行きはよいよい、帰りは――(※おいでよ動物の森DS)
フロントガラスを強く打つ、雨。ガラスの向うには夜の、闇。
あの雨はいっそ、私を強く強く打ってくれればいいのに。
あの闇はいっそ、私を深く飲み込んでしまえばいいのに。
雨粒が一滴ガラスに落ち、一面の黒を白い水飛沫が裂く。それはまるで白い薔薇が咲く様。
闇を裂く。闇に咲く。裂く、咲く。裂く――
「なあ、お客さん……」
――雨音のみが支配する、その空間を一つの音が裂いた。否、音と呼ぶには相応しくない。
「今って、200X年6月XX日、午後12時で合ってっか?」
声。私が、いや、おそらく人間が認知できる限界すれすれの音声。
できれば考えたくなかった、考えないようにしていた。
いや、言い直すべきだ。関わりたくなかった、関わらないようにしていた――
「なあ、お客さん?」
――声の主が運転中だというのにも関わらず、顔をこちらへと向ける。
非常識だ。しかし“これ”に常識を求める方がどうかしている。
この異形の者に、人ならざる者には、私の常識など通用しないのだろう。私の乗るこのタクシーの運転手は、困ったことに世間一般に河童と呼ばれるものであった。
私が都会を離れようとしたのは、本当に単なる気紛れで、そこには重要な動機だとか、ドラマチックな恋愛事情だとかは全く無かった。本当に何も無い。
何も無い私だから、何も無い、というのは動機としてぴったりなのかもしれない。
何も無い私は、移住先を決めるに際して、不動産屋に「希望は特に何も無い」と告げた。確かに希望は何も無いとは言った。だからと言って何も河童が出てこなくてもよかろうに。
タクシーに乗ったときには鉄道員がかぶるような帽子をしていて無口だったから、恥ずかしがり屋か、愛想の無い人だと思っていたがまさか河童だとは。
さしあたって。私がしなければならないことは――
「なあ、お客さん?」
――この河童からどう逃れるかということだ。
河童。古来より、東の国に生息すると云われている泳ぎが得意な異形の生物。
頭頂部にある皿が特徴的で、口には鋭い嘴が存在。その嘴は人間の皮膚程度ならば易々と貫通させることができるであろう。背中には岩にも似た硬い甲羅が目立っている。おそらく何者もそれを破ることはできないに違いない。
手には水掻きがついている。きっとこの猛雨だろうと物ともせず水中を泳ぎきるに違いない――
「なあ、お客さん!」
――その手が私の肩をがしっと掴んだ。
痛い。しかし声にあげるわけにはいかない。無意味に相手を刺激するとその後が怖い。
「あ、は……はい」
「今って、200X年6月XX日、午後12時で合ってっか?」
はたして意思疎通はできるのだろうか。
この峠に入るまでは全く口を開かなかった河童が、今初めて喋ったのだ。
喋ったからと言ってこちらの意思が伝わるとも思えないが、今ここで無言を決め込むとさらに河童の気分を害しかねない。
今、今は何時――私は今、時計を持っていない。鞄の中だ。
そもそも何故――私に聞かずともそこに時計があるではないか。
河童の運転手が告げた時刻と同じものがデジタルの液晶画面に表示されている。きっと、それが正しい時間なのに違いない。これを告げれば。
しかし、ここで私は一つの妙案を思いついた。意思疎通のできる相手かどうか試してみる機会ではないか。
この雨もいつかやむように、時間も無限ではないのだ。いつかは、この均衡状態が崩れるかもしれない。
河童の目を見つめる。濁った、黄色い眼球。
その焦点を判別することは難しく、私を見ているのか、もっと遠くを見ているのか、そもそもその目が見えているのかも判らない。しかし車を運転していることから少なくとも目は見えているに違いない。
私はその目を見つめて、言った。
「……違ってるよ」
河童の目が大きく見開かれる。その拍子でハンドルがぶれたのか、車が大きく左にカーブする。
選択を誤ったか――死を覚悟した瞬間、車の揺れが収まる。
「おっとっと、うっかりうっかり……やっぱり違ってただか。だったらちょいと正しい時間、教えてくんろ」
私はタクシーに備え付けられている時刻を読み上げてみた。
「200X年6月XX日、午後12時」
先ほどの河童の問いかけた日時と全く同じ日時。
常人であれば、意思が伝わっていれば、何らかのリアクションが返ってくるはずだ。
「200X年6月XX日、午後12時で間違いねえだか?」
分からない。“これ”の考えてることが。
まだ全く確証が持てない。ならば――
「違うってば」
――もう一度。
「あれっ、聞き間違いか? そんじゃもう一回言ってくんろ」
「200X年6月XX日、午後12時」
「200X年6月XX日、午後12時で間違いねえだか?」
否定。
「聞き間違いか? そんじゃもう一回言ってくんろ」
「200X年6月XX日、午後12時」
「それで間違いねえだか?」
否定。
「そんじゃもう一回言ってくんろ」
回答。
「間違いねえだか?」
否定。
「そんじゃもう一回言ってくんろ」
回答。
「間違いねえだか?」
否定。
「もう一回言ってくんろ」
回答。
「間違いねえだか?」
回答。
「もう一回言ってくんろ」
――狂ってる。“これ”は話の通じる相手ではない。
「もう一回言ってくんろ、もう一回言ってくんろ、もう一回言ってくんろもう一回言ってくんろもう一回もうもうもうもう一回一回一回言って言って言って言っていっていっていってイッテイッテイッテイッテイッテイッテ」
怖い。怖い怖い怖い。
何故。何故、私がこんな目に合わなければならないのか。
私が悪いのだろうか。いいや、私は悪くない。悪くはないはずだ。人生で私の犯した罪があるとしても、それは父と母を置いて家を出て来たことくらいだ。
それにしたってそれほど責められるほどのものでもない。
これは何かの間違いか、そうじゃなければ何かの――とばっちりだ。
「そうか、バッチリか! よかっただよ……この車の時計、よくおかしくなるからよ」
最後の一言は口に出してしまっていたようで、結果的にそれが“これ”の機嫌を損ねずにすむ要因となったようだ。
時計がおかしくなる。だったら直せばいい。今この場でもっともおかしいのは時計じゃなくて河童の方だ。
いや、そもそも私自身がおかしいのかもしれない。都会の空気に疲れ、病み、逃げ出した。私が狂っていたとしても何もおかしくはない。
そう、おかしくはない。おかしいのは、私。私なのだ。
そうであれば、どれほど幸せであろう。この現実から目を背けられるのならどれだけ幸せであろうか。
――しばしの、無言。
河童が口を閉じて会話が途切れたためだ。ほっとした。少し気分が落ち着く。先ほどは五月蝿いと感じていた外の雨も今はどこか、心地良い。
「……この雨もずいぶんと長いことふってるだな」
河童が口を開く。
ならば私も口を開かねばなるまい。それが“これ”を怒らせない術ならば。
「そうかもね」
「せっかくの遠出だってのにうまくいかねえもんだべ」
素気無い返事であったが、それが気分を害することは無かったらしい。
遠出。都会を離れてもうこんな森深くまでやって来た。ここで降りても戻ることはきっとできないであろう。
夜の帳はすっかり閉じてしまい、今では車の照らすライトだけが唯一の明かりである。きっと、外に出ても迷うに違いない。
だとすれば、村まで行けば、何とかなるかもしれない。
そこで助けを呼ぼう。そうすれば、きっと、助かる。
河童が出ただなんて、普通の人なら大笑いするだろう。しかし、この現実から逃れられるのならば構わない。どんな恥だって甘んじて受ける。死ぬよりはましじゃないか。
「……そういやお客さん、名前は何てえんだ」
名前。私の存在を表す記号。私が私である由縁。
何故、河童がそんなことを聞きたがるのか。相変わらず、河童の意思は読み取れない。
狂った河童のすることだと事実から目を背ける事は簡単だ。けれど、もし、本名を知ることに何らかの思惑があるとすればどうか。
言葉には言霊が宿ると云う。きっと、私という名前にもきっと言霊が宿っている。
だとすれば。当たり障りのない名前を名乗っておくに越したことはない。
「れな」
姓名全てを名乗らず、下の名前から連想できる二文字だけを名乗った。
これなら何も問題はない。
「ふうん、れなか。れなって名前、気に入ってるだか?」
気に入るも何もない。今つけた名前なのだから。
けれど、この場はこれでいい。そう。私は、れな。苗字も何もない。ただの、れな。
「かわいい名前でしょ?」
思いのほか、自分でつけた名前が可愛くってつい問いかけてしまう。
私の問いかけを聞いて、河童はけたけた笑った。
「ああ……俺も気に入っただよ。おなごにはピッタリの……めんこい名前だな。れなちゃんか……」
何かを含むような物言い。
何を言いたいのか。まさか、本名ではないと勘づかれだのだろうか。
「めんこい名前だな、れなちゃんかっ! めんこいなあ、めんこいめんこい! れなちゃんかあ!」
河童はけたけたと笑う。けたけた、けたけたと。
笑う。哂う。哂って、笑って、哂って、嘲笑った。
その度に車が、揺れた。
「……ところで」
ひとしきり笑った後、河童はまたもや運転中だというのにこちらを振り返る。
「恥ずかしながら度忘れしちまったんだが、これから行くのって……どこだっけ?」
――確信した。
こいつは私を目的地に連れて行くつもりは、ない。
私を何処か遠い、誰も人の来ない場所に連れて行くつもりなのだ。
何処か遠い場所。都会にいたときにあれほど行きたいと待ち焦がれた、遠くの地、ではない。文字通りの遠い場所。きっとそこに行けば、私はもう戻ることはできないのだろう。
だからこそここで言わなければ、今言わなければ。
「私が行きたいのは……ごみごみしているけれど、父と母の住むラクーンムラです!」
大都会ラクーンムラ。ラクーンムラ・シティ。
私は悟った。私が行く場所はそこなのだ。そこ以外にはない。
気づけば私は、泣いていた。
逢いたかった。母に、父に。帰りたかった。あの家に。
「ラクーン村ね……それはそうと、れなちゃん。ラクーン村に何しに行くだ? もしかして花嫁修業か?」
「関係ないじゃん」
私は相手が誰であるかも忘れて思わず口を開いていた。
それほどまでに、胸がいっぱいだったのだ。
「そう突っ張るでねえよ。男心のわからねえ女子だべ」
泣いている私に気づいているのかいないのか、河童は喋り続けた。
今までと同じ、軽快な声で。
「それにしてもそんな若いのにラクーン村とはな……あそこはなかなか――な土地だぞ。いってえ、ラクーン村の何が気に入った?」
ほとんど河童の話は聞いていなかった。ただ、最後の問いかけだけはしっかりと頭に入ってきた。
あのごみごみした都会の中で、気に入った場所があるとするならば。
「海」
環境汚染が進んで汚いけれどもまだその青を失わない、海。
自分の色を持ち続ける、海。
私にはない強さを持つ――海だった。
「……女子ってやっぱ、そういうとこ好きだよな」
河童は何も判っていない。
河童に何かが判るはずもない。
もう何も言葉はなかった。私は行きたい場所――帰る場所を伝えたし、河童はそこに向かっている。
もう何も問題もなかった。私はラクーンムラに帰るのだから。
――刹那、河童が剣呑な声で喚き始めた。
「れれれれれ、れなちゃん。名残惜しいけど! ……い、いや、おら、さよならは言わねえ! 雨もあがりはじめたみたいだべ!」
車は停まっていた。雨は止んでいた。
静寂。河童の奇声以外に聞こえるものは何もない。
真暗。車の前方の建物の明かり以外には何も見えない。
おかしい。ラクーンムラほどの規模を持つ街なら、もっと街灯が照っているはず。
「さあて、ここが、れなちゃんがマドンナに変わる村ラクーン村だべ! 詳しいことは……この役場で聞いてくんろ」
声をかけて呼び止めようとしたが、河童はその身体に似つかわぬ速さで車に乗り込んだ。
ウインドウを開けて、河童が口を裂いてにたあ、と笑う。黄色い嘴の奥に赤い口内が露出する。
「それじゃ……元気でな。れなちゃん」
そう言い残すと爆音と共に車は去って行った。
あたりに残るは――静寂。
何もない。大都会だとかそんな問題ではない。ここは村ですら、ない。ただの森だ。
そこまで考えて、はたと思い当たった。河童は何と言っていたか。
「ラクーン村」
森と呼んでもおかしくない、この地は紛れも無く村であるらしい。
目前の建物の表札に――ラクーン村役所と書かれていることがその事実を示している。
後ろを誰かが通る気配がした。私の脇をすり抜けて役場へと入っていく。私はその姿を見て唖然とした。
――犬。犬が歩いている。いや、犬が歩くのは普通だろう。この場合に問題なのは歩くという機能ではなく、その方法にある。二足歩行で歩いているのだ。
犬を目で追っていると、役場の窓から中が垣間見えた。ペリカンが犬の応対をしていた。
この村は、この村は――動物の村。
血の気がさっと引いた。冷たい風が頬を撫でる。
私は帰れなかった。ラクーンムラに。
私は来てしまった。ラクーン村に。
ラクーン村。山奥に佇む簡素な山村。とりたてて名産品もなければ、とりたてた観光地もない。一言で言えば、何もない村。
ラクーン村。何もないこの村には一つだけ、しかし際立った特異点が存在する。住人の全てが、動物であるということ。
私は不便なこの村で一人どうやって生きていくのか。
人の身でありながら、動物と共に過ごす生活。この村においては動物であることが普通で、私こそが異端。異端者であり、異邦人である私はどうすればいいのだろう。
見渡しても車はない。周囲は木々に覆われていて一度迷い込めばそこから出られないであろう様相をしていた。
帰れない。
河童は哂っていた。この村に残る私を見て、哂っていた。
もう帰れないとでも言うかのように。
ここは動物の住む村ラクーン。否、山奥で半ば木々に埋もれているこれを村と呼ぶことができようか。敢えて私はこう呼ぼう。動物の森ラクーン、と。
役場を取り巻く木々が風に揺れた。その音はまるでまだ見ぬ住人達の誘い声のように聞こえた。
――おいでよ動物の森へ、と。
二次創作である以上、様々な解釈があるということを念頭に置きました。
こういった視点から見てみるとまた別の作品みたいになるなあ、なんて思ったり。
根本的な設定と変わらないようきちんと整合性をとったつもりなので、世界観が違うなどのクレームを受けても一切相手にしませんし、気にしません。
この作品はここまでのつもりです。これ以上はおそらく書きません。
名前をつけるにあたって、二点ほど参考にさせてもらいました。
「バイオハザード」から「ラクーンシティ」を引用、「ひぐらしのなく頃に」から「れな」を引用。
イメージ的なものでつけちゃいました。まあ、これでプレイしてるのだから致し方ないと想ってください。