土曜日

 土曜日は……。

 *

 我輩は猫である。だがそんなことはどうでもいい。このネコ様は怒っているのである。

 ネコは激怒した。必ず、かの邪智暴虐のお兄系の男を除かなければならぬと決意した。
 ネコには人間の恋愛がわからぬ。ネコは、元は野良猫である。気ままに街を歩き、ネズミを捕って暮して来た。けれどもご主人に飼われてからは、その暮らしに慣れきっていた。きょう未明ネコは自宅警備員の任務を殊更に強化し、普段の昼寝を控え、夕方には完全に目を覚ましていられるように朝は遊びたくても寝ていることにした。
 ネコには父も、母も無い。女房も無い。二十四の、内気なご主人と一人と一匹暮しだ。

 要約すると、俺はご主人を守らなきゃいけないということだ。
 さっきまで長々と語ったのは『走れメロス』をちょっとぱくってみただけだ。ちょっと前に著作権切れたし。

 いや、それはどうでもいい。俺はあの有名なメロスに負けないくらい激怒しているってことを言いたいのだ。『走れメロス』の最後のシーンに、セリヌンティウスがメロスを殴って、「僕のことも殴れ」と言って、メロスがセリヌンティウスを殴り返すシーンがある。友情だ。その友情を見て、暴君だった王様も感極まって「わしも仲間に入れてくれないか」と言い出す。そう、二人の友情は王様の冷たい心まで温かくしてくれたのだ!
 しかし、俺はメロスのようにはいかない。メロスの比じゃないくらいに激怒しているからだ。王様が「仲間に入れてくれないか!」なんて言っても、王様を殴る。ぼこぼこに殴る。泣いて謝るまで許さない。それくらい怒ってるのだ。


 寝るのが仕事の猫が、眠い目をこらして起きている。それもこれも全て、あの憎き男を殴るためでしかない。

「ネコちゃん、今日は寝ないのねー」

 ご主人は声を弾ませながら言った。きっと、起きている俺を男に見せられることが嬉しいんだろう。騙されていることを知らずに嬉しそうに笑っているご主人が不憫で仕方なかった。
 そのとき、チャイムが鳴った。ご主人がインターホンに向かう。

「いらっしゃいー」

 嬉しそうに扉を開けるご主人。扉の向こうでにこやかな顔を見せる男。ご主人がそいつを部屋に入れる――戦いの火蓋は今、切って落とされたのだった。
 男は居間にあがりこむと、「へえ、かわいい部屋だね!」などと調子のいいことを言ってやがる。そして俺を見つけると、「この子が飼ってる猫?」なんて言うもんだから、ご主人がすごく嬉しそうに駆け寄ってくる。

「そうなの! 捨てられてたんだよねえー」

 ご主人は俺を抱っこすると、頬を寄せた。俺はずっと男を見ていた。その目にはやはり下心が浮かんでいる。

「へえ、そんなに可愛いのに捨て猫なんてね。名前は?」

 ご主人はちょっと考え込んだような顔をして、「え、えっと、ステファニー」とか言っちゃってる。誰がステファニーやねん。そんな外国人ちっくな名前つけるなら拾ってきたときにつけろよ。
 それと、俺は捨て猫じゃない。誰にも飼われたことなんかない。ご、ご主人が、は……初めての人なんだからっ!

「ステファニーか! いいセンスだね!」

 男に褒められてご主人は嬉しそうに笑った。ご主人の笑顔は好きだ。だけど、それが騙されているとなると話は別である。
 男は思ってもいないことを並べ立てる。その度にご主人は嬉しそうに笑う。

「あ、そうだ。前にさ。話してたよね。この子の好物」

 男は、カバンからごそごそと何かを取り出す。男が取り出したのは――“ママコ印のキャットフード”ではないか! 魚だらけのキャットフード業界において肉を扱うという……以下略。
 さらに男は袋から、あるものを取り出した。この匂いは……!

「キャットフードと、はい、マタタビ」

 男は俺の前にマタタビを置いた。駄目だ。猫の本能がこの香りに勝てない。俺は自分の目がトロンとなるのを抑えられなかった。

「サトシさん、本当にありがとう。ネコちゃ……いえ、ステファニーも喜びます」

 お、俺はステファニーじゃないふぁい。あーらめぇ……なんらか頭がとろーんと。

 猫にとってのマタタビってのは、お酒みたいなもんだ。しかもアルコール分のきつい。
 個体差はあるが俺はマタタビには本当に弱い。気持ちいいんだ、これが。
 いつもの俺ならその酔いに身を任せたいと思っているだろう。だけど、今は、今はこの魔力に負けるわけにはいかないんだ。

「ふふ、ステファニーったら、すごく喜んでる。キャットフードも開けようね」

 ご主人はそう言って、俺の取り皿にキャットフードを盛りつけた。もう、頭がぼーっとして何が何だかわからなかった。

「あ、しまった……」

 ご主人が声をあげる。
 
「ん。どうしたの?」

「お夕飯にコロッケを作ったんですけど、ソースを忘れてました。ちょっと買って来ます」

「え、いいよ――」

「いえ、やっぱり美味しいもの作ってあげたいですから! 五分で戻ります!」

 ご主人はそう言って、部屋を飛び出して行った。
 後に残ったのはフラフラしている俺と、サトシというチャラ男。

「ま、いっか。あとちょっとだな」

 サトシはそう言って、電話をかけ始める。相手は男友達らしい。サトシは楽しそうに電話している。

「なあ今さ、女の家にいるんだけど、マジでこれ面白いんだって。猫好きのバカでさ。え? もちろん、ヤるに決まってんじゃん。そのためにつまんねえ話も聞いてやってるんだしよ。あんな女、ヤる以外に興味ないっての。ぎゃははは」

 マタタビで正常に働いてない頭が、その瞬間、凍りついたように冷めた。
 こいつ、女性の部屋で堂々と? ――ご主人をバカにするな。
 俺は気がつけば、サトシに飛びかかっていた。

「うわ、おい! 何すんだよ!」

 サトシは俺の顔を押さえつけるが、俺はその顔面を引っかこうとあがく。

「うっぜえな!」

 サトシが俺の身体を掴み、床に叩きつける。ぐしゃり、と変な音がした。サトシは構わず俺を蹴りつける。
 腹が痛かった。頭が痛かった。でも、心は痛くなかった。騙されたことに気づいたご主人の心の痛みに比べれば、ぜんぜん痛くなかった。

「な、なにするの!!」

 そのときだった。ご主人が帰ってきたのは。

「あ、え、いや、この猫がさ……」

「ネコちゃん、ネコちゃん……!」

 ご主人は俺に駆け寄ると、目に涙を浮かべながら抱え上げた。
 そして、サトシを鋭くにらみつける。今まで一度も見たことのない怖い表情だった。

 俺がいくらタンスで爪とぎしても、ご主人のお気に入りのお洋服をびりびりにしても、ご主人はこんなに怖い顔を見せたことはない。
 ……ああ、ご主人は本気で怒ってくれてるんだなあ。

「なんだよ、たかが猫くらいで怒ってんじゃねえよ。だいたい、先に引っかいてきたのはそいつなんだぜ」

「そのことは謝ります。だけど、ここまでしなくてもいいじゃないですか! 帰って。帰ってください……うわあああああ!」

 ご主人はそう言って、泣き始めた。まるで違う世界の出来事のように、俺はご主人の泣き顔を見ていた。
 あまりに騒がれてばつが悪かったのか、サトシは舌打ちだけして帰って行った。

「そ、そうだ。病院、病院に行かなきゃ……ネコちゃん、ネコちゃん、大丈夫だからね。助かるからね」

 ご主人は俺を床におろすと、電話機へと向かった。そして、タウンページを必死にめくり始める。俺はご主人のその必死な様子を見て、何だか嬉しかった。こんなに心配してくれる飼い主にめぐりあえたことが嬉しくて仕方が無かった。
 かろうじて、自分の身体が動くことに気づいた。廊下を見ると、サトシの開けた玄関の扉がまだ開いていた。視界がぼやけていた。ひどくしんどかった。身体中が痛かった。
 俺はご主人がまだ必死にタウンページをめくっていることを確認すると、痛む身体を引きずり玄関に向かった。

 最期はあの場所にしようと前から決めていた。もう、いい歳だから以前からずっと死に場所のことは考えていた。
 ご主人と出会った河原。死ぬには、あそこがいい。優しいご主人と初めて出会った場所だから、死ぬには十分すぎる場所だった。


 さようなら、ご主人。
 俺は、幸せな猫でした。

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