第十五話 『もう一度』

 ヒナちゃんは必死になって、ケイタさんがいなくなったあらましを話した。昨日、俺たちが卓球をしている間、ケイタさんはヒナちゃんと一緒にトビウオの調理をしていたそうだ。料理が完成するころ、ケイタさんに電話がかかってきた。ヒナちゃんはケイタさんと別れて俺たちに料理を持ってきた。そのとき、ケイタさんは電話で話していたという。
 俺たちと別れてキッチンに戻るとケイタさんはいなかった。正博さんの話によると、電話が終ったあと、星を見に兄山へ登ると告げたらしい。遅くなるだろうと正博さんは心配したが、ケイタさんは薪割小屋の二階の宿泊所に泊まるから大丈夫だと言って富士を出たそうだ。
「じゃあ、兄山にいるんじゃ……」
「違うの! ヒナは心配だから、今朝登ってみたの。だけど、いなかった……」
 ヒナちゃんはすすり泣き始めた。
 あの長い道のりを頂上へ向けて一人で歩いたのだ。明るいとは言え、心細かっただろう。そしてようやく辿り着いた薪割小屋の扉を開けても、ケイタさんの姿はない。
 いると信じて、会えると信じて、長い山道で痛む足を引き摺って、たどり着いた先にいなかったのだ。その辛さはどれほどのものであっただろう。
「ケイタさんは、本当に小屋のどこにもいなかったんだな?」
 あの小屋は屋上を含めれば、三階建ての構造になっている。実際にこの目で見たのだから間違いはない。
「二階も屋上も見たけど、いなかった……それに声もかけたけど、返事もなかった……ケイタにーにー……ケイタにーにーっ!」
「落ち着いて、落ち着いて! ね、ヒナちゃん。大丈夫だから……」
 泣き出して涙でぐちゃぐちゃなヒナちゃんを、ノゾは優しくなだめる。
「正博さんにはケイタさんがいなかったこと言ったのか?」
 何とか落ち着きを取り戻したらしく、ヒナちゃんは俺の言葉にこくりと頷いた。
「言った。けど、とりあってくれなかった。祭りだからどこかぶらついてるんだろうって、何も心配することないって……」
「じゃあ、島のどこかに泊まってるとかじゃないのか?」
「違う、違うの! 何か嫌な予感がして、不安で不安で仕方なかったから……何度となく電話をかけたのに繋がらないの。ケイタにーにー、出てくれないのっ! いつもはヒナが電話したらすぐに出てくれるのに……!」
 いつも言葉少ないヒナちゃんが、これだけ必死になって話している。事態の深刻さを俺は理解した。
「……交番に行ってみようよ。何かわかるかもしれないし、お巡りさんが手伝ってくれるかもしれない」
 泣き出しそうなヒナちゃんをノゾがなだめるがヒナちゃんは首を振った。
「あのお巡りさんが手伝ってくれるわけない」
 ヒナちゃんは以前、年配のそのお巡りさんは痴呆症であると言っていた。
 俺は交番の様子を思い出す。頼りない、あの老人。よくこの仕事が勤まるものだとある意味感心させられたものだ。
「……とりあえず、声だけかけてみよう」
 しかし今は商店街の中に屋台が並んでいる。海水浴場の近くはさすがに人の姿はなかったが、お店があれば人は足を止めるものである。今みんなで行動すると確実にはぐれる気がした。皆で移動して時間を無駄にするわけにはいかない。
「はぐれるといけないから、みんなはこのままとりあえず待っていてくれ」
 俺は一人、人混みを縫うようにして走った。交番へと向けて。
 走りながら俺は思った。ケイタさんはおそらく、あの廃墟に行ったのではないか。帰る間際まで写真を撮りたがっていたケイタさんならば、心霊現象を信じていないケイタさんならば、あの場所にもう一度ひとりで戻ったとしても何らおかしくない。
 俺は人混みを物ともせず、交番へと到着した。交番の中では相変わらず、お巡りさんが寝ている。この人には、職務遂行の意志がないのかと憤りながらも、俺はためらわず、お巡りさんに声をかける。
「すいません」
 返事はない。
「すいません!」
 なおも返事はない。
「おいっ!」
 俺はその肩を強く掴んで揺さぶった。効果はあったらしく、お巡りさんは眠そうな顔でこちらを振り向いた。
「知り合いの行方がわからなくなったんだ!」
「大変だねえ」
「大変だね、じゃねえ! この島で、わからなくなったんだぞ!」
「ご愁傷様だねえ」
 ……だめだ。この人は当てにできない。ヒナちゃんの言うとおりだ。
 かつて、この島でもっとも男気があって勇敢だったという男がこのざまか? しかし何度問いかけても、お巡りさんからまともな返答をもらうことはできなかった。
 本土の警察に連絡を入れるべきか。しかしまだ、ケイタさんの身に危害が及んだという確証はない。警察はしっかりとした証拠がなければ未然に動いてくれない。ニュースを見てもそうだ。多くの場合、彼らは事件が起きた後に動く。ましてや今回は離島の事件で、なおかつケイタさんの身に何があったのかはわかっていない。それに、この島には交番がある。何かあったら現地の駐在を尋ねるように言われるだけであろう。たとえそこにいるのが、この役立たずな老人であっても。
 思わずズボンのすそを握る手にも力が入る。ぎゅっと握り締めた指先に硬いものがあたった――懐中ライト。これさえあれば。
「……一応伝えたからな!」
 俺はそれだけ言い残すと交番を後にして、皆のいる場所へと走った。皆は商店街の入り口で待っている。
 俺はスローライフな島の祭りを楽しむ人々とは正反対の猛スピードで商店街を駆け抜けて、皆の待つ場所へと到着した。
「どうやったんや、翔」
 真っ先に声をかけてきたピーコに俺は首を振った。
「だめだ、やっぱりあの人に話は通じない」
 俺の言葉を聞いて、みんな首をうなだれた。
「……行こう」
 口を開いたのは俺でもなければ、ピーコでもなかった。
「あの廃病院にケイタさんは向かったのよ。私はそう思う」
 だから、とノゾは続けた。
「だから、行こう! ケイタさんが何かの拍子に怪我をして動けないでいて、助けを求めることもできないなら……助けに行こう!」
 ノゾの顔は真剣だった。あの廃病院にケイタさんがいない可能性はある。いる可能性もある。だったら何もしないよりは行動したほうが良いに決まっている。
 俺たちにできることはただ一つ、ケイタさんを探すことだけなのだから。
 ヒナちゃんは涙を流しながらお礼を言った。ノゾに、俺に、メグに、ピーコに。
「何言ってんだよ。ヒナちゃんもケイタさんも――俺たちの友だちだろ?」
 時刻はすでに十時を越えていた。だけど、今は関係ない。動けるものが、動いてくれるものがないなら――俺たちが動くまで。
 俺たちは小さな懐中ライトの明かりを手にして、兄山――いや、あの廃病院へと向かった。ケイタさんの元気な姿をもう一度見るために。
 今日は心なしか肌寒い。それがなぜか俺の心をかき乱す。不安。ケイタさんは無事なのだろうか。どこにいるのだろうか。そればかりを考えて俺たちは進んだ。兄山の登山道は今日は気温の変化のせいか、わずかに霞がかっていた。その中を四苦八苦しながらも廃墟を目指した。

 ようやくたどり着いた廃墟の中は薄暗いを通り越して、真暗だった。昼間でさえあれだけ暗かったのだ。夜間がこれほど暗くなることは想像できた。
 幸いなことにヒナちゃんも夜が遅くなることを想定して、懐中電灯を持ってきていた。今、明かりは三つある。前回と同じだ。俺たちは前回と同じ経路で廃病院の中へと潜入した。前回と違うのはこの――暗さだった。
「ほんまにケイタさん、ここに入ったんかな?」
 ピーコは肩を震わせていた。相変わらずここに来ると寒気がするらしい。
「……どうかはわからないけど、探してみるしかないな」
 俺たちは二手に別れて、一階と二階を捜索することにした。万が一、床が抜けていときを想定して、二階には明かりを二つまわすことにした。
 二階に向かうのは、ピーコとメグ、ヒナちゃんだ。一階は俺とノゾで廻る。俺たちは階段で別れると、それぞれの探索に向かった。
 床がきしむ。二階からも音が聞こえる。ピーコたちが歩いている音だろう。この建物は外壁こそコンクリートで作られていても、その内部はそこかしこが木造である。そこまでの予算がなかったのかもしれない。当時のコンクリートは高価なものだったと聞く。
「ケイタさん?」
 ケイタさん、ケイタさんケイタさんケイタさん――……廊下に俺の声が反響する。その声に驚いたノゾが俺の腕にしがみつく。役得だとかそんなことを喜んでいる場合ではない。
 俺はノゾに大丈夫だ、と声をかけるともっとも近くにあった資材室の扉を開けた。真暗な部屋にライトの明かりだけが差し込む。
「……何もないね」
 ノゾが部屋を覗き込みながら言う。何もないわけでは、ない。けれども俺たちが求めているものはそこには、ない。俺たちの探しているケイタさんの姿はそこにはなかった。
 俺とノゾは扉を閉めると、隣の部屋へと向かった。この部屋のプレートは無くなっていて、元々が何の部屋であったかわからない。その扉を開けてもそこが何か判別することもできなかった。俺たちは室内を見渡して誰もいないことを確認すると、さらに隣の部屋へと向かった。
 そんなことを何回も繰り返して、何度も失望して、諦めかけたそのとき、それは見つかった。
「……これ、新しい手帳」
 ノゾは落ちていた手帳を拾い上げた。
 その部屋はもっとも正門に近い位置にあった。煌びやかな装飾、立派なソファー、偉大な功績を讃える賞状。堂々たる風格を持つその部屋は――院長室であった。
「ケイタさんのものかしら?」
 ノゾはそれを開いてみたがすぐに諦めたように閉じた。
「だめ、読めない」
 俺はノゾから手帳を受け取って開いてみたが、なるほどこれは理解できない。書かれている文字は英語であり、そのどれもが大学入試に使用するような簡単なものではなかった。英和辞書があればあるいは書いてあることを理解することはできたかもしれない。しかしそんなものはないし、何よりも中身を解読することは目的ではない。
 ぺらぺらとページをめくっていたが、アルファベットの羅列が見覚えのある単語を形作っているのを見つけた。
「Keita-Oshiro……ケイタ・オーシロ。大城慶太!」
 ケイタさんのものに間違いなかった。
「……これがここに落ちているということは、ケイタさんはこの部屋にいたということか」
「そうよね……あ!」
 ノゾが壁を指さして小さく声をあげた。
 何に驚いたのかと聞き返すこともなかった。ノゾが指さした壁は、まるで扉のようにその隙間を覗かせていたのだから。
「これは隠し扉……回転式になっていて、この本棚が置かれていたようだな」
 その隠し扉の脇には本棚があった。その立っている床を照らしてみると、まるで滑らしたように埃がとれていた。
 俺たちはピーコたちと合流することにして、その調査はそこで一時中断した。はたしてこの先にケイタさんはいるのだろうか。
 手帳が落ちていた。隠し扉が開かれていた。状況証拠を見ると、ケイタさんはこの先に向かった可能性は高い。
 なぜ院長室にこのような隠し扉があるのかは疑問だったが、別にそんなことはどうだっていい。今はケイタさんの身の安全だけが心配だった。ケイタさんが無事であるならば、この廃墟の謎なんかどうだっていい。俺の、そしてノゾの――みんなの気持ちはただその一点だった。

 ピーコたちが院長室に着き、俺たちは調査を再開した。いや調査も何もない。もう隠し扉の先へと向かうだけであった。
「こんなところがあったなんて……」
 ヒナちゃんが驚きの声をあげる。
 扉を開けた先は小さな部屋になっていて様々な資料が置かれていたらしいが、他の部屋同様にこの部屋の棚にも何も残されていなかった。
 しかし一つだけ取り除けず、残されていたものがある。床板に隠されていた階段だ。これも何者かの手によって開けられたままになっていた。もちろん、ケイタさんであろう。
 俺たちはハシゴ状になった階段を順番に下りていった。一人ずつ、ゆっくりと、順番に。
 降りた先はもう人の手の入った建築物ではなかった。壁は地肌がむき出しになっている。どうやら天然の洞窟であるらしい。
「……ガマか?」
 俺は壁に手を触れてみた。じっとりと冷たい。
 ガマとは沖縄県に数多く存在する天然の鍾乳洞のことだ。ここもそういった類なのかもしれないと思ったのだが、詳細はわからない。しかしここが天然の洞窟であることには間違いないようだ。人工的に切り開いたのではない土壁の様子からそれは見てとれた。
 しばらくは一直線に道が続いていた。真暗な、先の見えない道。ちょっとでも向こうを見てみようと、その先をライトで照らしてみる。
「あ……誰かいる!」
 最初に気づいたのはヒナちゃんだった。
 ヒナちゃんの指さした先に、ライトに照らし出される人影は確かに見えた。しかし、ぴくりとも動かない。ケイタさんはもしかしたら、何かが原因で動けなくなっているのかもしれない。
「ケイタにーにー、ケイタにーにー!」
 ヒナちゃんは居ても立ってもいられなくなったようで、俺たちを置いて駆け出した。俺たちも慌ててその後を追う。ぬめる足場に滑りそうになりながらも俺たちは走った。ケイタさん向かって走った。
 いくらスタートが遅れたとは言え、中学生の足と大人の足は違う。俺たちはヒナちゃんに並んで、ケイタさんの倒れている場所へとたどり着いた。
「ケイタにーにー、しっかり、しっかりして!」
 ヒナちゃんが倒れているケイタさんに手をかける。倒れていたケイタさんは――その首をころんと地面に落とした。窪んだ眼球、白く硬い頬、抜け落ちた髪の毛――ケイタさんじゃない。
 ヒナちゃんが鋭い悲鳴をあげて駆け出す。ノゾとメグもその悲鳴を聞いて、どういった事態に陥ったのか初めて認識したらしい。同じように悲鳴をあげて走り出した。
 俺の目の前にあったのは崩れ落ちた白骨死体だった。それも人間の。しかし、それに見とれている場合ではない。ノゾもメグも何も考えずに走り出したのだ。この先には何があるかわからない。いち早くピーコがその後を追い始めた。その手に明かりはない。そうだ。メグはライトを持っているが、ノゾはライトを持っていないのだ。
 ……ライトは俺が持っている。こんなところでぼさっとしている場合ではない。慌てて俺はピーコを追うように駆け出し――足を滑らせて転んだ。その手から懐中ライトが舞い、落ちた。明かりが地面にぶつかり、霧散する。一刻遅れて俺も地面へと崩れ落ちる。
 頭が地面に接触する。頭に鈍い衝撃が走った。頭が熱い。視界が真白になる。意識が真白になる。真白、白。白。シロ。ホワイト――ホワイトアウト、意識はここで途切れて消えた。

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