第4話

 母さんは、魔法少女アンの絵をよく書いてくれた。
 今じゃもう放映されてない古いアニメだけど、あの頃はまだ放送をしていたっけ。
 母さんの描く魔法少女アンは上手で、そればかりが記憶に残って、肝心の母さんの顔を忘れてしまった。幼い私は憎らしいほどに馬鹿だった。
「母さんは、こっちにきて私だけを見ていたの?」
「うん」
「父さんのことは?」
「あんまり見てない」
「新しい奥さんとの生活とか気にならないの?」
「別に」
「どうして?」
 ふわ子、いや、母さんは私を包み込んでいた両腕を離した。
 私は改めて顔をあげた。そこには母さんの顔があった。はっきりと思い出した記憶の中の母さんの顔があった。
 二十歳ほどの綺麗な顔、私のぐるぐるメガネにやぼったいおさげ髪とは似つかぬ、薄く化粧の乗った綺麗な顔。どこをどう結びつければ二人の顔が同じ遺伝子を持っていると言えるのか不思議なくらい、似ていなかった。
「死ぬ間際にあの人、言ったの」と、母さんは言った。「俺は結婚しない、お前だけを愛するって」
 父さんは私が中学を卒業する頃に結婚した。知らない女性を連れてきて今日から夏子のお母さんだよ、と父さんは言ったけど、そんなのすぐに受け入れられるはずがない。
「だけど、父さんは新しい奥さんを……」
「あたしは言った、いらないって。そんな約束いらないから、早く結婚して新しい奥さんを持てって。あたしのことは忘れろって」
 私はてっきり、父さんは母さんのことを忘れて、新しいお嫁さんをもらったのだとばかり思っていた。勝手にそう決めつけて、他人行儀に接してきて、私はなんて馬鹿なんだろう。
「馬鹿ね、父さんは。忘れなさいって言ったのに、今でも毎晩、あたしのお仏壇にお祈りしてんの。あんた、父さんの部屋なんて行かないから知らないでしょ?」
 図星、だった。母さんを捨てた父さんの部屋なんか、勝手に母親面する新しい奥さんと過ごす部屋なんか、私は行きたくなかった。
「お仏壇を自分の部屋に置いたのもさ、小さかった夏子に母さんのことを思い出させないようにって配慮だったのよ」
 母さんの口から出てくる言葉はどれも初めて知るものばかりで、もっと前に知りたかったものばかりだ。父さんの気配り、母さんへの想い、そして優しさ。
「あんたが学校でいじめられてるけど助けも求めてくれないから、どうしたらいいかわからないって、父さん泣きながらお仏壇に言うのよ。あたし、化けて出るしかないじゃん」
「気づいてたんだ、父さん……」
「当たり前でしょ、あんたなんかの小細工が通用するかっての。こちとら、親だよ、親」
 母さんは、にっこり笑って言った。

「さて……、そろそろいかなきゃね」
「え?」
「いつまでも親に頼る気? グロッキー帳、あたしの代わりだったんだろ。いつまでもママ、ママって、あたしも親バカだったけど、あんたは子バカだね、コバカ」
 コバカ、会った当初に言われた言葉を思い出す。また小馬鹿にして……ああ、子馬鹿か。そっか、そっちだったんだ。
「じゃあ、母さんは行くよ。できたら今度は顔くらい覚えておいてほしいな。ま、ちっちゃかったから仕方ないっちゃ仕方ないんだけどね」
 母さんは、宙へと浮き始めた。ふわふわ、ふわふわと。
「待って、母さん!」
「あ、そだ。あんた、メガネやめ。これ命令だから。女は顔よ、顔。あたしなんて、顔だけで生きてきたんだから。きゃははは、きゃははは」
「母さん、待って!」
「ハッピバースデイ、愛しい、あたしの……夏子」
 ふわふわ、ふわふわ。
 ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。
 出会ったときと同じこの場所で、出会ったときとは違ってゆっくりと、母さんは消えていった。空に透けるように消えていった。ふわふわ、ふわふわ、と。
 完全に消え去る瞬間に見た母さんの笑顔は、この世界で見たどんなものよりも眩しくて綺麗だった。
「ふわ子は、私の一人目の友達で、一人目の母さんだったよ……」
 私は誰にともなく、呟いた。
 不思議と哀しみはなかった。それはきっと、母さんが私に勇気をくれたからだと思う。

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