第九話 『虚ろなる地』

 鬱蒼と茂る草が足に絡みつく。わざわざ山登りしてまで廃病院に行こうとする物好きが六人、兄山の小道を歩いていた。例の大きな道から分岐した先の獣道である。ちなみに物好きな六人のうちの一人は不本意ながらこの俺である。
 今日はピーコも前回の失敗を活かして丈の長いズボンを着用している。他の皆も長ズボンを着用しているのでさほど苦にならないようだった。俺のポケットの中にはホテルで林昌さんから借りたままになっている懐中ライトが二つ入っていた。もはや、後戻りできる要素など何もなかった。
「本当にこの先にあるのー?」
「この先に間違いあらへんっ!」
 メグは獣道の歩きにくさにうんざりしたのか愚痴をこぼした。語気も荒げて返すピーコだが、その気持ちも分かるってもんだ。廃墟に行きたいって言い出したのはメグなんだから少しは我慢しろよ。
 険悪な二人の様子を見て、ケイタさんが助け舟を出す。
「地図だと確かにこの先だよ。それにしても、こんなところがあったなんてなあ」
「ヒナもよく知らないけど、島に住む人で廃病院のことを知らない人はいないやっし。それに……近づく人もいないやっし」
 ヒナちゃんは心ここにあらずと言った様子で懐中電灯を指でいじりながら、ケイタさんに言った。
 廃墟の中は暗い。俺たちの懐中ライトだけでは心もとない。ヒナちゃんはそれを見越して自分の家から懐中電灯を持参してくれたのだった。
「……どうせ何もないと思うのに」
 ヒナちゃんは口を尖らせて言った。言ったが、このメンバーに加わっているのだ。今更それはないというものだ。しかし表情と口調からして、皆が行くなら仕方が無いとついてきたということがひしひしと伝わってきた。
「……ヒナちゃんの言うとおりだぜ」
 俺は思わず呟いてしまった。それをノゾは聞き逃さなかった。
「じゃあ、別に中に入ってもいいよね?」
「あ、ああ……当たり前だ。それにもう決定事項だろ?」
 何を言っても怖がっているようにしか取られないなら、もう観念して肯定するしかない。『富士』を出るときに正博さんに廃墟の話を聞いてみたが、よくわからないが近づくなとのこと。よくわからないが近づくな――正博さんはこの島の出身ではあるらしいが、それでも廃墟のことは禁忌で老人たちからは一切聞かされていないと言う。林昌さんも同じように言っていた。
 どこまで当てになるかはわからないが、事情を知らない二人が口を揃えて危険だと言うからには、それほどの何かがあるのではないだろうか。ヒナちゃんも深くは知らないと言っていたが、神社で廃病院の話題が出たときには顔色を曇らせていた。それに今のこの様子だと、怖がって近くにさえ行こうとすることはなかっただろう。ましてや、ヒナちゃんの友だちはこの島にはいない。一人で行こうなどという考えを起こすとは思えないのだ。仮に島に子供がもっといれば、ヒナちゃんも皆でこの廃病院に忍び込んだかもしれない。しかし、この島にヒナちゃんと同じ位の年齢の子はいないのだ。さすがにこの不気味な建物を一人で散策しようなんて気にはなれないだろう。ただでさえ異様な雰囲気な上に、れっきとしたいわくつきの建物なのだ。
 島の老人たちは異常とも言えるほど、廃病院を嫌っている。つまり、彼らも廃病院には入ったことがなく、また、ヒナちゃんたち若者も廃病院には入ったことなどないだろう。観光客はその存在を知らない。仮に知ったとしても、外観を見ただけで俺とピーコのように帰ってしまうだろう。今でこそ調子の良いメグもきっと一人で忍び込むとなれば嫌がるはずだ。それほどの何かがあそこにはある。
 廃病院に侵入した経験のある者はいない。あそこが危険ではないと証言できる者は誰もいないということだ。ふと思い出したのは、過去に行方不明者が出たときに、廃墟にお巡りさんが侵入したという話だ。
「……あの廃墟に昔、お巡りさんが行方不明者を探しに入ったことがあるって神主さんは言ってたけど、何かここにあったのかな?」
 俺の言葉を聞いて、ヒナちゃんが顔をあげる。
「あの、ボケたお巡りさん?」
「ボケた? ああ、神主さんもそんなこと言ってたな」
 商店街にいた、よれよれの制服に身を包んだ年配のお巡りさんの姿が頭に浮かぶ。カップラーメンを食べながら寝ていた、頼り無さそうなお巡りさんだったな。
「……あのお巡りさん、ちょっと頭がおかしいさ。廃墟に入ってから頭がおかしくなったっていう話をヒナは聞いたことあるさ」
 ヒナちゃんは顔をしかめて見せた。これから行く廃墟のことを思い浮かべたのかもしれない。
「あの廃墟に入ったら、頭がおかしくなるの? ばっかみたい」
 メグは前方を指差して鼻で笑った。
 俺たちの視線の先にはもう、朽ち果てた、以前は病院だったらしきものがそびえ立っていた。

「ふーん。なかなかノスタルジックな感じが漂ってて……被写体としても申し分ないなあ。少し撮っておくかな」
 ケイタさんはひとしきり廃病院の外観を観察すると、ずっと肩にかけていたショルダーバッグの中からカメラを取り出す。そしてカメラを構えると、さびて半壊してしまった門をひょいっとくぐって一人で奥へと行ってしまった。
「……ケイタさん、あんまり先々行くと危ないって!」
 俺は慌ててその背を追いかけた。
「ここは見た目はひどいけど、そんなに老朽化してないみたいだよ。戦前からあるのに、丈夫な造りだね」
 ケイタさんは壁を叩きながら、飄々(ひょうひょう)と答えた。ケイタさんが叩く度に小気味よくコンコンと音が鳴った。どうやらケイタさんの言うとおり、この建物は倒壊の心配は無いようだった。
「全壊してないのは建物の頑丈さのお陰で、手入れをしていた人がいたわけじゃないみたいだ……長い間、門の中まで訪れた人がいないのは事実だね」
 ケイタさんは元は庭だったであろう、ぼうぼうと雑草の生い茂る敷地内を見渡して言った。
 雑草に紛れて、錆びた機材らしきものの成れの果てがちらほらと見える。病院の機材か、また、戦闘用の機械か。もはや、今の赤茶けたそれからは何も読み取ることはできなかった。辺りをよく見回すと機材の残骸の他に、鉄製の水筒や、なかば地面に埋まるようにしている革靴、壊れたバケツなども散らばっている。もしかして、探せば、白骨死体くらい出てくるんじゃないか……?
 沖縄本島ではいまだに戦争によって亡くなった人の骨があらゆる所に埋まっていると言う。そしてそれは山奥など人目につかない場所に多い。ここの条件にぴったりだ。山登りで全身にかいた汗が、今は妙に冷たく感じる。活気のある観光地の片隅にこんな場所があるなんて想像もしていなかった。
「翔君、みんなが呼んでるよ」
 ケイタさんの呼び声で我に返る。ケイタさんの言う通り、ピーコの呼び声が聞こえた。聞こえる大きさから、少し離れた場所にいるらしいと判断できる。声のする場所に向かおうとして、ケイタさんのことを思い出して振り返る。ケイタさんは、一心不乱にシャッターを切っていた。
「あ、俺あっち行くけど……ケイタさんは?」
「僕はもう少しここの風景を撮りたいから先に行っててくれよ。あとから追いかけるからさ」
 俺は邪魔をするのも悪いと思い、俺は一人でピーコの声のする方へと向かうことにした。ピーコたちは俺とケイタさんのいた場所のちょうど正反対に位置する場所にいた。
「どこいっとってん、翔」
「ケイタさんが先々行くから追っかけたんだけど、まだあっちのほうで写真を撮りたいらしいんだ」
 ノゾとメグ、そしてヒナちゃんの女の子三人組は建物を物珍しそうに観察していた。
「すごく寂しそうな感じの建物……、お化け出そうだね」
「あたし、こんな感じのとこ来たことないわよ」
「ヒナもこの島に住んでるけど、ここまで来たのは初めてさー」
 女の子はきゃーきゃーと声をあげているが、対照的にピーコは静かなものだった。どこかそわそわしているようにも見える。声をかけるとピーコは周りをきょろきょろと見回しながら答えた。
「何か……妙な感じせえへん?」
「妙な感じ?」
 言われて俺は辺りを見回した。先ほどケイタさんと見た側の風景とここ、特に違いはないように思える。違いと言えば、背丈の高い草が生い茂っているくらいだ。こちらが北側なんだろうか、少しだけ気温が低い気がする。そのせいか雑草の数も多いように感じた。門からここまでは何とか歩いて来れたが、これ以上は草が生い茂っていて先に進むことはできないだろう。草地にはハブが住むので危険だ。
 けれど、危険性は高くてもピーコの言うような妙な感じというようなものは感じなかった。
「まあ、これ以上奥に進めないだろうなってのはわかるけど特にこれと言って気になることは……あ」
 ピーコの言う妙な感じとやらを探そうと建物を見渡したときに、窓を塞いでいる木が腐ってほぼ取れかけている箇所があることに気がついた。その木の下のガラス部分は完全に割れているようで、それさえ取っ払ってしまえば容易に侵入できるように思えた。
「あそこ腐ってて入れそうだ」
「ああー! ほんとだ!! ノゾ、ここから入れるよ、ここ!」
 俺の言葉を遮って、メグが興奮したように唯一の侵入手段と思える窓へと近づく。
「ちょっと、メグ……あんまり一人で先に行っちゃ危ないよ!」
 ノゾが制止するが、メグは暴走機関車のように窓へと走って行きその木の部分に手をかける。――瞬間、鈍い音がして腐りかけていた板は簡単に取れてしまった。
「あ、えーと。……と、とったどー!」
「メグ、お前! とったどー、じゃねえだろ! 勝手に壊しちゃって……」
 俺はメグに突っ込んだが、何か変だなと思って台詞を止めた。そうだ。違和感はピーコにある。
 大阪では俺とピーコと二人で騒ぐことがほとんどで、ピーコがボケ、俺は突っ込み役として二人一組という認識が大学内でも定着していた。しかしこの島に来てからというもの、ピーコとメグで二人一組としての認識が強い。親友の俺から見ても、ピーコはいずれメグとくっつくんじゃないかっていうくらいに仲が良いように思える。
 そうか、だから、だからこの場面はこれだとおかしいんだ。俺がメグに突っ込むんじゃなくて、ピーコがメグに突っ込むべき場面なのだ。それなのに――
「ピーコ?」
 ――返事は無い。その上、ピーコの顔色は悪かった。恐怖のあまりにこわばっているのか、それとも本当に体調が悪いのかは判断できない。
「どうしたの?」
「何もあらへんわ、お前ら、どうせまた俺がびびってる思っとるんやろ? ちょっと腹減っただけやから何もあらへん」
「そう? それだったらいいんだけど……」
 メグが心配そうに声をかけたのだが、ピーコは気丈に振舞うと、俺に懐中ライトを渡すように促した。
「とりあえず、一つは翔、一つは俺が持っとくことにするで」
 ピーコはノゾとメグにそう言うと、返事も待たずに建物の中へと向かった。
「んじゃ、いこうや。アホの壊した窓から入るとしましょ!」
 ピーコは気合を入れるように威勢の良い声をあげると、壊れた窓へと向かいひょいっと中へと入って行った。それが何だか空元気のように見えて、少し心配になる。
「誰がアホなのよ!!」
「え? おまえに決まっとるやん」
 メグが怒ったような声をあげると、中からピーコがひょいっと顔を見せた。ピーコは一言だけ言い残すとまた中へと入って行った。その後をメグが怒りながら追いかける。いつもの二人のやり取りだ。残った俺とノゾは互いに顔を見合わせると、二人の後に続くのだった。どうやら、先ほどのピーコの深刻そうな顔は思い過ごしであったらしい。

 ――俺たちはついに廃病院へと入った。
 長年使われなかった建物がどういう変化をたどるのか、俺は今までそんな建物に入ったことはないから比べることは出来ないのだが、ここはあまりにもこざっぱりしている気がした。戦後の引き上げのときに全ての医療機器を持ち去ったのか、それともアメリカ軍の支配下におかれた当時に隅々まで調査されたのか、いずれかの事情であろう。
 懐中ライトがなくても、窓に打ち付けられた木々の合間から入る明かりによって、かろうじて屋内を観察することはできた。しかし、ここを十分に探索するためには懐中ライトは必要不可欠であるだろう。仮に持っていなくても手探りで歩くことはできるだろうが、廃墟は長年打ち捨てられたものである。林昌さんの忠告してくれたように、ガラス片や朽ち果てて抜けた床など、どこに危険が潜んでいるかも分からない。
 俺とピーコの持つ懐中ライトによって照らし出された廊下は壁に沿って一直線にずっと続いているように思えた。俺たちが侵入したのはそのちょうど真ん中あたりに位置する窓の一つのようだった。
「思った以上に広いな……」
「一応、国が建てたものなんでしょ? これだけ大きくてもおかしいことじゃないわよ」
 メグはさらっと言ってのけたが、実際その通りのようにも思える。この建物はレンガを白塗りしたものとコンクリートを合わせて建築されたもののようだ。当然、このような建物は建築するのにもそれなりに費用がかかり民営では大企業でないとまかなえないだろう。政府の管轄ならではと言える。
 沖縄は台風がよく直撃する。それこそ、石を投げれば当たるほどの確率で直撃する。そんな条件の中で、木造建築物が戦前から今まで残ることは不可能だろう。国の直営の建物であるからこのような頑丈な造りであり、そのため今でもこのような形ではあるが現代に残ることができたと言える。
 足下を懐中電灯で照らすと、長い年月のうちに堆積された埃が積もっていた。一歩踏み込んだだけでスニーカーがどろどろになってしまうくらいだ。埃は当然、この足元だけに積もっているわけもなく全体に満遍なく積もっているようで、先に進むなら埃だらけ、泥だらけになる覚悟を決める他にないようだ。廊下は左右にずっと続いているので、先に進むためにそれは覚悟という気持ちの問題ではなく、もはや決定事項と言えた。
「……あれ?」
 俺はそんな廊下を見通しておかしなことに気付いた。この建物にあるまじき物が目の前にある。長年誰も使用していなかったこの病院にあるまじきものが、そこにある。
 ――足跡。何者かの足跡が奥までずっと続いているのだ。観光客が面白半分で入ったのだろうか。確かに、大阪では廃墟探検などと称して肝試しに行く若者は後を絶たない。実際、俺たちも今やっていることだし、別に珍しいことではないだろう。普通だ。しかしここでは、その普通は通用しない。この山深くに存在する廃墟の存在を俺たち以外の観光客が知りうることはないからだ。では、島の人か? ここはいわくつきの建物で、地元民は絶対に入らない。島民は入ることはおろか近づくことすらありえない。そのことは昨日一日でよく分かった。
 じゃあ、何だ。この無数の足跡は一体……何だ。
「あ、足跡?」
 ノゾが俺の目線を追って気付いたらしい。メグもヒナちゃんもノゾの声を聞いて、その目線の先を追う。
「誰かが入っただけでしょ?」
「島の人はここに入らないさ。変ね」
「じゃあ、観光客じゃない?」
「普通の観光客はこんなところに建物があるって知るわけないさ」
 メグの推測をことごとくヒナちゃんが否定した。ようやくメグも気付いたらしい。ここに足跡があること自体がおかしいということに。
「じゃあ、これ……何であるのよ……」
「……お、おばけかな?」
 メグが恐々と言うと、ノゾも震えながら言った。
 あれだけはしゃいでたのに、今ではもう二人とも縮こまっていた。ヒナちゃんも両腕で身体を抱きかかえるようにしている。ひんやりとした空気があたりを流れる感じがした。そして沈黙があたりを漂う。
 廊下の先は暗闇で、一番奥まではライトの明かりも届かなかった。沈黙。暗闇。俺はその暗闇に吸い込まれそうな錯覚に陥る。その考えを振り払おうと慌てて首を振る。
 突如、沈黙を破る音が聞こえた。とんとん、とんとん、と。とんとん――誰もいないはずのこの廃病院の二階から、誰もいないはずの上の階から音が聞こえる。
「な、何の音?」
 メグが天井を見上げる。そこには染みのできた白い天井が見えるだけだ。しかし、音は微かにまた聞こえた。そこから――とんとん、と。
「やっぱり、お化けなのかな……?」
 ノゾがそっと俺の横にくっついた。普段なら舞い上がるところだが、今はそんな場合ではない。この音は何だ。不可解な音はしかし規則正しく、とんとん、と鳴り続けている。
「……やっぱりここには何かいるに違いないさ。だから島の人はみんな、近づいちゃだめだって言ったんだよ……」
 ヒナちゃんが声を震わせて言った。
 昨日、神社からの帰り道。身体が溶ける病気の話や神隠しの話をしたときにヒナちゃんは不安な表情をしていた。今ならわかる。長年この島に住んでいるヒナちゃんならば、この建物にまつわる噂は色々と耳にしていることだろう。ヒナちゃんは怖かったのだ。だけど、今、ヒナちゃんは皆に巻き込まれる形で廃墟に足を踏み入れている。その恐怖はどれほどのものだろう。
 そのことを考えると申し訳なく思う。俺たちのせいで、行きたくもない廃墟探検に付き合わせてしまったのだから。もう帰ろうかと、俺は声をかけようとしたが、ピーコがそんな不穏な雰囲気を破った。
「あほくさ。何でお化けに足あんねん。誰かおるに決まっとるやん。そんなに怖いんやったら、俺と翔で見に行ったるわ」
 あれほどお化けやお化けがいるのではないかと怖がっていたピーコの勇気に驚いた。単純に、怖がる女の子の前でかっこつけたいだけかいう考えがよぎったが、俺はその考えをすぐに否定した。ピーコの目が床に残る足跡、この世に存在する何者かの足跡を見据えていたからだ。
「……って、ちょっと待てい。俺もか?」
「怖いんか、翔?」
 こう言われるともう俺の逃げ場はなかった。それを見て、ノゾが慌てて助け舟を入れる。
「で、でも、ピーコ……ほら、廃墟とかってヤクザの密売とかのスポットでしょ?」
「そうよ、そうよ! それに浮浪者が住み着いてるかもしれないし危ないわよ?」
 メグまで必死になってノゾに賛成してくれる。上の階に潜む何者かに対する恐怖がそこにはありありと浮かんでいた。
「お前らなあ……。ここは沖縄の離島で、しかも誰も知らへんような山奥の廃墟やで? ヤクザとか浮浪者がおるわけないやろ」
「じゃ、じゃあ何がいるって――」
「何がおるかわかるやけないやろ。でもとりあえず、正体がわからへんっちゅーのは気色悪い。ちょっと翔と二階見て来るわ」
 ピーコは堂々と言ってのけた。ここで俺が引くことはできない。
「まあ、危ない思ったらすぐ引き返すでな、皆はその出口確保しといてえや。よし、行こか、翔!」
 もはや俺に拒否権は無く、半ば無理矢理に廊下の一番奥の階段まで引っ張って来られた。二つある懐中ライトのうちの一つはノゾたちに渡してきた。探索する側も残る側もお互いに明かりが無いのは困る。何かあったときに対処できなくなる可能性もある。……よって、俺とピーコの持つ明かりは一つ。満足とまでは言えない光量ではあるが、歩くのには十分な量であった。現在、懐中ライトを手にしているのはピーコで、俺はその後に続いている。
 埃の積もった廊下は油断すると何度となく滑りそうになる。俺は何度目かに足を滑らせたとき、思わず階段脇にある手すりをつかんだ。案の定、手にはべっとりと埃がついた。忌々しく思いながらズボンでそれを拭ったが不安な点はそれだけで、コンクリートでできている床が抜け落ちる心配などはなかった。
 今踏みしめているこの階段にもやはり、先ほどの足跡が続いている。ピーコは手にした懐中ライトを上へと向けた。俺もその明かりの先を目で追う。何も聞こえない。何も見えない。先ほど、階下で聞いた音も一切聞こえなければ、動くようなものも何も見えなかった。
 俺とピーコは無言のまま、二階へと上がった。ピーコは手にしたライトで二階の廊下を照らした。こちらも一階と同じ造りらしく、廊下が窓際にそって真っ直ぐと続いている。そしてやはり、廊下には足跡が続いていた。
「ここもやな……」
 ピーコは足跡を見るとそう呟いた。
「そうだな」
「一体、何なんやコレは?」
「なあ、ピーコ」
 俺は疑問に思っていたことを口にしてみた。
「お前、実は怖がりだろ?」
「あ、あほぬかせ!」
「じゃあ俺、下に戻ろっかな?」
「う……」
「なあ、ここにはメグ達もいないから正直に言えって。俺だけだしさ」
 ピーコはしばらく一人で唸っていたが、俺がいなくなって一人で探索することと、今ここでカミングアウトすることを天秤にかけた結果、観念して口を開いた。
「俺な。昔から変なもん見るんやわ。ほら、火の玉とかな。ずばりお化けですってもんは見たことないねんけども、うっすらと光るものとかやったら見たことあるねん。それがお化けかどうかはわからへんけどな。冷静に考えたら単なる見間違いとか、自然現象やって思う。でもな、ちゃうねん。理屈やないところで俺の頭がそれを否定しとんねん」
「霊感があるってやつか……?」
「そうやねん。あとこんな、いわゆる心霊スポットみたいな廃墟とか来ると何ていうんかな。気分悪なったりするんやわ」
「ああ。それでここ来たとき気分悪そうにしてたんだな」
「そうやねん……でも俺な、お化けおるとか言われたらやっぱ否定したくなるねん。ちゃんと理屈で解決できる思ってるっちゅうんかな」
「――俺も科学的に解明できると思ってるさ」
 女性陣がいなくて、俺たち二人共が同じ想いであるならば、腹を割って話すことに何の躊躇があるだろう。俺たちは顔を見合わせた。
「だって、お化けおったら怖いやん」
「だって、幽霊いたら怖いし」
 その言葉は見事に一致した。心霊現象には科学的に解明できるものとできないものがあるという。
 もし、今回の場合が解明できるものであるならば、そこに幽霊はいないということ。解決。何も怖いことなどない。
 もし、今回のことが解明できなかったのであれば、帰って忘れて寝てしまえばいい。結論。怖いものには蓋をしろ。
 幽霊とは正体の分からないもの。分からないからこそ、人に恐怖を与える。だがもしそれが科学的に、物理的にしっかりとした説明のつく存在であれば、スニーカーをはいてうろちょろと徘徊する者であればどうだろう。それは、幽霊がいるかいないかを論じる以前の問題だ。幽霊ではないということになるのだから、恐怖を感じる必要などまったくないのだ。
 今回の足跡の場合はまず間違いなく、科学的に説明がつくはずだ。そんなことを考えていると――音がした。
 階下で聞いたよりも大きな音。その音の確かさが、この廊下の先にいる何者かの存在を主張している。俺とピーコは無言で頷き合うと、音のする方へと向かった。
 この古い建物は木造ではないため、床がきしむ音が鳴ることはない。しかし、人間が歩くと足音は鳴るものだ。俺たちはそれを最小限に抑えながら、一歩、そしてまた一歩と音の発信源へと向かう。
 俺たちはやがて終着点――音の鳴る部屋の前へと辿り着いた。しばし無言で、中の様子を伺う。ドアに窓はない。何故ないのかは分からないが、ないものはない。音の正体を察しようとドアに耳を近づけたそのとき、いきなりドアが開いた。
「うわ!?」
「おあッ!」
「な、何や!」
 三つの声が重なった。二つは言うまでもなく、俺とピーコ。残る一つは――
「なんだ、君たちかー、びっくりしたよ」
 胸をなでおろしてほっとした笑みを見せたのは、ケイタさんだった。

←back  next→
inserted by FC2 system