最終話

 その日は結局、漫画研究会には行かなかった。
 その代わり私はいの一番に帰宅して、台所にいる母に声をかけた。
「ただいま、お母さん」
 形式的なものじゃなくて、本当の気持ちをこめて“お母さん”と呼ぶのには勇気を必要とした。
「おかえり、夏子ちゃん」
 嬉しそうに言うその顔を見て、私は何だか恥ずかしくなって部屋に戻ってしまった。このままじゃいけない、と思って、グロッキー帳を手にして台所へと戻る。今度はさほど勇気を出さなくても良かった。
「どうしたの、今日は?」
「なんでもない。そのまま料理続けて。絵、描くから」
「そう、夏子ちゃんの絵を見るのは楽しみね。ふふ、今日は張り切っちゃおうかしら」
「駄目、いつも通りにして。自然体が一番なのよ」
 そう言ってペンを持った私を見てお母さんは微笑んだ。

 夕飯時には父さんも交えて、談話した。私は将来の夢を語ってみた。
 馬鹿にして笑うでもなく、頭ごなしに否定するでもなく、二人は真剣な顔で聞いてくれた。
「今は夢を追いかけなさい。父さんと……」父さんはお母さんと私の顔を見比べた。「父さんと母さんは、夏子のこと応援してるから」
 私は、ありがとう、と言うので精一杯だった。涙が出そうだったので、食器を片すと慌てて台所を飛び出した。こういうところは直らなかった。まあいいかと思う。
 いつものように階段を上がろうとして、父さんとお母さんの部屋の扉が目についた。
 私はそっと部屋に入ってみた。二人の寝具や家具が置かれている横に、仏壇がちょこんと置かれていた。位牌には行年二十二歳と書かれていた。母さんは学生のうちに結婚し、親になったのだ。なるほど、若いはずだ。そんな生い立ちすら、私は忘れていた。目を向けようとしなかった。
 これからは、すべてと向き合いたい。強く、生きたい。
 母さんの戒名は小難しくて読めなかったけど、横にあった絵に書かれた文字はかろうじて読むことができた。
「……じゅういち、がつ、にじゅうはち、にち。たんじょーび、おめれとう。なかがわ、なつこ、より。なかがわふわこ、へ。……ふわこ? ああ、ふゆこ、か……汚ない字」
 ついでに絵も汚かった。
 でもたぶん、それは魔法少女アンを描いたものなんだと何となくわかった。
 私は鞄の中から、帰宅途中に買ったものを取り出した。仏壇の横の三面鏡を見て、四苦八苦しながら目にはめる。ついでに、おさげ髪をといてみた。
 仏壇にあった母さんの写真と、良い友達であったふわ子とよく似た顔がそこにはあった。
「冬に生まれたから冬子。夏に生まれたから夏子。単純すぎだよ、母さん」
 今思えば、ふわ子というネーミングも単純すぎだった。

 *

 あれから四年が過ぎて、オリンピックもやってきた。
「新刊出たんだってえ、ほらほらー」
 街角の小さな本屋で、小さな女の子が母親に漫画を買うようにせがんでいる。
「何の?」
「飛行少女フワコのー」
「また今度にしなさい」
「やだっ。買って買って!」
「仕方ないわね……」
 母親が折れるのを見て、女の子は満足気に本を手にした。
 嬉しそうに母親をレジへと引っ張る少女を見て、二十二歳になって、あの母さんと同い年になった私は思わず微笑んでしまった。

 あの夏、私は虐めに疲れていて、あの夏、私は幽霊に憑かれていた。
 いま、私は虐めに打ち勝って、いま、私の顔はあの幽霊そっくりの女性に成長していた。ふわ子に、母さんにそっくりな理想的な私に。
 こんな私をふわふわしながら母さんは見ているんだろうか。見ていればいいと思う。
 私は誰も見ていないか確認して、きゃはは、と小さく笑ってみた。少し、恥ずかしかった。

【2008.6 完】

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