第五話 『島と人魚と神隠しと』

 ――下山。
 俺たちは商店街を歩くには不似合いな大きさのリュックを背負って、神社を目指す。昨夜は閉まっていたシャッターの多くも今は開いていて、活気に溢れていた。お土産屋には観光客が集まり、雑貨屋など日常品を扱うような店には島の人々が集まっていた。
「うり、もしかしてぃ、人魚ぐゎーの薪ばー?」
 背後から突然、酷くなまりのある声がした。振り向くと知らないお婆さんが立っていた。何かを質問しているらしいが、さっぱり何を言っているのか判らない。
「なんでぃー、やまとぅんちゅに……やーはうちなんちゅーか?」
 返答に困っている俺たちにお婆さんはなおも詰め寄る。お婆さんはピーコを見た後に、俺の顔を見る。俺に質問しているということはわかる。が、その意図を読み取ることは難しかった。
「何言うとんねん、このばーちゃん」
 沖縄の方言を知っている俺でも理解できないのだから、ピーコが理解できていないのは無理もなかった。どう答えようかと頭を悩ませるが、聞き取れないのだからどうしようもない。
「……やーは、やまとぅんちゅか? うちなんちゅーか?」
 お婆さんの目つきが剣呑になる。鋭い眼光をほとばしらせて、お婆さんは俺たちを足元から頭までじろじろと観察した。お婆さんは何も言わない俺たちに業を煮やして口を開こうとした瞬間、沖縄なまりの女の子の声がそれを遮った。
「……ナミーおばー。この人、林昌さんの親戚やっし。うちなーんちゅよ」
 振り向くと、そこには中学生くらいの女の子がいた。肌は健康的に焼けていて、沖縄の子であることをうかがわせる。上は黒のタンクトップ、下は白のハーフパンツと、活発的な服装だった。そこから伸びる浅黒く焼けた脚がスラリと美しい。
「なんねー。くぬたーち、ないちゃーかと思ったやっさ。あぎじゃー、うちなーんちゅか」
「しまないちゃーだばぁよ。しかたないさー」
「だっからよー……あ、おばーはもう行くさあ」
 何言ってんだ、この二人? 一部は聞き取れるものもあるが、大半が理解できないものであった。流石は沖縄の『おばー』だ。
 それと同等に話せるこの娘が凄い。これだけ口達者なのだから、きっとこの島に住む娘に違いなかった。
「わらばーはゆんたくしてなさいね」  お婆さんは言うだけ言うと、帰って行った。
「が、外国……?」
 ピーコが普段の様子からは考えられない、呆気にとられた様子で呟いた。
「流石はヒナちゃんね」
 聞きなれた声が聞こえた。
「メグ、ノゾ!」
 ピーコが驚きの声を挙げた。俺も驚いた。薪を届けた後に会うはずだったからだ。
「……一応、島人だから」
 女の子は静かに言った。島人(しまんちゅ)とは島に住む者という意味である。類似語として、海人(うみんちゅ)などが挙げられる。
「――ケイタさんの従妹のヒナちゃん?」
 女の子は恥ずかしそうな様子で頷いた。静かな子だ。
「私達を案内してくれてたの」
 その横から、ノゾがフォローするように答える。ノゾは白を基調としたカジュアルなノースリープの服を着ていた。下は動きやすさを考慮したのか、七分丈の黒パンツだ。モノクロな服装が落ち着いた雰囲気をかもしだしていて、ノゾに良く似合っていた。
「林昌さんが紹介してくれたんだよ!」
 メグは明るい性格に似合った服装で、胸元の大きく開いた黄色のシャツを着ている。下はノゾと同じで動きやすさを考慮したらしく、半ズボンだった。これなら、海辺も濡れずに歩けそうな感じだ。
「うちなーぐち使えるし心強いよっ!」
「ウチナーグチ……って何?」
 自信満々に言うメグだが、ピーコは何のことかわからず不思議そうな顔をした。聞きなれない言葉だから、疑問に思うのは無理もないと思う。
「沖縄の方言のこと、うちなーぐちって言う……」
 ヒナちゃんがおずおずと口を挟む。沖縄のことなら何でもわかるのだろう。これなら観光案内として心強い。さっきもあのお婆さん相手に、すらすらと会話してたしな。しかしそう考えるとまるで通訳みたいだな。
 俺の視線を感じたのか、ヒナちゃんは目をそらした。
「えっと……」
「この二人は私とメグの友だちだから大丈夫、さっきも説明したけど、こっちの黒い髪の人が翔で、こっちの茶色い髪がピーコ。怖がらなくても大丈夫だよ」
 ヒナちゃんの警戒するような反応にどうすればよいのかと途方にくれたそのとき、ノゾが助け舟を出してくれた。
「ヒナです……よろしく」
 ヒナちゃんはそれでもなお、打ち解けきれない様子だった。友だちと呼べるまで仲良くなるためにはまだしばらくの時間がかかるかもしれない。
「――そうだ、ヒナちゃん」
 俺は何か会話の糸口を探そうとする。地面ばかり見つめていたヒナちゃんが顔を上げる。
「さっきのお婆さん、何て言ってたか教えてくれないか」
 何の気ない言葉だったのか、ヒナちゃんは顔をしかめた。
「ナミーおばー、島の一番偉い人で、自治体の幹部でもある……それに観光地にするのにもっとも反対してた人。だから……」
「だから?」
「だから、観光客が嫌い。本土の人が薪を取りに行ったのかと憤ったみたいだけど、翔が沖縄人だって聞いたから納得したみたい」
 俺は厳密に言うと沖縄人ではないのだが、この身体に流れる血はまさしく沖縄のものだ。ヒナちゃんの言葉を聞いて、林昌さんがなぜノゾとメグを山へ登らせようとしなかったのか、ぴんと来た。
 島のかがり火は神聖なもので、兄山からその薪を取る役目は重要な役目。それは俺たちが考えるよりずっと、重要なのだ。赤の他人がその役目を負うわけにはいかない。俺は林昌さんと血の繋がりがないとは言えど沖縄顔だし、何よりも親戚であることに間違いはない。その些細な一つが、免罪符なのだ。
 俺だからこそ、薪を取りに行く資格がある。ピーコに関しては、これはもう話の流れで仕方がなかったと言うしかないだろう。大阪から一緒に来たのに、一人だけ別枠扱いにするわけにはいかない。そんなことをされたら、ただでさえ遠慮していた――あれでも遠慮していたのだ。遠慮していたピーコが黙っているはずがない。俺とピーコは二人で一組として行動する以外に、林昌さんに案はなかったのだろう。ノゾとメグに関しては後から増えた二人で、ホテルの正式なお客であり、なおかつ女の子だ。はぐらかすことも容易かった。
 林昌さんはできるだけ、本土の人には兄山へ登ってほしくなかったのだ。なぜなら、島の老人にとっては人魚はいまだ神聖なものであり続ける。島の伝統は島の法であるのだろう。
 ヒナちゃんは俺が考え込んだのを見て気を利かせたのか、苦手だろうに声をかけてくれた。
「神社、いこう? 案内するから」
 ヒナちゃんは内気な子だ、と思う。同い年の友だちがいない、こんな環境がそんな性格にさせたのだろう。俺なんかと会話をするのは死ぬほど恥ずかしいだろうに、彼女なりの精一杯の気遣いをしてくれているのだ。それに応えないわけにはいくまい。
 俺がその言葉に頷くと、ヒナちゃんは初めてその笑顔を見せてくれた。歳相応の、可愛らしい笑顔だった。

 俺たちは商店街を抜けて、海水浴場へと出た。たくさんの観光客が、水着になって泳いでいる。この暑さを吹き飛ばすような、爽やかな風景だった。
「あんな格好で泳いだら、肌が荒れちゃうさ」
 ヒナちゃんがぼそっと呟く。
「沖縄って紫外線きついもんねー。あたし、絶対、上に何か着て泳ごっと」
 メグが肌を気にした様子で言った。
 沖縄では、地元民は上にシャツなどを着てそのまま泳ぐと聞いたことがある。観光客とそうでないものを見分ける一番てっとりばやい手段は、泳いでいるときに衣服をまとっているかどうか、だそうだ。
「さっきまで三線体験教室と琉球ガラス工房に行ってたの。クーラーきいてたから、ここじゃ暑くって」
 ノゾはそう言って、額の汗を拭った。大阪人にとっては、むしろこの地の気候の方が楽だが、長野人にとっては暑いのだろう。
「今日はまだ涼しい」
 ヒナちゃんは汗一つ浮かべずに言った。今日の沖縄は、真夏日というわけではないらしい。
「これで涼しいのー!? あたし、暑くて死んじゃうわ……」
「大阪のほうが死んでまうで、お前ら」
「沖縄は風が吹くとまだ涼しいからましだけど、大阪は湿気が多いから風が吹いても暑いんだ」
「うそー……あたし、大阪行けないかも」
 メグは驚きの声をあげるとうなだれた。本気で暑そうだった。その様子を見て、ヒナちゃんはポンと手を叩いた。
「そうだ、あとで海辺に行こう。いいところ、連れてくさ」
「よっしゃ、そうと決まったら、とっとと用事すませてまうで!」
 ピーコが元気一杯に宣言する。同時に、どうやら神社に着いたらしい。海水浴場脇の道が、広場へと開けた。そこには島の若い男衆が矢倉を組んだり、祭りの準備を進めていた。
「よお、いやぁーらが林昌さんのお手伝いかー? 神主さん、首長くして待ってるからに、早く行ってやってたぼれ!」
 俺たちを見ると、男たちは陽気に声をかけてくれる。若い人は観光地だということを認識しているようで、俺たち余所者に対しても明るかった。もっとこの島を世間に知ってもらいたいのだろう。島の人々が親切ならまたこの島を訪れたいと思うし、口こみで島のことももっと広まる。そうすれば、島の暮らしも豊かになるというものだ。
 俺たちはそんな声に挨拶を返すと、奥の神社へと向かった。
「すみません!」
 神社は古めかしく、こじんまりとしていた。俺は中に聞こえるように声をあげると、奥から「ちょっと待ってちょうだいねー」と返事が聞こえた。例にもれず、沖縄なまりの声だ。
 人魚神社は商店街の一番奥から海水浴場を通り過ぎた先にあり、島の西に位置する。神社の裏手には青い海が広がっている。その先をずっと進めば、鹿児島県につく。思えば、遠くまで来たものだ。
 どこまでも広がる青。そして、空にも広がる一面の青。同じ色に見えて微妙に違う二色の青は、水平線を作り出している。こうやって見ると、空の青さと海の青さは違うんだな。それがすごく印象的だった。本土の海とは違う澄んだ青さは、何処か幻想的だ。イルカが泳いでいたら雰囲気はぴったりだ。
 しばらくその風景に見とれていると、人の良さそうな初老の人が出て来た。きっと、神主さんだ。少し形状は違うが本土の神社の人が着るような白い着物を身にまとっている。
「人魚祭りで使う薪を持って来たのですが」
「ああ、林昌さんから話は聞いてるさ。自治体なんてものの仕事押し付けてすまんかったね。……あきさみよー! ヒナちゃんまでいるさー」
 さっそく切り出してリュックの中身を見せると、神主さんは柔和な笑みを見せた。
 どうやら、神主さんはヒナちゃんのことを知っているらしい。島民は皆知り合いで、家族のようなものなのかもしれない。狭い離島に住んでいるのだから当たり前のことなのかもしれないが、何だかすごく素敵なことのように思えた。神主さんは、挨拶を返すヒナちゃんに満面の笑顔を見せると、俺たちを神社の中へと招き入れた。孫娘のように可愛がっているのかもしれなかった。
 神社の中に案内される。そこは本堂になっていて、豪華そうな造りからしてこの部屋の中心にご神体があるのだろう。
「リュックはそのへんに置いてくれたらいいさ。ありがとうね。ちょっと、お茶いれてこようね」
 俺たちがリュックを降ろすのを見て、神主さんは奥へと入っていった。
「……お茶までいれてもらって、何だか悪いよね」
「だいじょうぶ、島人はもてなすのが好きだから」
 申し訳無さそうに言うノゾに、ヒナちゃんは微笑んだ。
「そうそう。俺たち手伝ってんから、それくらい当たり前やわ。当然の権利をここに主張させてもらいます」
「まったくだ」
「偉そうだなっ。二人とも!」
 偉そうに言うピーコと俺に、メグが声を張り上げる。その様子を見てノゾとヒナちゃんが笑う。
「メグ。お前、関西でも通用すんで、そのテンポのいいツッコミ!」
 ピーコがそんなことを言うので、一同は笑いに包まれた。最初はむっとした表情だったメグもすぐに笑い出し、室内は笑いの渦に包まれた。
 ふと、笑いが途切れた瞬間、妙な木箱が置かれているのに気づいた。
「何だ、あの箱?」
 皆が俺の視線を追う。箱と言うよりも棺桶のような印象を受ける。それはメグも同じであったのか、「棺桶じゃないの?」と恐る恐る言う。しかし、棺桶の割には置いてある場所がおかしい。木箱が置かれているのは入り口の真前であり、部屋の一番奥の高台。きっと祭壇だ。そこに、まるで祀るようにして置かれているのだ。あの位置は普通ならご神体を安置する場所である。
「……人魚?」
 ノゾが一番にその答えを口にした。
「あたり。ノゾ、頭いいね」
「え、うん……それほどでも」
 照れたように言うノゾの顔が可愛かった。
「せやけど、人魚ってほんまもんなん?」
「何言ってんのよ、あいかわらずロマンがないわね」
 ピーコの疑問はもっともだったが、メグはその問いに呆れ気味な様子をみせた。そんなメグにピーコが反論したため、またもや言い争いへと発展する。喧嘩の絶えない二人である。
「お前も、フェリーでケイタさんの話聞いて、うさんくさがってたやんけ!」
「あれはまた別! テレビに出てなかったのがちょっと気にかかっただけで、人魚は信じてるわよ!」
「それやったら、テレビのことに突っ込むなや! 大体なー」
 子供かこいつらは。その言い争いを見て思わず苦笑してしまう。ノゾを見ると俺と同じことを思っていたらしく、くすっと笑った。
 しかし実のところ、俺もピーコと同意見だった。実際、人魚なんていないと思っている。生物には、相反する二種類の組み合わせは存在できないようになっているのだと授業でも学んだ。哺乳類と魚類の混ざる人魚は生物学的に有り得ないのだという。
「お待たせ」
 なおもピーコとメグの言い争いが続く中、神主さんがお茶やお菓子を乗せた盆を持って来た。
「あれ人魚ですよね!?」
「そうだけど……急にどうしたね?」
 間髪を入れずとは正にこのことだ。メグは勢いよく尋ねた。
 先程まで喧嘩していたメグは、かなり興奮気味である。その剣幕に神主さんがたじろぐのは無理も無い。
「いやー、人魚がほんもんかなあって思ってん」
 ピーコの台詞が引き金だった。
「何を言うやっし! あれは本物さ! ワンのご先祖が見つけた人魚様さ! ご先祖は嘘つかないやっさ!! 何なら自分の目で確認してみなさい!!」
 息をつく間もなくとはこのことだ。先ほどのメグの剣幕とは比較できないほどの勢いで、神主さんがまくしたてる。よっぽど興奮したのか、神主さんははあはあと息を切らせていた。その皺の入った老齢の額にはうっすらと血管すら浮かび上がっていた。
「えっと……とりあえずごめんなさい」
 あ、謝りやがったこいつ。ピーコはちゃっかり正座の体勢だった。
「人魚の存在が信じられないんじゃなくて、信じられないほど珍しいってことですよ」
 見かねたのか、ノゾが苦しいフォローを入れる。その言葉を聞いて、神主さんは何とか落ち着きを取り戻した。
「そうさー、でーじすごいさー。島の人魚は!」
「見てもいいって言ってましたが、今見てもいいんですか?」
 にこにこと笑う神主さんに問うと、神主さんは一瞬悩むような表情を見せた。
「一般公開は二十八日だけなんだけどよー。さっき見ろって言っちゃったし……ダメなんだけど特別だよー。薪も運んでくれたからそのお礼ってことで、皆には内緒でね?」
 神主さんは祭壇へと近づくと、俺たちに手招きをした。
「特別に人魚が見られちゃうなんてすごい!」
「ほんとほんと!!」
 興奮気味なノゾとメグをよそに、口にこそ出さないがピーコはかなり興味なさそうだ。その目が、どうせ偽者だろうと如実に語っていた。俺も同じ気持ちだが、ここはポーズだけでも興味のある雰囲気を装っておかないと神主さんが怖い。先ほどの剣幕を思い出すと、思わず背中に冷や汗が浮かぶ。……おっかない。
 全員が祭壇に集まったのを確認すると、神主さんはうやうやしく手を合わせた。そうして、仰々しく棺を開けた。
「ほら、人魚様やっさ」
 俺たちの視線は、一斉に棺へと注がれた。棺の中には干からびたミイラが一体。一見した限りでは、上半身は人間のものと全く一緒に見えた。その部分はエジプトのミイラを彷彿とさせた。しかし、普通の人間のそれと違うのは、脚のあるべき箇所に脚がなく、代わりに魚の尾ひれが付いている点である。
「これが人魚……」
 ノゾが息を飲んだ。先程まで、偽者だと騒いでいたピーコでさえ、人魚のミイラに見入っている。そう。偽者だとは言い切れない何かがそこにはあった。
 よく、テレビや雑誌で人魚のミイラだと報道されているものを見かける。そのほとんどが素人目に見ても偽者と判るような代物だ。例えば、猿の身体に魚の尾ひれをつけたものを人魚のミイラだと言い張る。あるいは上半身だけのミイラを、下半身は長い歴史の中で損傷して無くなってしまったなどとうそぶくケースも存在する。
 しかし、この人魚は……この南月島の人魚はどうか。継ぎ目などは一切見当たらないし、上半身と下半身の両方ともしっかりと存在している。不自然な部分は見当たらないのだ。これではどう見ても人魚にしか見えない。とは言っても、すでにミイラとなってしまっているため、本当に人魚なのかそれとも別の何かなのか、完全に判別できないのも確かだ。
 そうやって疑ってみて冷静になったところでもう一度、そのミイラを見てみる。が、本物の人魚だと思わせる何かがこのミイラにはあった。
「わかってもらえたね? 人魚が本物だってこと」
 全員が息を飲んで見入っていると、神主さんが誇らし気に咳払いをした。
「ヒナの子供の頃から、ずっとずっとこの人魚はあったんだから本物やっし」
 ヒナちゃんまで神主さんと同じように、言う。中学生が生まれてからずっとあったからと言ってそれは別に参考にならない気もするのだが、ここでヒナちゃんの機嫌を損ねて得することはない。ようやく俺にもピーコにも慣れ始めているのに、無駄なことをして振り出しに戻るのは嫌だった。
 しかし、神主さんとヒナちゃんのそんな様子から一つだけわかることがあった。人魚は昔も今も、島の人達の信仰として老若男女と広く親しまれているのだ。
「このくらいにして……後は当日のお楽しみさー」
 神主さんは、そう言うと蓋を閉めてしまった。蓋をしたあとにまた、うやうやしく礼をする。
「ああ、もうちょっと見たかったのにっ!」
「ほんまやで、ケチケチすんなやー!」
 メグが残念そうな声をあげ、あんなに人魚を疑ってたピーコまでも文句を言う。そんな文句は一切無視して、神主さんは真剣な顔をして俺たちに向き直った。
「このことは、くれぐれも内緒にね。特に自治体の皆、すごい怒ると思うから。ワンが神主っていう肩書きを持ってても、お構い無しにみんな怒るさ。ナミーなんかひどいさあ。おっかなくて、どうしようもないやっし」
 神主さんはそう言うと恥ずかしそうに笑った。
「ナミーって、ここに来る途中に見かけたばーちゃんやんな?」
「あがっ、もう会ってたの。恥ずかしいけど、あれがワンの妻さー」
「そうだったんだ。そりゃおっかないよ……何だかあのおばあちゃん怖かったもん」
 メグはそう言ったが、確かに怖かった。
「ナミーは観光客嫌いだからね。今回の薪の件も林昌さんの親戚じゃなかったら駄目だったと思うよ。やーは名前なんだっけね」
「翔です。こちらがピーコ、あと、ノゾにメグ」
 それぞれの簡単な自己紹介を済ませる。
「翔くんは沖縄の血が流れてるから、ナミーはまだ納得したわけさ。これが他の人だったら……」
「でも俺も一緒におったけど、何も言われへんかったで?」
「ナミーは眼が悪いさ。翔くんのことばかり見てたから、ピーコくんまで見てなかったんだと思うわけ。それにピーコくんの眼はくりくりっとしててうちなーんちゅに見えないこともないさ」
「うちなーんちゅって何やねん」
「ああ、うちなーんちゅってのは沖縄人ってこと。やまとぅーんちゅは日本人、つまり、本土の人のことさー。まあ何はともあれ、助かったね! 誰が助かったって、ワンが一番助かったさー! もし、やまとぅんちゅーが薪を運んだって知ったらナミーに怒られるとこだったさー!」
 神主さんは陽気に、かっかっかっと笑った。ひとしきり笑って神主さんは、お茶が冷める、と皆を茶の間へと招いた。
 少し古びたテーブルを囲み、神主さんと話す。ノゾとメグが人魚の話を聞きたいと連呼したためだ。神主さんは快く了承してくれた。と言うよりは、誰かに話したくて仕方がなかったらしい。今はまるで水を得た魚のように、ひたすら語り続けた。
 ヒナちゃん曰く、観光客を捕まえては毎回この話をするとのことだった。長くはあったが、島のこととか色々と聞けるので有意義なひとときを過ごせたと思う。
 神主さんの話は進むにつれてだんだんと熱を帯びてきたが、期待とは裏腹にその話は林昌さんから聞いたものと同じ話であった。違う点と言えば、部分部分に脚色が加わってるくらいか。神主という職業柄のせいだろうが、神聖化しようという意図がそこかしこに見受けられた。
「……だからよー。島人の苦難に見かねた神様が、この島に降り立ったってわけさ。自らが死してご神体となることで、島を近くで見守って……」
「でも、この島には兄山という神聖な山がありますよね? 一説によると沖縄の神様は、高い物……たとえば、旗などを目印にして降り立つと聞きます」
「何言うね。ほかはどうか知らないけど、この島には昔から神は海に住まうという伝説があるさ。確かに山も神聖なもので、薪もそこから調達してるけど、神様が使うには今ではあの山も少し汚れすぎたかもしれないね……」
「汚された?」
「実は戦前、兄山に国によって病院が建てられてねー。病院って言っても、今は廃病院だけどさ?」
 神主さんの話を半分聞き流す感じで聞いていたが、思いがけない言葉が飛び出したので俺は耳を疑った。
 ――病院。兄山の小道の先で見た廃墟が頭をよぎる。確か、『皆見月島病棟』と表札には書かれていたはずだ。
「皆見月島病棟、ですか?」
 兄山に行った帰りにピーコと訪れた、あの廃病院だ。話を聞く限り、俺とピーコが行った場所であることは間違いないと思う。あんな建物がこの小さな島に二つあるとは考えられない。廃墟の正体が何なのか気になる。駄目で元々、俺は思い切って聞いてみることにした。
 だがしかし、神主さんの反応は思いがけなく険しいものだった。
「もしかして、あそこに行った……?」
 今までの温和な神主さんとは思えないほどの剣呑な雰囲気だった。老齢で柔和な顔つきはそこにない。
「え……いや、ちょっと道に迷いまして」
「そうか、それならいいんよ。もう行っちゃダメさ? あそこは危ないからよ」
 本当は好奇心で行ったのだが、それは伏せた方がいいかもしれない。俺はそう思って道に迷ったと、とっさに嘘をついたのだ。
 廃墟というのは確かに危ない場所だと思う。建物自体が老朽化しているため、崩れる危険性もあるからだ。しかし、外から見たところ、あの廃病院は今すぐに崩れるほど老朽化が進んでるとは思えなかった。何がそんなに危険だと言うのだろう。
「あそこはね。日本が作った建物なんだけどね……」
 神主さんの含みのある口調から、あの病院が何かいわくつきであることが読み取れる。気付けば皆、息を飲んで話に聞き入っていた。
「あれは戦前だったさ。まだ、この島がね、『皆見月島』って呼ばれてた頃ね。今の漢字だとこうね」
 神主さんは、懐から紙を取り出すと、達筆な字で『皆見月島』と書いた。おそらく、『皆見月島』と書いたものを観光客向けに覚えやすく、『南月島』と改めたのだろう。
「ある日、急に日本政府の方々がやってきて、街外れに病院を作るって言い出したわけよ。普通の病院ならいいさ? 皆も診療してもらえるから大助かりだよ。でも、違ったわけさ……あれは、隔離病棟だった」
 廃墟の門には『皆見月島病棟』としか書かれていなかったが……確か、ピーコが最初に見つけた朽ちた立て札には、かすれて全て読めなかったが、『隔』の文字があった。あれは、『隔離病棟』の一文字だったのだろう。
 隔離病棟。当時、不治の病とされていた感染病の類。それらに感染したものを治療するための施設。
「感染病は感染するもの……島人は皆反対したよ。けど、国の政策だの何だのを主張されたわけさ。当然、お金もくれることになってたけど、皆、必死に反対したさ。だけどねー、半ば強制的に病院を建てることを決められた」
 神主さんは当時の悔しさを思い出しているのか苦々しい表情だった。
「島と国の争いは、最終的には島側が折れることになったんだけどね。島人の条件は、人のいない山奥に病院を建てること……」
 島人たちにとっては、譲れる精一杯の条件だったに違いない。どうせ、病院の設置が決まっているなら、せめて場所だけでも指定させてほしい。そんな気持ちが、神主さんからひしひしと伝わってきた。
「弟山に設置は決められたね。兄山はまあ、神聖な山だってあちらさんも分かっているからさ」
 あちらさん、とぼかして言ったが、日本政府を指していることは間違いない。ここまで聞いていると、何ら問題なく病院の設置は進んだように聞こえる。これが、“汚された”にどうリンクすると言うのか。
「……ただ、交通の便を考えてか、設置を弟山と兄山の谷間にしちゃったわけ。あの兄山の頂上への道は使いやすいからね、そこから病院への道を分岐させたやっさ! 確かに、弟山側に建ってることは建ってる……でもこれじゃ兄山が汚されたのと何も変わらないさ!」
 兄山と弟山を頂上から見渡したが、道らしきものはあの一つだけであった。他にも畑や果樹園があったが、そこに至る道はひどく小さかった。病院というからにはそれなりの機材も必要だろう。それを運搬しようとすれば自然と大きな道が必要となる。それには兄山のあの道がもっとも最適だったのだ。
「気付いたときは遅かったさ。すでに建てられてた。あちらさんは、『そちらの条件通りに設置しました』の一点張り。島人は怒ったけど、建てちゃったもんは仕方ないしね。あちらさんも、兄山にお参りもきちんとしたわけだし、病院って人助けのための施設なわけさ? 悪いことは何もしてないからね……最終的には渋々だけど皆も了承したよ……」
 神主さんはお茶を一口すすった。一応、話が一区切りしたようだ。
「それから数年、何事もなく過ぎていった。島人は、隔離病棟に近づくと、病気になるっつって近づこうともせんかったね。それから戦争が起きてね。そう。知ってる通り、第二次世界大戦――沖縄戦さあ。隔離病棟は一転して、軍事病院になったわけ。そうそう、戦争で怪我した人を治すための。沖縄戦の予想以上に早い負け展開に、あちらさんが急いだんじゃないかね、怪我人がたくさんこの島に運ばれた」
 門の札が、『皆見月島病棟』となっていたのは、戦時中に、隔離病棟から軍事病棟へと移り変わったせいだと推測できた。
「まあ、そんな努力もむなしく、日本は負けた。いやー、違ったね。『戦争は終った』……あちらさんは、なんでかね。負けたって言いたがらない。報道でも、『日本敗北』とせずに『終戦』ってしたからね。そもそも、日本が沖縄を自分の国にしたときから――」
 やがて、話はそれて、延々と戦争の話へと突入する。ためになる話ではあるのだけど、ほとんどが神主さんの愚痴に近かった。ピーコなどもはや半分寝ていた。
 そんな俺たちの様子を見て、ヒナちゃんが助け舟を入れてくれる。
「で、そんな病院ができたから、神様は山に降りるのを嫌って海からやってきたってわけね」
「そうなんだよ、ヒナちゃん。だから、海からやってきたのさ」
 神主さんは力強く、うんうんと頷いた。
 大体の話は把握できたが、納得がいくような、いかないような話だった。
「廃病院に近づいちゃダメな理由は、隔離病棟だったからですか?」
「その通りやっし」
 尋ねると、神主さんは大きく頷いた。
「でも、当時の不治の病って、今ではもう普通の病気だったりしますよね? 後に軍事病院ができたくらいですし、そこまで危険だったってわけじゃないですよね?」
「翔くん……。言ったけど、あそこは“危険な場所”ね」
 神主さんがまた同じような台詞を言う。
「今は普通の病気だとか、そういう問題じゃないね」
 神主さんは一言ずつ、ゆっくりと言った。
「あそこは……神隠しが起きるのさ」
 神隠し――ある日突然、人が消えてしまう現象のことを言う。簡単に言えば、行方不明者のことだ。
「あの病院は終戦と同時に軍事病棟としての機能を失った。もう、怪我人を治療する必要はないからね。そのときから関係者を含めて、誰もあの建物に寄りつかなくなったやっさ」
 それはそうだろう。もう機能を停止させたのに、行く意味がない。
「終戦後、この島にもアメリカ軍の手が入ったわけさ。沖縄はアメリカの占領下に置かれたからね。そのときには軍事病院だったから、あの病院も当然、調査された。そのときのアメリカ人が何やら騒いでいたのをワンは覚えてるさ。島で英語のわかる若者がいてね、その内容を聞いてたのよ。アメリカ兵が一人、行方不明になった、神隠しだ、と言ってたらしいさ。しばらくして、島の支配のために数人を残して、アメリカ軍は撤退。捜査は終わったというわけさ」
 アメリカ兵が、消えた? 元は敵国だった国で、味方が一人消えた? それは重要なことだろう。下手すれば反乱の可能性もある。そんなに大事なことなのに、なぜ他のアメリカ兵は早々に引き上げたのだ。
 疑問はたくさんあったが、神主さんの話はなおも続く。
「それから、沖縄は返還されて、アメリカ人も完全にいなくなったある日。当時にしては珍しく観光客が来たわけさ。年とったやまとぅんちゅでよー」
 やまとぅんちゅーとは先ほども聞いたが、本土の人という意味だ。
「そのやまとぅんちゅーがある日、泊まってた場所から突然いなくなった。したらさー、たまたま兄山に登っていくのを見たって人がいたからよ。何人かで、山頂の小屋を見に行ったけど、いなかった」
 兄山の道は一本道であり、まず迷うことはない。実際に登った俺だから、それはよくわかる。では、その観光客はどこに行ったのか。ここまで考えれば答えは導き出せる。
「当然、廃病院の方も考えたさ。けど、皆、臆病になってからに。誰も行かなかった。沖縄返還後、この島にも、おまわりさんが来てね。まあ、今はちょっと年とってボケちゃってるんだけど、この人がまた勇気ある人でよー! 島人が門までしか入れなかった廃病院を、壊れた窓から入って探してくれたのよ。……でも、見つからなかった」
 神隠し。行方不明。普段聞きなれない、その分、不気味な単語だ。昼間見たあの廃病院を思い出すと、鳥肌が立つ。
「それから数年が経ち、この島も栄えてきてね。宿が何軒か建ったわけよ。そのころから観光客も増えてきてよー。けどやっぱり……また、神隠しにあった人が出たわけさ。人が消えるなんて、まったく不思議さー」
 また人が消えた。死んだのではなく、消えた。その身体がある日、忽然と。
「隔離病棟の感染病は未知の病で、感染すると身体が溶けて、最後には消えてしまう病気だったっていう話だよ」
 未知の病。感染すると身体が溶ける。そんな病原菌ってあるのか? その病原菌はまだ、病院内に留まっているというのか?
「神主さん。俺ら、行ってしもうたんやで? その廃病院! 溶けてまうん?」
 今まで退屈そうにしていたピーコが焦り出した。無理もない。近くとは言えど、あの建物に行ってしまったのだから。
「いや、近くまで行った人ならたくさんいるさ。ここに帰って来れたなら大丈夫! 感染した人は、ここに戻ってきてないからね」
 神主さんは俺たちを安心させるように笑顔を見せた。そういえば、おまわりさんも廃墟へ侵入したと言っていた。その人がいなくなっていないのだから、病原菌はもう残っていないんだろう。
「だから、あそこには近づいちゃだめさ、わかった?」
 神主さんはまた、強く警告した。俺とピーコはそれを真摯に受け止め、ただ頷くしかできなかった。どこまでが真実で、どこからが噂なのかは分からないが、この場はとりあえず引き下がるしかないだろう。
 神主さんからはこれ以上の情報は聞けない。今までの話や神主さんの強い剣幕から、あの廃病院がどれほど島人に禁忌とされているのかもよく分かった。しかし、島人全員がそうだというわけじゃないかもしれない。林昌さんや昌子姉さんなら、何か聞くこともできるだろう。
 それに、もしかしたらヒナちゃんが詳しいことを知っているという可能性もある。そう思ってヒナちゃんを見たが、その表情をうまく読み取ることはできなかった。
 人魚伝説、人魚、神様、ミイラ、神木、兄山、弟山。隔離病棟、感染病、軍事病院、戦争の拠点、終戦、アメリカ軍の支配、調査、神隠し、行方不明、続々と消える人々。この島にはいくつもの事象が複雑に絡まり合っている。俺たちは、もしかしてとんでもない建物に入り込もうとしてたんじゃないだろうか。そう考えると、背筋がぞっとした。

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