第3話

 ふわ子のいない毎日は、地獄だった。
 いじめが別段エスカレートしたわけではない。ジャイちゃんとスネ子はいつもと同じように私をトイレへ連れて行く。そして、飽きもせず同じ仕打ちを続けるのだ。
 私はそれをじっと耐えるだけ。授業中には絵を描いて、そしてまた先生に怒られる。
 ただそれだけ、それだけの毎日。
 辛かった。ふわ子と話したかった。また楽しい話をしたかった。
 寂しかった。だれかと話したかった。何かを話したかった。
「ただいま」
 今日もまた涙をこらえて家に帰ってきた。そこに優しく声をかけてくれるふわ子はいない。そう思うと、ぶわっと涙が溢れてきた。
「あら、おかえり、夏子ちゃ……」
 誰もいないと思っていた家に、母がいたことが驚きだった。見られた。泣き顔を見られた。
「どうしたの、夏子ちゃん?」
 びっくりして聞いてくる母を無視して、私は階段を駆け上った。私は自分の部屋に入ると鍵をかけた。なおも声をかけ続ける母の声を無視して、布団に潜り込んだ。もう煩わしい声も聞こえない。
 気づけば眠っていた。夢を見ていた。
 何だか暖かくて、ふわふわとした、そんな夢。私はきっとまだ生まれていなくて、暖かい水に包まれていて、それはきっと胎内だったんだと思う。だけど、それをはっきりと理解する前に私は起こされた。
「夕飯よ、夏子ちゃん。出てきて」
 扉をノックする音が聞こえる。
 心地よい眠りを妨げられて、私は少しいらいらしていた。
 なおもノックする音に私は声を荒げた。
「うるさい!」
 ノックは止んだ。これでもう一度、眠りにつける。今は絵を描くこともしたくない。ただ、寝ていたかった。
 しかし、そうはならなかった。
「……ねえ、夏子ちゃん。学校で何かあったのね? 辛かったのね?」
 私は布団をかぶって無視を決め込んだ。
「何があったの?」
「何もない!」
 しばらく母は黙り込んでいたようだったが、意を決したように言葉を続けた。
「……その、よかったら、私に……お母さんに話してみてくれないかしら?」
 カッとなった。頭に血が上った。
「何を! 今までろくに話しかけても来なかったくせに! 私がどんな思いしてるかも知らなかったくせに! いまさら、いまさら母親面するなっ!」
 一気にまくしたてて、扉に目覚まし時計を投げつけた。がしゃんと大きな音を立てて、目覚まし時計は壊れた。
 母も諦めて、階下へと戻って行った。母の泣く声が聞こえた気がした。

 *

 翌日、私は遅刻した。目覚まし時計が鳴らなかった、そんな当たり前の理由で。
 しかし、私は学校へ向かった。今日がジャイちゃんとスネ子ちゃんの掃除当番の日だから交代しなきゃいけないとかそんな理由ではなく、自分の意思で学校へ行った。
 漫画同好会に入りたい。そこにはきっと自分と同じ趣味を持った人たちがいて、大好きな漫画やアニメの話をして笑いあったり、ときにはそれぞれの絵を厳しく批評し合ったりしている。
 新しい友達を作って、新しい自分を創りたい。
 ふわ子はいなくなっちゃった。もしかしたら成仏しちゃったのかもしれないけど、きっと私に愛想を尽かしたのだと思う。こんな意気地なしの私だから。
 母は泣いていた。思えば、あの人は何も悪くなかった気がする。悪いのは私だった。あの人は母娘の絆を必死に育もうと努力していた。だけど、私はひとりで絵を描いていた。あの人を無視してひとりで。
 私は変わらないといけない。
 もともと、合理的な思考の私は、立ち直りも早かった。
 このまま無為に時間を過ごすくらいならばと、漫画同好会に入部をする決意をしたのだ。そこには志を同じくする人が多かれ少なかれ、いるはずなのだ。
 だから私は、放課後に同好会室に行かなければならない。
「どこ行くの、バカガワさん?」
 私を食い止めたのは、例によって例のごとく、ジャイちゃんにスネ子だった。
 飽きもせず、ようここまで私をいじめられるものだと感心すらする。先生の説教も敬意の対象だけど、こっちもすごい。
 二人はいつものように私をトイレへと連れて行く。狭く、暗いトイレ。
 ここなら他の誰にも邪魔をされないだろう、いじめに最適なスポット。
「さあ、話してご覧? 掃除当番ほったらかして何処に行こうとしてたのかしら?」
「今日は、あなたたちの掃除の日でしょ。私が何で掃除しないといけないの?」
 ジャイちゃんは一瞬、何を言われているのかわからないといった顔をした。私はその脇をすり抜けてさっさとトイレを出ようとした。
「待ちなさいよ」
 そう言って私の制服をつかむジャイちゃんの手を、ポケットに入っていたペンで刺した。ジャイちゃんは予想外の反撃に慌てふためいた。
「ペンは剣よりも強し、ね。きゃははは、邪魔するからこうなるのよ!」
 きゃははは、と哂う私を、理解できないといった表情でジャイちゃんが見つめる。その後ろには相変わらずスネ子ちゃんが隠れている。
 私は制服のスカートのポケットから、コンパスを取り出してみせた。
「もっと、刺しちゃうんだから、きゃは、きゃはははは!」
 私は、きゃははは、と哂い続けた。コンパスは凶器だけど、私のこれは狂気。二人には、正気の沙汰とは思えないだろう。
 ふわ子はよく笑っていた。きゃははは、きゃははは、と。最初、私はふわ子ちゃんの笑い方を気味が悪いと思った。だったら、コンパス持った私が同じように笑ったら、きっともっと気持ちが悪いことだろう。
「な、なによ、こいつ。気持ち悪いわね」
 もともと口数の少ない私が冗長になったことや、いじめっ子の二人が馬鹿だったことが味方したのかもしれない。ジャイちゃんとスネ子は私を置いて、帰って行った。

 二人がいなくなっても、私は笑い続けた。きゃはは、きゃははは、と。
 笑って、哂って、嘲笑して、自嘲した。
「あんた、泣いてんじゃん」
 はっとして振り返る。
「ふわ子……」
「んー、まあまあ、かな? このトイレならだれも来ないだろうけど、そんなこと続けてたら誰からも嫌われるから注意がいるわね」
「ふわ子」
「あ、でも、そんなバカな子でも好きになってくれる人は必ずいるよ。私がそうだったから」
「ふわ子!」
「なによ、うるさい」
 涙がじわっと溢れてきた。
 せっかくの、ふわ子の顔が見えない。
「よくできました、夏子」
 ふわ子が私をそっと包み込む。いつかそうしてくれたように。
 優しく、優しく。
「わ、私、ほんとは、ずっと、友だちが欲しかった。けど、けど、いなくなることが怖くて、話しかけることができなくて、だから、だから……うぐっ、うぐ」
 ふわ子は泣きじゃくる私の頭をぽんぽんと叩く素振りをしてくれた。
 だけど、その手が私の頭に触れることはない。ふわ子は幽霊だから。
「新しいお母さんだって、仲良くしてても、いつか、いなくなっちゃったら、そんな、そんなこと……」
 ふわ子は、うんうん、と優しく頷いてくれた。
「母さんだって、ちっちゃかった頃にいなくなっちゃった……今じゃ顔も思い出せない……ひぐ、うぐっ。こんな、こんな想いするなら、っぐ……はじめからだれとも関わらないほうがいいと思って」
「ごめんね、夏子。私が置いていってしまったばっかりに」
 顔をあげると、いつも笑っていたふわ子が涙をこぼしていた。ぽろり、ぽろり。
「ううん、悪くないの」と私は言った。「悪いのは私なの」
「ううん、ごめん、ごめん、夏子」
「……ふわ子は、母さんはっ! 母さんは何も悪くないの!」

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