『〜伝説のフリカケを求めて〜』
始まりはある、チャットでのmaroと猫るんの会話からでした。
「病院食ってマズいんでしょ?」
当たり前のように病院食はマズいと言う猫るん。
しかしmaroは「いやいや、普通においしかったよ」と言う。
ほうほう、マズいとは限らないんだなと、関心する猫るん。
更にmaroは気になる発言をする。
「病院食でさヤバいくらいウマいフリカケがあってwww」
なぬ!? ヤバいくらいウマいフリカケだと!?
興味津々の猫るんは詳しく話してくれとmaroに言う。
「なんかめちゃめちゃウマくて! ご飯に味がしみ込むような……! 今だに探してるんだけど見つからなくてさ」
猫るんはビックリ仰天である! ご飯にしみこむだと!? 今だに見つからない!?
「てか、探してるのかwwwwwwwww」
「それくらいウマいって!」
maroは必至にフリカケのウマさを弁解する。
そこまでウマいというならば、猫るんは気になって仕方がない。
でも探す気にもなれない猫るん。まあ、maroが見つけてくれるまで待とう!
<1. by猫るんるん>
一方、maroはそんな他力本願な想いを聞いたせいで、ますますふりかけへの想いを募らせていた。
*
僕はふりかけへの未練を断ち切ろうと、山ごもりを始めた。
「ふーりーかーけーーー!」
……ふーりーかーけー……りーかーけー……かーけー……けー……
僕の声は夜の山に反響して、やまびことなって戻ってきた。
「ふりかけが、僕を呼んでいる……?」
気が付くと、頬に熱いものが流れていた。
「え……なんだこれ……」
それは、ふりかけと別れてから僕が初めて流した涙だった。
――忘れなくていいんだよ。
ふいに、耳元で囁くような声が聴こえた気がして、涙で濡れたまぶたを拭いながら、顔を上げると、柔らかな光が山を覆い、朝日がゆっくりと姿を現し始めた。
「そうか……そういうことか」
ここが全ての始まり。
ふりかけと再び出会う為の夢の始まり。
The Next Stage in the Evolution of Hurikake……
<2. by maro>
――The Next Stage in the Evolution of Hurikake......let's go.
猫るんは云った。病院食はマズイんでしょ、と。
maroは応じた。普通においしかったよ、と。
誰かのチャットのログを読んで、いまだ日の目を見ることのなかった世の忘られものが、この世界へと羽ばたこうとしているのだと感じた。表舞台に立つことがなく、決して主役にはなりえなかったものが。それひとりだけでは舞台を彩ることができない。
かつて、日出ずる国の詩人は謡った。
「もしこれが戯曲だとしたら、なんて非道いストーリーだろう」
戯曲で終ればまだいい。戯曲にすらなりえず、人々の記憶の片隅にすら留めてはもらえない。
なんて、哀しいことなのだろう。私は、このチャンスを逃したくない。私の知る、それをこの世界に送り出したい。そのために、筆をとる。
人はそれを、フリカケ、と呼んでいる。
――――――――――
『とある管理栄養士の話』
そもそも、病院食というものは不味いと、確かにそう言われている。
とりわけ内科がまずい、と言われる。これはわかる。たとえば、糖尿病を患う方の食事。当然、食事制限がかかることもある。そのために、食事箋はある。
ふと、そんなことを考えながら、カルテに食事箋を挟んだ。私の承認印である「吉田」を押してから。
しかし、手元に残った分を見て、これは挟めないな、と思う。思わず、溜息が漏れた。
「よしちゃん。遅くまでお疲れ様。カルテ開いて何してるの?」
診療録管理士と医事課を兼任する中村さんだった。
「あ。食事箋をチェックしていまして……でも、全部はさめないんですよね」
私は手元にたまった分を見て、またひとつ溜息をこぼした。またドクターまでバックしないといけないのか。
「どれ。あー、確かにねえ。病名と食事内容、一致してないもんなあ。また木村センセか」
整形外科の木村ドクターの指示した分だった。
これら私の手元にある食事箋の病名には、整形外科の骨折の病名しかついていない。しかし、食事内容は糖尿病患者のそれである。この場合、糖尿病の記載が必要不可欠である。先の秋の医療監査でも指摘を受けたというのに、木村ドクターは我関せずだった。頑固者で、命令されるようなことは絶対に応じない。医師である以上、諸々の規則に縛られるのは当然だというのにそれを良しとしない人だった。
「あのドクター、ちょっと怖いんですよね……」
いやだなあ、と思った。
食事箋をきちんと書き直してくれ、と言うだけでもおっかない。でも、監査でも指示された以上は守っていかないといけないわけで、診療報酬を貰う以上はそれら守るべきルールはやはり守らなければと思う。頭が痛いよ、ほんと。
「いいよ。俺が言っとくから。よしちゃん、まだ仕事あるんだろ? そっちやっときな」
「え、そんな悪――」
いいよいいよ、と取り上げてしまい、医局に向かって行ってしまった。
なんて、優しい人なんだろう、と思う。彼は、私の8つばかり歳上の35歳だった。
彼だけである。私をよしちゃん、と呼ぶのは。これは苗字からそう呼ばれているわけではなく、私のフルネーム『吉田 良恵(よしだ よしえ)』による。略してヨシヨシだとかさんざんからかわれて過ごしてきたが、もう27にもなるとさすがに慣れたし、周囲も言うような年代ではなくなっていた。
よしちゃん、か……少し頬が火照ったような気がして周囲を見渡した。幸い、忙しいため、スタッフステーション内の看護師さんは誰一人こちらを見ていなかった。ほっと、胸を撫で下ろす。
人員が足りていないのかな、と思うが、中村さんは「100床未満の小さな病院だとどこでもこんなものだよ」と言う。経験豊かな中村さんが言うのだから、間違いないだろう。仕事ができる――職種が違えど、それは尊敬すべきことだった。
まだまだ、新米の管理栄養士の私は、もっとこの世界のことを知っていかなければならない、と自らに強く言い聞かせる。
ふと、スタッフステーション前の談話室で話している患者さんの声が耳に入った。
「最近、ちょっとゴハン変わったね」
「そうだねえ」
「前はいかにも“病院食”って感じでまずかったなあ」
「うんうん。最近は普通に美味しいよね。ヤバいくらいウマいフリカケもあるしさ!」
まだ若い男性(私よりは年上ではある)は、嬉しそうに微笑んだ。
嬉しいことだった。今日は一日中、幸せな気分でいることができそうだ。
ふふ、と私も笑みがこぼれた。
――病院食は不味い。
周知の事実である。何せ、塩分その他諸々が制限されている。これは、内科外科整形外科関わらずである。
確かに、内科系疾患の糖尿病(先に述べたとおり)などはそれが顕著ではあるけれど、他も例外ではない。食事制限のかかった患者さん以外のメニューについても、やはり「不味い」とされる。
私の働く100床未満の病院に関しては、内科・外科・整形外科の区別なく、料理は同じメニューである。だからこそ、整形外科で骨折などで入院されている若い方なんかには、特に、物足りない味付けだろう。だからこそ、「不味い」となってしまう。
限られた味付けの中で、どうやってそれを緩和していくか。
栄養科にしても、看護部同様、人員は限られている。すべての患者さんに別々のメニューをお出しするなど、現状はできない。
今できる中で最大の手段を見つける。それこそが、私たちの持つ課題である。
しかし、最近ではその課題が徐々に良い方向へと解決されてきている。その理由は、一点に尽きる。
私は――吉田良恵は、人に恵まれた。本当に、ただそれだけであった。
そうして、その最初の一歩が“それ”であった。私は食卓に並ぶ、それを見ると、初心をいつまでも忘れまい、と強く誓うのであった。
それは、大正時代から昭和初期にかけて数ヶ所で考案されたといわれている。
かつて、熊本県では「御飯の友」と称したという。それが協会でも元祖として認定されている。
そう。「ご飯にふってかける」ことから、人々はそれを「フリカケ」と呼んでいる。
<3. byよっしゅ>
未練を断ち切ろうと、山篭りを始めました。
胸の痛みは止まりませんでした。
想いを断ち切ろうと、叫び続けました。
彼への想いは止まりませんでした。
夢を断ち切ろうと、涙を流しました。
涙はいつまでも止まりませんでした。
だから知りたい。全ての始まりを。
だから知りたい。彼の名前を。
Frikake Mecchakaketel
――――――――――――――――――――
というような、変な詩が出てくる夢を見た。「ひぐらしのなく頃に」の冒頭に必ず出てくる詩をパロったものだろう。我ながら、どうしてこんな夢を見ちゃったものかと、苦笑する。まあ、疲れているのがひとつと、あとのひとつの要因は、幸村さんだ。
先日、検査科の幸村さんに無理矢理、小説を貸された。
*
「吉田さん、読書好きだって聞いたから」
私は影で彼のことを「ダンディ」と呼んでいる。やたらと、渋いのだ。口調が中世時代というか、軍人さんというか、そういうあれな雰囲気である。身体つきもやたら逞しい。
「え、あ。ありがとうございます。なんですかこれ」
尋ねただけなのに、ダンディ幸村はやたらと渋い表情を作り、右斜め四十五度上を見ながら、ふう、と息を吐く。
栄養科事務室を支配する、静寂。
そうして、彼は口を開く。
「――ライトノベルだ。一般に、ラノベとも呼ばれる」
はあ、と気のない声を返し、手元の小説のタイトルを読み上げる。ひぐらしのなく頃に。
「そう……もはや言うまでもないな。俺の尊敬する、大作家さ」
ウインクすると、じゃあな、と扉を開けて去っていく。
「あ、幸村さん。これ、いつまでに返せばいいんですか?」
あわてて扉を開けて廊下に向かって問いかけると、幸村さんはぴたっと足を止めて、完全には私の方を振り返らずに、少しだけ首を傾けて言った。
「なに、急ぐ旅でもない。ゆっくりでいいさ。君が俺と同じ場所に辿り着けるまで、俺は待つ」
決まった、と言わんばかりにまた歩き出した。
筋骨隆々な背中が、無駄にかっこいい。
言うことも無駄にかっこいいが、使いどころが間違っている感じは否めなかった。病院には変な人が集まるものだ。私は手にした小説に視線を落として、苦笑した。
*
こうして、私は読書を始めたわけだが、なかなか面白い。
ちょっとグロいところが苦手だなあ、と思いながら一巻を読み終えたので、一応返そうと職場に持参した。
タイムカードを、受付横で切る。当直事務のバイトの松田さんが受付前の待合の椅子で窮屈そうに寝ていた。(うちの病院は小さいので、事務の人の仮眠スペースがないのだ。)
打刻された時刻を見ると、6時ぎりぎり。なんとか間に合った。あいかわらず、まだ朝には慣れない。栄養科の朝は早いのだ。私の職場は管理栄養士も現場の調理に入るので、患者さんの朝食に間に合わせるべく、みな等しく朝は早い。
廊下で幸村さんとすれ違った。
「やあ、君か。どうだい、ひぐらしはもう読めたかな?」
フランクなアメリカ人みたいなテンションになっている。朝方の幸村さんはいつもこんな調子だった。
いつまででも待つと言っていたくせに、と思いながらも、もう読めているのでカバンから取り出す。
「読めましたよ。鬼隠し編。一冊目から、すごく怖かったです」
「そんなこったろうと思っていたぜ」
言うと、幸村さんは「ついて来な」と検査室まで案内する。私は仕事の時間が気になっていたけどうまく断れなかったので、検査室に行き、小説の二巻を借りた。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、
「なあに。いいってことよ」
と男前な返事をいただいた。身振り手振りのジェスチャーも多い。この人は本当に愉快な人だな、と思った。
「ああ、そうだ。吉田さん。君を見込んで……ひとつ、頼みたいことがある」
何だろう、と身構えていると、幸村さんは、奥の当直スペースに行き、食器を持って出てきた。
「これ、ついでに持って行ってくれないだろうか」
「あれ、朝はパンじゃないんですか?」
病院はそういうところが多いのだが、朝は食パンである。
「いやあ、パンと牛乳だけだとな。腹がビッチみたいにクレクレねだりやがるんだ」
たとえはよくわからないが、なんとなく言いたいことはわかった。
患者さんには食パン二枚と、ジャムの類をつけ、牛乳とあと何か一品を出している。詰所にトーストを置いて、希望される方には焼けるようにも配慮してある。
職員用の食事は、基本的には患者さんと同じである。患者さんの夕飯と同じメニューを、夜食として食堂に置いていて、各部署スタッフはそれを取りに行き、食べる。また、この夜食といっしょに、朝食も配られる。
「そんな心配そうな顔をするんじゃない――昨日の夜はちゃんといただいたさ。実にうまかった」
私はそんなに心配そうな顔をしていただろうか。そんな私の疑問はそっちのけに、幸村さんの話は続く。
「朝はまた別の話さ。白ご飯は食堂の炊飯器にたくさんあるだろう。だから、たらふくいただいちまったぜ。参ったな、お蔭さんで腹がビッチみてぇにヒーヒー言ってやがるぜ。それもこれも全てあれだ。あれがいいんだ。あれが」
「あれって……何ですか?」
ビッチのくだりはもう無視することにして、私は疑問を投げかけた。もしかしたら、かなり怪訝な表情をしてしまっていたかもしれない。
しかし、幸村さんはもったいぶるようなタメ(間)をとって、ふっと不敵に微笑んでみせた。
「そうだな……あえて言おう、フリカケであると」
ふりかけ。
私がこの職場に来て、この職場のみんなを変えていくきっかけになった、最初の一歩。
「ふはは。まあ、あのフリカケみたいに次も何か改善してくれよ。このパンとかさ。コスト比較して、多少変わらないくらいなら、週に1回は菓子パンにしてくれたりな」
そう言うと、幸村さんは真顔になり、やたら渋い声でこう言った。
「もっとも……俺がその日まで生きていられたらの話だがな」
別に重病を患っているわけでもないのに、幸村さんはやたらとシリアスなストーリーをでっちあげたがる。話が長くなりそうなので、私は「参考にします」とお礼を言って、検査室を後にした。
菓子パン。いいかもしれない。
コスト比較して、他で何かを浮かして、その分を計上したら週1くらいの提供は可能かもしれないな、と思った。
飽きを無くす。こういった簡単なものでも、食事の満足度を増やすことはできるのだ。私は幸村さんに、感謝した。
フリカケもまた、そういった飽きを無くすことに役立っていると聞く。なぜ、そんな簡単なことに気づけないのか。私もそうであるし、前任者までずっとそうであった。そこのところを突き止めることも、おいしいご飯を提供することに繋がっていくのかな、と廊下を歩きながら思った。
手にした「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」に目を落として、思わず微笑む。幸村さんも変な人だけど、やっぱりいい人だ。
お蔭様でどれだけしんどくても、今日一日またがんばろうって思えた。
<4. byよっしゅ>
『認めたくないものだな。自分自身の、若さ故の過ちというものを』
――シャア・アズナブル
――――――――――――――――――――
栄養科事務室内に、電話のコール音が響いた。
栄養科では発注もあり、多方面の業者と接する機会も多いので外線(専用回線)も引いているが、これは内線のコールだった。表示されている番号を見ると「999」と出ている。私はこれを、こっそり「逆オーメン」と呼んでいる。
ヘンタイで変わり者の、けれども新婚ほやほやの青井ドクターの持つ院内PHSの番号だった。
「吉田クン。ちょっと、ちょっと」
「はあ……」
ちょっとちょっと、ちょっとちょっと、と古い物真似を繰り返し、電話は切れた。
まあいつものことか、と思い、私は内科の診察室に入った。
「やあ、よく来てくれた」
青井ドクターはこちらをチラリ、と見て、そして言った。
「キミを隅々まで診察したい」
「奥さんに言いますよ」
すまん、と青井ドクターは土下座した。
「だいたい先生、奥さんへのプロポーズもそれだったそうじゃないですか……。だれかれ構わず言ってたこと知ったら、奥さん悲しむでしょうね?」
いつもセクハラまがいの発言をしてくるので(とりわけ、私は「栄養科のまな板」と呼ばれたことをひどく根に持っている)、ちょっと悪戯心で言ってやった。奥さんのことになると、弱いのだ。
そうすると、青井ドクターはピクリっと身を震わせ、そして言った。
「認めたくないものだな……、自分自身の、若さ故の過ちというものを……」
ぜんぜん、若くない。四十代も後半である。
そう、青井ドクターはガンダムオタクだった。とりわけ、検査科の幸村さんと、非常にウマが合う。
延々とギレンの演説を語った後に、「じゃあ、よろしく」とカルテを渡して、消えた。お気に入りの赤い携帯電話を手に持って。
「はあ……」
「たいへんね、吉田さんは」
うふふ、と外来看護師主任の澤田さんが笑った。
「いやまあ、栄養指導に行けってことなんでしょうけど」
患者さんに適切な食事の摂り方を説明し、根本的なサイクルから見直してもらう必要があるということだろう。だから、私が呼ばれた。
「きっと、先生は奥様に電話しに行ったんだわ。ああ見えて愛妻家ですもの」
上品そうなこの澤田主任は、青井ドクターの奥さんの先輩だった。
青井ドクターの奥さんはまだ若い、それこそ私より若い看護師さんであるが、年の差20を越えて結婚した。青井ドクターの人柄などに触れて、奥さんも好きになったのだろう。プロポーズの決め手は、内科医師ならではの下手したらセクハラと訴えられるレベルの「キミを隅々まで触診したい」である。何はともあれ、今ふたりはとても幸せそうだった。
おそらく、この澤田主任のおっしゃるとおり、奥さんに電話しに行ったのだろう。あんな人で、スケベなことも言うし、オタクなことも言うけれど、それでも優秀な医師であり、愛妻家のイイ人なのである。
私も、青井ドクターの優しさには、入職したての頃に挫けそうになっていたときに何度も何度も助けられた。あの暖かい言葉に幾度励まされただろう。
*
栄養指導がうまくできなかった。どれだけ説明しても、軽くあしらわれた。
ある糖尿病患者さんがおられた。私は食品交換表を用いた栄養指導を試みた。けれど、やはり言われるのだ。
「でもねえ、私はあなたと違って老い先短いからねえ、食べることくらいしか楽しみがないのよ」
何度やっても、上手く聞いてもらえない。
ひとり落ち込んでいたとき、話を聞いてくれたのが青井ドクターだった。
「なにか、ご用でしょうか……」
泣いているところなんて、見られたくなかった。
「君を笑いに来た、そう言えば君の気が済むのだろう?」
ふっと微笑むと、話したまえ、と空いている椅子に腰を下ろした。
なんだかとても暖かくて、うれしくて。こぼれた涙は、悲しみだけじゃあなくなった。色んな想いの入り混じった涙を流しながら説明する私の話を青井ドクターはただ静かに聞いてくれた。そして、言ってくれた。
「ずっと悩んでいたのか?」
「はい」
「水臭いな、今更」
そう言うと、ふっと遠くを見た。
休み時間中だったので、今時こんなの誰もかけないだろうというサングラスを着用している。少し、渋い。
「吉田クン。キミは、食品交換表を実際に用いたことはあるのかね?」
「え」
「はっきり言う、気に入らんな」
ずばり、と言われた。その言葉が突き刺さる。
「実際のところ、面倒だと思うだろう」
図星、だった。
「まずは、食品交換表を使うことの有益性を伝えないと。患者はやってみようとは思わんよ。……人の心の中に踏み込むには、それ相応の資格がいるということさ」
青井ドクターの言うことは、いちいち正論だった。かっこよい、と思った。
「患者に押し付けるんじゃあない。押し付けられたものは、続かない。下手をすれば通院をやめてしまい、その後、その人がどういう道を辿るかを我々は知ることもできない。これでは道化だよ」
そして、言った。
「糖尿病食事療法とは、常に二手三手先を読んで行うものだ。それができないというのは、キミがまだ――坊やだからさ」
わかるか、と青井ドクターは質問した。私が無言でいると、
「糖尿病食事療法とはな。糖尿病だけに通用するわけではない。健康食である。これは、食事交換表にもずばり明記されている」
だから、と言った。
「吉田クンもそれを一年やってみたら、どうかね。それが一年も続けられないというようであれば――」
「……患者さんに"一生糖尿病と上手に付き合っていきましょう”なんて言う資格はない、と……」
青井ドクターは「吉田クンは賢いな」と笑った。
そして、休憩時間も終わりだ、と席を立つ。去り際の背中に、礼を述べる。
「吉田クン。私はお前の才能を愛しているだけだ。いい女になれよ」
と、なんだか頬が赤くなるようなことを言って去って行った。
患者さんの立場になる。とても大事なことだけど、忘れがちなこと。青井ドクターは、そのことを一番理解して、身をもって実践している。今日びのドクターには珍しい、素晴らしい人だと思った。
*
あれから一年が経ち、二年が経った。その間に、青井ドクターは結婚し、なぜか我が身のことのようにとても嬉しかったのを覚えている。
今、私の栄養指導を聞いて、「ありがとう。ためになったわ」と言ってくださる方がいる。今日の私がここにあるのは、ひとえに青井ドクターのお蔭である。
こちらが「指導をする」という姿勢ではなく、時に、患者さんの話に耳を傾けることも必要だと、そう気づけたのは、青井ドクターのあのお話があったからだった。
栄養指導を終え、報告をしに青井ドクターのところに行くと、何か、真っ白に燃え尽きていた。
「ど、どうしたんですか?」
唖然とする私に、澤田主任はクスクス、と笑った。
「あのねえ、先生ねえ。唐辛子のフリカケが好きでしてね、毎日のようにたくさんかけていたんですって。で、さっき電話でそのことでケンカしたらしくって……」
「え、奥さんとですか?」
「そうなんですって。なんでも、今夜の夕食は納豆ご飯だって言われて、自分は唐辛子のフリカケがイイって言ったそうなのね。そうして、いい加減、奥さんが頭に来ちゃったみたいで……」
話に聞いた会話を頭の中で再現してみた。
「あなた、今日は納豆ご飯よ」
「いやだ、俺は唐辛子がいい」
「いつもそれじゃない。医者の不摂生って言うじゃない。いい加減、身体に悪いわよ」
「それでも、俺はあの“赤い”のがいいんだ! 通常の三倍ふりかけるんだ!」
「もういいわよ! あなたの体のこと考えてるのになんなの! もう、料理も何も作りません! 食パンでも買ってデスソースかけて食べてなさい!」
……そして、今に至るというわけである。どっちが年下かわかったもんじゃない。
馬鹿馬鹿しいが、なんだか青井ドクターっぽくて微笑ましかった。
そして、ぽつり、と一言。消え入りそうな声で青井ドクターは言った。
「認めたくないものだな……、自分自身の、若さ故の過ちというものを……」
私はにやける顔を抑えるのに必死になりながら、外来診察室を出た。
何でも好きだからと言って、やりすぎはよくない。フリカケもほどほどに、が一番である。
しかし、それはもしかしたら、私のせいかもしれない。そのフリカケを一度、職員用のみで提供してしまったのだ。青井ドクターはそれで目覚めてしまった。そんなわけでまあ、私にも罪がないわけではないけど、青井ドクターに栄養指導を行なうわけにはいかないしね。それは奥さんの仕事だ。
どうでもいいのだけど、あの日、青井ドクターが私を慰めてくれた言葉のほとんどが、あとで、ガンダムのシャアの台詞だと知ったときは若干ショックだった。
今借りている小説が終わったら、また、幸村さんにDVDを貸してもらおう。
<5. byよっしゅ>
私の病院は地域に根ざした病院だ。私は自分を育ててくれたこの街に恩返ししたい。そう思って、地元の小さな病院に就職した。
自宅と職場の病院は近く、生活圏内で患者さんや職員さん、たくさんの人と自然と顔をあわせることもある。
今日はスーパーに寄った。夕飯の材料を買おうと思ったのだ。そこで、案の定、見知った人と会うことになった。
「あ。栄養士さん」
食材を選んでいたら、男性から声をかけられる。
名前ではなく職種で呼ばれた時点で、私と接点のあった患者さんだろうな、と予想はついた。
「麻呂田さん。こんばんは」
私は病院で会話をした人の顔と名前はすべて覚えている。覚えようと心がけている。
もっとも、この規模の病院だから、できることなのかもしれない。それでも、私の密かなポリシーだった。
「最近お体の具合はどうですか?」
「ああ、バッチグーだよ。折れたとこもしっかり治ったし、筋力も戻った」
笑顔を見せる麻呂田さんの買い物カゴを何気なく眺めた。
「ああー、でもそれじゃ身体に悪いですよ。カップラーメンしか入ってないじゃないですか」
「いや、これが上手くって。それに、他のとなると手間がかかるしさ」
そう言いながら恥ずかしげに頭をぽりぽりとかく。
そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうだ。おたくんとこの病院で使ってるフリカケって、何ていうメーカーが出してるの? あれすっげー上手くてさ! 味が白ゴハンに染みるっていうか、そんな感じなんだよ!」
なぜか力説する麻呂田さんだったが、わかるような気もした。
麻呂田さんみたいに若い男性は、病院食は味気ないのかもしれない。
今それを何とかしようと、人によって選択食のメニューを取り入れたり、30日周期の献立を60日周期に変えるべくシステムを変えたり頑張っている。もちろん、私ひとりの力なんかじゃなく、栄養科のみんなの協力があるからこそ、だ。
「ごはんのときの楽しみですもんね。でも、あれから、ウチも色々と改良してメニューとか増えたんですよ。人によったら、サカナかお肉か選べる選択メニュー作ったり、患者さんの意見も取り入れるよう頑張っているんです」
フリカケなど調味料の置いてあるコーナーに麻呂田さんを案内しながら、そんな話をした。
誰かに、私たちの頑張りを知ってもらいたかったのかもしれない。
「へえ、それは惜しいことをしたなあ」
麻呂田さんは骨折も治り、退院してしまっている。
「あはは。だけど、もう入院はしないでくださいね」
私はそう言って、目当てのものを手に取った。
「はい。これが、当院で採用しているフリカケです」
私が手にしているのは、フリカケの元祖と呼ばれるもの。全国ふりかけ協会も公認している絶品である。
「これかあ。ずっとどれかわからなくて、手が出せなかったんだ。これがあるなら、カップラーメンは止めて、たまには自炊してみようかな」
麻呂田さんはそう言って、微笑んだ。
「お、これ良さそう」
そう言って、麻呂田さんは“赤い”のを取り出した。
「それは辛いですよ。こっちからスタートしてください」
「え、なんで。いいじゃん」
「その赤唐辛子バージョンが原因で夫婦喧嘩した人もいるので、ジンクスも担いで止めておいたほうがいいですよ」
私は青井ドクターを思い出して、顔が緩みそうなのを堪える。
「まあ、よくわからないけどさ……こっちのタイプも病棟で使ったけどおいしかったもんな。こっちにするよ。ありがとう」
麻呂田さんはそう言うと、礼を言ってレジへ走って行った。
そういえば、私は何を買いに来たのだったっけ、そう思った瞬間だった。
「あ、よしちゃん」中村さんだった。「今から夕飯の支度?」
中村さんも仕事帰りだろう。いつものスーツ姿だった。
「はい。中村さんもですか?」
「うん。今日は何か適当に出来合いのものにしようかな、なんて思ってんだけどさ」
中村さんは言いながら、私の前の棚に目をやって、「あ、これ病院で使ってるやつだろ」と訊いた。応えると、中村さんはそれを自分の買い物カゴに放り込んだ。
「いつか買おう買おう思って、忘れてたんだよなー、これ」
思えば、中村さんと初めて話したきっかけも、ふりかけだった。
中村さんは、フリカケのルーツなどの雑学交えながら、フリカケを病棟にと提案してくれたのだった。もう、一年以上も前になる。
「昭和の初期から、“三度の食事を四度食べる”なんて言ってさ、旨くて、カルシウム源としても良くて、魚が嫌いな子供でもおいしくカルシウムを取れるふりかけとして親しまれてるやつがあるんだけど、あれって、病棟で取り入れられないんかな? もちろん、量とか決めて、人によっては制限もかけなきゃならないだろうけど」
この一言で、ほんの些細なことからでも物事は動いていくのだと、私は知った。
中村さんは他にも色々な場面で、色々な刺激を与えてくれた。ふだん、仕事の彼しか知らないのだけど、本当にすごい人だと思っている。逆に……私は、プライベートの彼を知らない。
「なあ、よしちゃん。良かったらさ、ウチでご飯食べてかない? お袋と二人暮しなんだけど、何か鍋やりたくて仕方ないらしくてさ。親父死んじゃって、俺もなかなか二人で鍋しようって気にもならなかったんだよね」
そう言うと、中村さんははにかんだような笑顔を見せた。
「それに、よしちゃん居ると、料理困らなさそうだし。それに、青井ドクターと幸村さんがさ、変なゲーム押しつけて困ってんだよ。ひとりでプレイするのもヤだし……」
そう言って、少し頬を染めてそっぽを向く。
中村さんの、意外な一面。
「ふふ。鍋って、誰がやってもだいたい同じだと思いますけど」
その言葉の後に少しの静寂。
やや間をおいて。
「いいですよ。ご一緒させてください」
私たちは鍋の材料と、フリカケを持ってレジに向かった。
このメーカーの商品はいくつかあるけれど、一番オーソドックスなそれを持って。
株式会社フタバの自信を持ってお届けする、御飯の友シリーズ。それのもっとも、ベーシックな一品。
いりこをまるごと粉砕。醤油で味付けしてたまご粒子・海藻・のり・白ごまを配合したカルシウムたっぷりのふりかけです、とパッケージの裏にはそう、謳っていた。
――『〜伝説のフリカケを求めて〜』、完。
<6. byよっしゅ>