第十三話 『儚い思い、淡い想い』

 人生にクライマックスはないが、映画にはクライマックスがある。
 映画はついにクライマックスへと向かっていた。
 シューヴァは唄う。誰もいない、誰も訪れない孤独な島でひとり、唄う。
 その歌声のなんと可憐なことか。その泣き声のなんと悲哀なことか。

 ――孤独でも自由。
 ――自由でも孤独。
 ――ただきっと、
 ――孤独にも終わりがあるのだと、
 ――この先には幸せがあるのだと、
 ――私はそう思いたい。
 ――ほら誰かの足音が聞こえた。
 ――ほら私を呼ぶ声が聞こえた。
 ――私の苦難はもう、
 ――終わる。

 *

 だいたいな、おかしいねん。そもそもやで。なんで今頃になって、このご時世に神隠しとか言うねん。あ、あれちゃうか。トイレ入ったときにトイレットペーパーないときとかあるやろ。ほら。あ、そりゃ、神隠しやのうて紙隠しか! そりゃ失礼しました……
 ――まどろんだ意識が戻ってくる。長々と誰かが喋り続けているのが聞こえた。
「……ともかくな、まああれやな。その話題は今後、島を出るまでは出さんほうがええやろな。てか、ヒナっちから電話あった? 俺んとこはないねん。え、翔? 翔の携帯が鳴った形跡ないから、まだかかってきとらんのちゃうかな」
 ――翔。俺の名前。じいちゃんがつけてくれた、名前。
「……もしかしたらまだ携帯見つかってないんちゃうかな。まあ、言うてもそのうち電話かかってくるやろ。今日の祭りのメインは夜遅いて言うしな、昨日言うとったように昼過ぎくらいにゆっくり起きて、島でもまわって暇つぶしたらええと思うわ。俺もまだ眠いし、翔も寝とるから、どっか周るんやったら二人で先出かけてくれててもええけど――……」
 そこで覚醒しかかっていた意識は再び闇へと沈んだ。
 闇。いや、正確な意味での闇ではない。ただ、上下左右の判断のつかないこの状況を比喩するのには何だかその言葉がぴったりな気がする。たぶん、俺は夢を見ているのだろう。冷静にそう分析できる。
 ――誰かが、島を駆けている。亜麻色の髪をした若い女性だ。その顔はどこかで見たことがあるような気がするが、わからない。思い出せない。
 彼女は誰かを探している。必死に、必死に。息を切らせながらも声を張り上げる。必死に駆け上る女性を一筋の光が貫く。いったい何の光なのか、俺には判別できない。
 倒れ込んだ女性は今にも力尽きそうな手をゆっくりと、けれども、必死に差し伸ばした。その手の先には――まだ形をとどめたままのあの病院があった。数歩進めば届きそうな距離に門がある。そのどちらもまだ綺麗なままで、その表札にも読み取れる文字でしっかりとこう書かれていた――皆見月島病棟と。
 
 ――瞬間、目が覚める。覚醒。今度こそ間違いのない、目覚めだった。
 辺りをうかがうと、見覚えのあるホテルの一室だった。俺の隣のベッドではピーコがいびきをかいて寝ていた。あたりに散らばるのは空になったオリオンビールの缶。そうだ、昨日はピーコと恋話で盛り上がったんだっけ。
 ……やはり今のは夢だった。夢の中で、夢と認識しているという夢はそうそう見るものじゃない。そうそう見るものじゃない、ということは以前にも見たことがあるってことで、語弊でも何でもない。過去にこの夢を見たときは、じいちゃんが亡くなったときだった。
 あのときは年甲斐もなく泣いたっけ。おじいちゃんっ子だったからな。そういえば、親父も年甲斐もなく泣いてたな。はは、やっぱり、同じ血が流れてるんだな、俺ら。
 同じ血。血縁。
 この島にも俺と同じ血を持つ人はいる。いや、ちょっと違うか。俺に流れている血、つまりじーちゃんとばーちゃんの血の流れる人はいる。昌子姉さん。本名、安里昌子。旧姓は、金城昌子。俺のじいちゃん――金城昌吉の息子の一人娘。
 昨夜、富士で昌子姉さんは言った。
『翔くんって私とどこか似てるところあるから、きっと行くなって言われたらかえって遊びに行っちゃうと思って黙ってたんだ』
 血は争えない、ってやつなのだろうか。俺と昌子姉さんのこの好奇心旺盛なところはたぶん、じいちゃんゆずりだ。じいちゃんもそういうところあったから。
 そしてきっと、じいちゃんが好奇心旺盛なところはその親に似ていて、そしてその親の好奇心旺盛さはさらにその親に似ていて……それは延々と昔へと、遥かな昔へと続いている。
 人間って不思議だなと思う。生物学的に見ればそれは遺伝子だとかそういうもので説明がつくものかもしれない。DNAには人間の記憶が宿ると言う。
 知性が強い人間だから、というのもあるのかもしれないが、もしかしたら他の生物の中にもそういった特徴を持ったものもいるのかもしれない。そういえば。
 この夏、ピーコと二人でなぜか見に行った映画を思い出す。あれにも血の繋がりを描いたシーンがあった。映画『人魚の涙』に出てきた人魚の親子、シューヴァとシルバは性格が似ていて、それがために二人は苦悩していた。同族嫌悪。嫌ったがために、シルバたちはいなくなった。そして、シューヴァは孤独という罰を受けて、ひとり生き続ける。
 空想の生物、人魚。人に酷似した生物。映画の彼女らは泣いたり、笑ったり、怒ったりした。それこそ人間以上に感情は豊かに表現されていた。映画だから、というのもあるだろう。仮に彼女らが実在していたとすれば、好奇心があったり、感情があるのだろうか。
 我ながら馬鹿げていると思う。きっとまだ俺の脳はどこか眠っているのだろう。でなければ、こんな感情は抱かないに違いない。
 ――感情。親しい人を失って悲しいと想う感情。
 そうだ。じいちゃんの葬式では、俺も、昌子姉さんも、親父も泣いていた。血の繋がってない林昌さんも泣いていた。みんな、みんな泣いていた。
 悲しかった。とっても悲しかった。
 悲しみに明け暮れたその前日に、俺は今みたいに変な夢を見た。じいちゃんの亡くなるその前の日に、俺は今のような夢を見た。それはさっき見たみたいに身に覚えのない夢じゃなくて、じいちゃんとまだ小さい俺、昌子姉さんの三人で遊んでいる夢だった。今までのじいちゃんとの思い出が、まるでビデオテープを再生するかのようにずっと流れている夢。じいちゃんとの楽しかった思い出が俺に何かを伝えようとしているような、そんな夢。
 あのときも俺は夢の中で夢だと認識していた。そう。そういう夢を見るときは、何かが起きる前触れ――
「ばからしい」
 思わず一人ごちる。自嘲。科学的観測を好む俺自身が、科学では測れない経験をしているのだ。何でも物差しで計るべきじゃないな――と俺、自重。
「何がバカらしいねん」
 横で寝ていたはずのピーコが口を開く。
「起きてたのか」
「今、起きたんやけどな」
「いやさ。この世には科学じゃわからんことがあって、それは意外と身近にあるもんなんだなって思ってさ」
「何をいきなり言うとんねん……」
 ピーコはそんな俺を見て笑った。
「……俺な、霊感ある言うたやん。だからわかる。あの廃墟はやっぱなんかやばいんやって」
「やばいか?」
「そうや。だから、たとえばさっき、お前が金縛りにあってたとしても、変な夢見てうなされてたんやとしても、俺は何もびっくりせえへん。あの廃墟から何か憑いて来てたとしても何も不思議やあらへんからな」
「ばか、背筋が冷たくなってきただろ」
「ははは! 大丈夫やと思うけどな。今べつに俺の気分わるないし、ここには何もおらんと思うで?」
 俺は目を閉じて考えた。
 別に霊の仕業だと決まったわけじゃない。けれど、何かよくわからない、嫌な予感がすることも事実だった。
「実はさ、ピーコ――」
 俺はさっき見た夢をそのまま話した。同時に、じいちゃんが亡くなる前日に見た夢の話もした。ピーコは黙って聞いてくれた。そして全てを聞き終えた後、ピーコなりの結論を話してくれた。
「それあれちゃうん、俺ようわからんけど、ほら。残留思念ってやつ」
「残留思念?」
「土地や建物、まあモノ全般に宿る記憶。サイコメトラーなんとかってドラマあったやん。覚えてへん?」
「ああ、あれか」
「そそ、それちゃうんかな。翔はたまたまそれを感じただけ、あれは霊感云々じゃなくて、普通の人でも極稀に感じることがあるらしいで。じいちゃんが亡くなったときのことは……うーん。何やろう。それはじいちゃんがお前に別れを告げに来ただけとちゃうか? 今回の件とは別問題と考えてええと思うで。ただ、珍しいことやから記憶に強く残ってただけで、その二つの事象に因果関係はないと思う……自分で言っててなんのこっちゃ。わかりましぇーん」
 最後にぼけてみせたが、ピーコもただの馬鹿ではない。だから俺は、ピーコの言いたいことをだいたい理解することができた。
「あ……」
 突然、ピーコが声をあげる。もしややはり何かあるのか。
「……翔さん。こないな時間ですけど」
 ピーコはそう言って、携帯電話を見せた。俺も自分の携帯電話を見てみる。
「……こないな時間とかそういう以前にほら、こんなに着信履歴がいっぱい」
 俺は、携帯電話を見せた。そこには長野からの二人の熱烈なラブコールの後が……いや、悲しくなるからやめておこう。いつまで寝てるのかという催促の電話が何回もかけられた後があった。
「やばい、寝坊!」
「あかん、寝坊やん!!」
 台詞は違えど二人の声は見事に合致した。
 時刻は午後四時半。特別な集合時間は指定していなかったが、ノゾとメグとお昼を一緒に食べる約束はしていたのだ。当然、どう考えたところで遅刻である。それに人魚まつりのもっとも大きな行事である人魚のお披露目式は六時開始だ。のんびりしていると、それすら間に合わない可能性すら出てくる。
 明け方まで続いた恋話をもっと早くやめて寝るべきだった、などと後悔している時間すら惜しい。俺たちは慌てて着替えると、携帯電話と念のため懐中ライトを持つとそのまま部屋を飛び出した。

 *

 無音。この場合は無言、だろうか。
 メールで指定された待ち合わせ場所には当然と言えば当然、すでにノゾとメグがいた。
「あのお……」
 ピーコが声をかけてみるが、無視。
「ごめん」
 俺は謝ってみたが、無視。
「……」
 静かなプレッシャーがそこにはある。静寂。それこそ三点リーダが二組も三組も見えそうなくらいの静けさ。
 対峙する、四人。あたりは祭りの前の騒々しさに包まれていたが、ここには嵐の前にも似た静けさが漂っていた。気まずい。すげえ気まずい。良い加減、最終手段である土下座でも使おうとしたそのとき――
「ふッ!」
 ノゾが噴き出した。
「ちょっとノゾ、なに笑ってんのー。だめでしょ、もっと反省させなきゃ。怒ってんだからさあ」
 口ではそう言うメグだが、口元が緩みっぱなしである。笑ってんじゃねえか。ついにこらえきれなくなったのかお腹を抱えて笑い始める女二人に、あまりの爆笑ぶりに唖然とする男二人。
「笑いすぎだろ」
「だ、だってー」
 何とか笑いをこらえながら息も絶え絶えに言うノゾと、なおも笑い続けるメグ。
「ひひひひっ、ま、まじでびびってんのっ、やば、息苦しい!」
 お前は息絶えてろ。
 なおも笑い続ける二人を見てむかっときたが、安心した。怒ってなかったんだな。しかし、こんな時間になったことも事実だ。二人がひとしきり笑った後――
「ごめんな」
 謝った。ピーコもそれに倣う。客観的に見ても、俺とピーコが明らかに悪い。
「いいよ、いいよ、おもしろかったし。あー、お腹いたい」
 メグが涙目で言う。泣くほどかよ。
「二人でぶらぶらしてたから大丈夫だよ。出店も出てたからもう廻ったし」
 出店も開き始める時間。俺とピーコはいつまで寝てたんだ、まったく。しかし、だということはもう……
「……間もなく、人魚の御披露目か?」
「そうだよ。二人とも間に合わないかと思ってすごく冷や冷やしちゃった。メグも私も、だから電話いっぱいかけたんだよ?」
 俺は改めて二人に礼を言った。
 祭りに合わせて来たのに、祭りの最大のイベントを逃してどうするんだ。神主さんがこっそり見せてくれたとは言え、正式な儀式の中で見てこそ価値がある。
「もたもたしないで行くわよっ! 広場に人だかりできてるからはぐれないでねっ!」
「待てやっ、お前がはぐれとるやん!」
 勝手に先々行って見えなくなるメグをピーコが追いかける。俺とノゾは二人に置いていかれないように足を進めた。
 待ち合わせしていたホテルの玄関から、商店街に入り、神社の広場に向かうにつれて、人が増えていく。昨日は早々にシャッターを閉めていた店も今日は開いている。普段は観光客向けでない店も、屋台を出していて、島民、観光客が共に買い物をしていた。
 屋台には、別名を沖縄ドーナツと呼ばれるサーターアンダギーや、タンナーファークル、ちんすこう。お菓子としてちょっとつまむだけの食べ物や、沖縄そばやポーク玉子、タコライスなど夕飯になりそうなものまで出ている。
 食べ物だけじゃない。当て物や、輪投げなどの遊技場もたくさんある。他にも手作りアクセサリーを売っているお店などがあり、商店街は活気に溢れていた。活気の中に、都会の夏祭りよりかは幾分、古めかしい雰囲気を感じる。古めかしいと言っても、心地よい古さ。どこか懐かしい、ほっとするような、そんなレトロさ。
「……翔」
 祭りの喧騒に思わず見とれる俺を、現実に引き戻したのはノゾの声だった。
「あ……」
 迂闊だった。周りに意識を集中しすぎるあまりに、二人の背中を見失っていた。
「どっか行っちゃったよ……どうしよう」
 少し疲れたのだろう。ノゾが走る速度を落とした。
「しんどい?」
 問いかけると、ノゾは首を横に振ってみせたが、疲れているのは一目で見てとれた。ほんと強情だな。健気と言うべきか。俺はポケットを探るふりをして走るのをやめてみせる。
「どうしたの?」
「携帯で連絡とろうとしてさ、あ、あったあった」
 俺がゆっくり歩いていると、ノゾも隣を歩き始めた。どうやら些細な気づかいは気づかれなかったらしい。
「だめだ。電波がない」
 先ほどは三本立っていたアンテナの液晶表示が、ない。代わりに表示されているのは、圏外を示す文字だった。
「えー、なんでなの?」
「たぶん、祭りだからだろうな」
 俺の言葉にノゾは首を傾げた。
「祭りだとアンテナ無くなるの?」
「祭りって人が集まるだろ。携帯電話の電波が混ざり合って、つながりにくくなるんだ」
 ああ、そうか。ノゾは大勢の参加する祭りを見たことがないのだ。
 大阪の祭りは規模の大きなものが多い。比べて長野はどうだろう。場所にもよるのだろうが、少なくともノゾはそういった祭りを経験したことがないに違いない。
「そっか、そうなんだ……へえ! すごいね!」
 ノゾは心から感心したように言った。
「でも……だからかな。ヒナちゃんからまだ連絡ないんだ」
「うーん、今日は祭りだしばたばたしてるんじゃないか?」
 携帯電話も見つかっていない可能性もある。家から電話をかけようにも外出した後に気づいてしまっていたら、この群衆の中をもう一度家まで戻るのは至難の業であろう。進むことはできても、戻ることはできない。祭りの人の流れに逆らうことは不可能に近い。俺とノゾは話しながらも、人の流れに飲み込まれていた。
「ピーコみたいにはぐれんなよ、ノゾ」
 そう言って差し伸ばした俺の手をノゾはつかんだ。暖かな、体温。
 昨日、ピーコと話していた。ノゾのことをどう想っているかとか、そんな中学生レベルの恋話。奥手な俺はそんなにすぐに恋に落ちることはない。けれど、どこかノゾに惹かれつつあることも確かだった。
 俺はなんだか恥ずかしくなって、思わず下を俯く。ノゾも同じであったらしく、そっと横目で見るとその頬を赤く染めていた。恥ずかしそうに、だけども、その手を離すことなく俺たちは人魚神社に向かって歩き続けた。あるいは流され続けたと言ったほうが正しいかもしれない。
 俺たち二人は人ごみの中を、ただただ歩き続けた。お互いの手をぎゅっと握りしめたまま。

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