第十八話 『兄と弟』

 ――人魚が泣いた。
 ――世界が震えた。
 ――人魚が笑った。
 ――やっぱり世界が震えた。

 地震は一時的なものであった。ケイタさんは地面に手を触れ、真剣な顔をしている。
「……もしかして」
 その表情が深刻なものに変わった。
「ケイタさん、何かわかったのか?」
 俺の声にケイタさんは首を横に振った。
「計測できる機械も何もないから、わからない。けど……、イブちゃんの言葉から連想したんだよ」
 イブの言葉。先ほど彼女は、この島は消える、と言った。そのことだろうか。
「なぜ、正博さんの経営する温泉が、富士という名前なのか知ってるかい?」
 ヒナちゃんがその言葉を聞いて、はっとした表情を見せる。
「……富士は休火山。兄山と弟山も休火山」
「そう。この島は別名、双子山とも呼ばれている。島の景観を担う山にちなんだ名前をつけようとして、同じ休火山である日本一の山の名から、『富士』と名づけられた……」
 ケイタさんの想像したことが、ヒナちゃんの気づいたことが俺にもわかった。
 休火山は、休んではいても火山。そして、さっき起きた地震。不思議な能力テレパシーを持つ人魚イブの、島が消えるという予知。これらから連想できることはただ一つ、兄山もしくは弟山の噴火であった。
『山、怒ル。島、消エル。皆、消エル。ワタシ、ソレハ――嫌』
 イブは俺たちを見つめてそう言った。イブにとって俺たちは、俺たち人間はもう仲間なのだ。だから、彼女は島の危機を知らせようとしている。
『今スグ、遠ク、逃ゲル。ミンナ、海ノ、向コウ、逃ゲル、今日、消エル、全テ、消エル』
 イブはしきりに危険を訴えかけた。先ほどの地震から何となく不穏な想像はかきたてられる。しかし、本当に噴火するのかと言われると首を傾げるしかない。
 そんな俺たちの様子を見て、イブはいきどおった。
『以前ニモ、昔ニモ、何回カ地震アッタ。ダカラ、ワタシタチ、自由ニ外出ラレル、ヨウナッタ』
「昔はこの洞窟から出れなかったのか?」
 俺の言葉にイブはこくんこくんと必死に頷いた。
『ワタシタチ、不自由ダッタ。自由、ナカッタ。ダケド、地震、壁、穴アケタ』
 イブとアダムは地震によって、外界に出る手段を得たのだ。自由を得たのだ。
『ダケド、嵐アッタ、アダム、イナクナッタ、離レバナレ、ナッタ』
 嵐が二人を引き裂いたのだ。そう、二人は離れ離れになった。イブは自由を得た代わりにアダムを失い、自由と引換えに孤独を得た。何という因果であろう。
 イブは俺たちにその穴を通って脱出するように促した。穴は水中にあり、外部からはちょっとやそっとでは発見できないほどのもので、俺たちでも通ることができるらしい。人間とまったく同じ大きさのイブが通れるのだから当たり前と言えば当たり前だ。この島はスキューバダイビングのスポットでそんな穴があれば、ここにたどり着いた者がいてもおかしくはないが、今までにそんな事実はなかった。そのことからよほど巧妙に隠れていることが伺える。このまま月日が経てばいつかは見つかるかもしれなかった。けれど、幸いにしてこの穴はまだ見つかっていなかったのだ。
 イブはしきりに危険を知らせようとするが、本当に危険なのかいまだに俺には実感がなかった。
「……今すぐっちゅーのは何でわかるん?」
 俺の疑問をピーコがそっくり代弁してくれた。その目は半信半疑であった。
 今にして思えば、人魚の存在自体を自然に受け入れているのがおかしな話なのだ。ヒナちゃんが倒れているのに気が動転したところに、ケイタさんが颯爽と現れてイブは悪い子ではないと述べた。その場の流れで俺たちはそれを受け入れ、後から来たピーコとメグも俺たちがイブと親しげに話しているのを見て自然と受け入れた。
 そういうものなのか。普通はもっと驚くべきことじゃないのか。今回はタイミングがタイミングだったとしても、ただ一つの謎だけは残る。
 ――何なのだ、この生き物は。
『ワタシハワカル、空気ノ流レ、匂イ、地面ノ揺レ、水ノ冷タサ、ソノ全テカラ、ワカル』
 俺の疑問が明かされることは無く、ピーコの問いかけにイブは答えた。俺は疑問を口にしていないのだから当たり前か。
 しかし、どんな理論、いや理屈だというのか。イブの説明は全く理解できなかった。そもそもにして、イブが俺たちの言葉を全て理解しているわけではなさそうなので、その説明を理解すること自体ばかげた話なのかもしれない。
 ――理解していない? イブは俺の心の中での疑問を理解していない。俺たちの言葉を理解していない。そうか。彼女はテレパシーを使って会話しているわけではないのだ。
 テレパシーとは脳と脳の直接的な会話であり、そこに言語の壁は存在しないという。それに、思っているだけで伝わるはずであり、イブのそれとは違う。彼女の言葉はテレパシーに似たものであって、テレパシーではないのだ。
『……来ル。地震』
 俺の思考を遮ったのはイブの言葉だけではなかった。
 大きな揺れがまた俺たちを襲った。
 揺れがおさまるのを見て、ピーコはまた口を開いた。
「たまたま、やろ?」
『マタ来ル、アトチョット、来ル』
 しばしの沈黙が漂う。本当に地震が来るのか。
 こうも立て続けに当てられると、イブの言葉を信じざるを得ない。しかし、今回の予知が外れたらどうだろう。……俺はイブの予知が外れるとは思えなかった。
 案の定、俺の予想は当たった。いやイブの予知が当たったと言うべきか。
 先ほどまでは半信半疑な様子であったピーコももう何も言おうとしなかった。静まり返った一同に、イブはさらに言ってみせた。
『マタ、シバラクシタラ、来ル。オオキイ、地震、来ル。ソレカラ何度カ、来ル。ソシテ……太陽ガ一番、高イトキ、一番、大キイ地震、来ル』
 もう誰もイブの言葉を疑わなかった。
 そして、俺はイブの正体に何となく気づいた。けれど――今はそれを確かめるべきときではなかった。

 *

 イブの言葉を信じた俺たちは、洞窟の中にとどまることは危険だと判断し、地上に上がることにした。詳しいことはそれから考えればいい。俺たちはイブの指示するとおりに進み、洞窟を抜けた。
 洞窟は、島の北部――兄山と弟山が切り立った崖を作り出している、ダイビングのスポットでもある岩礁へと続いていた。少し深くはなっていたが、何の装備も無しで泳ぐことができた。俺たちはイブに案内されるままに泳いだ。イブの向かったのは、ヒナちゃんが釣り場としているあの入江だった。
『ココマデ来タ、モウ大丈夫、陸、アガル』
 俺たちが陸地に上がったのを見て、イブは満足そうに微笑んだ。
「イブは、どうするんだい?」
 ケイタさんが不安そうな顔で問う。
『ワタシ、泳イデ、逃ゲラレル。デモ、アダムト居タ、コノ島、最後マデ、見テイタイ』
 イブは安心させるように微笑むと、ばしゃん、と水の中へ潜り――そして透き通る水面下を沖へと泳いで行った。やがて彼女が水平線の向こうに完全に見えなくなった頃、俺たちはようやく自分たちに与えられた課題を思い出した。
 すっかり忘れていた。今の時刻は何時だ。
 俺たちは揃いも揃って、携帯電話を水に濡らして駄目にしてしまっていた。ケイタさんが腕につけた腕時計を見る。
「今は……午前七時、もうそんな時間なんだね」
 馬鹿な。俺たちがあの廃墟に向かって、すでに一晩が経っていたのか。……いや、驚くことでもないのかもしれない。みんなの話を全て聞いたわけではないのだ。俺が気絶していた時間が思いのほか長かったということもありうる。
 時刻は午前七時。日が一番高くなるのは正午。イブの話を信じるならば、あと五時間後に山は噴火する。不思議な人魚の、不思議な予知が告げるタイムリミットは徐々に迫りつつあるのだ。
 ――不思議な人魚。
「イブ。君は……」
 俺の呟きをかき消すように、また島が揺れた。大きな、大きな揺れだった。
 入江の水面に波紋が生じる。浜辺に寄せては返していた小さな波が大きな波へと変わる。浜辺に打ち付ける波は白い水飛沫をあげていた。その飛沫に乗じて、たくさんのトビウオが沖へと飛んでいった。沖へ沖へと消えていくトビウオは何だか不吉を感じさせた。
 俺はノゾを、ピーコはメグを、ケイタさんはヒナちゃんを守るようにして足を踏ん張った。揺れはおさまらない。まるで天地が逆転するかのような錯覚に陥る。この揺れで、噴火が起きるのではないかという不安が脳裏をよぎる。
 しかししばらく大きく揺れた後、地震は止まった。
 イブは言っていた。まず大きい地震が来る。そしてそのあとに何度か地震が来ると。今のがその始まりだろう。そして終わりまた大きな揺れが起きる。それこそが――島の終焉。
「できることを手分けしよう」
 俺はケイタさんの顔を見る。ケイタさんは真剣な表情で頷いた。
「僕は災害マニュアルを調べる。救助の要請を出す……どうしたらいいかわからないけど、今から調べてみるよ。たぶん、駐在さんのところに行けばわかるんだろうけど、あの人あてにならないから少し手間取るかもしれない。比奈はその間にできるだけ多くの島の人たちに地震のこと、噴火する恐れのあることを伝えてほしいんだ。できるよね?」
 ヒナちゃんは力強く頷いた。
「俺も林昌さんたちに同じように伝えるよ、ケイタさん」
「私も!」
 ノゾが俺の顔を見て名乗りを上げた。こういうときだからこそ、完全にみんなバラバラに行動するよりも、二人一組くらいで行動した方がいいのかもしれない。ましてや俺たちは土地勘のない人間だから、見知った場所に行くほうがいい。
「うん、二人はそうしてほしい。ピーコくんとメグちゃんは富士に戻って正博さんたちに同じことを伝えてくれないかな?」
 ケイタさんも俺と同じ考えであったようで、ピーコとメグに二人一組で行動するように指示した。ピーコもメグも異論はまったくないようで、黙ってその言葉に頷いた。
「だいたいそんなところかな……これだけの地震だ。時間が経てば何らかの連絡が島に行き渡るだろう。避難場所の連絡もあることだと思う。それまでは今指定した場所から動かないで、連絡があったあとにその指示に従ってほしい」
 ケイタさんは冷静だった。その意見は的確で、やはり頼れる大人であることを再認識させられた。
「……それと、人魚のことは口に出さない方がいいかもしれない」
 ケイタさんはしばし思案するような顔を見せたが、そう言って顔を上げた。
「噴火するなんて話自体、ただでさえ信憑性が薄いのに、人魚なんて持ち出すとさらに信憑性が薄くなるからか?」
 俺がそう言うと、ケイタさんは頷いて肯定の意を示した。
 そりゃそうだよな。島が沈むなんていう話自体が馬鹿げている。しかし先ほどから感じる小さな揺れが、その話の真実味を増していた。この揺れの様子ならば、人魚の話を出さなければうまくいけば皆、噴火の可能性があることに気づいてくれるだろう。
 ヒナちゃんは人魚神社に向かった。時間は限られているのだ。近い場所から知らせていくのは正しい。残った俺たちは商店街を目指した。

 商店街は軽いパニックに陥っていた。あれほどの規模の地震なのだ。これは俺たちが説得するよりも簡単に避難が行なわれるかもしれない。問題は島から出るまでの避難となるかどうかだ。
 ケイタさんは騒ぐ人々を落ち着くように諭す。富士の近くの広場まで来るようにと告げ、そこで避難勧告を待つように促した。
「あんまり声をかけても無駄かもしれない。先を急いで対策したほうがいいかもしれないね」
 ケイタさんは道行く人々に声をかけながら、駐在さんのもとへと急いだ。やがて交番が見え、俺たちはケイタさんと別れると、それぞれの持ち場へと向かった。
 俺とノゾは『マーメイドブルー』へ、ピーコとメグは『富士』へとそれぞれ向かう。最悪の事態を回避するために。
 ホテルのドアを開けると、受付前に立っていた林昌さんが心配そうな顔で声をかけた。
「二人とも、どこに行ってたんだ! すごい地震だから心配したんだよ」
「ごめん、林昌さん。だけど今はそれを説明しているよりも……」
「うん、説明は後でいいよ。今はそれよりも、ホテル隣の広場に集まってほしい。富士の真ん前の広場だ。ホテルの宿泊客は全員そこに集まって、島全体に避難警報が流れるのを待っているんだよ。警報が出されたらそれに従うつもりだよ……あれ、ピーコ君やメグちゃんは?」
「二人は今、富士にいるよ」
 それを聞いて林昌さんは安心したように一息ついた。
「君たちはこんなときに……まあ多分、地震もそのうちおさまるだろし、大丈夫だとは思うけど。でも心配だなあ、この島の山は最悪の場合、火山活動を再開している恐れもあるんだよ」
「いや、再開してるよ」
「え?」
「もう噴火寸前なんだ」
 俺は林昌さんにケイタさんが言っていたことを全て伝えた。しかし林昌さんはすぐに信じようとしなかった。
「……確かに、その可能性があることも否めない。だけど、だからと言って今日明日に噴火するわけじゃないだろう? そのうち、政府が救助支援してくれるさ」
「だめなのっ、今日にでも噴火するのよ!」
 そこで初めてノゾが会話に割って入った。
 林昌さんは面食らった表情をしたが、すぐに真面目な表情へと戻る。
「けれどね、どこにそんな確証があるんだい? にわかには信じがたいな」
 林昌さんの言う通りだった。俺たちには何もそれを証明する手段は無いのだ。人魚の予言だと述べたところで、ケイタさんの言ったように一笑にふされるのがおちだろう。
「とにかく、広場に行ってくれ。富士のお客もそこに集まっているから、ピーコ君たちもそこにいるはずだよ。僕たちも避難警報が流れたら移動するから」
 林昌さんは強引に会話を締めくくった。
 普段は優しい林昌さんがこれだけ厳しいのは、今が緊急事態だからなのだろう。だけど、林昌さんも島の皆も、今どれだけの危機に瀕しているのか正しく理解していない。何とかしてそれを伝えなければならなかった。
 考える間もなく、広場へと到着する。隣接しているのだから当然だ。結局、妙案も何も浮かばないまま、ピーコたちと合流する。
「翔、どうやった?」
 俺は軽く首を振った。ピーコはそれを見ると、そうか、と短く言った。その様子から、ピーコたちも俺たちと同じようなことを言われたのだと推測ができた。俺たちは何もできないまま、ヒナちゃんやケイタさんを待った。
 ヒナちゃんが島の人々を連れて広場に現れる。商店街で見かけた人の顔もそこにはあった。避難警報が出るよりも早く、連れて来ることにしたらしい。確かに何かあってからでは遅いのだ。俺はヒナちゃんの機転の良さに感心した。
「オジー、オバーたち……お年寄りは連れて来れなかったさあ。警報が出たら来てくれると思うけど……」
 ヒナちゃんは残念そうに呟いた。
 それを差し引いても、まだこの広場に集まる者の数は少ないような気がした。昨夜、人魚祭りで見たときにはもう少したくさんの人がいたはずだ。
「昨日でお祭りのメインは終わりだから、夜のフェリーで帰る人も結構いたらしいわよ。遠くから来てる人なんかは今朝一番のフェリーに乗って帰ったって正博さんが言ってた」
 俺が広場をきょろきょろと観察しているのを見て、メグが助け舟を出した。
 なるほど、それで人の数が少ないのか。不幸中の幸いというやつである。しかし喜んでばかりはいられない。ここに向かうまでにかかった時間、林昌さんと会話した時間、そして今こうやって待っている間も、期限は刻一刻と迫っているのだ。
 ――何とかしないと。そう考えたときだった。
『避難警報を発令』
 どこから聞こえているのかわからないが、鐘を鳴らす音が聞こえ、続けて音声ガイダンスが流れ始めた。
『災害が予測されるため、島にいる者は今からフェリー乗り場前に移動してもらいます。なお、まだ移動してはいけません。この放送を全て聞き終わってから移動してください。主要な集合場所には島の代表者が直接訪れて指示をしますのでそのまま耳を澄まして待機してください――……』
 どうやら聞こえてくるのは、あの古めかしい交番からのようだった。普通の交番よりも規模が大きかったのはこういった災害時の放送を流す設備があるためであるらしい。
 あの頼りないお巡りさんが一人でここまでの対応を行なえるかと言うと、それはないだろう。危機管理能力の無い者にそういった重要な職を与えるのは本気でどうかと思ったが今そんなことはどうでもいい。ケイタさんだ。ケイタさんが何とかしてくれたに違いない。島の代表者、と放送では言っていたので、島の主要人物と連絡がとれたと見て間違いないだろう。
 放送はなおも流れ続けた。広場にいない島人は民家に手荷物を取りに戻ってフェリー乗り場前に集まること、広場にいない観光客は富士とホテルの間の広場へと訪れること。延々と放送が流れる。
 やがて、見知った顔が広場へと現れた。ケイタさんと林昌さん、正博さん、そして頼りないお巡りさんだった。
「先ほど、報道がありましたが、今から詳しい説明を行ないます」
 お巡りさんは相変わらずぼうっとしているが、林昌さんは構わず話を続けた。
「駐在さんは本土との対応でお疲れですので、かわって島の自治体の私どもから説明をさせていただくことを予めお断りしておきます」
 そうか、この二人も自治体の一員だから島の代表なんだと俺が納得している間も、林昌さんは話を続けていた。林昌さんが話した内容は物凄く簡潔なものだった。
 弟山が例を見ない突発的な噴火をしようとしている。その影響によって兄山も噴火をするだろう。その時期は定かではないが、今日中に噴火しないとも限らない。政府の救援などは距離的にも間に合わないので民間のフェリーに乗って移動する。手荷物の扱いは――
 林昌さんはよどみなく冷静に説明した。しかし噴火の根拠は述べない。先ほど俺たちが話したときはあれだけ食ってかかったというのに、今は噴火の可能性があると述べている。どうなっているのかと訝しんだが、その疑問はすぐに晴れた。
「噴火について詳しい説明はこの方がします」
 林昌さんは一歩身を引いて、ケイタさんと交代した。
「どうも、大城慶太と言います。この島にはたまたま休暇で来ていました。私はハーバード大学で地質を専攻しておりました。現在ではアメリカ合衆国地質調査所にて火山を含めた幅広い調査を行なっております。アメリカ合衆国地質調査所――略称USGSは、合衆国内務省の研究機関です。研究部門は生物学、地質学、地理学、水文学の四つの部門に分かれていて、特に地質学の部門では、地形図や地質図の製作や地震の観測を行っており、地震による被害を未然に防止するための機関でもあります」
 ケイタさんはまるで教科書を読むようにすらすらと自己紹介と自らの所属する機関の名称を明かした。この場にいる者の全てがその言葉に聞き入っていた。
 アメリカ合衆国地質調査所――うっすらと聞き覚えがある。略称、USGS。日本に住むもののほとんどがその名称を知らないであろう。けれども、ハーバード大学ならばどうだ。一口にハーバード大学と言っても様々であるが、その名前だけで畏怖する者は多いはずだ。ケイタさんは、USGSを知らない人間にもその機関がどういった学歴の者で構成されるかを示し、その有能性を説いたのだ。
 ケイタさんはあえてこの場で、その肩書きをも利用してみせたのだ。権威を持った人間ならば、言うことに間違いはない――そういった心理作用を狙ったのは、頭の切れるケイタさんならではと思えた。
「さきほど様々な推測を交えて観察を行なったのですが、この島の火山活動が再開されています。それも例を見ない速度です」
 ケイタさんはそう前置きすると、肩書きだけではない証拠に、様々な根拠と日本の研究者とも連絡した事実を理路整然と述べていった。そして最後に、今回の避難体制について説明した。
「このようなことは異例ですが、日本の学界でも桜島噴火の例を踏まえて、一早い避難をすべきだという結論に落ち着きました。南月島は小さな島です。その小さな島の中心に二つもの山がそびえています。それらが噴火すれば、あっという間に島全体に被害が及ぶでしょう。さらに桜島と違って、この島は九州、沖縄本島の両方から離れすぎているという距離的な観点、リゾート地であることによる観光客の多さから鑑みて、人命を第一に優先した結果が今回の避難勧告です。政府も私共の出した意見を重く受け止め、民間のフェリーを利用した避難をするように指示されました」
 南月島にフェリーは定期的に訪れる。フェリーの最大搭乗者数は思いのほか多い。二隻もあれば確実にこの島の者全てを運ぶことができるだろう。
 ヘリによる救助などはよく災害支援で見られる方法ではあるが、政府側から見て今そこまで噴火の危機に瀕しているとは取れないに違いないし、通常は噴火が起きてから救助が行なわれる場合が多いことを考えれば、収容人数の限られるヘリを使うまでも無いことは明白だった。
「島の人たちはすでに荷物を持ってフェリー乗り場に集まるように支持しています。観光客の皆さんは今から宿泊施設のスタッフに従って、各自の荷物を取りに戻ってください。慌てなくても大丈夫です。今すぐに噴火することはありませんから、皆さんは普通に旅行から帰るつもりで荷物をまとめてくだされば良いのです」
 最後にケイタさんはそう付け加えて、観光客を安心させた。
 つくづくこの人はすごいと思う。俺にはとてもじゃないがここまでの行動力は発揮できない。この数時間でこれほどのことをやってのけたのだ。さらに人々をまとめる力も持っている。きっとケイタさんのようなタイプをカリスマと呼ぶのだと思った。
「今から一時間後を目処にすべての避難を終えるつもりです。乗船もれが無いよう宿泊リストと照らし合わしますので、フェリー乗船の場合は各自の氏名と人数確認を行いますのでご了承下さい」
 そう言って、ケイタさんは説明を終えた。俺たちの方を一瞥すると、時間がないのかそのまま身振りで挨拶だけをすると商店街の方へと走り去って行った。その後を林昌さんと正博さんがお巡りさんを引き摺るようにして追いかける。
 おそらく、あのお巡りさんは何の役にも立っていないのだろうが、説明する場に一緒にいることが何よりも重要だったに違いない。国家権力の象徴である警官の制服が共にいるのだ。自治体の行なうことや、ケイタさんの言うことにも正当性が付加されるだろう。自治体に関しては島の地方自治を取り仕切っている半ば役所のような役割も果たしているようなので、どちらにせよその決定力はあるように思えたが、あのお巡りさんの存在でそれは観光客から見ても非の打ち所の無い事実としてみせた。
 ケイタさんは正午に噴火する事実を告げることなく、全ての難題をクリアしてみせたのだ。タイムリミットなどと言うと、余計な不信感を抱かせかねない。
 機材は持ってきていないと言っていたが、それはおそらくあの廃墟に持ってきていないということであったのだろう。そのタイムリミットの許す時間の範囲でケイタさんは測量を終えて、本土との連絡も終えた。現在の時刻は九時半。避難が全て終るのは予定では十時半だ。ケイタさんたちはまだ様々な連絡事項が残っているのか交番へと向かったが、このままいけばタイムリミットには余裕で間に合う。
 ヒナちゃんは後で港で落ち合うことを約束し、自宅である富士へと帰って行った。十時半に間に合うようにそれぞれの宿泊所へ移動し始めた観光客を俺たちも追う。
 時間の流れが緩やかな南の島は今、人々の慌しい雰囲気に包まれていた。対照的にその海は、その山は、その木々はいつもと変わらぬ穏やかな様子でそこにあった。この島が消えてなくなる。この自然が消えてなくなる。それはまるで何かの冗談のようで、それこそ人魚の気まぐれな冗談であればよかったのに、ついにケイタさんの手によって真実であると確かめられてしまった。
 ――南月島。人魚の伝説の伝わる島は今、人魚の予言通りに終焉へと向かっていた。

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