序章・エイドリアン視点

 2月1日の朝。華やかな旧正月の祭りの夢のあとに、僕は誰かに体を揺さぶられているのに気づいて目を覚ました。僕の体を揺さぶっていたのは、僕の同居人にして大親友の、コリン・ロウだった。
「エイドリアン、起きろ!」
「ん……」
「今日からレースだろ!」
「あっ!」
 大切なことに気づいた僕は、思わずベッドから飛び起きた。
「全く、お前が行きたいって言ってたレースなのに、忘れるってどういうことだよ……」
 コリンは呆れ顔で、ため息混じりにそう言った。
「ごめん……」
「まあ、まだ時間的には充分間に合うから、早めに家を出て、朝ごはんに屋台で中華粥でも食べような。シンガポールのメシが食えるのも、これから一ヶ月間おあずけになるだろうし」
「うん」
 僕らは今日から、世界を旅するレース「アメージング・レース・アジア」に一ヶ月間出場する。旧正月を祝えないのが少し寂しいが、僕の好奇心をくすぐるような旅に出られる喜びの方が大きかった。
 それに、レースは世界中のテレビで放映される。それが、コリンの両親を探すための大きな一歩になるかもしれない。
 コリンは航空機事故で身寄りを失った孤児だが、その時赤ちゃんだったコリンと一緒に飛行機に乗っていた女性は、コリンの母親ではなかったらしい。だから、コリンは今でも両親との再開を夢に見ていて、希望を捨ててはいないのだ。
 僕が着替えている間、すでに着替えを終えていたコリンは、いつも身につけているペンダントを手のひらに乗せ、窓辺に立ってそれを眺めていた。
 コリンの手首には、彼が高校時代の学友からもらった、銀色のスポーツウォッチがはめられていた。そのスポーツウォッチとペンダントが、太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
 その時、僕はコリンの頬にも光るものを見つけてしまった。コリンの涙だった。

 コリンの涙には触れないことにした。彼のプライドを傷つけてはいけないことくらい、僕にもわかる。
 着替えが終わると、僕はコリンに声をかけた。
「終わったよ」
「おう」
 コリンは少し赤い目を細めた。
 僕たちは最後のチェックをして、部屋を出て馴染みの中華粥の屋台へ向かった。
 屋台にはまだ人がいなかったが、調理場には人がいた――アニキだ。
「おーい、アニキ!」
「おっ、エイドリアン!」
 アニキことテレンス・リュウは僕の2つ年上の友達で、僕が小学生の頃ある理由でいじめられていたところを助けてもらって以来、僕らは本当の兄弟のように仲良くやっている。
「アニキ、いつもの2つ!」
「了解!」
 アニキは鍋から粥を掬い、2つの丼に入れ、器用な手つきで具をそれらにのせていった。それが終わると、僕らの座っているカウンター席のテーブルに、その2つの丼を置いた。アニキが多めに入れてくれた、僕とコリンの大好物のザーサイの香りが鼻をついた。
「ありがとう、アニキ」
「礼は後にして早く食え! 冷めちまうぞ」
 アニキは笑顔でそう言った。ふと僕は、アニキの顔に傷跡があるのに気がついた。
「アニキ、顔の傷……」
「ああ、チャリンコこいでる時にちょっと事故ったんだ」
「そうなんだ……」
 僕の言葉を遮ったのと、自転車での事故にしては妙に不自然な傷跡なのが気になるが、僕は気にしていないふりをしながら中華粥を食べた。
 ザーサイ多めはやっぱり美味しい。気がついた時には、丼に少しも残さないで食べ終えていた。
「アニキ、美味しかったよ!」
「ごちそうさま!」
「おう、どうも!」
 僕ら二人の言葉に、アニキはいつも通り明るい声と笑顔で答えてくれた。
 ――なんだ、いつものアニキじゃないか。僕は少しホッとした。


「絶対、変だよ」
 屋台を後にした僕は、コリンに向かって呟いた。
「アニキの怪我。あれ、殴られたような痕だったよ」
 僕がそう言うと、コリンは僕をたしなめるように短く発した。
「エイドリアン」
 コリンにそう言われ、僕は我にかえった。僕は好奇心がとても強く、人の事情にまで首を突っ込んでしまう悪い癖がある。
「ごめん。調子に乗りすぎたよ……」
 僕がうつ向いてそう言うと、コリンは気を取り直して笑顔で言った。
「さあ、エイドリアン。集合場所へ急ごう。僕たちは、レースに参加するんだ」
 僕はワクワクしてきた。僕の好奇心がくすぐられてきたのが、自分でもよくわかった。
「楽しみだなあ! 僕は色んな場所を見て回りたいんだ。日本ならなおさらいい!」
 僕は拳を握って、ちょっと熱くなりながら言った。僕は日本が大好きだ。自然、歴史、文化……その全てがロマンに満ちていて、ワクワクしてしまう。そんな日本に行けたら……僕はそう思った。ふと横を見ると、コリンが笑顔でうんうんとうなずいていた。
「そうだな、僕も行きたいな……お前の大好きな日本に」
「うん、行けたらいいね!」
 僕たちはそんな会話を交わしながら、集合場所に到着した。シンガポールの大きな広場がその集合場所だった。僕たちは軽く手続きを済ませると、控え室代わりの屋根だけのテントに用意された椅子に座った。
 テントには一組のペアがすでにいた。そのペアは僕たちと同じ男性同士のペアで、どちらもかなり背が高くガッチリした体格だった。しかも一人はスキンヘッドで、「パンチの効いた見た目」という言葉が似合うような感じだった。しかし、そのスキンヘッドの男は、彼の膝にちょこんと座った、15歳くらいの赤毛の少女と談笑している。
 なんだか妙な光景だが、彼女は彼の妹なのだろうか……それにしては、顔があまり似ていないし、年齢もちょっと離れているような気もしたけれど。
 男性ペアと少女は僕たちに気づき、声をかけてくれた。
「こんにちは!」
「よう!」
「はじめまして!」
 僕たちも彼らに挨拶を返した。
「はじめまして! エイドリアン・ヤップです」
「コリン・ロウです」
 僕たちがそう名前を告げると、スキンヘッドの男が言った。
「俺はロヴィルソン・フェルナンデス。こっちの野郎はマーク・ネルソン」
「私はロジータ・フェルナンデス。ロヴィルソンお兄ちゃんの妹です」
「ロジータはレーサーじゃないけど、レースが始まるまで特別にここにいていいことになってるんだ」
 マークが言った。
「とにかく、よろしくなエイドリアン、よろしくなコリン!」
「うん!」
「ああ!」
 ロヴィルソンの声に、僕たちは笑顔でうなずいた。
 ふと、車が停まる音がした。僕はチラッと音のした方を見ると、思わず息を飲んだ。そこには世界的な自動車会社「マニー自動車」の車「ロワ」が停まっていた。フランス語で「王様」を意味する名がつけられたその車は、ベンツに匹敵するほどの超高級車だ。
 その超高級車から一組の若いカップルが降りた。男性はスキンヘッドだがロヴィルソンほどいかつくなく、女性は長い髪を後ろでひとつにまとめていて、服装は超高級車に似合わずカジュアルだった。運転席からはいかにも「執事」と言った感じの初老の男性が降りた。カップルはこのレースの会場の受付で手続きを済ませ、初老の男性と一緒にこちらへ歩いてきた。
「ありがとう、サカモト。もうよろしいですわ」
 女性が初老の男性に声をかけた。女性からは気品が漂っているが、嫌味な感じは全くしない。
「かしこまりました。では私はこれで……キナーヨシ様、ブレット様、幸運を祈っておりますぞ」
「ああ、ありがとう」
「ええ」
 サカモトはブレットとキナーヨシにお辞儀をすると、自ら運転してきた車に戻って行った。ブレットとキナーヨシは呆然としている僕たちに向かって笑顔を見せた。
「どうしたんだ?」
 ブレットが尋ねた。
「あの……ロワって……超高級車ですよね……それに乗って来るって……」
 僕は少しドキドキしながら言った。
「ああ……実は僕はマニー自動車のインドネシア支社の社長の息子なんだ。ここにいるキナーは僕の許嫁で、丸岡百貨店のインドネシア支社の社長の娘だよ」
「ええっ?!」
 僕たちは驚きを隠せなかった。丸岡百貨店といえば日本最大の歴史あるデパートで、インドネシアやここシンガポールと言った海外にも出店している。かたやマニー自動車は世界的な超高級自動車会社だ。そんな大会社の社長の御曹司と令嬢がここにいるとは……。
「でも、僕たちのことを金持ちだとか、社長の子供とかいう色眼鏡で見ないでほしいな。僕たちだって君たちと同じ人間なんだから。僕の名前はブレット・マニー、キナーの本名はキナーヨシ・マルオカ。だけど、彼女のことはキナーって呼んであげて」
 僕たちがブレットとキナーに軽く自己紹介をすると、二組のペアがこっちに歩いてきた。一組は黒人の男女ペアで、男性はスキンヘッド(もう3人目だ)でだいぶゴツい体格、女性はカールのかかった長い髪をしていて、二人は40代くらいに見えた。もう一組は女性同士で、一人は浅黒い肌に黒く長い髪を後ろでシンプルにひとつにまとめていて、もう一人は長いストレートヘアを下ろしていた。
 女性同士のペアの、ストレートヘアの方は、僕の知っている誰かに似ている気がした。しかし、誰に似ているのか、イマイチ思い出せなかった。確か、子供の頃から知っている人の気がするが……
「はじめまして」
 その女性が微笑んで言った。声も表情も「誰か」に似ている。
「私はアン・タン。こっちはダイアン・ダグラス。私のことはアンナって呼んでね。よろしく」
 僕たちは口々に「よろしく」と言った。
「一つ言っておくけど、」
 ダイアンが口を開いた。
「一位は私たちのものだから、覚悟しといて!」
 ダイアンはそう言うと、自信に満ちた笑顔を見せた。
「いや、僕たちも負けないからな」
 コリンがそう言って、少し口許を上げた。
「おっと、私たちも負けやしないよっ!」
 黒人の女性が言った。
「私はトリニダード・リード。みんなからは『テリー』って呼ばれてるから、そう呼んでおくれ。で、ここにいるのが、私の旦那兼アシスタントのヘンリーだよ」
「アシスタント?!」
 僕たちは思わず疑問の声をあげた。
「ああ。私は『Tita Terri & Tito Henry』っていう服飾ブランドをやってるんだ。自分たちで立ち上げたんだけど、今は知らない人はいないくらいのブランドになってね……毎日忙しいけど楽しい日々を送ってるよ」
 テリーの言っていることは真実だ。テリーのブランド、通称「TTTH」は、「日常にアニメのエッセンスを」というコンセプトのもとに、日本のアニメやマンガに出てくるような、ちょっぴり個性的な服を出している。実はコリンの母校「ポラリス男子高校」の制服は、まだ立ち上がったばかりのTTTHがデザインしたものなのだ。その制服はセーラーカラーの深緑のブレザーに辛子色のズボン、それに臙脂色のネクタイというもので、よく目立つデザインだった。今でもシンガポールでその制服を良く見かける。
「えっ、TTTH?!」
 ブレットが素っ頓狂な声をあげた。
「そうだよ。私はそこの創立者でデザイナーさ」
 テリーがそう言った途端、ブレットが飛び上がって叫んだ。
「TTTH、キター!」
 周囲が凍り付いたのが、僕にもよくわかった。
 「ブレット、お止めなさい!」
 キナーが凍り付いた周囲を割るように言った。ブレットは我に返ると、「仕方ないなぁ」と言った表情で椅子に座った。
「全く……ブレットときたら、まだアキバ系を卒業できませんのね。開いた口が塞がらないこと、この上ありませんわ」
 キナーがため息混じりに言った。周囲が少し笑った。僕はアンナをチラッと見た。この笑顔も「誰か」に似ている気がするが……やっぱり、思い出せない。
 ふと受付を見ると、さらに二組のペアが来ていた。両方とも若い女性のペアで、一組は片方がストレートの黒髪にワインレッドのヘアバンドをしていて、もう一人は黄土色に染めた、ゆるくウェーブのかかった長い髪を二つ結びにして、灰色のニット帽の上にゴーグルをしていた。この組は姉妹なのか、顔がとても良く似ている。
 もう一組は一人が茶髪で髪型はボブ、もう一人はこげ茶色のかなり長いストレートヘアにピンクの太めのヘアバンドをしていた。ピンクのヘアバンドの女性は西洋人のような顔立ちだった。4人は受付を済ますと、僕らのところへ来た。初めに口を開いたのは、姉妹のようなペアの黒髪の方だった。
「はじめまして。私、ヴァネッサ・チョンって言うの。で、こっちは私の妹のパメラ。よろしくね、みんな」
 ヴァネッサはどこか色っぽかった。
 ふと周りを見渡すと、ロヴィルソンが顔を赤らめていた。ヴァネッサがそれに気づき、彼女自身も少し頬を赤らめ、ロヴィルソンにウインクした。ウインクを受けたロヴィルソンは、照れくさそうに笑った。
「みんな、よろしく!」
 パメラがウインクしながら言った。パメラは活発で元気が良い印象だ。僕らも口々に挨拶した。
「あ、オーレリアのこともよろしくね」
 ピンクのヘアバンドの女性が言った。
「オーレリアの名前は、オーレリア・シェナって言うの。で、こっちは一緒に暮らしてるお友達のソフィー・テン。ソフィーとも仲良くしてあげてね、ちょっとツンデレさんだけど」
「オーレリア!」
 ソフィーが叫んだ。僕らはつい笑ってしまった。ソフィーは顔を赤らめて、言葉を続けた。
「私のことツンデレって呼ばないでって何回言ったらわかるの?! このヘッポコ社長令嬢!」
「えっ?!」
 僕を含む周囲が驚きの声を上げた。まさかオーレリア、本当に社長令嬢なのだろうか……それにしてはキナーのような気品は無く、しかもかなり幼い感じがするけれど……。
「はあ……これでも創業百年のシェナ社の3代目の娘だなんて……本当に信じられないわ……」
「あの、シェナ社ってシロップとか出してる、フランスの会社ですよね?」
 ロジータが口を開いた。
「そうそう! よく知ってるね!」
「あ、やっぱり!」
 オーレリアの言葉に、3人の返事がハモった。ロジータと、キナーと……僕の声。
 実は僕はシェナ社のノンアルコールシロップ「シェナ・シロップ」を愛用している。これは飲み物に入れたり、お菓子作りに使うフレーバーシロップで、ちょっと値は張るけれど、そのおいしさから僕も愛用している。僕らの家のキッチンは一角を僕が買ったシェナ・シロップのビンが占領していて、僕はシェナ・シロップを買う度にコリンに顔をしかめられる。
 ……まあ、コリンもちゃっかりこのシロップをいろいろな飲み物に入れて愛用しているが。
「オーレリアさん、お会いできて光栄ですわ! うちの百貨店の食料品コーナーでも、シェナ・シロップはとても人気ですのよ」
「私もお会いできて嬉しいです! あのシロップ、種類も多いしおいしいから好きなんです!」
 キナーとロジータが満面の笑みを浮かべて言った。
 オーレリアは照れくさいのか、顔を赤らめてコクコクと頷いた。僕もどこか嬉しかったし、明るく人懐こい印象のオーレリアには親近感を抱いた。
 ただ一つ、ソフィーがテリーの方をジッと睨みながら、目に涙を浮かべていたことが気になったけれど。

 ソフィーのことは気にしないことにした。……これ以上気にすると、コリンにまた叱られてしまいそうな気がしたから。気がつけば新しく二人の若い女性がテントに来ていた。年は二人とも20歳くらいだろうか。一人は黒髪を赤いリボンでポニーテールにしていて、もう一人はポニーテールの人より背が低く、薄い茶色のウェーブのかかった長い髪をおろし、大きな白いリボンをつけている。白リボンの子、ちょっとかわいいな……そう思ったその時だった。
 その白リボンの子が、僕とコリンにほんの一瞬、冷たい微笑みを向けたのだ。
 僕らを嘲るようなその微笑みは、すぐにその子の顔から消え、その子はみんなに何の含みもない満面の笑みを向けてこう言った。
「はじめまして! ウチの名前はポーラ・テイラー。よろしくね!」
 みんな、笑顔でポーラを迎えた。僕とコリンも、場の空気を壊さないように、彼女に笑顔を向けた。――コリンはどこか、僕のように怯えていたが。
「あ、ボクはナターシャ・モンクスって言います。よろしくお願いします!」
 ポニーテールの子が言った。とても明るくさっぱりした印象だ。彼女は女の子だけれど、自分のことを「ボク」と言っていた。僕は少し彼女の印象にほっとした。ふと、コリンの方を見ると、マークと小声で何か話していた。かつて、耳が聴こえなかった僕は、唇の動きで二人の会話を読むことができた。
「あのポーラって女、ちょっとおかしいよな」
 マークがそう言うと、コリンは小さくうなずき、
「何か、ありそうな気がする」
 と、言った。
 ポーラは何者なのだろうか……少し気になったが、僕はレースに向けて気持ちを切り替えることにした。
 気がつくと、若いカップルがこちらに来ていた。男性は僕と同じくらいの年か少し年下に見え、僕に似たヘアスタイルの短髪にやや細い目をしていた。女性は少し年上に見え、セミロングヘアに意思の強そうな顔をしている。男性の方が先に自己紹介をした。
「オッス! オレ、エドウィン・ロー。よろしくな!」
 エドウィンは見た目の通り、少しガキっぽい(こういうことを言うと、コリンに「人のコト言えないだろ」とか言われそうだけど)印象だった。エドウィンに続いて、女性も口を開く。
「アタシはモニカ・ローってんだ。アタシのこともよろしくな!」
 ちょっと言葉遣いの悪いペアだが、その分親近感もある。なんだか面白いペアだな、と思ったとき、キナーがぴしゃりとモニカに言った。
「モニカさん、淑女たるもの、少々言葉遣いに気をつけた方がよろしくてよ」
 モニカがキナーを睨み付けた。
「うっせーな、お嬢。初対面の人に向かってそれは失礼だろ?」
 キナーも負けじと言葉を返す。
「失礼なのはあなたではなくて? わたくしはあなたのためを思って注意しただけですのよ。第一わたくしはお嬢などではありませんわ。キナーヨシ・マルオカという名前がありましてよ」
 どうもモニカとキナーは犬猿の仲みたいだ。モニカが何か言おうとした瞬間、エドウィンが言った。
「二人ともケンカすんなよ、このタンコブナスビ!」
 周囲がしんと静まりかえった。少しの沈黙の後、ヘンリーが口を開いた。
「エドウィン、それを言うなら『オタンコナス』じゃないか?」
 エドウィンがすぐさま答えを返した。
「だって、『タンコブナスビ』の方が響きがそれっぽいだろ?」
 周囲が呆気にとられる。エドウィンは言葉を続けた。
「ちょっと汚いたとえだけどよ、『ゲロ』と『ゲボ』だと『ゲボ』の方が響きがそれっぽいのと同じってワケ」
「ああ、わかったわ!」
 周囲の沈黙を破るように、感嘆の声をあげたのはヴァネッサだった。
「今のでよくわかった!」
「だろ?」
 エドウィンが自信満々の笑みを見せる。正直、ヴァネッサ以外の人にはさっぱりなのだが。それにしてもヴァネッサ、美人だけどかなりの変わり者なのかもしれない。そんなことを思っていると、一人の老人が少年の手を引いてこちらに来ていた。老人はキナーの執事のサカモト、そして少年は――僕の一番上の兄の息子、 つまり僕の甥っ子のクインシーだ。
「クインシー!」
 僕はうれしくなって、思わず声をあげた。クインシーは僕とコリンの元へ駆け寄ってきた。
「一人で来たのか?」
 コリンが尋ねた。
「うん! オレ、途中で迷いそうになったけど、あのじいちゃんがここまで連れて来てくれたんだ」
「よかったな!」
 コリンがクインシーの頭を優しく撫で、温かい笑顔を見せた。僕はサカモトのところへ行った。
「サカモトさん、クインシーをここまで送ってくれてありがとうございました」
「いえいえ、礼には及びませんよ。しかし、元気そうな甥っ子さんですね」
「はい。クインシーは8歳で、生意気盛りのヤンチャ坊主なんです」
「そうなんですか。まあ、子供は元気なのが一番ですよ」
 サカモトはそう言うと、ホッホッと優しく笑った。
 僕がサカモト……もとい、サカモトさんの笑い声を耳にしたあと、僕の背中に誰かがぶつかった。
「あ、ごめんなさい!」
 僕と若い女性の声が重なり、振り向いた僕とその声の主の女性の目が合った瞬間、僕の心臓が一回大きく脈打った。
 これは僕の人生の中で二度目の経験だった。人はそれを「一目惚れ」というらしいが、僕は人が何というかより、目の前の女性への不思議な感情で頭がいっぱいだった。その女性はふんわりとした印象の少し長めのセミロングヘアで、走ってここに来たのか少し顔が上気していた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、です」
 女性に声を掛けられ、僕は少しどもってしまった。その時、背後でからかうような二重の声がした。
「あー、コイツ真っ赤になってやがる!」
「あー、兄ちゃん真っ赤になってるー!」
 エドウィンとクインシーの声だった。初対面の年下の男と、まだ8歳の甥っ子にからかわれるなんて……僕の赤くなっている顔がさらに赤くなるのを感じた。
「おい、やめておけって」
「こら、クインシー!」
 モニカがエドウィンを、コリンがクインシーをたしなめた。エドウィンは軽く舌打ちして椅子に座った。クインシーは一瞬つまらなそうに「オジキ……」と言ったが、表情を変えないコリンの様子を見て、コリンの元に戻っていった。
「姉さん、そろそろ自己紹介した方がいいんじゃないの?」
 若い男性がこちらに来ていた。髪は僕とぶつかった女性と同じ黒髪をショートカットにしていて、顔も女性に似ていた。
「うん、そうだね。っていうか、ごめんね、イチ君。私ったらホントに落ち着きが無いから……」
 女性は男性に謝ると、こちらを見て話し始めた。
「はじめまして。私はサワカ・カワシマといいます。日本から来ました。で、こちらは弟のダイチです。よろしくお願いします!」
 サワカは明るくそう言うと、会釈をした。ダイチがそれに続く。僕も二人に会釈を返した――サワカに対する不思議な感情と、それに伴う顔の赤みと胸の高鳴りが取れないまま。

「これで、レーサーは全員揃ったね」
 ポーラが言った。
「何で知ってるんだ?」
「スタッフさんがさっき教えてくれたの。このレースには10組のペアが出場するって」
 マークの質問に、ポーラはさらりと答えた。マークはポーラの違和感に初めて気づいたときのように、少し難しい表情をすると、コリンにまた声を掛け、何かを話しはじめた。僕がそれに耳を傾けようとしたとき、僕は耳なじみのある声を聞いた。

「おーい! コリン、エイドリアン!」
「クレム!」
 クレムことクレメント・オンは、コリンの高校時代の先輩だ。その横には同じくコリンの高校時代の先輩で、クレムの親友のドニーことドノヴァン・リーがいた。
「クレム先輩! ドニー先輩!」
 コリンもこのことに気がついた。
「レースだから見送りに来たんだ。テオフィスト先生とニャロメも、後から来るってさ」
 クレムが笑顔で言った。テオフィスト先生とはコリンの高校時代の恩師で、名前をユリシーズという。ニャロメはユリシーズさんの息子のユージーンのあだ名だ。ちなみにクインシーとユージーンは幼馴染で、同じ小学校に通う大親友なのだ。
「ありがとうございます、先輩」
「礼はいいって。2年間一緒に過ごしてきたから、俺たちは兄弟みたいなもんだし、それに……」
「あーっ!」
 コリンとクレムの会話をさえぎるように、ドニーの黄色い悲鳴が聞こえた。
「オーちゃん! オーちゃんだよね?!」
 ドニーの視線の先にはオーレリアがいた。オーレリアは驚いた表情で言う。
「うん、そうだけど……オーレリアのことをそう呼ぶってことは……キミ、月刊バーテンダーマガジン読んでるでしょ?!」
「そうそう!」
 ドニーが嬉しそうにうなずくと、オーレリアは喜んで「やったあ!」と叫び、ドニーに抱きついた。ドニーも満面の笑みでオーレリアを抱きしめる。何でドニーがオーレリアを知ってるんだろう……と、思ったところで思い出した。少し前にドニーに見せてもらった、ドニーの愛読雑誌「月刊バーテンダーマガジン」の表紙を飾っていた女性の名前が「Aurelia Chenat」だった。プロフィールに「シェナ社の社長令嬢」と書いてあったし、よくよく考えれば彼女こそオーレリアだったのだ。それにしても、二人ともちょっと空気が読めてないなぁ……そう思った瞬間、クレムがドニーの肩を、ソフィーがオーレリアの肩をつかんで、同時に発した。
「ドニー、今はそういう時間じゃないだろ! ……あっ!」
「オーレリア、やめなさい! ……あっ!」
 クレムとソフィーの目が合った瞬間、二人は驚きの声をあげた。
「お、お兄ちゃん……」
 ソフィーはオーレリアの肩から手を離した。
「何でこんなところにいんのよ。私のこと一人ぼっちにしたくせに、急に会いに来るなんて……いったい何がしたいの?」
 つっけんどんな態度で話すソフィーに、クレムは少し戸惑っている。
「いや、別に……ただ、後輩がここに来てるから……」
「なら、別にいいけど」
 ソフィーとクレムの様子を見て、コリンがドニーに尋ねた。
「ドニー先輩、訳、聞いてもいいですか?」
「うーん……」
 ドニーは難しい表情をしている。
「わかりました。無理やり聞いたりしませんから、安心してください」
「うん、ありがとう。あと、一個気がかりなことがあるんだ。アルのこと」
 アルことアラン・ウーは、コリンの高校時代からの親友で、今はそこそこ売れている俳優なのだが、コリンたちへの気配りも未だ忘れていない。実はコリンのスポーツウォッチもアルからの贈り物なのだ。
「アルが、どうかしましたか?」
「うん、実は昨日……」
 ドニーが何か言いかけたとき、こちらに来る人影が見えた……アルだ!
「おい、アル……」
 コリンがアルに声をかけた……が、アルは少しも表情を変えず、スタッフのいる方へ向かっていく。なんか今日のアル、様子が変だな……と、思った――
 その時だった。
 複数のパトカーがこっちに向かって、サイレンを鳴らしながら走ってきた。
「何、あれ?!」
 僕は思わず声をあげた。みんなが振り向いてパトカーを目を丸くして見た――ただ一人、まるで自分が捕まってしまいそうな、たじろいだ表情のポーラを除いてだが。
 パトカーは僕たちの前で止まり、警官が数人降りた。そして、その警官たちが、アルを捕まえたのだ。
「アラン・ウー、お前を暴行の容疑で逮捕する」
「えっ?!」
 僕らは息を呑んだ。アルは表情を変えず連行されていき、一台のパトカーの中に入れられた。そのパトカーは走っていく。
 別のパトカーに乗っていた警官が、レースのスタッフと話していた。話が終わると、スタッフの一人が僕らのところに駆け寄り、残念そうな顔で言った。
「みなさん、残念ですが……ウーさんが逮捕されたのと、警察の指導があったので、レースは中止とさせていただきます。申し訳ございません」
「何だって?!」
 許せなかった。
 レースが中止になるだなんて聞いていない。それは、コリンの両親を探すチャンスがひとつ消えることを意味している。怒りがこみ上げてきた。
 僕はスタッフの前に歩み寄った。スタッフの目の前に来たとき、僕の怒りが爆発した。
「ふざけないでください!」
 みんなが僕を見る。でも、みんなの視線なんてどうでもよかった。僕は言葉を続けた。
「これってテレビに映るんでしたよね?! テレビに映ったら、どこかにいるコリンのお父さんやお母さんの目に留まると思って、僕たちは希望を抱いてレースに出たんですよ?! それをいきなり中止にするなんて、ふざけているにも程があります!!」
 周囲がざわついた気がした。コリンが孤児だということが知られてしまったようだ。しまった……と思ったが、今はそんなの気にしている時間じゃない。
「でも、警察の指導があったので……」
 スタッフが言い訳をする。僕の怒りはさらに増した。
「だから何なんですか?!」
 僕はついにスタッフに手をあげそうになった……が、誰かが僕の手を止めた。
「エイドリアン、もういい」
 コリンだった。
「コリン……」
 僕は我に返った。コリンは意外と落ち着いた表情をしていたから、僕は激怒したことが少し恥ずかしくなった。
「もういい。もういいから」
 コリンの声は少しだけ、嬉しさを帯びていた。でも、当の僕はものすごく悲しかった。もう、コリンが家族に見つけてもらうチャンスがなくなってしまった気がしたから。
 僕の目から一粒、また一粒と、涙が零れ落ちていった。
「でもさ……コリンのお父さんとお母さんが……見つけてくれるチャンス……なくなっちゃったじゃん……」
 僕は泣きながら言った……子供っぽいのは自分でもわかっていた。溢れる涙で僕の目がかすんでいった。だけど、次の瞬間、誰かが僕の涙を布でぬぐってくれた。
「ダメだよ、そんな簡単に泣いちゃ」
「……サワカ?」
 サワカだった。サワカが優しい眼差しで僕を見ながら、僕の涙を赤いバンダナでぬぐってくれた。
「何があったのかわかんないけど、ものすごくつらいことがあったのはわかるよ。でもね、そんな簡単に泣いちゃダメ。ね、わかるでしょ?」
 サワカは口調も優しかった。……なんだか、別の意味で僕の目から涙が零れそうだった。でも、僕の手にサワカが置いてくれた赤いバンダナで、僕は涙をぬぐった。すると、僕の視界に四人ほど、こちらに来る人物が見えた。短い白髪に青い目の初老の女性以外は、僕の見覚えのある人物だ。ユリセスさんとその息子のユージーン、そして――アニキだ。
「アニキ……どうして……」
「エイドリアン……」
 アニキは僕の方に駆け寄ってくるやいなや、突然土下座をして、謝罪の言葉を発した。
「許してくれ!」
「えっ……?」
 僕は動揺した。いったい、どうしたんだろう……と思ったその瞬間、アルのことが頭をよぎった。もしかして、アニキはアルに……いや、まさか、アニキに限って、またアルに限って、そんなことは無いと思うけど……。
「アニキ、何があったの? 一体……」
 僕がアニキに何があったか聞こうとしたとき、ユリセスさんたちと同時にここに来ていた白髪の女性が、突然コリンの元に駆け寄り、コリンの胸元のペンダントを見て尋ねた。
「あなた、そのペンダント、どこで手にいれたんですか?」
 女性は少し困惑した様子で、コリンに尋ねる。コリンは一瞬戸惑ったが、すぐに女性の目を見て話し始めた。
「このペンダントは、僕の両親のものだと思います」
「『思う』って……?」
 女性の声に、コリンは静かに答えた。
「僕には、家族がいないんです」
 周囲が息を呑み、コリンを見る。ただ、今までコリンを知っていた僕やアニキ、ユリセスさんやクレムたちは別だけど……そうだ、レースに出るはずだったみんなは、コリンの過去を知らないんだ。――ただ一人、ポーラだけは、今にも「やっぱりね」と言いそうな冷たい笑顔で、こっちを見ていたが。コリンは話を続ける。
「僕は、今から30年前の4月26日に起きた飛行機事故で、奇跡的に生き残りました。このペンダントは、当時推定生後10日の僕が、救出されたときに握り締めていたものなんだそうです。でも、ペンダントについての情報はこれしかありません。両親のものだというのも、あくまで推測です」
「そうなの……」
 女性はそこまで聞くと、信じられない言葉を口にした。
「私、あの飛行機事故のとき、あなたを抱いていた女性の左隣に座っていたのよ」
「えっ?!」
 本当に信じられない。コリンが身元を失ったあの事故は、かなりの大惨事だったと聞いている。なのに、生存者がほかにもいたなんて……。女性はコリンに向かい、堰を切ったように話を続けた。
「あの方もあなたが生後10日だと言っていたわ。あなたがあまりにも可愛らしい赤ちゃんだったし、私は子供が大好きだから、あの方に話しかけていたのよ。あの日は新婚旅行先の東京から、シンガポールの職場に戻っていたんだけど、夫そっちのけであの方と話していたわ。その夫もあの事故で亡くしてしまったけれどね。そうそう、あの時、あの方の右隣に座っていた、日本人の高校生の女の子とも話したの。ナナカちゃんとかいう名前だったっけ。早稲田大学に進学したお兄さんがいるって言っていたわ。あの子も確か、亡くなってしまったけれど……」
「ナナカ……?!」
 サカモトさんが少女の名前を口にし、女性に尋ねた。
「すみません。あなたはナナカ・サカモトと……」
「あっ、そうよ、ナナカちゃんはそういう名前だったわ!」
「じゃあ、あなたは私の妹と……最後に話したという訳ですね」
「えっ、あなたは……まさか……」
「はい。私は、ナナカ・サカモトの兄のカズオミです」
「まぁ……」
 女性はついに泣き出してしまった。
「お会いできてよかったわ。前からずっと、ナナカちゃんのことが気がかりだったもの。それに……セイジ君にも……」
「セイジ君?」
「ええ。あの飛行機に乗っていた赤ちゃんは、確かそういう名前だったわ。『青二』って書いて『セイジ』って読むって……ごめんね、セイジ君。家族がいないってことは、誰にも引き取られなかったってことよね。私が引き取って育てていれば、きっと、家族がいなくて一人ぼっちってことには、ならずに済んだのに……」
 女性がそこまで言うと、コリンは女性を優しい目で見ながら話した。
「どうか、僕に謝らないでください」
「でも……」
「僕は、確かにあの事故の後に施設に送られて、ずっと一人ぼっちでした。でも、施設を飛び出して以来住み着いたスラム街にも友達がいたし、高校生になってからは、あそこにいるユリセス先生やクレム先輩やドニー先輩、さっき捕まったアルと出会い、みんなとは家族のように仲良くなれました。それに、僕は2年前、エイドリアンと出会い、時間はかかったけど、親友になりました」
「エイドリアン?」
「はい、あそこで泣いてたアイツです」
 女性は僕を見た。僕はちょっと恥ずかしくなったけど、少し微笑んで女性に会釈した。
 コリンは女性に笑顔を見せる……コリンは強いなと、僕は思った。実は僕にも人に言えない、つらい過去がある。コリンはもっとつらい人生を歩んできたのに、それを気に入っていると言えるなんて。僕はそんなこと言えない。やっぱり僕はまだ、弱い。
女性は静かにうなずいて言った。
「セイジ君……よかったわ。私は、シルヴィア・ボキューズは、あの事故の直後に、薄れいく意識の中であなたの力強い泣き声を聞いたのよ。救助された後、あなたは無事だと聞いていたけど、会うことは叶わなかった。でも、こうして今、立派な男性になったあなたに出会えて、本当に嬉しいわ……セイジ君、今は何て名前なの? あの事故の後、何ていう名前をつけてもらったの?」
「コリンです。コリン・ロウです」
「そう……コリン君、いや、コリンさん。いい名前をつけてもらったわね」
 シルヴィアさんがそういった途端、突然誰かが泣き崩れた。
「ごめんなさい! レースが中止になったのは、ウチのせいなんです!」
 ポーラだった。隣のナターシャが目を丸くしている。
「ね、ねぇ、ポーラ、どういうこと?! ポーラのせいだなんて、そんなこと、絶対ありえないし、それに、ボクはポーラみたいな優しい子が、レースを中止にするようなことはしないってわかってるし……」
「違うの!!」
 ポーラはナターシャに向かって叫んだ。
「ウチはレースのことは全部知ってるの。レースが中止になった原因も……」
「どうして……?」
「このレースに星龍が絡んでるから」
「星龍?!」
 星龍……「シンロン」と読む名前のその団体は、シンガポールに拠点を置く世界的なマフィアだ。60年程前に発見された「白虹」(ハッコウ)という天然資源の取引を主にしていて、その資金を集めるために、麻薬や銃や人身の売買などといった違法取引なども行っている。
「でも、なんで星龍とポーラが関係あるの?」
 ナターシャの問いかけに、ポーラは一呼吸置いて答えた。――その答えは、半分驚いてしまうけど、半分うなずけてしまう答えだった。
「ウチは、星龍のスパイだから」
「ふーん……」
 ポーラが正体を明かした瞬間、意外な人物がポーラの元へ歩み寄った――ドニーだ。ドニーはポーラの前で、持っていた鞄からカッターナイフを取り出した。
「良かった。今、これを持っていて」
 ドニーはそう言うと、カッターナイフの刃を押し出した。
「ドノヴァン・リー! それで何をする気だ?!」
 ユリセスさんが叫んだ。
「大丈夫です、先生。彼女を殺しはしません。ただ、一生舞台に立てなくするだけです」
 ドニーは一呼吸置いて、言葉を続けた。彼の眼鏡の奥の瞳が、鋭い光を放っている。
「ポーラ・テイラー。君が駆け出しの女優だってことは知ってるよ。僕はあまり目立ってはいないけど、君と同じ仕事をしているからね。だから、僕の大親友が社会に出られなくなったみたいに、君も社会に出られなくしてやるよ。死ぬ訳じゃないから安心して。ちょっと顔に傷跡をつけるだけさ。一生消えない傷跡をね」
 ポーラが青い顔で震えていた……いや、ポーラだけじゃない。僕も、周りのみんなも、さっきドニーに抱きついたオーレリアでさえ、そんな感じだった。いつものドニーはそんな人じゃないし、そんな人だとは想像もつかないからだ。いつものドニーは、常に優しい笑顔を浮かべている、マイペースで天然で、日本の若者言葉で言うなら「KY」、つまり、若干空気が読めない男性だ。そんなドニーがどうして……と、思ったが、コリンやクレムやユリセスさんから、こんな話も聞いていた。
 ドニーは友達をとても大切にしていて、そのせいで時折とんでもない行動を起こしてしまう、と。
 まだコリンが高校1年生だったころ、クレムが他校の不良に絡まれて、大怪我をして寮の部屋まで戻ってきた翌日、激怒したドニーが不良のいる高校へナイフを持って進入したことがあったらしい。結局、入り口でナイフが見つかって進入は阻止され、何事も起きなかったらしいが、一歩間違っていたら大惨事になっていたと、当時を知っているみんなは口を揃えて言っていた。
 思えば、クレムは薬物に手を出してしまった過去がある。その薬物には星龍がからんでいたらしい。だから、ドニーは星龍が憎いのだ。大親友の心身をボロボロにしてしまった星龍が。
 そして、日本式の大衆演劇をやっている小さな劇団に所属し、そこで女形を担当しているドニーは、特に女優が顔に傷をつけられたらどんなことになってしまうかを良く理解している。でも、いくら星龍が憎いとはいえ、こんなことをしてしまって――本当に、良いのだろうか。
「よせ、ドニー!」
 ユリセスさんの声を振り切るかのように、ドニーは首を横に振る。
「嫌です! 僕が星龍を心の底から憎んでいることくらい、わかるでしょう?!」
「でも、俺は教え子がそんなことをしているのを見たくはないんだ!」
「関係ありません!」
 ドニーはポーラに向かってカッターナイフを振りかざした。だが、次の瞬間、ドニーは何者かに手を押さえられ、頬をはたかれた。その人物は、ユリセスさんでも、クレムでも、コリンでもなく、テリーだった。
「私の大事な幼馴染を、困らせるんじゃないよっ!」
「チビ子……?!」
 “チビ子”……ユリセスさんはテリーをそう呼んだ。
 ドニーを睨みつけるテリーの顔を見て、僕はふと、ユリセスさんが幼馴染に良く似た女性と結婚したと言っていたことを思い出した。その幼馴染はすでに別の男性と結婚し、ニューヨークで服飾デザインの仕事をしているともユリセスさんは言っていた。
 今思えば、その幼馴染こそテリーだったのだ。ユリセスさんの妻でユージーンの母である、今は亡きアガサ・テオフィストさんの遺影は、確かにテリーに似ていた。そういえば、ユリセスさんは訳あってその幼馴染、つまりテリーと連絡が取れなくなっていると言っていたっけ――
「イヤミは、いや、ユリセス・テオフィストは私の大事な幼馴染なんだよ!」
「えっ……?!」
 ドニーが戸惑っている。クレムも、コリンも。おそらく、3人はユリセスさんとテリーの関係を知らないのだろう。もしかしたら、クレムたちが高校に入学する前から、ユリセスさんとテリーは連絡が取れないどころか、何かの事情で二人の関係を口外できなくなっていたのかもしれない。
 だけど、“チビ子”と“イヤミ”という名前には聞き覚えがある。……ああ、そうだ、『おそ松くん』だ。六つ子の兄弟と少年“チビ太”、そして「シェー!」という台詞や「ザンス」という語尾が特徴的な“イヤミ”などといったキャラクターが登場する、ユリセスさんの大好きな日本のギャグ漫画だ。二人はきっと小さい頃にごっこ遊びでもしていたのだろう。テリーは女性だから、“チビ太”ではなく“チビ子”と呼ばれて……そう考えている間にも、テリーは言葉を続けていた。
「アイツに久々に会えて嬉しかったから、挨拶の一つや二つぐらいしようと思ってたところさ。なのに何で私たちを困らせるんだい?!」
 そのとき、ヘンリーの怒鳴り声が聞こえた。
「トリニダード・リード! 何であの男に近づこうとするんだ!」
「ヘンリー!」
 ヘンリーがテリーを睨みつける。テリーもヘンリーを睨み返した。
「あんな人殺しには二度と近づくなと言ったはずだぞ、トリニダード!」
「うるさいよ! 人殺しはアンタも一緒だろうが!」
 信じられない言葉を、二人は口にしている。“人殺し”――ユリセスさんは過去に、人を殺めてしまったのだろうか。そんなの信じられない。そう思ってユリセスさんを見ると、戸惑った様子のユージーンとクインシーを、しっかりと抱き寄せていた。でも、その目は、今までに見たことも無いくらいの悲しみを浮かべていたが。そして“人殺し”という言葉――思えば、僕も、14歳の頃――
「もう、やめてください!」
 ロジータが叫び、そのまま泣き出した。それにつられてユージーンが泣き出す。ロヴィルソンがロジータを抱きしめ、周囲の人々をジッと睨みつけた。彼が何か言おうとしたとき、キナーがサッと左手を横に出し、周囲を黙らせた。
「いい加減になさい、あなたたち。人を責めて何の特になると思いまして?」
 周囲の人々は、少し恥ずかしそうにうつむいた。
「やるじゃねぇか、お嬢」
 モニカが小声で言った。その言葉には、驚きと心からの尊敬が込められていた。この二人、結構仲良くやっていけるのかもしれないな……そう思った次の瞬間、鈍い音が響いた。ヘンリーがキナーの頬を殴ったのだ。キナーは倒れこみ、左の頬を押さえた。ブレットがキナーに駆け寄り、キナーを優しく抱いた。
「ふざけんじゃねぇよ!」
 モニカの声がした。
「うるせぇ! 小娘に何がわかる!」
「テメェこそ、何も悪くないヤツに手ェ出して、恥ずかしく無ェのかよ! おい!」
 モニカはそう言ってヘンリーを睨みつけ、彼を含む周囲を見事に黙らせる。周囲が黙ったのを確認すると、キナーの元に駆け寄った。
「お嬢、大丈夫か?」
「ええ、心配される程でもなくてよ」
 モニカとキナーはお互いの目を見て、微笑み合う。ブレットがそれを優しい目で見ていた。
 なんだか、みんなが羨ましくなった。庇いあい、助け合えるみんなが。ましてやモニカとキナーなんて初対面なのに、あんなに強い絆が生まれるなんて。――僕とコリンの仲も、これほどのものであればいいのに。
「みんな、聞いて」
 この空気にいたたまれなくなったように、ダイアンが言った。
「とりあえず、みんな落ち着いて。アランが捕まって、レースはオジャンになったから、私たちには解決しなくちゃいけない問題が山積みになったわ。でも、少し落ち着いてみんなで考えれば、きっと解決できる。“三人寄れば文殊の知恵”っていうでしょ? きっと大丈夫よ」
 ダイアンは僕たちに笑顔を見せた。
「まぁ、とりあえず、みんなでチョコレートでも食べない?」
 アンナがニッコリと微笑んで、リュックサックからチョコレートの箱を取り出し、蓋を開けた。甘い香りが漂う――あれは、チョコレート・カヴァード・チェリー!
「ダイアンはショコラティエールなの。これはダイアンご自慢のチョコレート・カヴァード・チェリーよ」
 アンナが説明した。おいしそうな匂いに少し和んでいたら、横でコリンが怪訝な顔をしていた。
「どうしたの、コリン?」
「いや……俺が前に働いてた店のチョコと、同じ匂いがするんだよな……」
「えっ、でも、その店は……」
「……わかってるさ。多分、修行した店が同じだと思う」
 コリンは昔パティシエだった。「Peachy Cheeky」(ピーチー・チーキー、「桃色ほっぺ」の意)というアメリカンカフェで働いていたが、その店は2年前に星龍の砲撃を受け、壊滅してしまった。今ではコリンは全く別の職業に就いているが、パティシエだった頃の経験を活かしてクインシーやユージーンにものすごく手の込んだおやつを作ってくれたりする。おかげで二人は市販のおやつをあまり食べなくなったし、将来はパティシエになると言い出すようになった。
 それにしても、匂いで店を当てるなんて、現役料理人の僕でも、おそらくできないだろう。コリンにとってパティシエは天職だったかもしれない。いや、もしかしたら、コリンの生き別れた両親は、相当腕の良いパティシエとパティシエールだったかも――なんて考えていたら、ドニーの黄色い声が再び響いた。
「ねぇ、チョコちょうだいチョコちょうだいチョコちょうだい!」
「ドニー!」
 クレムが恥ずかしそうにドニーをたしなめる。ドニーは舌をぺろっと出した。クレムは呆れ顔だが、少し安心したようだった……さっきのドニーは、本当に怖かったから。アンナはそんな二人にチョコレートを渡すと、アニキのところへ行った。
「あなたも食べない? おいしいわよ」
 アニキは顔を上げ、アンを見た。すると、アニキがわなわなと震えだした。
「おばさん……ティナおばさん……」
 アニキがそう言った瞬間、僕はある人物を思い出した――“第二の母親”と言っても過言ではない人物を。

 “ティナおばさん”ことクリスティーナ・リンは、アニキのお母さんの弟さんの妻、つまりアニキの叔母に相当する人物だった。旦那さんを白虹鉱山の落盤事故で亡くし、若くして未亡人になった彼女は、白虹の研究で忙しく世界中を飛び回っていた義姉夫婦に代わってアニキの面倒を見ていた。職業はシェナ社のビバレッジ・イノベーション・ディレクター(ドリンクレシピ開発員)だったが、趣味でやっていた刺繍の腕前がかなりのものだったので、よく個展を開いていた。
 そして、彼女は大の日本好きだった。僕は子供の頃、アニキの友達と一緒によくアニキの家に泊まりに行っていたのだが、彼女はその度に和食で僕らをもてなしてくれた。たまたまその頃……いや、今もだが、毎週土曜日の夜にテレビで水戸黄門のアニメをやっていて、そこに出てきた食材や食べ物を用意してくれたのだ。ご老公一行の活躍をテレビで観た後、黄門様やうっかり八兵衛の食べていたものを実際に食べるのは、とても嬉しかった。僕の日本好きも、彼女の影響を多分に受けているのだろう。
 ティナおばさんは本当に僕らに尽くしてくれた。収入がそれなりにあるのもあったと思うが、今考えれば、きっと大切な人を早くに亡くした寂しさがあったのだと思う。思えば彼女は僕を特にかわいがってくれたような気がする。仕事柄を活かして僕にモクテル(ノンアルコールカクテル)作りを教えてくれたし、僕が一度大きな過ちを犯してしまったときも、彼女は僕の世話をいろいろとしてくれた。クインシーの世話も焼いてくれたし、僕がコリンと出会ってからは、コリンにも気をつかってくれた。
 そんなティナおばさんだが、去年のクリスマスイブに星龍の凶弾に倒れ、45歳にして帰らぬ人となってしまった。たまたまその頃、彼女は刺繍の個展を開いていたのだが、彼女が亡くなった翌日に個展の会場で刺繍が壁から剥がされていく様子をアニキとコリンと僕の3人で見ながら、これほど悲しいクリスマスは初めてだと思った。
 なぜ、アンナが誰かに似ていると思ったとき、すぐにティナおばさんを思い出せなかったんだろう……確かに、ティナおばさんは亡くなる少し前はショートヘアだったが、それまではアンナとそっくりなロングヘアだったし、朝に中華粥を食べたときの、ザーサイを日本の漬物のように粥の上に載せる食べ方もティナおばさんから教わったものだった。そこまで手がかりがあれば、思い出せるはずだったのに……。
「痛っ……!」
 アンナがこめかみを押さえ、しゃがみこんだ。落ちそうになったチョコレートの箱をアニキが掴んだ。
「どうしたの、アンナ?!」
 ダイアンがアンナの元に駆け寄った。
「大丈夫よ、ダイアン。ただ……私、この人に何か懐かしさを感じるの。ダイアン、私が記憶を失う前に、この人と会ったことってあるかしら?」
「ううん……私、この人とは初対面よ。それに、アンナもこの人に会ったことは無いと思うわ」
 アンナは記憶を失ったのだろうか……そう思った瞬間、女性の声が聴こえた。
「警察よ! 全員その場を動かないで!」
 声がした方を見ると、二人の女性警官が警察手帳を片手にこちらに来ていた。
「私は国際警察星龍対策課警部、ディンプル・イナンダー。今回のレースに星龍が関わっている可能性が強いから、捜査に来たわ」
 カールがかかったセミロングヘアの警官が言った。
「私はスネイナ・グリア。イナンダーと同じく国際警察星龍対策課警部よ」
 ストレートロングヘアの警官はそう言うと、言葉を続けた。
「それにしても、よくこんなに星龍に関わりのある人間を集められたわね、このレースのスタッフは。レーサー全員が星龍に関わりのある人間だなんて、本当に信じられないわ」
 言葉が出なかった。レーサー全員が星龍に関わっているということは、このレースは何か裏があるのかもしれないということだ。僕らは――利用されているのかもしれない。
「それはさておき、」
 グリア警官はアニキの元に歩み寄った。
「あなたが、テレンス・リュウね」
「はい」
 アニキはためらうことなく頷いた。
「アラン・ウーに殴られたのは、あなたで間違いないわね?」
「はい」
 僕の嫌な予感が的中してしまった。やっぱり、アニキはアルに殴られたのだ。アニキは静かに話しはじめた。
「最初は、向こうからぶつかってきたんです。俺は頭に来たから、あいつに暴言を吐きました。『まだ、ジャンキーとつるんでんのか』って……」
「待って」
 イナンダー警官が言った。
「その“ジャンキー”って、まさか……」
「そこから先は言わないで!」
 ソフィーの声がした。
「お願いだから!」
 僕は、アニキの言っている“ジャンキー”が、クレムを指していることを知っている。ソフィーはそのことを知っているのだろうか……そういえば、さっきソフィーはクレムのことを「お兄ちゃん」と呼んでいた。二人は知り合いなのだろうか――
「……わかったわ」
 イナンダー警官がそう言うと、ソフィーは安堵の溜め息をついた。
「テレンス、あなたが暴言を吐いたから、アランはあなたを殴ったってことね」
「……はい」
 アニキはグリア警官の問いかけに、また静かに頷いた。すると、さっきまで黙っていたダイチが、アニキの元に歩み寄った。
「要するに、お前のせいでレースは中止になったってことだな」
「ああ」
「ふざけるな!!」
 ダイチはアニキに向かって怒鳴ると――アニキの顔を蹴りはじめた。
「イチ君、やめて!!」
 サワカが叫んだが、ダイチは聞く耳を持たないかのようにアニキの顔を蹴り続ける。
 ダイチはそんなことをする人に見えなかった。日本の若者言葉でいうなら、「草食系男子」といった面持ちの彼が、まさか僕の大切な人の顔を蹴るだなんて……僕の心が怒りと悲しみで満たされていく。でも、僕はどうすることも、できなかった。
「もうやめなさい!」
 アンナがダイチを羽交い絞めにしようとした……が、すんでのところでダイチに殴られた。
「黙れ! レースを中止にした野郎の肩を持つ気か? この腹黒女が!!」
「ざけんじゃねぇ!」
 アニキが隙を見て立ち上がり、ダイチの胸倉を掴む。
「てめぇ、よくもそんなことが言えるな!」
「お前は黙ってろ。レースを中止にしたくせに、よくでかい口が叩けるもんだな」
「貴様!」
 アニキがダイチを殴ろうとした瞬間――
「やめて!!」
 僕は思わず二人の間に入った。
「二人ともやめてよ!」
 アニキは少し表情を暗くした。しかし、ダイチは僕を鋭く睨みつける。そして、僕を殴ろうとした――だが、その手をコリンが止めた。
「俺の親友を殴るんじゃねぇよ!」
 コリンは怒りに満ちた目で、ダイチを見た。
「エイドリアン・ヤップを殴る奴は、神とやらが許してもこのコリン・ロウが許さねぇからな!」
 嬉しかった。少し涙が出そうになった――だが、ダイチは無関心な様子で、いや、むしろ嘲笑うかのように、コリンに言葉を返した。
「だから何? 親友? 冗談じゃないよ。どうせ馴れ合いだろ」
「やめなさい、川島大地!」
 サワカが日本語で大地を叱った。
「姉さん……」
 ダイチも日本語で答える。その表情は少し悲しげだった。
「ダイチ・カワシマ。あなたのお姉さんが言うとおり、やめた方がいいわよ。私たちにはあなたを逮捕する権限もあるんだから」
 グリア警官が言うと、ダイチは少し戸惑った様子だった。
「お前、なんで僕の名前を……?」
「あなたたちのデータは参考として取ってあるの」
「えっ?!」
 僕らは息を呑んだ。グリア警官は言葉を続ける。
「レースの出場者が決まった時点で、何かにおうと思ったのよ。だから、極秘にデータを集めておいたわけ。あなたたちのデータは全部、この中に入っているの」
 グリア警官はカバンからスッと一冊の本を取り出し、僕らの目の前にかざした。だが、その本は見るからに警察手帳や重要な書類ではなさそうだった。なぜなら……その本の表紙には、デカデカと「サルでも勝てる! 将棋必勝法」と書いてあったからだ。
「スーさん!!」
 イナンダー警官が顔を真っ赤にして言った。どうやら、グリア警官は普段、イナンダー警官から“スーさん”と呼ばれているみたいだ。それにしても、さっきまでクールだった両警官にこんな一面があるなんて……僕らは呆気にとられてしまった。
「あ、間違えた。こっちだ」
 グリア警官はもう一冊の本を僕らの前にかざした。その本は手帳だった。グリア警官は一回咳払いして言った。
「とにかく、あなたたちのデータは取ってあるの。だからあなたたちの名前はわかるし、過去も知っているわ。それから……」
 グリア警官はコリンに視線を向けた。
「コリン・ロウ。あなた、そろそろ友達のところに行きたくなったんじゃないの?」
「友達って……?」
「アランのところよ」
 コリンは一瞬驚いたようだ。
「行ってもいいんですか?!」
 グリア警官は微笑んだ。
「大丈夫よ。取調べもあらかた終わっただろうし、面会はできるわよ」
「ありがとうございます!」
 コリンは嬉しそうに言ったが、少し表情を暗くした。
「だけど、どうやって行けば……?」
「それなら心配いりませんわ」
 キナーの声がした。
「わたくしたちが乗ってきた車に乗ればよろしくてよ。運転はサカモトに任せますわ」
「ありがとう、キナー!」
 コリンはホッとした様子だった。それを見ていたシルヴィアさんが、オーレリアに言った。
「お嬢様、私も同行して……」
「いいよ、シルヴィア」
「ありがとうございます、お嬢様」
 シルヴィアさんはそこまで言うと、少し険しい表情になった。
「いいですか、お嬢様。くれぐれも私がいない間、皆様に迷惑をかけないように」
 オーレリアは少しむくれて言葉を返した。
「はいはい、わかりました」
「“はい”は一回だけと私は何度も言いましたよ」
「はーい」
 どうもシルヴィアさんはオーレリアの執事みたいだ。それもオーレリアに相当手を焼いているみたい……なんだか、微笑ましかった。
「あの……コリンさん、私、アランさんにアップルハンドパイ(手づかみで食べられるアップルパイ)を焼いてきたんです。よかったら、アランさんに渡してください」
 ロジータがそう言って、コリンにケーキの箱を渡した。
「私からも。一個はあなたが車の中で食べればいいわ。」
 アンナが金色の銀紙に包まれたチョコレート・カバード・チェリーを二個コリンに渡した。
「オジキ! ちょっと待ってて!」
 クインシーの声がした。
「どうした、クインシー?」
「ちょっとだけ待ってて!」
 コリンは一瞬きょとんとした。クインシーは隣にいたユージーンに何か話しかけ、側にあった自動販売機へと向かい、二人で小銭を出し合って缶コーヒーを買った。二人は息を切らしてコリンの元へ走った。
「これ、アル兄ちゃんに」
「ああ、ありがとう」
 コリンは微笑んで、缶コーヒーを受け取った。気がつくと、僕らの近くに例のロワが停まっていた。
「あっ、ロワだ、ロワ! オーレリア、乗りたい!」
「僕も!」
 オーレリアとドニーの歓声が響いた……そういえば、ドニーはミニカー集めが趣味だったなと思い出した。オーレリアも月刊バーテンダーマガジンのインタビューで自らの趣味をミニカー集めだと言っていたな。二人とも、車の種類に詳しいのだろう。
「お嬢様!」
「ドニー!」
 シルヴィアさんとクレムが恥ずかしそうにしていた。ロワの運転席からサカモトさんが出てきて、後部座席のドアを開けた。
「コリンさん、こちらへ」
「はい」
 コリンは頷くと、ロワに向かっていった。理由はわからないけれど、僕は少し、コリンが心配になった。
「コリン!」
「心配すんな、エイドリアン!」
 コリンは振り返って僕に笑顔を見せた。
「サカモト、報道陣が詰め掛けている可能性がありますわ。気をつけて!」
 サカモトさんはキナーの声に頷くと、コリンがロワに乗ったのを確認し、後部座席のドアを閉めた。そして助手席にシルヴィアさんを座らせ、自身も運転席に座った。
 車は走っていった。学友に会いに行く僕の大親友を乗せて。

←トップへ  序章・コリン視点1へ→
inserted by FC2 system