日曜日

 日曜日は、週の終わり。

 * * * *

 我輩は猫である。かつて名前は無かった。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

 長い放浪生活を経て小学校に住み着いた。そこには明るさと優しさが満ち溢れていた。人間っていうのはとてもいいものだと感じた。たくさんの子供たちと出会うと同時に、サチコ先生という人間と出会った。サチコ先生は俺にぬくもりを教えてくれた。
 そしてその後、ご主人という生涯のパートナーと出会った。

 我輩はネコである。そういう名前をつけられた。
 馬鹿なご主人が大学入学して、恋人を失うという挫折を経て、それから拾い上げた野良猫が俺だった。あれから六年が経つ。

 俺はご主人と出会うまで、六年間を野良猫として生きてきた。その気ままな生活が嫌いかって聞かれると、まったく嫌いじゃなかった。だけど、ご主人と出会ってからの六年間と比べると、首を傾げてしまう。
 飼い猫は嫌だった。自由が無いから。でも、ご主人の飼い猫は良かった。そこに、ご主人の暖かさがあるから。サチコ先生もご主人戸と同じようにぬくもりを教えてくれたけど……ご主人のそれとはちょっと違う。ご主人はもっとこう、馴染むような、そういうあれ。うまく言えないや。でもきっと、それって運命なんだと思う。猫の俺が運命なんて言っても説得力の欠片もないけど。
 サチコ先生に飼われなかったから、ご主人に飼われた。ご主人と俺は不思議と気が合った。ご主人の心の隙間と、俺という存在がうまく合致したのか何なのか、ほんともうよくわからないけど、とにかく俺はご主人が好きだ。


 我輩は猫である。名前はネコである。
 この大きな河で溺れているところをご主人に拾われた。

 我輩はネコである。名前はステファニーなんて洒落たものでもないが、この名前が好きである。
 ただの猫としてこの河で溺れ死ぬはずだったのが、どういう因果か『ネコ』という名前を授かって今日まで生きてきた。

 猫の最後の仕事は自らの死に場所を探すことなのよ、と言った母はどこに行ったのだろう。きっと、どこか誰も知らない場所で死んだに違いなかった。
 俺は、この河が好きだ。ご主人と出会った場所だから。もう意識が長くもたない。頭がぼうっとする。もう何も考えられなかった。ただ、眠りたかった。
 にゃー、と一声つぶやき、俺は河の中へと飛び込んだ。こういうときは何と言うんだっけ。もう、何もわからなかった。

「ネコちゃん!!」

 ばしゃん、と自分の身体が水面にぶつかる音に続いて、大好きなあの声が聞こえた。
 またも水音があがり、やかましげに水音が鳴り響く。ばしゃばしゃばしゃばしゃ、何回も何回も。

「ま、待ってて……」

 ご主人は必死に言いながら、俺に泳ぎ寄る。そんなに口を開いたら水を飲んじゃうよ。この人はまた、泳げないのに無茶をしなさる。
 ご主人は何とか俺を抱き寄せることに成功した。しかし、ご主人は泳げない。岸に戻れない。俺を抱えたまま、ご主人は溺れた。
 何でこんなことになったんだろう。薄れる意識の中、想う。死ぬのは俺だけなのに、このままじゃご主人まで死んじゃう。神さま、人間の神さま。ご主人を助けてください。
 あっぷあっぷと苦しげに水をかくご主人は、それでも俺を離そうとしなかった。自分の無力さが恨めしかった。

「……おい、大丈夫か!!」

 そのとき、誰かの叫ぶ声が聞こえた。

「待ってろ、今助けるからな!」

 聞いたことのない男の声だった。サトシだったら殴ってやろうと思ったのに。
 かすむ目で俺は橋の上に男がいるのに気づいた。スーツを着ている。仕事帰りなのかもしれなかった。男は上着だけ脱ぎ捨てると、そのまま橋から河へと飛び込んだ。大きな音が鳴ると同時に、ご主人と俺のもとへ一気に泳いでくる。

「大丈夫か、君!」

 男はご主人をしっかりと抱き寄せ、声をかける。

「ネコちゃん、ネコちゃんが……」

「ん。猫がいるのか? わかった。落とさないように岸まで泳ぐから、そのまま俺につかまって」

 男は優しく言うと、来たときとは違って慎重に岸を目指した。岸に着いた男に、ご主人は動物病院に連れて行ってくださいと頼み込む。

「わかった。車に乗りな」

 男は車のドアを開け、ご主人と俺を乗せる。ご主人は膝に乗せた俺の毛並みを撫でながら「大丈夫」と声をかけ続ける。

「動物病院、どこ?」

「ひかり動物病院です。駅の近くに……」

「ああ、あそこか。営業で周るからよくわかる」

 ご主人は安心したのか、すすり泣き始めた。
 男は少し困ったような顔をしたが、カバンからタオルを取り出してご主人に渡した。

「これ、タオル。営業中に汗かいたときに拭いたから、ちょっと汗臭いかもしれないけど。無いよりはましだと思って。君も猫くんも風邪ひいちゃうといけないから」

 ご主人は差し出されたタオルを受け取り、礼を言う。
 男は特に気にした様子もなく、車を発進させた。

 車ってのはすごいもので、俺が一時間以上かかる道のりをものの数十分で行ってしまう。

「ついたよ。早く行ってきな」

「あの、えーと……」

「帰りも送る。ここで待ってる。猫くんの容態も心配だしね」

 その言葉には、サトシのような下卑た印象は全く受けない。本気で心配してくれている様だった。
 ご主人は頭を下げると、俺を抱いて病院へと向かった。

 どうやら結局のところ、死に場所なんて自分で決めるようなものでもないらしい。

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