第1話

 勉強はつまらない。やったってどうせわからないから。
 そんなことより私は、好きな絵を描いていたい。大好きな絵をもっと描いていたい。描きたい。だから私はペンを走らせる。教科書の片隅に、ノートの真ん中に。縦横無尽に。
「おい、中川」
 私の右手の紡ぎ出すキャラクターはまだ稚拙だけど、それでも、それらは私の魂を込めた最高傑作の数々なのだ。最高傑作。最高。私の最高――これが私の限界。
 だけど、もっと上手くなりたいから、その限界の壁を越えたいから、私は描く。
 限界の向こうは無限大。私のリスペクトする声優さんは、そう歌っていた。私は描きあがったばかりのキャラクターの隣に、『限界の向こうは無限大!』と短くふきだしをつけた。
 似合ってる。これいい、すごくいい。 私はその出来栄えに満足して、小さくガッツポーズした――
「中川夏子!」
 ――ところを、はたかれた。これじゃ状況がよくわからないな。
 私は整理することにする。ごだぶりゅー、いちえいち。五つの“W”と、一つの“H”。だれが、いつ、どこで、なぜ、どのようにして、はたかれたのか。
 私が、授業中、教室で、絵を描いていたから、先生に学級名簿で強く、頭をはたかれた。
 完璧な日本語だった。思わず自画自賛するほどに。
「中川、何をしてたんだ?」
 私はさっき分析したことを、そのまま言った――絵を描いていました、と。
「この問題、解いてみろ」
 この台詞まるで漫画みたいだなあなどと考えながら、私はおずおずと、顔をあげた。怒ってる。先生、すごく怒ってる。
 そっと周囲を見渡してみる。笑ってる。みんな、くすくす笑ってる。
「この問題が解けるかと聞いてるんだ、それくらいはわかるよな?」
 黒板に白チョークで書かれた円形は、『魔法少女アン』に出てくる魔方陣以外の何物にも見えなかった。いや、間違いなくあの漫画の魔法陣だ、と思った。
 だけど、そんなことを言ったら十中八九、怒られる。それに、笑われる。
 だから、私は決まってこう言う――わかりません。
 そして、怒られる。授業を聞いてないから、落書きばかりしているから、外ばかり見ているから、寝ているから……、口を開けば次々と飛び出す怒声の数々。
 先生、よくそんなに思いつくな、とこっそり感心する。天才じゃないかと思う。
 ああ、先生だからか。先生は賢くなくちゃなれないから、きっと、すぐにいっぱい言葉が思い浮かぶんだ。 私にはそれができない。私は人と話すのが、苦手だ。
 だから、怒られている間はほっとする。話さなくていいから。黙っているだけでいいから。
 ……だけど、いつまでも怒られているのは嫌だ。絵が描けないから。好きな漫画が読めないから。
 どうかはやく、このお説教が終わりますように、と私は祈った。
 私の祈りが届いたのか、終業のベルが鳴る。私は解放されたんだ。
「……まあいい。次から気をつけろよ」
 先生は授業の終わりと、説教の終わりをその一言にのせると、教室を出て行った。
 さっそく、大好きな絵の続きを描こうと、ペンを手に取る。ノートの真ん中にはもう少しで完成間近の、魔法少女アンがいる。私に続きを書かれるのを待っている。
 ようし、書くぞ。待っててね、アンちゃん。
 とつぜん、アンちゃんが視界から消えた。音もなく、とつぜん。ううん、嘘。音はあった。
「バカガワさん? あんたまた授業の邪魔してくれたわねえ?」
「どうしてくれんのよ、大事な勉強時間をさ」
 香水臭い竹本さんと、その金魚の糞の……えーと、誰だっけ。忘れた。もう、スネ子ちゃんでいいや。竹本さんもジャイ子でいい。ああ、ジャイ子は良い子だから、ジャイちゃん。決めた、ジャイちゃんとスネ子。
「あんた、何ぶつぶつ言ってんの。まあ、いいわ。ちょっとおいで」
 おいで、とか言っちゃって、無理矢理連れて行くくせに。
 私は少し抵抗してみたけれど敵わず、無理矢理トイレに連れて行かれた。
 あーあ、また絵が描けない。
 そもそも、なんで幽霊がいるのか、私にはわからない。
 その日、いつものようにジャイちゃんにトイレのモップで頭をわしわしされてたら、いた。なんかとつぜん、いた。
 最初は別のクラスの子かと思ったけど、年上っぽいし何か空飛んでるし、空飛んでるから魔法少女かと思ったけど、何か服装は普通のワンピースだし……、私はどっちの仮説も違うという結論を出した。
 別のクラスの子でなく、魔法少女ではないと、私のこの紫色の脳細胞は捻り出したのだ。私って案外、頭いいかもしれない。
 だから、調子に乗って聞いてみた。ジャイちゃんとスネ子に。
 ――この人だれ、って。 ジャイちゃんとスネ子は不思議そうな顔をしたけど、すぐに無視して今度は私の顔を便器に突っ込んだ。これは正直、きつかった。
 私がいじめられてる一部始終を、女の人は、ふわふわふわふわ、浮きながら黙って見つめていた。なんか正直、きもかった。
 ジャイちゃんとスネ子が満足して帰ったあと、その子は初めて口を開いた。
「それ、楽しい?」
「楽しくないよ」
 首を振って答えたけど、正直、話したくなかった。
 私は話すのが苦手だから、話したくない理由としてはすごくまともだと思う。
「あっそ。やめたら?」
 簡単に言われたけど、やめられない。私は返す言葉もなく、黙った。
 無言の私を見て、その子はふふん、と笑った。
「あんたは何が楽しいの?」
「絵」
「え?」
「絵、絵を描くこと」
 白いワンピースの裾をつまみあげながら、その子は、ふわふわふわふわ、と思案した。
 ふわふわ、ふわふわ。
 ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。
「じゃあ、いじめられてる暇あったら、絵、描けば?」
 できないから困っているのに。
 いけしゃあしゃあと、この子は言う。
「……わよ」
 私の静かな怒りを言葉に乗せた。けれど、彼女には聞こえなかったらしい。
「へえ、なーに? なにかしら、バカガワさん?」
「うるさいっ! できたら苦労しないのよ! できたらっ、何もっ、何も苦労しない!」
 バカガワと、この子まで呼んできたことは意外だったけど、そんなことにまで気が回らなかった。
 無神経な、女の子の口調。人を小馬鹿にしたようなその口調。
 人を見下したかのような視線。私を見つめるこの視線。
 なぜだか、とても腹が立った。
「……人を、小馬鹿にして!」
「……コバカじゃん」
 彼女がおうむ返しに言った言葉は、むかついた。頭に来た。鶏冠に来た。
「……っ!」
 文句を言おうとしたけど、言えなかった。言葉が思い浮かばなかった。
 私はジャイちゃんに水をかけられた姿のままトイレを飛び出した。
 くしゃくしゃの髪の毛で、教室にかけこむ。泣きそうな顔で鞄を取る私の様子を見て、クラスメイトたちが笑っていた。
 だけど、そんなことどうでもよかった。
 久々に動揺した。
 何もかもを見透かしたようなあの子の瞳が怖かった。そりゃあ幽霊だもん。怖いに決まっている。
 昂る気持ちを落ち着かせるには、ゆっくり絵を描くのがいちばんだ。
 家に帰れば、ジャイちゃんもスネ子もいない。
 家に帰れば、あの変な子もいない。
 ――私のベストプレイス。
 教室から下駄箱へ、下駄箱から校門へ。走って、走って、走った。走れメロスならぬ、走れ私、だ。
 家につくと、父と母に挨拶だけして部屋に駆け込んだ。
 ちゃんと、ただいまを言わないとまた学校で何かあったのかと心配するからだ。そしたら質問タイムが始まって、また絵が描けないなんてことになりかねない。
 それに、私は父も母も苦手だった。できれば二人と関わらず、私ひとりで部屋にいるようにしたかった。
 荒い息をつきながら部屋に入ると、やっほー、と間の抜けた声がした。
 いた。また、いた。
「何きょとんとしてんの、あんたを空から追っかけてたらすぐここまで来れるでしょうに。なーんも不思議なんてないわよ。きゃははは」
「あなたが不思議よ!」
 悪びれず笑ってみせる彼女に、私は思わず突っ込んでしまった。
「あたしが不思議?」
 彼女はきょとんとした顔を見せた。不思議な存在である自覚はないようだった。
 私は改めて白いワンピースの彼女を観察する。
 年齢は定かではないが、私より歳上であることは確かだろう。ただ彼女は化粧をしているようで、高校生かもしれないし大学生くらいかもしれなかった。
 幽霊が化粧するのか不思議に思ったけど、目の前でふわふわ浮いているほどの不思議ではなかった。
「……不思議。すごく不思議。あなた、いったいなんなの?」
 私の問いかけに彼女はしばし目を閉じ、
「ふわふわ浮いてるから、ふわ子ちゃんってことで」
「あなたの愛称なんて聞いてない! あなた、何なの?」
「え、ふわ子ちゃんだけど?」
 彼女――ふわ子は悪戯めいた笑みをこぼした。
 ……相手するのも疲れた。
 私は、ふわ子ちゃんは無視して、机に向かった。
 鞄からお気に入りの、大切なグロッキー帳を取り出す。中身を付け足せるタイプで、使い終わったら新しい用紙と交換できるものだ。
 これは母さんが私の生まれたときに買ってくれたもので、本当に気に入っている。
 思えば私が母さんから買ってもらったものはこれだけなんだなたなんて考えながら、私は絵を描き始めた。
「ふうん、古いの使ってるんだね」
 ふわ子――本人がそう名乗るのだから、そう呼ぶことにした――は私の手元を興味深そうに覗き込んだ。
「……このグロッキー帳、お気に入りだから」
 私は描きかけの絵の続きがどうにも描けなくて、ひとおもいに破り捨てた。
「……それに中身も入れ替えられるから、いつまでも使えるし」
「ふうん、そりゃあ便利ですこと。それでさ――」
 彼女の話しかける声もだんだんと、私の耳に届かなくなる。
 まっさらなページに見つめて、私は考える。どんな構図にしようか、どんな表情にしようか。
 集中しているときの私は、すごい。とても、すごい。自分で言うのもなんだが、ほんとすごい。
「――邪魔しちゃ悪いから、ちょっと、ふわふわしてるね」
 その言葉を最後に、私は外界との一切の関係を絶った。絵を描くことに没頭するのだ。
 まずはおおまかな輪郭から始める。いきなり、目や鼻を描く人もいるけど、それじゃバランスが悪くなる。
 輪郭を描き終えると、今度はそこに下書きとなる線を入れていく。ここから始まるのだ。
 今から描くのは、ジャイちゃんとスネ子、それから変な幽霊ふわ子に邪魔された魔法少女アンだ。
 いつまでも人気なアニメ。そりゃ、主人公のアンがあれだけ魅力いっぱいなんだもん。アニメもずっと放映されるわけだ。
 ああ、アン。可愛いよ、アン。アンアン。
「あんあん、喘ぐな、気持ち悪い」
 はっと気がつくと、私が絵を描いている手元のすぐ近くに、ふわ子の顔があった。
「ふえっ!」
 私は驚いて思わず、飛び退く。その拍子に手元が狂い、アンの輪郭にありえない線が加わる。
「な、なにしてんのっ!」
「あたしが、いま、ここで、机に、頭乗せてんの」
 ――ごだぶりゅー、いちえいち。
 ふわ子は、完璧な日本語を話してみせた。
「なんだっていいじゃない――」
 ふわ子は絵心が無さそうな気がしたから、私はとっさに絵を隠そうとした。絵の面白味のわからんやつに気安く見せてやる中川夏子ではない。
 しかし彼女は巧妙に私をすり抜ける――文字通りにすり抜けると、グロッキー帳を観察することに成功した。
「うわっ、魔法少女アンだ!」
「知ってるのかよ!」
 同志を見つけた驚きではなくて、幽霊が魔法少女アンを知っていたのにが何よりの驚きだった。
 驚きのあまりに私は、芸人も顔負けであろうベストのタイミングで、突っ込む。さすがだ、と自画自賛したくなったがここは堪えた。
「いやあ、ほら。知ってるもなにも、あたしだって生きてたわけだし? 見てたアニメの一つや二つ、あるわよ」
 私は至極、納得した。
 そりゃそうだ、幽霊だって生きてるんだもん。
 生きてりゃアニメだって見るよ。私だって、生きてるからアニメ見てるんだし。あれ、アニメ見るために生きてるんだっけ? どっちでも大差ないし、まあいいか。
 ふわ子が魔法少女アンを知っていたことで、ベルリンの壁のごとくそびえ立っていた心の障壁は一気に崩れ去った。
 魔法少女、すばらしい。ふわ子、すばらしい。生きてるって、すばらしい! 私はふわ子と意気投合し、夜通ししゃべり明かした。
 初めて自分の気持ちを共有する人に会えた。もちろん死人だけど。
 初めて自分の想いを明かせた。もちろんアニメのことばかりだったけど。
 とても笑った。腹がよじれるくらい笑った。ひどく楽しかった。ある蒸し暑い、初夏の夜のことだった。

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