第八話 『仮説と真相の境界線』

 人魚の涙
        word:Yoshi
        music:Okinawa-Jihen


 青い海を見て今日も歌う
 よせてはかえす波のように繰り返し
 青い空の下ひとり歌う
 照りつける太陽だけを観客に

 私はずっとひとりぼっち
 寂しい寂しいと
 今日も孤独を抱えてひとり歌う

 きっとそれは歌じゃなくなぐさめ
 いつか寂しさに消える私の涙
 誰か私と一緒に歌って
 泣いてくれるならそれが幸せ


 呼んでくれた声は温かく
 よせてはかえす波のように穏やかで
 振り向いた私に見えたものは
 意外なことに貴方の泣き顔

 貴方もずっとひとりだった
 悲しい悲しいと
 いつも孤独に震えて泣いていた

 きっとこれは奇跡という魔法
 貴方と出逢わなければ私消えてた
 童話の中の人魚のように
 嬉しいのは貴方と生きる今日


 長い長いときを
 これからもずっとふたりで
 長い長いときを
 これからも貴方とふたりで

 そう願う私はひとりじゃないマーメイド

 *

 ――ギターの音がフェードアウトしていき、そして消えた。しばしの静寂。
 完全にその余韻が消えたと同時に、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。突発で演奏した割には高く評価されたらしい。俺たちは色んな人から引っ張りだこにされた。ライブの熱気は冷めやらぬ様子で、そのまま打ち上げに移行する。富士は料理やお酒も少しなら扱っていると林昌さんは言っていた。
 正博さんは各席からの注文を受けて忙しそうに駆け回る。従業員も総動員で、もちろん、ヒナちゃんやケイタさんもその手伝いに加わった。俺たちはいつもの四人組で一席借りると、遅めの夕飯を食べることにした。
 俺たちが夕飯を食べている間もたくさんの人が代わる代わる声をかけにきてくれる。皆、口々にライブの感想を述べてくれた。よかった。すばらしかった。楽しかった。そんな感想を聞くと心から嬉しくなる。無茶ではあったが、ステージに立った甲斐があった。俺は話しかけてくれる人に笑顔をかえし続けた。
 やがて時刻もだんだんと遅くなると、寝床へ帰るのだろう。一人また一人と席を立ち、その人数は次第に少なくなってきた。やがて騒ぎが少し収まると、ケイタさんとヒナちゃんが俺たちのいる席へと加わった。正博さんも他の客が全て帰ったことを確認すると、ビールを持って現れた。
「今日はお疲れさま。まあやってくれよ」
 正博さんが持って来てくれたのはオリオンビールだった。さきほどライブでも歌った、三ツ星のラベルが印象的なビールである。風味はまろやかで、ビールが苦手な人でも飲めるような味わいだ。逆に言えば、普通のビールが好きな人には少し物足りないかもしれない。俺は普通のビールよりも、このオリオンビールの独特の舌触りがたまらなく好きだが。
 みんながビールを味わっているのを見て、ヒナちゃんがコップに手を伸ばす。
「未成年なんだから駄目よ、ヒナちゃん」
 ノゾがそう言ってコップを取り上げようとするが、正博さんがそれを制した。
「いや、いいんだ。イベントのときはいつも飲ませてるんだよ。もちろん、ちょっとしか許さないけどね」
「でも……」
 正博さんはそう言うが、ノゾはコップを渡すのを躊躇していた。
「沖縄だと珍しいことじゃないよ、郷に入りては郷に従えって言うだろう? 気にすること無いよ、ノゾちゃん」
 ケイタさんまでもがそう言ったので、ノゾは渋々コップをヒナちゃんに渡した。
 未成年の飲酒を止める大人が一人もいない。珍しい光景だが、もはや何が起きても気にならなかった。ここは本土じゃないのだから。島には島の慣習がある。
「あ、ちょっと待っててくれないかな。今、泡盛も持ってくるから」
 正博さんはそう言うと席を立つ。そして、すぐに帰って来る。
 その右手には一升瓶、左手には人数分のグラスと、ミネラルウォーターの入ったペットボトル容器、氷の入ったケースを乗せた盆を持っている。どうやらこれを取りに行ったらしい。
「泡盛だからちょっとアルコール高いよ」
「あ、これ昨日飲んだやつだ!」
 メグが目ざとく、一升瓶の銘柄を見つけて声をあげる。そこには『月酒』と書かれていた。昨夜、林昌さんが振舞ってくれた地酒である。
「お、もう飲んだのか。君たちもこの島を堪能してるようだねえ。ささ、お好きなように水と氷で割ってくれ」
 正博さんは順番にグラスに一升瓶の中身を少しずつそそぎ、皆に配った。もしきついようなら薄めて飲めということだろう。俺は何もいれずにストレートで頂いた。
「どうだい? 何度飲んでも美味いだろ?」
 周りを見ると、みんな美味しそうに飲んでいた。
「ちょっと前にテレビの特番でも紹介されたほど、美味しいんだよ。あれも南月島を有名にするのに一役買ってくれたなあ」
 正博さんは特番について語ってくれた。
 リゾート化にあたって、「南月島」の知名度をあげるために何か方法はないかと色々話し合ってたと言う。そのとき偶然にも、日本でもトップクラスのバーテンダーが、南月島の地酒『月酒』をテレビの特番で紹介するという話が出た。島民はその話を大歓迎した。
 月酒は、泡盛の中でも珍しい喉越し、舌あたりであり、高いアルコール度数を持ちながらも飲みやすいという珍しい性質を持つ。おそらく、南月島の位置条件、気候条件などの条件が重なったためだと言われている。
 何にせよ、島にもテレビ局がきて月酒の取材が行われることになった。このとき、同時に人魚のミイラも撮影させて欲しいという話が出たらしいが、当時は断ったのだと言う。ミイラの存在を公言してはいけないというのが古くからの掟だったからだ。まだそのときは、島の老人たちの大反対によって、人魚の姿を世に知らしめることは許さないという意見が圧倒的に強かったのだ。正博さんの話を聞いていると、リゾート計画も一筋縄ではいかなかったということが分かる。知名度を高めるならそのときに人魚のミイラも公表した方が効果的だろうに、そうしなかったのはきっと神主さんたちのようなお年寄りが反対したからなのだろう。
 そういう事情でこのときは月酒の取材だけ行うと報道陣は帰り、やがて特番で南月島が報道された。
 番組が放映されたお陰で、南月島の知名度は少しだがアップした。ダイバーや、酒好きの人などは例年にも増して訪れるようになった。しかし、致命的な欠点があった。観光客の多くをしめる、家族連れや若者グループが来なかったことである。しかしながら、観光客がそれなりに増えたのも事実。メディアの影響力の強さを島の人は深く実感した。より有名な観光地にするため、人魚のミイラを公開してはどうかという案が出た。
 お年寄りは根強く反対したらしいが、過疎化には抗えないことも十分承知していた。それほどまでに島の人口は激減していた。このままでは自分達がいなくなったとき、島には誰も残らなくなり、島もその存在を消してしまう。長老であるナミーさんや、神主さんの了承もあり、翌年にはミイラをテレビ公開して、人魚祭りを大々的に宣伝することにしたらしい。
 そしてホテルの建設もすすめ、現在の南月島があるのだと言う。
「へー、そうだったんだ……」
 長い話を聞き終えて、周りを見るとピーコもノゾもメグも爆睡してた。ヒナちゃんとケイタさんはまだまだ元気いっぱいの様子だ。
 ピーコたちのような本土の人間には月酒はきつかったのかもしれない。まろやかで飲みやすいために、ついつい自分の飲める限界量を越えて飲んでしまったのだろう。普段飲まないような強いアルコールを一気に口にしたせいで、三人は酔いつぶれていた。カクテルなどはジュースのような味でついつい飲みすぎて酔いつぶれる人がいるが、あれと同じような感じだと思った。
「ははは。皆、寝ちゃったな……起きるまでてーげーにここにいていいよ。毛布もあるからさ」
「あ、すみません」
 正博さんはその様子を見てそう言ってくれた。寝ている連中に代わって俺が返事してやる。寝ていて返事ができないのだから、俺が礼を言うしかない。この三人をホテルまで連れて行けと言われたら、いくら距離が近くても流石にきついものがある。俺は正博さんの厚意に心から感謝した。
「気にしなくていいよ。今日は皆のお陰で本当に楽しかったしね。僕は今から、富士の閉店作業やってくるよ。さすがに全部、従業員に任せるのは悪いからね、店長の僕も働かないと」
 そう言うと、正博さんは店の奥へと行ってしまった。
 後には爆睡、この場合は爆酔の方が正しいかもしれない――爆酔するピーコ、ノゾ、メグと、まだ起きている俺、ヒナちゃん、ケイタさんが残された。まだ少し、月酒も残っている。一升瓶一本を七人で飲んでいたのにまだ残っているというのは、酔いつぶれて眠ってしまった三人がどれほども飲んでいなかったことを物語っていた。
「みーんな、お酒弱いやっし」
 ヒナちゃんがけらけらと笑う。中学生でこれだけお酒に強いのも異常な気もするが、そう言う本人も酔っているようだ。普段のヒナちゃんとは思えないほど多弁で、何より決定的におかしいのは常に笑いっぱなしであることだった。笑い上戸であるらしい。
「飲みなれてないなら仕方ないよ」
 ケイタさんが丁寧な口調でフォローを入れる。この人の口調は酔っていても滑らかだ。まったく酔っていないのかもしれない。
「ケイタさんって沖縄のなまりないですよね」
 思ったことをそのまま口に出してしまう。ついつい敬語になる。そもそも年上の正博さんに対してタメ口で話していることのほうが変な話で、こちらが普通なのだ。敬語とは敬意を表す言葉だ。年上に使って何もおかしなところはない。それに何よりも敬意を表すべきは、ケイタさんがハーバード大学卒業ということだ。
「あ、タメ口でしゃべってくれよ」
 しっかりと聞きつけて、ケイタさんは念を押して言う。
「あ、そう? それなら遠慮せずにしゃべらせてもらうよ」
 俺が言うと、ケイタさんは微笑んで肯定の意を示してくれた。
「それでお願いするよ。んー、沖縄のなまりか……考えてこともなかったけど、言われてみたらそうだね。たぶん、ずっとアメリカに住んでて、普段は英語しか使わないことが原因だろうね。あ、前にも話したかな、この話」
「ケイタにーにーはねー。一年に一回くらいしか日本に帰ってこないさー。帰って来ても南月島には来てくれなかったさー。ヒナはずっと待ってたのに、ケイタにーにーの馬鹿っ! 昔はよく遊んでくれたのにさ……」
 ヒナちゃんはそこまで言うと、机に突っ伏した。眠気が襲ったのだろう。酔いも手伝って、眠ってしまったようだった。
 俺とケイタさんは顔を見合わせて、笑った。
「……久々に会ったけど、比奈、すごくおとなしくなってて驚いたよ」
 ケイタさんはそんなヒナちゃんを見て言った。
「そうなんだ。最初なんて俺たちには全然話しかけてくれなくてさ」
「母親を亡くしたショックもあるだろうし、島で仲良かった子が引越しちゃったりしたことが原因だとは思うのだけど……大切な人を失うってとても辛いことだから」
 ケイタさんは悲しそうに呟いた。日頃のケイタさんからは想像もできない、陰のある表情だった。
「大切な人を失う……か」
 俺は思わず、じいちゃんのことを思い出していた。ケイタさんは俺の様子を見て、慌てて謝った。
「ごめん、何だか悪いこと言ったかもしれない、ごめんよ」
「いや、死んだじいちゃんのことを思い出しただけだから、気にしないで。俺、おじいちゃんっ子だったんだ……でも、今はもうほとんど立ち直ってるし。それに、俺なんかよりもケイタさんが――」
 謝るケイタさんの顔によぎった深い悲しみを俺は見逃さなかった。
 大切な人を失った悲しみは消えるものではない。けれども、時間がある程度の傷を癒してくれる。傷は完全に消えないけれど、それを時間が覆い隠してくれる。怪我をした部位を瘡蓋(かさぶた)が覆ってくれるように。
 俺の傷跡は時間がほとんど無くしてくれた。今でもまだふと悲しくなるときはあるけれども、四六時中、悲しいわけではない。だけど、ケイタさんは――
「……僕は、恋人を亡くしたんだ」
 ――ケイタさんは今もその傷を抱えて生きている。
「アメリカでできた彼女だった。ジュリーって言ってね。すごく綺麗で気立ての良い、本当にいい子だった。だけど彼女は……」
 そこでケイタさんは話すのをやめ、月酒を一気にあおった。
「……彼女は、病気で死んだんだ」
 ケイタさんは今度こそ、話すのをやめた。静寂が部屋に漂う。コップの中の氷が溶けて、音を立てた。音はとても大きく聞こえた。
「ごめん」
 静寂を破ったのはケイタさんだった。
「ちょっと酔いすぎたみたいだ。今の話は翔くんの心の隅っこにとどめておいてくれないか」
 ケイタさんはそう言うと、微笑んでみせた。まだぎこちなくはあったが、そこには昨日までのケイタさんがあった。
「もちろん」
 俺は好き好んで人の傷口を開くような真似はしない。したくない。
 ケイタさんが触れないでくれと言うなら、俺はケイタさんの過去には踏み入らない。
 お互いまた一杯ずつ、月酒をコップに注いで乾杯をした。仕切りなおしだ。
「そういえば、ケイタさんって地質学だっけ、専攻してたの?」
 当たり障りのない質問をする。先ほどまでの会話を忘れるための質問だ。
「そうだよ。大学、大学院と地質学を専門に勉強してたよ。今はその知識を生かして、地質学調査所っていうアメリカの公の研究所で働いてる。翔君は今、大学生なんだっけ? 何を勉強してるんだい?」
「生物学を専攻してる。あ、ピーコも俺と同じ専攻だ」
「そうなのかい、実は僕は生物学も少しかじったりもしたんだよ。その観点から言うと、この島の人魚のミイラは面白いよ。よく観察してみるといい」
「それならすでに見せてもらったぜ。まあ、こっそり見せてもらったんだけど……」
「ああ、神主さんは人魚のことになると時々見境がつかなくなるって比奈も言ってたなあ。あの人ならやりかねない。現に僕も見せてもらったからね」
 ケイタさんはそう言って笑った。ケイタさんもあれを見たというのか。ハーバード大学卒業者の意見も聞いてみたかった。
「あれ、ケイタさんはどう思う?」
 ケイタさんはしばらく考え込んでいたが、考えがまとまったのか口を開いた。
「翔君はジュゴンって知ってるかな」
 もちろん、ジュゴンくらい知っている。しかし問題はそこではない、俺はケイタさんの言おうとしていることを瞬時に理解した。
「あれはジュゴンだって言うのか?」
 ジュゴンが人魚の見間違いだという説は有名だ。そして、沖縄県にはジュゴンも少ないが生息している。
「うん。そうだと思うんだ」
「けど、それじゃおかしいだろ。ジュゴンの身体構造上、あんな前足……手はありえない」
 あれはとてもじゃないが、前足というものではなかった。手と表現できるものだった。
「じゃあ聞くけど、あれが完全に人間の手と同じように見えたかい?」
 俺は記憶をたどる。あれは前足とは言えない、手と表現できるものだった……はず。しかし、逆にはっきりと人間の手だったと言えるだろうか。指は五本あったか。いやいや、五本あれば人間の手なのか。
 全てが曖昧だった。記憶すら曖昧だ。継ぎ目などは確かになかった、と思う。生物であることには間違いないだろう。だけど、あの干からびた身体が人間のそれと同一であるかと聞かれると、はっきりした解答は出ない。
「あれはおそらく、ジュゴンの突然変異だと思うんだ。それも集団で生息してるんじゃなくて、あれ単体の話」
「ああいった種族が存在しているのではなくて、ある一匹のジュゴンが突然変異を起こしただけってこと?」
「そうだよ。あともうひとつ、僕はおかしいと思うことがある」
 ケイタさんは言おうか言うまいか悩んだらしく、一瞬間を開けたが、俺の顔を見て話しても良いと判断したらしい。
「数千年前に見つかったミイラにしては、あのミイラは保存状態が良すぎるんだ。そんなに古いものだとは僕には思えない。根拠はないのだけど、以前、人工的に作られた猿の燻製を見たことがあるんだけど、それと同じくらいの保存年数に見える……そうだな、五十年から百年くらい前のものじゃないかと思う」
「つまり、島おこしのためのでっちあげ……?」
「いや、ミイラが偽物と考えてるわけじゃないよ。きっとその点では本当だと思う。伝説もきっと大昔から伝わってたんじゃないかな。僕がおかしいと思っているのはミイラが見つかった時期だよ」
「数千年前に見つかったのではなくて、五十年前……あ」
 俺はそこまで言って気づいた。五十年前から百年前と言えば、第一次、第二次世界大戦の起きた時期だ。
 突然変異とは環境や遺伝、その他様々な要素によって引き起こされる現象である。環境破壊、公害によっても起きることもはっきりと判明している。人魚の発見の時期がもし、戦時中、あるいは戦後であるならば……。戦時中は数々の兵器が使用された。様々な環境が破壊された。
 それにともなう、突然変異であるとケイタさんは言いたいに違いない。
「戦争の与えた影響は僕らが想像するよりも遥かに大きくて、その産物があの人魚なんだと思うんだけど、いずれにせよ、あのミイラを研究できないうちは真実は闇の中だね」
「とんでもない説だな」
「説というか、僕の妄想に近いんだけどね。あははは」
「まあ、それを確かめることはできないだろうな……」
 島がミイラを一般公開した理由はリゾート化のためだ。島は有名になって、その目的は達成された。これから先ずっとミイラの解剖やレントゲン検査をすることはない。なぜならする必要がないからだ。島の目的が達成された今、神聖な人魚をこれ以上汚すようなことを島人は良しとしないだろう。
 それに人魚のミイラが島の財産である以上、外部の者がそれを許可なしに調査することはできない。本当に人魚のミイラなのか、突然変異のジュゴンのミイラなのかを調べることはできないのだ。
「でもその方がいいんじゃないかな。僕や翔君とは違って、人魚を信じる人には夢が残ることだしね」
 ケイタさんは俺の考えを読み取ったように言った。ヒナちゃんもノゾもメグも人魚の存在を信じている。その夢を壊すわけにはいかない。幸せそうな寝顔の一同を見ていると、人魚が本物かどうかなんてどうでもいいように思えた。
 ケイタさんはまだ飲み足りないのか、グラスに月酒を足した。ご丁寧に俺の分まで入れてくれる。
「けどね、翔君。僕はこの島に訪れるまで知らなかったんだけど……今でもいるらしいんだ」
「今でもいる……?」
「あ、もうお酒無くなったな……これでお互いに最後の一杯だ」
 そう言って、ケイタさんは俺にグラスを渡してくれる。お礼を言って一口含む。やっぱり美味い。
「そうそう。まだいるらしいんだよ……人魚が。島の人の何人かが目撃しているらしい。比奈も見たらしいよ。どれも目撃談ばかりで、写真も無くて証拠のない状態なんだけれどね。目撃者がいっぱいいるって不思議じゃないかい?」
 人魚の目撃談。それは初耳だった。映画の『人魚の涙』を思い出す。映画の中の人魚は一匹ではなかった。たくさんの人魚が登場していた。
「もし……、発見されたミイラと同じものが今もこの島にいるとするなら、それは突然変異とかじゃなくて、本物の人魚という種族ってことになるのか……?」
「そういう可能性もあるね。ただ、それは人魚じゃあない。翔君ならわかるだろう。人魚の身体構造が生物学的にありえないことが」
「魚類と哺乳類の組み合わせは、お互い反作用を起こして成り立たない」
「そういうこと。だからさっきは突然変異のジュゴンの可能性が高いって言ったのだけど、複数存在しているなら話は別だ。突然変異じゃなくて、新種の生物がこの近くに住んでいる可能性がある」
 突然変異とは個々の生命体に起きる事象を指す。新種のジュゴンであるならば、複数存在する生物群だ。つまり、あのミイラは環境破壊の結果として害を受けた一匹の生き物ではなく、ちゃんとした種族の内の一匹だと言うことだ。
 人魚の目撃談が単なる見間違いによるものなら、最初にケイタさんが出した説に何もおかしなところはない。しかし、何人も同じようなものを見ているのだからその可能性は低い。正体はわからないが、“人魚”という未知の生物のいる可能性はあるということ。もちろん、魚類と哺乳類の組み合わせではない、新種の生物の“人魚”だ。
「人魚ではないが、人魚に類似した種族が存在してるかもしれないってことか……」
「ご名答。僕がこの島に来た目的を知ってたかな?」
 急に話が変わったが、人魚の件に関してこれ以上話し合う余地は無いように思えた。ケイタさんが話を変えるのももっともだ。
「正博さんとヒナちゃんに会いに来たんだろ?」
「それもあるけど、僕は人魚の写真を撮ってみたいと思ったのもあるんだ。人魚というか、うん。まだ見ぬ生物の写真をね。翔君、もし見かけたら教えてくれないかな?」
 きっといると思うから、とケイタさんは言った。どこまでが本気かわからなかった。
 この島に昔から人魚伝説がいるならば、あるいはそういった生物が存在しているのかもしれない。見かけたら教えてくれ、などと言うが見かける自信はなかった。しかし、その場はとりあえず頷いておく。
「しかし、人魚と言い、神隠しと言い、この島は不思議でいっぱいだな……」
「神隠しって何だい?」
 俺のつぶやきをケイタさんは聞き逃さなかった。
 そうだった。この話をケイタさんにして、皆の馬鹿げた廃墟探検を止めてもらわないといけないのだった。
「実はケイタさん。明日、俺たちでその謎を解きに行こうって皆でしゃべってたんだ。皆、行くって言って聞かなくてさ」
 俺はケイタさんに、島にある廃墟のことや、林昌さんから教えてもらった神隠しのことを話した。
 きっと馬鹿げたことはやめようと言い出してくれるはずだ。そうすればそれを理由に一緒にメグたちを説得してもらえる。ケイタさんは人魚の話からも分かるように、現実的、科学的な考えをする人だ。だから、廃墟は倒壊する可能性があって危険だからやめろと言ってくれる――
「へえ……面白そうだね。僕とヒナも行ってもいいかい? 廃墟の写真とか撮りたいしさ」
 ――予想外の答えだった。俺の言葉はむしろ、ケイタさんを喜ばせてしまったようで、本人は行く気満々になってしまっている。こうして明日の廃墟探検は確実なものになってしまった。
「いいけど、ヒナちゃん来るかな?」
 一縷の望みを託して、言ってみる。
「ヒナはお化けとか怖いくせに、皆で行くとなると来たがるんだよ」
 もう半ば予想はしていたが、その望みも消え失せた。
 お化け屋敷にやたらと入りたがるのに、いざ入るときゃあきゃあ騒ぐような感じか。ただ単に自分ひとりが置いてかれるのが寂しいだけかもしれないが、何はともあれ、廃墟に行かない、行けない理由をでっち上げることは不可能となった。
「じゃあ、明日は皆で廃墟探検! 決まりだな」
「うん。廃墟まで案内、よろしく頼むよ……さて、詳しい話はまた明日にして、今日は寝よう」
 半ばやけくそ気味な俺にケイタさんは欠伸をしながら言った。もうこんな時間か、時刻はすでに日付を跨ぎ終えていた。俺も眠くなってきたような気がする。そろそろ寝ないと明日に支障が出るかもしれない。
「翔君、毛布運ぶの手伝ってくれ。いくら眠くてもこのまま寝たら、みんな風邪ひいちゃう」
 ケイタさんは、押入れのようなところから毛布を取り出している。『ゆんたくルーム』には俺たちのように酔いつぶれて眠ってしまった人のために用意してあるのか、それとも元々ここを宿泊場所として使うこともあるのかわからないが、押入れの中には毛布がたくさんしまってあった。
 俺とケイタさんは、メグやノゾ、ピーコ、ヒナちゃんに順番に毛布をかけていった。最後に俺とケイタさんの分を取り出し、押入れをしめる。
「じゃあ、今日はもう寝よう。明日が楽しみだなあ」
 ケイタさんはそう言うと、早々に布団に潜ってしまった。
 その姿を見ていると眠気を助長されたのか、猛烈な睡魔が一気に押し寄せてきた。月酒を大量に飲んだせいかもしれない。皆が飲み残したからって、ほとんど全部ケイタさんと二人だけで飲んでしまったからな。ケイタさんはすでに眠りに落ちているらしく、隣で穏やかな寝息を立てている。
 俺も寝ないと、と意気込むまでもなく、俺の意識はだんだんと沈んでいく。人魚……ジュゴン……未知の生物……神隠し……頭に様々なワードが浮かんでは霧散して行く。思考する気力もアルコールによる睡魔の前には何の意味もなく、やがて俺は深い眠りに落ちた。

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