第十一話 『飛魚の舞う海』

 廃墟を後にした俺たちはホテルで着替えを取りに一度、ホテルへと戻った。着替えを取るときに受付を通ったのだが林昌さんはおらず、代わりに昌子姉さんがいた。夜遅く温泉に入るために『富士』へ来ると言う。
「それなら、俺たちも富士に行くのは夜にしようか」
 今この場には、ケイタさんやヒナちゃんもいる。二人は俺たちが部屋に着替えを取りに行くのを待とうと受付まで来てくれたのだ。
「あ、私のことなら気にしないで。てーげーに行動してくれてていいから」
 慌てて昌子姉さんがそう言ったが、ケイタさんは首を横に振った。
「僕は夜のほうがいいな。この時間は富士の業務を手伝いたいから。昌子さんも来るなら、なおさら夜のほうがいい。皆で夜、富士に集まろう」
「そう? でも……」
「四人のことなら大丈夫ですよ。比奈に観光案内でもさせます。比奈もたまには遊ばないと。正博さんには僕から言っておくから、店のことは気にせずに行って来なさい」
 ヒナちゃんは一瞬、戸惑うような顔を見せたが、ケイタさんの頑固な表情を見て諦めたらしい。
「昌子ねーねー、ケイタにーにーもこう言ってることだから、夜に行くことにするさ。それまではヒナとこの四人は釣りでもしに行くさ」
 ヒナちゃんは昌子姉さんに話しかけるとき、すごく明るい。まだ島の中では歳の近いほうであるからなのかもしれない。その慣れ親しんだ様子は見ていてなんだか嬉しかった。自分の知っている二人が仲が良いというのは気分が良いものだ。
「そう、それならまあいいんだけどね。ヒナちゃんが釣りって言ったらあの場所かしら? 入江の奥の。あそこは夜は真暗だから懐中電灯持ってくのよ」
 お客さんに声をかけられて、昌子姉さんはそちらのほうへと走って行った。仕事は大変だな。これ以上、仕事を邪魔するのは悪いと思った俺たちは受付を後にした。汗を流すのは部屋に備え付けのシャワーにしておくことにする。ケイタさんは仕事の手伝いのために、ヒナちゃんは着替えのために富士へと向かった。俺たちはシャワーを浴びた後に、富士の受付に顔を見せてから待ち合わせをすることにした。

 ひとまず汗を流した俺たちは、『富士』でヒナちゃんと合流すると遊びに出かけた。ケイタさんは業務のために『富士』に残ったが、ヒナちゃんは正博さんの許可も下りたので俺たちを釣りに連れて行ってくれることになった。実を言うと許可もくそもなかった。ヒナちゃんが仕事をしなかったって、正博さんがそれを叱るだろうか。いや、ない。絶対にない。妻を失った正博さんをあれだけ支えて手伝ってくれている一人娘がたまに見せたわがままを許さない親がいるわけがない。
「ここなの、ヒナちゃん?」
 ノゾは、ヒナちゃんが誘導した入江を見て言った。もちろん、昨日行った人魚神社の裏の入江である。
「いや、このさらに奥さ。ここは駄目、水が透き通りすぎてるから」
 水が透き通っていると、魚からも釣り人が見える。釣りに適さないのだ。ヒナちゃんはそのことを言っているのだろう。
 ヒナちゃんはそれだけ言うと、入江を弟山の方へと進んで行った。さほど進みもしないうちに、ヒナちゃんは足を止める。
「ここさ! ここは海流の関係で海草とかいろんなものが流れ着くやっし。この下に魚がいっぺえいるさー」
 なるほど、ヒナちゃんが言うようにこの海岸は海草でいっぱいだった。潮の流れからして、島の北側、つまり山の向こう側の誰も住んでいない側から流れ着くのだろう。ヒナちゃんは草むらをがさがさといじると、そこから釣竿を取り出した。
「いつも、ここに隠してるさ。全部、ヒナの竿だよ」
 竿は三本しかなかったが、俺たちは交代してそれを使わせてもらうことにした。俺とノゾが一本を借り、ピーコとメグが一本を借りる。残りの一本はもちろん、ヒナちゃんのものだ。
「きた!」
 水面に糸をたれて一刻、ヒナちゃんは慣れた手つきで釣り糸を手繰り寄せた。その先には――
「――羽!?」
 メグが、ヒナちゃんの釣り上げた魚を見て、驚きの声をあげた。魚に羽、不似合いに思える二つであるが、メグが言ったことはまったく間違いではなかった。
「トビウオ……か!?」
 俺は生まれて初めて生きているトビウオを見た。
 トビウオ、飛魚。その名の通り、飛ぶ。冗談抜きで、飛ぶ。その証拠に飛行速度は時速五十五キロメートル、飛行距離は最大で四百メートルにも達する。時間にすれば十秒程度は飛行可能らしい。
「ほえー、林昌さんが出してくれた刺身のトビウオやんな。こうやって見ると何や感動やな」
 ピーコもしげしげとトビウオを観察する。
 長い羽と短い羽が、身体の両側面に一組ずつ、合計四枚の羽がついている。トビウオは鳥のように羽ばたくのではなく、この最短四枚の羽を広げてハングライダーのように滑空する。つまるところ、鳥の羽のようなものではなく、胸ビレが独特な進化を遂げて風を切るための装置となったと考えるのが妥当のようだ。
「この島の名産の一種やっし。トビウオは刺身にしても焼いても美味しいんだよ」
 ヒナちゃんはそう言うと、釣竿を隠していた草むらに近づき、蓋のついたバケツを取り出した。
「みんなもトビウオ釣るさー。それで、夜、富士で食べよう。ね、ね?」
 ヒナちゃんはバケツの中にトビウオを入れると、にっこり笑って言った。そうは簡単に言うが――
「そんなに釣れるん? 俺、さっきからまったく引かへんで。その一匹だけちゃうん、ここにおるトビウオ……」
 ピーコが不満気に言う。釣りは根気との勝負である。ピーコにとっては、一匹も釣れないこの状況はまったく面白くないらしい。
「釣るコツがあるわけさ、教えてあげようね! それに……この海も目を凝らせばほら、トビウオが跳ねるのが見えるやっし?」
 ヒナちゃんは水面を指さした。その指さす先には小さいがきらきらと夕日を反射させながら飛ぶトビウオが見えた。トビウオが舞ったさいに生じた水しぶきがきらきらと輝く。
「また飛んだよ! 今度は近い!」
 ノゾが歓声をあげる。今度は俺たちの目前を左手、人魚神社の方角にトビウオは飛んで行った。そのあまりにも綺麗な様子に思わず息を飲む。空を舞う魚。魚ですら空を舞うのだから、どんな生き物がいてもおかしくない。人魚がいたって何も……。そんなことを思ってしまった。
 俺たちは時間を忘れて、ただただ釣りを楽しんだ。
 結果から見ると大漁で、今日の夜のおかずに困ることはなさそうだった。だけど、ピーコはまったく釣ることができず――いや、釣ることはできていた。ゴミばかりであったが。この海域はどうやら、島の南からも物が流れてくるようで、観光客の捨てたゴミなどもいくつか流れ着いていたのだ。
「……なんで、ゴミばっかりやねん」
「いいじゃん、ゴミ拾いは環境に大事よ」
 今また新たに釣り上げたお菓子の空袋を見つめながらピーコ辟易した様子をみせた。メグはそれを見ておかしそうに笑った。
「俺はゴミ収集係なんか……」
 ピーコはがっくりと首をうなだれた。
「ヒナもよくここでゴミ拾いするよ。観光客が捨てたゴミは全部じゃないけど、ここにたくさん流れ着くから」
 フォローするように声をかけるヒナちゃんだが、ピーコはいじけたままであった。なおもピーコを慰めようと言葉をかけているヒナちゃんであったが、その様子を見ていると、最初の他人行儀な様子とは違って昔からの友だちのようにも思える。
 ノゾにしたって、メグにしたってそうだ。みんな、初めから友だちで、みんな、いつまでも一緒で、そんな風に思わず錯覚してしまう。だけど、違うのだ。俺やピーコは大阪からの観光客で、ノゾやメグは長野からの観光客でいずれ別れる運命にある。それを考えると何だか切なくなってしまう。
 俺たちは観光客。さきほどヒナちゃんが言った、観光客が捨てたゴミというのは他人事ではないのだ。自然を汚す真似をするわけにはいかない。俺たちはピーコが釣り上げたゴミをまとめて、富士へと持って帰ることにした。

 田舎の夜は早い。当たり前だが時間的な意味ではない。島は都会とは違って明かりが少ないため、太陽の光に依存しやすいのだ。
 日が沈むのを忘れる、とはよく言ったものだと思う。この小さな島では一瞬の間に昼と夜が入れ替わる。気がつけば真っ暗闇になっていたなんて経験は都会ではまずできないだろう。
 釣りに夢中になりすぎた俺たちはうっかり日が沈む時間を越えていた。ホテルの自室に戻ったときに、うっかり懐中ライトを忘れたことが悔やまれる。ヒナちゃんも同様で、昨日持っていた懐中電灯を持ってくるのを忘れてしまったようであった。昌子姉さんがわざわざ懐中電灯は持って行くようにと言ってくれたのに、うっかりしていた。
 真っ暗闇の中では土地勘のあるヒナちゃんだけが頼りだ。ヒナちゃんは右も左も分からないような中をひょいひょいと進んでいった。その背中を必死に追いかけていると、あっという間に商店街にたどり着いた。驚きを通り越して、思わず尊敬の念さえ抱きそうになる。
 商店街と言えど、人魚神社側の出口付近はまだ暗い。ここからホテルへと進むにつれて、観光客向けの施設が増えてその明かりは増していく。
「この島もリゾート化されたとは言え、中途半端ねー」
 店が閉まり、人通りも少なくなった商店を眺めながらヒナちゃんは言う。辺りを見回すと、なるほどその通りだと思う。俺たちの泊まっている『マーメイドブルー』はリゾートの中心と言える。林昌さんや正博さんの話によると、真っ先に開発された地域であるらしい。温泉は元々あったが、それ以外の娯楽施設は一切なかった。富士を中心とした観光客向けの娯楽施設はホテルに泊まる観光客のために次々と建てられていったのだと言う。
 今歩いている商店街西側は、昔から島の人に親しまれているもの。華やかな電飾も必要なければ、夜遅くまで開いている必要もない。ホテル前の繁華街とはまるっきり正反対に見えた。繁華街の華やかさ。この商店街の質素さ。小さな島にその二つが混在している様子は確かに中途半端で、不思議な感じがした。
「ヒナっちはもっとこの島に遊ぶ場所増えたらいいって思ってるんか?」
 大阪生まれ大阪育ちのピーコや俺にとって、島の自然は尊く守らなければならないものに思える。しかし実際に島に住む身とすればどうだろう。まだまだ遊びたい盛りのヒナちゃんには不満があるかもしれない。
「……確かにもっと色々あったら面白いと思うさ。だけどね、モノがなくたって大丈夫ってヒナは思ってる。皆は今日、楽しくなかった?」
 いや、そんなことはない。ヒナちゃんの顔を見ると、一目でわかった。
 朝は廃墟で少し怖い思いをしたかもしれない。だけど、皆で行って皆で探検したのだ。楽しくなかったかと問われたら、答えはノウ。
 廃墟から帰って来た後も、一日中遊んだ。釣りをして、水遊びもして。日が沈んだのも気づかないほど楽しんだ。都会から来た俺たちだけが楽しんだのではない。ずっと島に住んでいるヒナちゃんだって楽しんでいたのだ。楽しいかと問われたら、答えはイエス。
「うん、皆の顔見てたら分かるさぁ。今日は楽しかったって。モノがなくたっていいんだよ。そこに遊ぶ仲間がいれば……」
 そこでヒナちゃんは一瞬、言葉を切った。
「……この島には人が少ない。今でこそ賑わってるけど、ホテルができる前は住んでいる人は少なかったさ」
 観光客が増えれば人手も必要になる。この南月島の外からも移住する人も増える。
 マーメイドブルーの従業員のほとんどは沖縄本島から来ていると林昌さんが言っていた。その林昌さんも沖縄本島からリターンしてきた身で、当初はお腹の大きな昌子姉さんを沖縄本島に一人置いてきたという話を大阪にいたときに親父から聞いた覚えがある。しかし林昌さんの仕事が落ち着き、昌子姉さんも出産を終えたあとは、一家全員が晴れて南月島の住人となった。
 そんな風にたくさんの人々がやって来て、この地に住まい、そして新しい命が生まれる。人が増え、そしてまた増え、島は潤う。南月島のリゾート化には良い面もしっかりと存在する。
「リゾートが発展すれば人は増えて寂しくなくなる。でも、この自然も残って欲しい。島人は複雑な心境やっさー」
 ヒナちゃんはそう言うと曖昧に笑ってみせた。話している間にも、賑やかな繁華街は近づいてくる。
 なんだか俺も複雑な心境だった。観光客。部外者。非関係者。俺たちの立場はそれ以外にない。
「そ、そんな複雑そうな顔されちゃうとヒナ困るよ……そうだ。富士で温泉入って、卓球でもしよう、そうすればきっと楽しいよ!」
 ヒナちゃんは俺たちを気づかったのか、そう明るく言うと富士へと駆け出した。そうか、そうだった。俺たちのこの島での立場はヒナちゃんの友人。それ以上も以下もないじゃないか。何も深く考えることなどない。
 早く早く、と富士の入り口で手を振るヒナちゃんを見ていると、さっきまでの悶々とした感情はどこかへと消えていく。新たに芽生えたこの感情は、暖かく、とても心地よいものだった。きっとこれが友情というものなのだと俺は思った。

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