第四話 『天から見下ろせば』

 いつか見た夢。君と二人、海辺で寄り添って笑い合って、歌い合う、そんな幸せ。
 いつも見た夢。君と二人、映画を寄り添って見て笑って、共に泣く、そんな幸せ。
 この映画、君と見れたならどんなに良かっただろう。今、一人で見ている自分が馬鹿らしい。
 映画のスクリーンには人魚が映っている。人魚が歌っている。

 ――私が自由になれたのは幸運だったか?
 ――この身は戒めから解放された。
 ――私が自由になれたのは不運だったか?
 ――この身は悲しみに支配された。
 ――自由と共に手に入れられたのは幸せではなかったか?
 ――自由と共に手に入れられたのは孤独という名の悲しみ。
 ――もしあのままなら。
 ――不自由は感じただろう。
 ――しかしあのままなら。
 ――孤独は感じなかったに違いない。

 *

 波の音がする。
 静かに、優しく、ただただ繰り返される。
 誰かの声がする。
 静かに、悲しく、ただただ繰り返される。
 ――誰だ? 悲しそうな声は誰だ? 何が言いたい? 何をしてほしい?
 何かが見えた。その何かが徐々にこちらへと近づいてくる。
 綺麗な亜麻色の髪をした女性だ。しかし、その下半身には尾がついている――人魚!?
「……ッ!?」
 驚き、飛び起きた拍子に布団が床に落ちる。いつも起きたときとは違う部屋の様子に少し戸惑うが、旅行に来ていたことに思い至る。
 隣を見ると、ピーコが寝息を立てていた。
「夢、か」
 しかし、妙に現実感のある夢だった。
 俺は身体中、べっとりと汗をかいていた。その汗が夢の生々しさを物語っていたが、夢の内容までは深く思い出せない。頭がもやもやしている。汗を流して気分を一新したかった。
 時計を見ると八時だったので、ピーコに声をかける。
「おい、起きろ! 用意するぞ」
「あと五分……」
「何が五分だ!」
「だって五分は五分やし、五分五分、ゴフンゴフン……」
 ピーコは寝ぼけていて埒が明かない。このまま時間を無駄に使うわけにもいかないので、俺は先にシャワーを浴びることにした。
「俺がシャワー終わったら、お前も用意しろよ」
 一言だけピーコに言い捨てると、俺は着替えを持ってバスルームに向かった。脱衣所で、汗びっしょりの服を脱いで浴室に入る。
 浴室内は思ったよりも広かった。安いホテルによくある、トイレと一体型のものではなく、それぞれが個別にきちんと用意されているものだった。備え付けのシャンプーも高そうだ。俺にはあまり違いはわからないから、高くても高くなくても関係はないのだが。
 俺は、シャワーで一気に汗を流した。ざあざあという単調なシャワーの音が頭に響き、寝ぼけていた頭がしっかりとしてくる。
 一体、あの夢は何だったのか。最後に一瞬だけ人魚を見たような気がする。人魚……俺はその考えを振り払った。
 人魚の伝説のあるこの島に来たために、あんな夢を見たのだろう。どうやら、思った以上に自分はこの旅行を楽しんでいるらしい。俺は苦笑しつつ、手早く身体を洗った。
 シャワーを浴びて着替えをすませると、ピーコも起きていた。
「おはようさん」
「何だ、まだ寝てるかと思ってたのに」
「いや、メグからメールあってん。んで、起きたんや」
 なるほど、ちゃっかりしている。
「仲の良いことで?」
「お前らも仲良い感じやったで?」
 からかうと、ピーコも負けじとからかい返してくる。にやにやとした表情が無性に腹立つ。
「うっさい」
 バスタオルを放り投げると、ピーコは立ち上がった。
「俺もシャワー浴びてくるわ」
 ピーコはふんふんと鼻歌を歌いながら、シャワーに向かった。俺はひとり部屋に取り残される。
 携帯が気になったのでメール画面を開いてみた。この島はリゾート化が進んでいるせいか、電波もしっかりと入っている。電波受信用のアンテナが島のどこかに立っているのだろう。
 しかし、受信メールはなかった。やっぱり着てないよな、と少し残念に思った
 瞬間、携帯の画面が切り替わる。『メール受信中』の文字が画面に表示され、受信と同時にメールの送り主の名前が表示される。
 ノゾからだ。俺は内心嬉しくなり、急いでメールを開いた。
 まず目についたのは華やかな色合いだった。絵文字である。女の子らしい、可愛らしい絵がそこかしこにちりばめられていた。俺はその絵文字の使い方に感心するが、大事なのはそこではない。俺は本文にもしっかりと目を通した。
 内容はノゾとメグの今日の予定と、夕飯を皆で食べようというお誘い。二人は林昌さんの紹介でヒナちゃんと知り合ったらしく、今日はその案内で三線教室や琉球ガラスの工房に行くことにしたらしい。夕飯は俺たちの用事が終り次第、合流したいとのことだった。
「三線教室、ね……」
 三線は沖縄の楽器で、本土の三味線とよく似ている。区別のつかない人も多いが、一度見てみれば、その違いがよくわかる。本土の三味線は、猫の皮でできており、棹、つまりギターで言うネックの部分が長い。対して沖縄の三線の棹は短く、ボディは蛇の皮でできている。そこから蛇皮線と呼ばれることも多い。極端な話、三本の弦ということ以外、素材から弾き方、何から何まで別物なのである。
 実は俺も親父が沖縄人なだけあって、三線も少しなら弾ける。少なくとも初心者に教えられる程度の腕はあるつもりだった。予定さえあいていれば一緒に行って二人に教えることもできたのだが、今日はそれどころではない。俺とピーコの用事は山へ登って薪を取ることだ。
 俺は、用事が済んだらすぐに連絡するとメールを入れておいた。
「ノゾからやな?」
 ピーコがにやにやと笑っていた。にやにやにやにや、さっきから気色悪いやつだな。
「おまえ、いつの間に上がってたんだよ」
「今やけど? まあ、どんなメールをしてらしたのか部外者にはまったくわかりませんけど……そろそろ、行きまっか!」
 薄手のシャツを羽織るとピーコはわざとらしく言った。その目はなおもにやにやにやにやと意味ありげに笑っていた。
 俺はもう反論する気も失せて、昨夜、林昌さんの指定した受付前に向かった。
 エレベータを降りると昌子姉さんはすぐ見つかった。仕事中なのか、ホテルの利用客にパンフレットを配布している。昌子姉さんの顔は一目見てわかった。最後に会ったときとまったく変わっていない。しかし一児の母になって少し大人びたのだろうか。以前よりもかなり落ち着いた印象を受けた。
「昌子姉さん、久しぶり」
 昌子姉さんは俺の姿を見つけると、パンフレットを別の係員に渡して、作業を中断した。
「翔くん、ひさしぶり。また大きくなったんじゃない?」
「何も変わってないって。昌子姉さんは少し落ち着いたね。以前は髪の毛も明るかったのに」
「そりゃ、もうおばちゃんだからよー。いつまでもそんなことしてたら恥ずかしいじゃない。あ、こちらが大阪のお友だち?」
 近くで見ても、昌子姉さんは出産を経験したとは思えないほど美人だった。髪の色は黒くなったけど、それでもその容姿は損なわれていない。
 昌子姉さんはピーコに気づいて、挨拶した。
「あ、どうも。俺、中塚智彦。あだ名はピーコです」
 もうしっかり自己紹介の中に、『ピーコ』というあだ名が組み込まれている。ちゃっかり適応しているピーコがおかしくて仕方がない。
「私は翔君の従姉で、林昌の妻の昌子です。よろしくね。ここじゃ何だから、後の話は奥で……」
 昌子姉さんは俺たちをスタッフルームと書かれた扉の奥へと誘導した。その後ろについていくと、オフィスのような部屋へとたどりついた。部屋にはパソコンが所狭しと置かれており、荷物を置くロッカーも設置されている。何だか、普通の会社の一室のようだった。
「散らかっててごめんね。あそこに応接間があるから、そこで待ってて。飲み物入れてくるわ」
 俺たちは応接間に置かれたソファーに腰を下ろすと、昌子姉さんが来るのを待った。
 間髪入れず、昌子姉さんが現れた。
「お待たせ。ごめんね、こんな汚いところで。これ、粗茶ですがどうぞ」
 そう言って出してくれたお茶は、少し薄い黄色い色合いをしていた。あまり見たことのない色である。
「いただきます」
 ピーコはそれを一口含むと、妙な顔をした。初めて飲んだ、といった様子だ。
「これ、何茶なん?」
「さんぴん茶って言うのよ。んー。そっちの言葉で言うと、ジャスミン茶かな?」
 俺はよく沖縄に訪れる。さんぴん茶という名称は何度と目にしていたのだが実際に飲んでみたことはなかったし、何よりジャスミン茶と同一のものだとは知らなかった。また一つ、雑学が増えた。
「ほんとはゆっくりしたいんだけど、今日は私も仕事があるから」
 昌子姉さんは、そわそわとしながら話を切り出した。この時期は人手が足りていないというのは昨夜、林昌さんから聞いた。昌子姉さんも本当は忙しいのだろう。説明を終えたならすぐにでも仕事に取り掛かりたいに違いない。そもそも人手が足りていたら、今回の仕事も俺とピーコに頼むこともなかったはずである。
「この南月島にはニつ並ぶ山があるの。大きい方を兄山、小さい方を弟山……セットで双子山って島の人は呼んでるわ」
 フェリーからも見えた、双子のように仲良く寄り添うようにして立っていたあの山だ。
「その兄山の頂上付近に、島の人が代々崇めている神木があるの。その昔、人魚が島に流れついたときも、そこの木をつかっておこした火で燻製……つまりミイラにしたってほど、由緒正しいものなの」
「けど……毎年毎年、神木使ってたら、木無くなるんちゃう?」
「神木というより、神森って言うべきかしら。大体の頂上の木々が、神聖なものとされているのよ」
 島で一番高い場所は兄山の頂上だ。沖縄では、神様は天からある一点を目指して降りてくるとされている。すなわち、もっとも目立つ場所、高い場所である。沖縄の伝統芸能とされるものの一つに、“旗頭(はたがしら)”というものがある。数人でずっと旗を支え続けるというものであるが、あれにも神様が降りてくる目印という役割があるらしい。昔、じいちゃんが言っていたのを覚えている。
 では、ご神体とされている人魚は海から来たのだから低い場所から来ているじゃないかという考えがよぎったが、もともと沖縄は決まった信仰を持たない地で、臨機応変に様々な文化を吸収する地である。この南月島に伝わる信仰の一種であることに間違いないし、宗教の起源というのはもともとわからないものだらけなのだから、今更そんなところに突っ込んでも仕方がない気もした。
 海から来た神聖な人魚のために、神聖な兄山の木が必要。このことだけ覚えていれば、今回の頼まれごとをこなすことはできる。それだけで何の問題もないのだ。
「兄山の頂上に薪割り小屋があって、そこにたくさん薪をためてあるわ。誰もいないんだけど気にせず、てーげーに好きなだけ取ってきて」
 神聖な小屋を無人で放置するなど無用心にもほどがある。そういえば、と俺は思い出す。港からホテルへと向かう途中、交番のおまわりさんは眠りこけていた。島の人は皆家族で盗人はいないという認識が広く浸透しているに違いない。離島ならではの習慣とも言える。けれどもその認識がリゾート化が進むことによって、変わるときが来るのだろうか。もしそうだとしたら、それは少し悲しいことなのかもしれない。
「薪を取って山を下ったら人魚神社に向かって。神主さんに、薪を渡してくれたらいいから」
 俺のそんな考えに気づくことなく、昌子姉さんは説明を続けた。
「薪ってどうやって運べば? あと、道順がいまひとつわからないんだけど」
「薪はあれにいっぱい入れてきて。それでじゅうぶん、お祭りには足りるはずよ」
 昌子姉さんは、部屋の隅に置いてある二つの大きなリュックを指さした。確かに、たくさんの薪が入りそうだ。
「あと、人魚神社の場所や兄山の頂上への場所だけど、このホテルの前に商店街があったでしょ? 港と反対に真直ぐ進めば着くわ。これ、地図。たぶん、これでわかると思うんだけど……もしわからなかったら誰かに聞いて頂戴」
 昌子姉さんは俺に地図と包みを差し出した。
「こっちはなに?」
「お弁当よ。薪割り小屋は展望台も兼ねてるの。島の景色が一望できるからこれでも食べながら楽しんでらっしゃい」
「え、いいの?」
「賄いだから気にしないでいいのよ。さ、ほら、そんなこと考えてないで行った行った!」
 このホテルの賄いはどれだけ多いというのだ。間違いなくこれは昌子姉さんが俺たちのために作ってくれたものであった。腹は減っては戦はできぬと言うし、心遣いはありがたくもらうことにする。
「それじゃ、私は仕事があるから、あとはお願いね」
 昌子姉さんは席を立ち、そそくさと食器を片付け始めた。
「それじゃ、行くか、ピーコ」
「おう」
 ピーコと一つずつ、大きなリュックを背負う。どうせならと、その中に先ほどもらったお弁当を入れる。これで動きやすい。さあ、準備はできた。もう出かける気満々で部屋のドアに手をかけたとき、昌子姉さんが声をかけた。
「言い忘れてた。兄山の道ってしっかりしてるからよくわかるんだけど、途中で分岐した小道があるのよ。ちょっとわかりにくいんだけど、そっちは行っちゃだめよ」
「何で?」
「あの辺りはちょっと……ほら、山の反対側に出ちゃったらそっちは崖になってるから落ちちゃったら大変でしょ? それに迷いやすいし」
 渡された地図を確認してみると、山の向こう側、つまり街とは反対の方角は崖と表記されている。
「そっか。わかった、気をつけるよ」
「じゃあ、おつかいよろしくお願いね」
 笑顔で言うと、昌子姉さんは笑顔で見送ってくれた。

 *

「何や、思いのほか、遠ない?」
 ピーコがぜいぜいと息を切らしながら愚痴をこぼす。背中には大きなリュックを背負っているが、その中身はお弁当が一つだけだ。別に重たいというわけではない。降りるときには薪でいっぱいになっているのに、こんなので帰り道は大丈夫なのかと心配になる。
「いや、そんなに遠くないと思うぞ」
 俺は地図を眺めて、言う。
 山の中は木々が日光を遮っているため、島の他の場所に比べて涼しい。それに完全な山道を行くのではなく、きちんと整えられた道があるのだからまだましな道程と言える。
「そうかなあ……しんどーっ」
 ピーコがへばる。
「そんなとこで座ってたら、ハブに噛まれるぞ?」
「うっそ、マジで!?」
 慌てて立ち上がるピーコを見て思わず笑ってしまう。
「ハブはおとなしい性格だから、こっちから何かしない限り大丈夫だ」
「なんや……冷やかしかいな」
「草道とかでうっかり踏みつけたらわからないけどな」
「マジで!?」
 ピーコは慌てて足元をきょろきょろと伺った。ここは整えられた道なのだからハブがいれば視界に入る。そんなに不安がらないでもまったく心配はないのだ。
 この道は、兄山の頂上へと向かう人によって昔から踏み固めてきた。れっきとした道である。山のふもとから見た限りでは、道らしいものはここの他には見当たらなかった。弟山に至っては人の手すら入っていないようだった。
 この島がもっとリゾート化されれば、この兄山も隣の弟山も開発されてしまうのだろうか。自然が少なくなるのは悲しいことではあるが、過疎化問題と環境問題、どちらも大きな問題であり、南月島の外に住む俺たちが何を口出ししても、所詮は余所者の綺麗事でしかないのだろう。
「ハブおるんやったら、長ズボンはいてきたらよかったなあ……うっかりしとったわ」
「まあ、大丈夫だって。休憩もほどほどにして行くぞ。……うん、この調子なら十二時には着くはずだ」
 俺は地図を見ながら答えた。この距離と山の高低から見て、所要時間は合計ニ時間といったところか。都会暮らしにはその二時間がきつい。なおもぐだぐだと文句を言うピーコであったが、登りきったら昼飯だと言うとその瞬間に元気になった。
 森の中は気持ちが良い。時々、鳥のさえずりも聞こえる。そんなのどかな景色の中を延々と歩き続けていると、道が軽く分岐している場所を見つけた。これが昌子姉さんの言っていた小道だろう。道幅も狭く、もう一つと比べてもどちらが正しい道であるか一目見て判断できる。
 念のために昌子姉さんのくれた地図でも確認したが、片方の細道にはバツ印がつけられていた。入るなと言うことだろう。
「これが昌子姉さんの言っていた小道だろうな」
「結構、目立つもんやな。小道言うから、もっと細いもんや思ってたわ」
 俺たちが万が一にも勘違いしてはいけないと思って、昌子姉さんは注意してくれたのだろう。うっかり迷い込んで気付いたら崖から落下、何とか這い上がって戻ったけど夜だった、では笑い話にしかならない。俺達は小道を無視して歩き始めた。
 黙々と歩き続け、いい加減に腹の虫の機嫌も限界に達した頃、視界が一気に開けた。頂上だ。
 少し開けた場所に小屋が建っているのも見える。小さいけれど、立派な二階建ての小屋だ。その周囲には切り株がいくつか見える。切り株からは新たに芽が出ていて、もう何十年もすればまた新たな若木へと成長することを教えていた。
 ここが薪割り小屋に違いない。
「翔、中入って飯食おうや!!」
 そう言うピーコはすでに小屋の中だ。俺は慌てて、後を追った。
 小屋の中は外から想像する以上に広かった。しかし、薪と共にたくさんの道具も置かれているので一階にくつろげる場所はほとんどなかった。道具は木を切るものであったり、薪に加工するものであったりするのだろう。
 階段を見つけたので、俺は上に上がってみた。昌子姉さんは小屋が展望台を兼ねていると言っていたはずだ。
「置いてくなやっ!」
 慌ててピーコが俺の後をついてくる。二階は広間になっていた。このさらに上には、展望台もあるらしい。上ってきた階段の脇にハシゴが立てかけられていて、天井の穴へと続いていた。
 周囲を見渡すと、タンスやら机やらと様々な物が置かれている。就寝道具まで置いてあったが、埃をかぶっていた。誰が使うんだこれ。
 壁には三線がかかっている。幸い、弦は切れておらず、蛇皮も破れていない。弾けそうだ。手にとって弾いてみると、少し音がずれている。ちんだみ(調弦)してみると、うまく弾けた。
「翔、三味線弾けたんや? あ、三線って言うんやったっけ」
 実はどちらも正しい。そもそも歴史的に見て、古く沖縄ではこのニシキヘビの皮の楽器が三味線と呼ばれていた。それが九州に伝わり、関西地方に伝わり、その素材が本土にはないニシキヘビの皮から猫皮に変わり、名称だけがそのまま伝わった。だから、いまだに沖縄で三味線と言うとこちらの蛇皮の方を指すことも多い。まあ、それをピーコに言ったところで解からないだろうから適当に返事をしておいた。
「上が昌子姉さんの言ってた展望台になっているんだろうな」
 それを聞くとピーコはすかさず、上へと上り始める。
「翔、大丈夫やで! 古いけど、一人分の体重やったら問題ないみたいやわ!」
 ピーコが先々と上へ向かったので、元あった場所に三線を立てかける。俺はピーコの後を追ってはしごに足をかけた。軋んだ音がなるが強度に問題は無いらしく、すんなりと屋上へと辿りついた。
 屋上は思った以上に広かったし、その視界も広く開けていた。薪にするために周囲の木を伐採していることと、元々ここが開けた場所であるからであろう。ここからは島中を眺めることができた。
「すっげー……めっちゃキレイやな」
「ああ。海が真っ青で、空も真っ青だ」
 まるで、海と空の境目が無くなったようだった。沖縄といえば、海の青さばかりを思い浮かべてしまうが、空の青さも素晴らしい。
「こうやって見ると、やっぱ俺らの泊まっとるホテルってでかいなあ」
 ピーコがホテルを見て、言う。赤瓦の民家が建ち並ぶ中にホテルの白い外装が目立つ。そしてホテルを囲むように観光客向けの施設が見える。おそらく、ホテルに程近い場所に見える少し他よりも大きな建物が、ケイタさんの言っていた『健康ランド富士』だろう。
 これらリゾート施設による収入は大きく、島の人口の減少を抑えるのにも一役買っていると聞く。
 過疎化、リゾート化の二者択一。林昌さんも、島の人も、この島のために苦渋の思いをしたに違いない。そう考えると、林昌さんやホテルの人たちの営業スマイルがなんだか悲しいものに思えた。
 思わず街から目をそらし、隣の弟山を見る。弟山は本当に何もなかった。兄山にはふもとまで続く道が見えるし、この薪割り小屋もある。また、よくよく見ると兄山の北側では牧場のようなものがあり、そこでは牛らしきものが遠めに見えた。その近くには畑も見える。おそらく、さとうきび畑だろう。
 弟山を見渡してみると、やはり一面の森である。一面を覆い隠すのは木々のみで、他に何も見えない。人の手が入っていないのだろう。ふと視界に違和感を感じた。もう一度、よく目を凝らしてみる。
「何だ、あれ?」
 何やら白いものがうっすらと見える。弟山と兄山の谷間にあたる部分に、木々に囲まれてうっすらと白いものが見える。ちょうど木々の死角になっていてはっきり判別することはできないが、ぎりぎりその何かを目に入れることはできる。
「建物ちゃうかな?」
「ん……。地図には載ってなかったけどな」
 目測で見てみると、中腹あたりに建物らしきそれは位置していた。先ほどの小道の先だ。昌子姉さんが崖につながると言っていた、あの道。あそこはこの建物に通じているんじゃないだろうか。
「何か気になるから、帰り道に寄ってみないか?」
「せやな、あんまり遠くなさそうやしな。……てか、腹減った」
 ピーコがお腹をおさえて言う。そうだ、この展望台には昼飯を食べに来たのだ。
「景色もいいし、ここで飯食うか」
「賛成!」
 ピーコは威勢良く言うと、リュックから昌子姉さんのくれた弁当の包みを取り出した。俺も横に座って、リュックから弁当を取り出す。
 弁当は、ポーク玉子をご飯で握ったものだった。そう表現すると適当に作ったような代物で、味もそんなたいしたことのないように聞こえるだろう。しかし、それは間違っている。『ポーク玉子おにぎり』という名称で、沖縄料理屋に並ぶほどちゃんとした料理の一つなのだ。肝心の味はどうか、とそれは考えるまでもない。昨晩の沖縄料理を思い出せばいいのだ。あのホテルで調理されたものが美味しくないわけがない。
 味もともかくのこと、量も十分な大きさがある。包みを広げると出てきたのは二つのおにぎりだが、たった二つと侮ることなかれ。一つあたりの大きさは、両手で握りきれない大きさなのである。大きさに驚いたものの、お腹がすいていたのでその大きさがありがたかった。俺たちは昌子姉さんの好意を美味しく、食すことにした。
 頬に当たる風が気持ち良かった。爽やかな風に、うまい弁当。人間はこれだけあれば生きていける気がする。
「ごちそうさまっ! うまかったわー」
 ピーコは気がつけば、あっという間に弁当をたいらげていた。俺も負けじとすぐに完食する。一口食べれば一口、また一口食べれば一口。気がつけば完食。それほど、美味しかった。
「ごちそうさま」
 俺もピーコにならって、きちんと食後の挨拶をする。これは昌子姉さんやキッチンの人に対するお礼でもあるのだ。省略するわけにはいくまい。
 しばし満腹感を堪能する。涼しい風が吹き、木々が揺れる。ざわざわ、ざわざわ。木々のざわめきの中、俺たちは食後の一時を静かに過ごした。

「さて、そろそろ行こう」
 いつまでもこうしているわけにはいかない。まだやることは残っているのだ。この後は人魚神社まで薪を届けないといけない。
 ゴミをきちんと片付けてリュックの外ポケットに丸めて放り込み、俺たちは一階へと戻った。所狭しと置かれている薪をリュックに詰めてみると、行き道はからっぽでしぼんでいたリュックだったが、薪でぱんぱんに膨れた。試しに背負ってみると意外と軽かったのが救いだ。これなら下まで十分歩ける。俺とピーコは忘れ物が無いか確認して、小屋を後にした。
 山道に入り、さっきまでは汗水たらして登って来た道を今度は下り始める。下りということも手伝って、足は進む。ぐんぐん進む。
 行き道はあれだけへばっていたピーコが、今は鼻歌交じりなのだ。普通は下りのほう足に負担がかかるのでしんどいと聞くが、今は帰りという気持ちも手伝って調子が上がってるのだろう。黙っておいてやるにこしたことはない。迂闊なことを言って、また途中で座り込まれたら面倒だからな。
 あたりの木々が太陽を遮っていた。まるで森林浴を楽しんでいるような気持ちになって、大きく深呼吸をした。相変わらず、木々はざわざわと静かに揺られていた。
 下山するのは思った通り、いやそれ以上に楽で、足が進む。進む、進む。俺たちは背中に仕事をきちんとこなしたという証拠を背負って下山していた。いや、文字通りの意味で背負っているのだ。薪と言っても燃えやすくするために特殊な乾燥を施してあるらしく、相当軽い
「あ。あれちゃう? 分かれ道」
 ピーコの声で、俺はもうそんなところまで降りてきたことに気づいた。言われみると、分岐した小道が見える。
「行ってみるか」
 思ったよりも疲労していなかったため、好奇心が疲れに勝ることは容易だった。小道の先に向かうという意見は俺もピーコも異論なく、一致していた。しかしいくら軽いとは言え、寄り道するのにこのリュックは少し邪魔だ。わざわざ、これを持って行こうという気にはなれないし、こんなもの誰も取らないだろう。神聖なものだというのは分かるけど、ちょっとくらいここに置いて行っても罰は当たらない。
 そう考えて、俺とピーコはリュックを置いて小道へと向かった。
「あー。ますます、長ズボンはいてくるんやったわ」
 ピーコが苦々しげにぼやく。小道の入り口から絶えることなく草が生い茂っていた。ピーコは一歩一歩、真剣な表情で足元を確認しながら進んでいく。ピーコは歩く度に愚痴をこぼした。わざと大きな声で愚痴をこぼしているのは蛇が怖いからなのかもしれない。少し脅かしすぎたか。
「どうする、やめるか?」
「いいや、ええよ。せっかくここまで来たんやし、行こうや」
 他でもないピーコがそう言うのなら、長ズボンをはいている俺は先へ進むつもりであった。こうやって実際に歩いてみると、草で生い茂ってはいるが迷うほどの道ではなく単なる一本道にすぎない。
 道からそれて森に入ると途端に迷うことは間違いないだろうが、この道を歩く限り迷うはずが無い。この先に崖があったとしても、誤って落ちるほどの視界の悪さでもないように思えた。昌子姉さんの言っていた、『迷って危険』というほどのものでもないだろう。
 ふと、昌子姉さんがこの小道に関して何か言葉を濁していたのを思い出した。あれはただ、急いでたために会話を切り上げたかっただけなのだろうか。もしかして、頂上から見えた何かと関係があるのではないだろうか。
「あれ、これ何や」
 悩んでいた俺の思考を止めたのはピーコの一声だった。見ると、ピーコが腰をかがめて何やら観察している。ピーコの隣に並んで、その足元を見てみると折れた立て札らしきものが落ちていた。
「古くて読めへんな。皆……見……月、島? 隔……何や?」
 途切れ途切れに読み上げるのでピーコが何を言っているのかわからない。俺も隣からそれを覗き込んで読んでみる。
「皆見月島……読みは、“みなみつきしま”だろうな」
 しかし、皆見月島とは一体。読みだけならばこの島の名称と同じだ。この島の旧名だろうか。当て字で、みなみつきしま、と読めることからそう推測できる。
 ここにこのような立て札があったということは、この先に建物があるということだ。頂上から見えた白い何かが頭に浮かぶ。きっとあれがこの立て札の指し示す建物なのだろう。しかし不思議なことに、昌子姉さんの書いてくれた地図にはその存在すら表記されていなかった。手書きの地図だったし、目的地に関係のない部分については省いたのかもしれない。
「この先に本当に建物なんてあるのか?」
 そう思わせるほど、この辺りに人の気配は無かった。
「こんなとこにあっても誰も来ーへんやろう」
 ピーコの言うことはもっともだ。この立て札は朽ち果てている。その具合から考えても、今現在、この先の建物は機能していなくて、人もいないと考えるのが妥当だ。
「ま、昔のものだろうな……行っても崩れた建物があるだけで何もおもしろいものはないってことにもなりかねない」
「せっかくここまで来たんや、行ってみようや。何か探検みたいやしな」
 ここに立て札があるということは、ここからそんなに遠く離れていないところ、せいぜい数百メートルの距離に目的物があるはずだ。歩いてもそんなに苦にならない距離だと思う。それくらいならばいいかと、俺はピーコの『探検』とやらに付き合う気になった。

 その場を後にしてほどなく、俺達はその建物を発見した。
「うわあ……こらまた、ボロいな」
 ピーコは建物を見上げて言った。果たして、これを建物と言っていいのかどうか悩む。それほどまでにひどい状態であった。
 その外観は、元々は白かったのだろう。遠目に見れば、確かに白だ。しかし近くで見ると薄汚れて、とても白だとは言い切れない。薄汚れて少し黒ずんだそれは灰色と言った方が正しいかもしれない。
 建物にある窓には全て材木が打ち付けてある。そのため中を見ることはできないが、窓ガラスはことごとく割れている様子が材木の隙間から見えた。また、壁のところどころにはヒビも入っていて、黒い傷跡を見せていた。雨水のせいだろう。その割れ目からまるで誰かの涙のように、雨水の流れ落ちた後が黒く染み込んでいた。
「これは……完璧な廃墟だな」
 思わず口をついた台詞だが、的を得ていたと思う。今にも崩れ落ちそうだとは言わないが、相当、ガタが来ているのが見て取れる。
 廃墟は二階建てであり、実際に入ってはいないので分からないが、その敷地の広さはそこそこにあるように思えた。その廃墟を囲むように塀がある。近づいてみると赤茶けた鉄格子の門があり、そこだけが塀の中と外を繋ぐ唯一の場所らしかった。
 塀は高く、これを越えるのは無理そうだ。そうなると、この門をくぐらないと中には入れない。この建物の唯一の入り口だ。門は元々は、ちゃんとしたものだったのだろうが、現在は錆びてその機能をなくしている。一応、閉じてはいるのだが、鉄格子が数本ごっそりと取れていて、そこから侵入することは容易であった。
「この建物、何なん?」
 ピーコが疑問を口にする。俺も全く同じ疑問を抱いていた。
 ふと、門脇の看板が目に付く。そこにはしっかりと読める字でこう書かれていた。  ……皆見月島病棟、と。
「ここって病院やったんや……あ、門は入れるやん」
 ピーコは門脇の名称を読み上げると、俺より遅れて錆びて壊れた門の存在に気付いた。
 確かに門の鉄格子の壊れた部分は、大人一人が楽々と通れる隙間がある。しかし門の内部、病棟の方はどうだろう。全部の窓に板がしっかりと打ち付けられていたのが見えた。探せばいくつか侵入口も見つかりそうだし、仮に無かったとしても本気で侵入しようとすれば、大の男が二人いるのだから窓の板を無理矢理はがす、ドアをこじ開けるなど、何とでもできるだろう。
 だけど、何故かそんな気になれなかった。ピーコも同様だったらしく、黙り込んで何かしら思案している。
 この建物には何か妙な感じがする。近づいてはいけないのに、何者かが無理に誘い込もうとする、そんな感じが。こっちに来て欲しい、中に入って欲しいと、廃墟は誘っている。全身に鳥肌が立った。
 そもそもなぜ、こんな場所に病院があるのか。なぜ、打ち捨てられて廃墟になっているのか。それは、何かよからぬことでも起きたからではないか。考え出せばきりがない。様々な不安要素が頭に浮かび、次第に目前の建物が薄気味悪さを増してきた。
 普段、俺は理系の勉強をしているのもあって、科学的思考をもって物事を考える。幽霊なんて存在しないとも思っている。しかし、ここにはそういったものとは関係なく、感じてしまう何かがある。理屈ではないのだ。生理的に、身体がこの建物を受け付けない。
 俺たちの目の前にはなおも赤茶けた鉄格子の門がある。他は大きな壁が敷地を囲っている。どうやらこれが唯一の出入り口らしい。もしこれが何らかの原因で通れなくなったら。
「ここまで来たらいいよな。早く街に帰ろうぜ」
「あら、翔。怖いんか?」
 俺はもう、この建物に入ろうとは思っていなかった。
 ピーコがそんな俺の様子を見てからかう。しかし、その声は震えている。何だよ、お前が一番怖いのかよ。
「早く帰らないと、メグたちと遊ぶ時間なくなるだろ。薪を街まで運ばないとダメだしな」
 確かに少し怖くなったのもあるが、正直にそれを言って馬鹿にされるのも嫌だし、何よりここにこれ以上残りたくない。おそらく、ピーコも本心はこの場を離れたいに違いないのだから、こう言えばきっとピーコも同意するだろうと予想しての言葉だった。
「……あ、そうやった。はよ帰ろうや! このあと、神社も行かんとあかんからな、うん」
 ピーコは予想に違わず、この場を去ることに同意した。わざとらしい。だけど、今はからかう気にもなれなかった。
 俺たちは足早に門を後にして、来た道を引き返し始めた。ふと、後ろを振り向く。そこには相変わらず、不気味に佇む荒れた病院がある。
 行かないで。声が聞こえた気がしたが、頭を振ってその考えを振り払う。まず間違いなく幻聴だ。科学の発達したこのご時世に、幽霊など存在するはずない。恐怖のせいで錯覚を起こしたのだ。強引に結論付けると、足早に歩くピーコを追い抜かさんばかりの速さで歩いた。ピーコも負けじと歩く早さをあげる。
 廃墟が見えなくなってからも、その競争は終らなかった。俺たちは小道に戻り、リュックを背負うとそのままの速さで山を下り始める。
 昌子姉さんが危惧したように道に迷うことは全くなかったが、それがかえって不気味だった。なぜ、昌子姉さんはこんな簡単な道で、「迷うから危険だ」などと言ったのだろう。小道は頂上へ上る道との分岐点から廃病院への一本道だ。しかも小道はあの病院へ行くための道であり、崖へ行く道ではない。普通は崖のことを言うよりも、あの廃病院のことを説明するべきではないか。何でだ。ただ単に昌子姉さんが方向音痴なだけなら、別に何も問題はないのだが。
 どちらにしろ、後で本人に聞けばこの疑問は解決できる。そう考えている間も、俺たちの歩く早さは落ちない。俺もピーコも慣性の法則に身を任せ、足をふもとへと進める。さほど時間も経たないうちに、街が見えて来た。下山する早さに関しては、おそらくこの山を下った者の中でも俺とピーコは過去最高記録だったに違いない。それだけは自信を持って言えた。

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