二人は良い仲になっているような気がした。二人きりの時間を作ってやる形になったから、これはこれで良かったのかもしれない。メグは『大富豪』をしていたときに彼氏はいないって愚痴ってたし、ピーコも今年の頭くらいに彼女と別れたと言っていた記憶がある。ついでに言うと、もう恋なんてしない、とか言っていた記憶もあるが、どうせもう立ち直っているだろう。
 うん。俺っていいやつだ。恋のキューピットだな。一人で悦に浸っていた俺の思考を寸断したのは、ノゾの唸り声だった。
 しゃがみこんでいたノゾが急に立ち上がる。
 俺も一緒に立ち上がる。
「吐きそうか?」
「だいじょ……ぐええッ」
 ノゾは大丈夫と言おうとしたところで、突然、手すりのある海際まで駆け出した。そして、甲板から海に向かって壮大な嘔吐をする。
「大丈夫じゃないな。まったく……途中で抜けてよかったんだぞ」
 苦笑しつつも背中をさすってやる。ノゾは涙目で小さく礼を言ったが、すぐにまた嘔吐を再開する。。
「だ、だって……負けてたのに途中で抜けれないし……うっ」
「しゃべらなくていいから、黙ってな」
 無理に喋ろうとしてまたえづくノゾの背中をもう一度、さすってやった。
 一度吐き始めると、全て出しきってしまったほうがいい。度重なる“打ち上げ”という名の修羅場で俺はそう学んでいる。数々の修羅場を潜り抜けてきた俺は酒のことなら何でも任せろと言いたいが、言ったところで何の自慢にもならないし、今言うとノゾが悪化しそうだったので黙ってノゾの背中をさすり続ける。
 小一時間すりすりしていると、嘔吐もやんだ。どうやら落ち着いてきたらしい。改めて礼を述べるノゾの声は先ほどと打って変わり、しっかりしたものであった。
 よくよく考えればピーコもメグと二人きりで食事だが、俺も今、ノゾと二人きりなのだ。そう考えると急に恥ずかしくなってきた。
 ノゾと並んで座りながら、少し照れる。
「ねえ、翔もピーコも人魚祭りに合わせて来たんだよね?」
「ああ、人魚祭りか。大きなお祭りらしいな」
 さっきまで白い顔をもっと白くさせていたノゾだったが、体調も本調子に戻ったらしい。顔色もすっかり元通りで、その声はしっかりとした落ち着いたものだった。
 今は酔うこともなく普通過ごせているとなると、船酔いの原因はあの『大富豪』の長期戦の他にはありえない。調子に乗っていたピーコをあとで一喝してやろうと心に決める。
「人魚祭り、楽しそうだよね」
 ノゾはにっこり笑って言った。
 楽しそうも何も実はそんなに深く、人魚祭りのことを聞いていないのだ。単なるお祭りとしか認識はない。
「人魚のミイラとやらは見れるのかな?」
「見れるらしいよ。なんか、篝火たいて、お披露目の式典みたいなのするんだって」
「人魚のミイラは本当にあるのか……」
「あるんだよ! テレビで見たもん。詳しい調査はお寺の人が断ってたけど、あるって言ってたもん」
 ノゾがむっとした顔で反論する。どうやら、ノゾは人魚がいると本気で信じているらしい。
 むっとした顔もまた可愛いくて、俺はついからかってやろうと言葉を続けた。
「でも、調査断ったんだろ? だいたい今まで騒がれてなかったのもおかしい……それに人魚が発見された当時にも騒がれてるはずだろ?」
 レントゲンを撮ると、針金がミイラの体内に見つかったという前例もある。詳しい科学的調査を断るということが、怪しいですって宣言しているようなものなのだ。
 そもそも、生物学的に人魚はおかしい。人魚の上半身は人間、下半身は魚。哺乳類と魚類が混ざった構造自体が生物学的にありえないのだ。
「人魚って構造――」
「調査を断ったのは、人魚が二十八日を除いては門外不出となっているからだよ」
 俺の言葉を遮ったのは、眼鏡をかけた浅黒い肌の若い男だった。深い顔の彫りから、沖縄の出身であるようだが、口調に一切の訛りがないことから、沖縄に住んではいないのかもしれない。
「島のしきたりは今でこそ、僕らのような若者にはあってないようなものだけど、年輩の方々は違う。本気で人魚を崇めてるし、そのご利益を信じている。それに神……」
 そこで男は一瞬、言葉を切って、すぐに笑って言ってみせた。
「ごめん、ごめん。ついつい夢中になってしゃべってしまったね。話の腰を折っちゃったね」
 しかし、ノゾはその話がお気に召したらしく、うんうんと強く頷いた。
「やっぱり、人魚はいるんですね!」
「人魚のミイラなら、あるよ。もともとは、こういった情報も島の外の人に話すことはできなかったんだけどね。昔、いや遥か昔、人魚が発見された当時に島の長老様が予言したんだ。人魚のことは島の外に口外するな、口外すると島に災いをもたらすぞ、ってね。今じゃ緩くなってしまって、口外はしても良いし、年に一度、人魚祭りの日だけは公開しても良いことになってる。時の流れだなあ」
「けど……年に一度しか公開しないんなら、何でこの前テレビで人魚のミイラが出てたの?」
 メグの声がした。振り返ると、いつの間にやら帰ってきていたメグとピーコが立っていた。
「昨年の人魚祭りのものだと思うよ。昨年、島をリゾート化する計画が特に進んでね。島も過疎化が進んで大変で、島を活性化させるのに手段は選べなかったんだろうね」
「だから、人魚のミイラも一般公開してお客さんを集めようとしたんですね」
「ご名答だよ」
 ノゾが男の話に嬉しそうに合わせると、男はにっこりと笑って頷いた。
 そういう事情があったのか。今までミイラが世間に公開されていなかった理由も何となく理解できた。
「で、あんた誰?」
 さっきから暇そうな顔をしてたピーコが聞くと、男はかしこまって挨拶をした。
「挨拶が遅れて、申し訳ない。大城慶太(おおしろけいた)です。よろしく」
 自己紹介をされたので、こちらもそれぞれ自己紹介をする。
 馴れ馴れしいというよりも、人なつっこいという表現がぴったりな、すごく丁寧な人だった。
「へえ、じゃあ大阪と長野から来て、港で出会ったのかい。青春だなあ」
 ケイタさんは笑いながら、相変わらず、流暢な標準語で言う。
「おう、ケイタさんにも出会ったしな」
「ところでケイタさん。島から出て何してたんですか?」
 彼の人懐っこいオーラのせいで皆タメ口なのに、ただ一人、ノゾだけが敬語だった。出会ったばかりの頃のノゾとのやり取りを思い出して少しむずがゆくなる。
 だけど、ケイタさんはまだ若いとは言え、俺たちよりは明らかに年上だ。普通は敬語で接するべきだろう。ピーコとメグが馴れ馴れしすぎるだけなのだ。
 しかしケイタさんは、敬語は使わなくていいよ、と笑ってみせた。
「僕は南月島に住んでいないんだよ。今はアメリカに住んで、地質の研究をしてる。毎年、このシーズンは沖縄の実家に帰るんだけど、今回は親戚の店を手伝うのと、趣味の写真撮影を兼ねた旅行で南月島に来てるんだ」
 普段はずっとアメリカに住んでいて、日本語を話す機会はほぼない、とケイタさんは笑って語った。日本語自体まるっきり使わない生活が、ケイタさんの訛を抜いたのか、はたまた、仕事柄、日本語を話すときは標準語でないと相手に通じないのか。どちらの理由かはわからないが、そういった事情で標準語を上手に話せるのだろう。
「親戚の店って?」
 もしかしたら、林昌さんと面識のある仕事かもしれないと考えた俺は、ケイタさんに質問してみる。
「南月島にある『健康ランド富士』っていうとこだよ。正博っていう人がオーナーで、今回、僕はそこの下働きみたいな感じかな。旅行の間中ずっと手伝っているわけじゃないけどね」
「あー、そこ知ってる! 私たちの泊まるホテルの近くにある!」
 メグが声をあげる。そういえば、お互い、泊まる場所については話していなかったことに思い当たる。
 俺は出発する前に林昌さんから送られてきた地図を思い出す。あのあたりでホテルと言えば。
「あの島でホテルって言ったら、『マーメイドブルー』しかないね。他はすべて小さな民宿だ」
「へえ、そうなんや」
「翔とピーコはドコに泊まるの?」
「同じだよ」
「うそ、すごーい!」
 メグとノゾは歓声をあげて喜んだ。
「泊まれる場所は他に小さな旅館しかないからね。若い子は皆、『マーメイドブルー』に泊まるよ。そこ、『富士』と提携してるんだよ。最近できたばかりでいいホテルだ。若者向けのアミューズメントが多いかな」
「へえ、そうなんだ! すごいすごい、何でもあるのねっ!」
「おっと、露天風呂などの大きな入浴施設は“富士”にしかないからね。ぜひ、うちをごひいきに」
 メグが目を輝かせたところに、すかさずケイタさんが釘を刺す。きっと仕事でもやり手に違いない。
 俺は、林昌さんの会社もよく思い切ったことをしたなと思った。離島にそれだけの機能をもったホテルを建てるなんて、反対する者も多かったろうに。
「よかったら、これ無料券。僕の分なんだけど、あげるよ」
「え、でも」
「いいんだ。どうせ僕はなんだかんだで無料で入れるだろうからね。僕の友だちってことで気にせず、おいでよ」
 メグはケイタさんに渡された券をしげしげと見つめた。渡された券には、『健康ランド富士特別優待券』と書かれていた。
 メグが改めて礼を言ったとき、誰かの携帯が鳴り出した。
 着メロは、『沖縄事変』のアルバム曲でもあまり有名でない一曲だった。『沖縄事変』は沖縄音楽をミックスさせたラップもこなすグループで、俺たちのような年代には特に人気だ。現に俺も、着メロは『沖縄事変』の新曲を使っている。
 メグやノゾの携帯が『沖縄事変』であっても、何ら不思議はなかった。
「あ、僕だ」
 シングル曲なら誰でも知っていてもおかしくはないが、アルバム曲の中でもマイナーなものを知っているとなると相当なファンである。まさかケイタさんの携帯だとは思わなかった。
「……しまった、正博さんに出発したって連絡いれるの忘れてた」
 正博さんとは確か、『富士』のオーナーの名前である。何時に島に着くのか教えるようにうながす電話なのかもしれない。
 長い船旅で時間感覚が麻痺していたが、そろそろ島に着く頃合いではある。
「従妹がこの曲、大好きでね。最近、着メロももらったんだ。なかなか良いグループだね」
 ケイタさんはそう言うと、ポケットから携帯を探り当てると携帯を耳に当てた。
「ちょっと電話してくるよ。また、富士で会おう。じゃあね」
 あたふたと、ケイタさんは去って行った。
 正博さんにこってりしぼられるのだろうな。しっかりものに見えたケイタさんの意外な一面を見て、思わず笑みがこぼれる。
「そういえば、お二人は携帯持ってるの?」
 ふと思い出しだようにメグが言う。
 当然、ある。持っていない人に失礼かもしれないが、携帯はこの歳になって持っていないほうがおかしい。俺もピーコも、そして、ノゾもメグも皆、携帯を持っていた。お互い持っているとすれば、島での連絡がスムーズになる。俺たちは番号とアドレスを交換し、お互いの携帯電話を見せ合ったり、しばらく最新の機種について語り合ったりした。
 そんなことをしていると、ノゾが突然、声をあげた。
「島が見えてきた!」
 話に夢中になって気づかなかったが、もう島のすぐ近くまで来ていたらしい。この暗闇の中で確認しにくいが、遠くに見えるのは間違いなく島だ。
 目を凝らすと、自然に覆われた島であることがよくわかる。山が二つあり、兄弟のように仲良く並んでいる。開発されたばかりのせいなのか明かりもさほど多くはなく、ホテルの明かりだけが際立って目立っている、どことなく寂しさを感じさせる島だった。
 今はまだうっすらろしか見えないあの島こそが、俺たちが一週間を過ごす島、南月島――人魚の伝説の伝わる島、南月島である。
 次第に近づいてくる島を、俺たちは一心不乱に見つめ続けた。

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