『リレー・オブ・ファルネース』


 どれ程の角を曲がったことか。
 脚がもつれそうになるのを必死に立て直し、噴き出る汗が目に入ることすら頓着せず、肺が酸素を求めて苦しもうとも、彼――小林大地(コバヤシ ガイア)は逃げていた。自分が発てる足音の合間に、依然として追跡者達の足音が背後から聞こえる。
「ひいぃっ――!」
 悲鳴混じりの息を漏らし、大地はさらに脚を速めようとしたが??
「うぁっ!」
 転倒。
 ついに脚が言うことを聞かなくなった。
 慌てて立ち上がろうとする大地だが、無情にも追っ手には追いつかれてしまった。背中を踏み付けられたのに始まり、無数の蹴りと拳が大地の身体に叩き込まれた。
 顔を蹴飛ばされて悲鳴の代わりに血が飛び出す。懇願の言葉を紡ごうとしたが、横っ腹に叩き込まれた蹴りに肺から空気を叩き出され、今度こそ声が出なくなった。
「立てオラァッ!」
「あうあ……」
 袋叩きにされた大地を掴みあげたのは、鼻ピアスをしたチンピラであった。
「舐めた真似してくれんじゃねぇか? お? この落とし前どーつけてくれんだよ? あ?」
「あ、あがが……」
 上顎と下顎の間を掴まれ、大地の顔は不様に歪む。誰かの手がポケットを弄り、財布と携帯電話が抜き取られた。抗議しようにも言葉は意味不明のうめきになって口から漏れるのみ。
 出し抜けに鼻面に鈍い衝撃を感じた。それっ切りに意識が遠のき、大地はもはや自分がどういう状態になっているか、わからなくなってしまった。
 こんなことなら調子に乗って喧嘩なんか売るのではなかった。なにより、一緒に喧嘩を売った仲間が、自分を置いてさっさと逃げたことに深い失望を覚えた……
 ともあれ、朦朧とした意識の下でも、自分がどこかに引っ立てられていく感覚があった。そして気がつけば、ニヤけた笑みを浮かべた鼻ピアスの顔があった。
 周りを見渡せば、ここはどこかの屋上らしい。なんとなく、嫌な予感を覚えた。
「へっへっへっへ……あばよ」
「えっ――うわぁっ!?」
 なにかを言う間も無く、鼻ピアスに突き飛ばされた――
 一瞬、浮遊感を覚えた大地は、次の瞬間には引力に捕らわれ地上へと頭から真っ逆さまに落ちていった。
 彼の心には恐怖と後悔が沸き起こり、なす術も無い思考はたちまち混乱に支配された。
<1. by 泥だらけの虎>


 屋上から落とされた。ぜんぶ、カズたちのせいだ。あいつらがだれかれかまわず喧嘩売るから。喧嘩は相手見ろよ。なにヤクザの舎弟に喧嘩売ってんだよ。負ける喧嘩ならするなよ。勝てる相手だけにしろよ。
 てゆうか冗談だろ。落ちてるしこれ。落ちてる。身体落ちてる。てか、ヤクザだからってそこまでするフツー? あいつらカタギにそんなことしないだろ。あ、っていうか、それならあいつらヤクザじゃなくてただのチンピラか。なーんだ。いやいや、チンピラでもよ、ふつーそんなことしねえっての。殺人だぜ、殺人! 殺される。殺された。いやだ。まだ死にたくない。死にたくない死にたくない。
「……い、やだ、死にたくない!」
 小林 大地(こばやし がいあ)は、叫んだ。しかし、雑居ビルの屋上から落下している最中の声など、誰の耳にも届かない。届いたとしても、その願いを聞き遂げる者など、誰もいない。
(駄目か……まだ俺、十四歳だってのに……)
 諦めの境地に達した大地(がいあ)の脳裏に、今までのことが走馬灯のように浮かんできた。
 地面は近い。しかし、時間は緩やかに、けれども確実に流れている。

 思えば、つまらない人生だった。
 東京の23区にも入らない、郊外の寂れた街で、大地は生まれた。
 母親はヤンキー、父親は暴走族。その間に生まれた。両親は名前をつけるとき、口々に好き勝手わめいた。
「響きが大事だって、あたいは思うんだけどそこんとこどうよ」
「俺かっけーのがいいな」
「あたいたちの子なんだから、他の子とマジ違うから珍しい名前にしない?」
「じゃあ、当て字? 流れる空って書いて、ルークとか俺はいいと思うけどな」
「いやいや、ありきたりっしょそれ。まじださいっつーか、なんていうの? 寒い?」
「じゃあ、お前、なんか考えろよ」
「あんたが考えなよ」
「いやお前が」
「あんたが」
 一晩に及ぶ長い戦いの果てに決まったのが、「大地」だった。「だいち」とは読まない。「ガイア」と読む。
 大地の父がその当時はまっていたゲームに出てくる主人公の名前だった。しかし、実際の由来を父母ともに知らなかったガイアはギリシア神話に出て来る女性の神である。大地の女神ガイア。『神統記』によれば、カオスやタルタロス、エロースと同じく世界の始まりの時から存在した原初神とされている。
 ……が、当の大地本人がそれを知ったのは、中学に入ってインターネットを使うようになってからであった。
 知ってしまってからはちょっとその名前が恥ずかしくなった。その恥ずかしさを紛らわせようと、盗んだバイクで走り出して事故った。でも生きていた。身体だけは頑丈で、運だけは人一倍だった。

 ――名前を凝ると、名前負けする。
 ガイアはその例に漏れず、すくすくと育った。しかし、ガイアはそんなことを言われても、気にかけなかった。
「だって、俺、いつかビッグになるし」
 それが口癖だった。
 ビッグの条件を何か考えたときに、大地が辿り着いたことはHIP−HOPとブレイクダンスだった。これまじかっけー、と大地は思った。当然真似してみたが、疲れたのでほどほどでやめといた。
 おかげさまで、今は一人前だと大地は思っている。
「俺、ラップもダンスもできて、モテモテになる予定だったのによ……喧嘩の腕っ節だって強かったのに」
 大地の喧嘩の相手はもっぱらクラスでひとり浮いているマルオ君だった。
 あだ名が「もやし」である彼を、放課後ごとに呼び出し、タイマンと称してボコボコにした。すごく強くなった気分がした。以来、マルオ君を殴るのは大地の日課である。
「いやだいやだいやだだだだだだだだだ」
 死にたくない。
「死にたくないしにたくないしにたくないしにたくないよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
 大地の目からこぼれ落ちた涙は、しかし、零れ落ちることなく、落下する風に乗って、夜の闇に消えていく。
「いやだいやだいやだいやだああああああああああああ」
 そして、大地は……大きく光り、消えた。東京の街から。
<2. by よっしゅ>


 鈍い衝撃が全身に走り、大地(ガイア)は苦鳴を漏らした。
 痛え! 凄まじく痛え! あまりの痛さに大地は身を捩り“ずぶ濡れになって”地面に転がった。
(あれ? 下に水溜まりなんかあったっけ? てゆーか俺、生きてる?)
 自分が生きてることに一瞬驚いた大地だが、驚きはすぐに疑問へと変わった。
 身体中どこもかしこも痛むが、今は別の感触を感じていた。
 雨――滝のような雨が、全身に打ち付けられているではないか。
 でもちょうど良いやと思い直した。痛む体に雨は気持ちが良いし、ついでに血も洗い流してくれる。でも天気予報で雨降るとか言ってたっけ?
 その時、複数の足音が聞こえて来たことに大地は自分がどういう状況に置かれていたか思い出した。
「クソ、やべ……」
 今度こそ殺されちまう。そう思った大地は慌てて起き上がり、その場からヨロヨロと歩き去った。
 しかし、どうもしっくりこない。周りの風景がどうも見慣れない感じがする。逃げるのに夢中だったため特に注意を払ってたわけではないが、確か雑居ビルが建ち並んでいた気がするのだが――煙る雨を透かして、開けた空間がぼんやりと見えたと思うと、大地はあんぐりと口を開けた。
「……ウソだろ?」
 海であった。視界の先に現れたのは、水平線の他になにも存在しない、大海原であった。
 なぜ? どうして? 俺が気絶してる間に津波が来てみんな流されてしまったとか? いや、それなら自分がこうして流されていないのは変だ。
 そこで大地は気付いた。視線を下に転じると、自分は地面の上に立っているのではなく、巨大な船に乗っていたのであった。
 いったいどういうことだ!? 俺は街にいたはずなのに……さては俺が気を失っている間に、外国に売り飛ばそうとしてやがるな! うんそうだ、そうに違いない! ならさっさとここから脱出しなきゃ――
「くぁwせdrftgyふじこlp?」
 いきなり背後から上がった聞き慣れぬ言葉に、大地は振り向いた。そして今度こそ言葉を失った。
「…………!?」
 大地は目玉が飛び出る程に目を見開き、口をあんぐりと開けて絶句したのである。それもそのはず、背後から大地に声をかけたのは人間ではなかったからである。
 確かに人間同様に二本の脚で立ち、ランタンを手にしてポンチョを着込んでいるが、フードから覗いているのは人間の顔ではなかった。犬である。その顔はどうみても犬にしか見えなかった。
 なんでこいつかぶり物なんかしてんだ? と思った瞬間、目の前の犬面が再び口を開いた。
「くぁwせdrftgyふじこlp!?」
「え、えーと……」
 自慢じゃないがヒップホッパーなんでほんの少し(ガチでほんの少し)英語の意味はわかるが、こいつは何語を喋っているのかさっぱりだ。
「くぁwせdrftgyふじこlp!」
 目の前の犬面の口調が激しくなった。ランタンを高く掲げ、距離をさらに詰めて来た。
「さ、さいならっ!」
 このままじゃヤバい! 絶対ヤバいことになる! 大地は先ほどまでの疲労困ぱいぶりをどこへやら、横っ飛びに跳ねて驚く犬面の横をすり抜け、一気に駆け出した。どこかへ隠れないと!
 だが甲板に積まれているコンテナの角を曲がった途端、誰かに襟首を掴まれた。と思う間もなく、どこからともなく現れた大勢の水夫達に取り押さえられてしまった。必死に逃れようともがくが、多勢に無勢である。
「ちょ、おま、離せっての……あぁ!」
 などと言ってる間に、大地は頭から麻袋をすっぽりと被せられ、どこかに引っ立てられてしまった。
 麻袋を取り払われると、どこかの広い部屋に水夫達と共に居た。水夫達は口々になにかを話しているが、相変わらず何語を喋っているのかさっぱりわからない。
「くぁwせdrftgyふじこlp!!」
 誰かが一声叫ぶと、途端に部屋は水を打ったかのように静まり返った。
(なんなんだよぉ……いったい?)
 そう思っていると、目の前の人垣が割れた。ゴツ……ゴツ……足音が聞こえる。
 大地は息を呑んだ。そして異様な音を発てる主の姿を目にしたことを、激しく後悔した。

 年齢は三十代半ばくらいか。決して長身とは言えない身長だが、男の姿は不気味なアンバランスさを醸し出していた。額を斜めに走る刀傷を始め、日に焼けた褐色の顔には大小様々な傷痕が白っぽく刻まれ、左眼は眼帯に覆われていた。
 失われたのは目だけではなく、本来そこにあるはずの右腕はコートの袖口から覗くことも無く、左脚も不自由なのか鉄パイプを重ね合わせたような杖を残った手に携えている。そしてなにより、灰色の隻眼に貫かれてから、気付かぬ間に大地は腰が抜けてしまった。
 相手はただの身障者だと言うのに、その眼力たるや街のチンピラの比べものにならない。こっちはもし自分が気に入られなければ、その場で殺されかねない。そう感じた。男と大地は無言のまま視線を合わせていたが、やがて人垣をかき分けて先ほどの犬面が現れ、男になにごとかヒソヒソと耳打ちする。
 男はコクリと首を縦に振り、続けて首を掻き切るような仕草を返した。

 なんてこった、あの犬面はかぶり物じゃねぇぞ……いや、じゃなくてちょっと待て。あの仕草は!?
 再び麻袋を頭に被せられ、視界を塞がれると今度こそ大地は恐慌状態に陥った。必死に叫ぼうとしても、か細くかすれた声しか搾り出せず、手足は萎えてロクに動かない! 頼む、お願い、助けて!
「運の尽きだったな!」
 え……日本語!? そう思った瞬間、再び全身に浮遊感を感じたが、それはすぐに冷たい水の感触に変わった。
<3. by 泥だらけの虎>


(なんだってんだ、あいつ! わけわかんねえ……まじやべえ。いやいや、それ以前にあの犬だろ!)
 大地は何とかもがくと、頭に被せられていた麻袋を取り払った。
 視界を奪っても、手足の自由を奪われなかったことに、大地は気づいた。それは、日本語を話した男のせめてもの――
(へへ、あいつら馬鹿だ。手足縛るの忘れてやがんの!)
 大地は心の中でガッツポーズして、何とか水面に這い出た。泳ぎは一流である――と本人は思っているが、まあ、なんとか人並みには泳げた。
「ぶはっ、死ぬじゃねえか! 早く引き上げてくれよ!」
 まだ船が目前にあることを確認し、大地は叫ぶ。
 空からも水、体を覆うのも水。おまけに、天候のせいか、海は穏やかとは言い切れない状態だった。
「アw施drfgtyhじゅいこlp;」
「あwせdrftgふjk;」
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 波に揺られながら必死に立ち泳ぎをする大地を見て、水夫達が下品な笑い声をあげる。
 言葉の意味はわからなかったが、何か馬鹿にされていることには気づいた。
「いい加減にしろよ! 帰ったら警察に言うぞ! 訴えてやる! お前たちは知らねえだろうけど、俺、山田先輩と仲いいんだからな!! どうなってもしんねえぞ!」
 大地が叫ぶと、水夫達はなおさら腹を抱えて笑った。
「く、くそが! 馬鹿にしやがって! 山田センパイ怒らせるとマジやべえんだからな! 地元歩けなくなるぜ? それでもいいのかよ!」
 船上から木片が投げつけられた。
「がはっ」
 大地が呻く。
「おい、平和ボケしたジャップ……」
 船上から声が投げかけられる。威圧感のある声。
 日本語のようだ。意味がわかる。
「その木片にしがみついて、とっとと西を目指すんだな。そうすれば、カウムース大陸につく」
「か、カウムース大陸って何だよ。その船に乗せてくれよ、頼むよ」
「聞けば誰かが答えてくれる。助けを求めれば誰かが助けてくれる……は? いつまでも腑抜けてるんじゃないぞ、小僧?」
 隻眼の男は、残された灰色の瞳で大地を睨みつけた。
 視線だけで殺されそうな、その威圧的な目に大地は言葉を失った。これ以上、関わってはいけない。こいつは山田先輩なんかメじゃないくらい、やばい。大地の本能がそう告げる。
「あwsでrftgyふjこl」
「あwせdftgyhじゅこl」
 それに応じるように水夫が下卑た声で爆笑する。
「なんなんだよ、意味わかんねえよ、お前ら!」
「……早く、マナに慣れろ。そうすれば、言葉も直にわかるようになる」
「マナ……?」
「マナに慣れねば、貴様はこのファルネースで死ぬ。覚えておけ、小僧。ファルネースでは、貴様のいた平和ボケした世界の常識は通用しない」
 男はそう言うと、袋を大地に投げつけた。
「俺とお前は無関係だ。もう二度と交わることのない運命だろう。しかし、同じ世界を故郷とする者同士だ。せめてもの情けだ。施してやる」
 大地は波に揺られて流されそうになる袋を必死に抱き寄せた。持つと浮き袋みたいで、身体が浮くのを助けてくれている。ひとまず、沈む危険性だけは回避できたようだった。
「いやいや! そんなことより、船に乗せてくれよ!」
「情けをここでかければ、貴様はファルネースを舐めてかかり、いずれどこかで野垂れ死ぬ。試練だと思って泳ぐんだな。それとも……」
 大地が呆気に取られていると、船上より石が投げつけられ、大地のこめかみに命中する。血が出た。海水に傷が染みた。
「――ここで死ぬか?」
「ひ、ひい!」
 大地は一目散に船壁と反対の方向へとクロールで泳ぎ始めた。殺される。痛い。染みる。
「そうだ、その方角に行け! 間違えても反対に泳ぐなよ、海流に巻き込まれて、一気に海の底だ!」
 笑い声だけが響いていた。
 夜になる前に陸につかないと死ぬ。何よりこの雨がもっと酷くなる可能性だってある。降って涌いた生命の危機に、ここがどんな場所かという疑問は大地の頭から消え去った。
 死にたくない。地平線はまったく見えない。背後からは何か弓のようなものまで飛んでくる。夜の帳はまだ落ちそうにないが、空は曇っていて、視界は決して良いとは言えない。
(死ぬ。死ぬ。誰か助けてタスケテタスケテタスケテ!!)
 もう、泳ぐ以外に道はなかった。幸い、浮き袋のようなものと木片のお陰で溺れ死ぬことはなさそうだった。
 しかし、どこまで泳げばゴールなのかわからない。漠然とした不安に、大地は半ベソをかいた。半べそをかいても、ただひたすら泳ぎ続けた。

 死にたくない――その一心だけで。
<4. by よっしゅ>


 しかし、天測すら知らない子供が荒れた海に放り出されるのは、どう考えても無茶が過ぎる。
 一心不乱に示された方角を目指しているつもりでも、波に揉まれている内に方角など分からなくなってきた
 濡れて冷えた体には次第に疲れが募り、腕も脚も動きが鈍ってきた。加えて波も高くなり、大地(ガイア)は波間に漂うだけとなってしまった。
「クソ……チクショー――ガボッ!?」
 息継ぎをしようとした瞬間、誤って大量の水を飲んでしまい猛烈に気分が悪くなってしまい、思わず浮き袋を手放すと体は一気に海中へと引き込まれた!
 もう足掻くほどの力も残ってはいない。大地の意識は急速に失われていった。
 見覚えのある光景が見えた。いや、違う――見たんじゃない。これは俺自身が体験したことだ。
 どこかのガキが挑戦したことを途中で投げ出したのを他の子供に囃したてられるのだ。やっぱりクズのこどもはクズだよな――いいもん、おれいつかビッグになるし。
 そうやってガキはいつも過ごしてきた。これまでも、これからも……

 光が差し込む。
「はっ!?」
 目を開くと、太陽が自分を照らしていた。
 大地は波打ち際で仰向けになって打ち上げられており、太陽の眩しさに目を閉じたが、次の瞬間には胸がムカつき身を起こして胃を占領していた海水を吐き出した。
「ゲッホゲホッ! ゲホッ! チクショ……ゲホッ!」
 吐き出せるだけ吐き出すと、大地は突っ伏した。
 しばらくの間、そのまま波に洗われるままでいた。疲れた……只々疲れ切っていた。もうずっとこのままで居たい――

「アw施drfgtyhじゅいこlp;」
「あwせdrftgふjk;」
「zsxcdfvgbhんjmk、l。;・」

(?)
 誰だ? 俺を助けてくれるのか? と思って目を開けると、ボロボロの衣服を着た三人組の男達がこちらを見てニヤニヤしている。
「あwsでrftgyふjこl」
「あwせdftgyhじゅこl」
「くぁwせdrftgyふじこlp」
 身を起こして助けを請おうとした矢先、蹴り倒された。
 いったいなにが? と思う間もなく男達は大地のポケットや懐をまさぐり出した。もっとも、既にチンピラに盗られているのでなにも残ってはいないが。
「アw施drfgtyhじゅいこlp;」
「あwせdrftgふjk;」
 こ、こいつら追い剥ぎかよ!?
 チンピラには盗られ、海賊には殺されかけ、おまけに死にかけてるところを追い剥ぎに会うなんてあんまりだ!
「てめぇらーっ!」
 あまりの理不尽さに大地は頭に来た。こんな人生なんて受け入れてたまるか! 残っていた力を振り絞り、服を脱がそうとしていた追い剥ぎ達を振りほどいた。
「zsxcdfvgbhんjmk、l。;・」
「くぁwせdrftgyふじこlp」
 突然暴れ出した獲物に、追い剥ぎ達は色めき立った。慌てて隠し持っていた短剣や小剣を手にし、一旦は大地から距離を取った。
 大地は追い剥ぎ達を睨みながら周囲を探った。普段の大地なら、武器を見てすくみ上がるところだが今は頭に来て気にならなかった。この理不尽さをこいつらにも味合わせてやらないと気がすまなかった!
 幸いというべきか、足元には長いめの棒切れが漂着していた。それを掴むやいなや手近な一人に殴りかかる。
「あwsでrftgyふjこl」
「あwせdftgyhじゅこl」
 とにもかくにも全力で棒切れを振るった。
 無茶苦茶な暴れ方に、追い剥ぎ達は胆を潰して逃げ出したが、一人は背後から大地を羽交い絞めにした。
「アw施drfgtyhじゅいこlp;」
「うわあぁぁぁっ!」
 子供の大地と大人の追い剥ぎの体格差は圧倒的だったが、追い剥ぎはあっさりと振りほどかれ、勢い余って砂浜に突っ伏した。
 やった! このままぶちのめしてやる! と調子に乗った大地は取り落とした棒切れを落としたまま、こぶしだけで立ち向かった。
 追い剥ぎは思ったより非力なのか、こぶしだけで奮闘する大地に手を焼いているようだ。
 一人の顎にこぶしを叩き付け、殴り倒した。が、快進撃はそこまでだった。
「くぁwせdrftgyふじこlp」
 ガツン! と後頭部に衝撃。
 後ろに回りこんだ一人が、小剣の横腹で大地を打ち据えたのだ。たまらず大地は再び突っ伏した。
「アw施drfgtyhじゅいこlp;」
「あwせdrftgふjk;」
「zsxcdfvgbhんjmk、l。;・」
 口々に喚きながら追い剥ぎは大地の服を全部脱がせ、足早にその場を去っていった。
 服はおろかトランクスと靴下、スニーカーも奪われ素っ裸にされた大地は、一人砂浜に放置された。
 ――もう怒る気力もなかった。
「…………」
 もう言葉も出なかった。太陽が高く上った頃にようやく大地は立ち上がり、ヨタヨタと砂浜を後にした。
 行く当てなど無い。ただひたすら前に進んだ……砂浜は森に続いており、その森は進むにつれ次第に密度を増していった。少し気持ちが落ち着くと、これなら人に見られる心配はないだろうな。と暗澹たる気持ちで大地は歩き続けたが、やがて歩き疲れたので手頃な木の下で腰を下ろした。
(どうすっかなぁ……)
 まったくもう八方手詰まりである。これではどこか人前に出ることも適わない。
 コンビニに立ち寄ろうとしても、これじゃ警察を呼ばれるのがオチである。警察なんて信用できないからもうホームレス
になるしかない……
 一人悩んでいると、不意に近くの茂みが揺れ出した。
「だ、誰だよ!?」
 上擦った声で呼びかけると“それ”は姿を現した。
 濃いグレーの体毛が全身を覆い、四本足でノソリと姿を現すと、金色の瞳で大地を睨みつけた。
「い、犬……か?」
 なるほど、確かにこれは歴とした犬のように見える。船上で出会った犬面に比べればはるかに犬に近い……が、なにか妙である。犬に比べるとやけに体が多きい。日本でもたまに大きな犬を見かけたがこれはそれよりも大きく、なによりも犬っぽい人懐っこさがさっぱり感じられない。そもそもここは日本じゃないからして――
「お、狼か? これ?」
 まるで応えるかのように、さらに同じ種類の物が二匹、三匹――六匹が方々の茂みから姿を現し、ゆっくりと大地を包囲するように動いた。
(じょ、冗談じゃ――)
 恥も外聞もかなぐり捨て、大地は背を向けて再び走り出した。
 だが野生動物に対し、それは自分自身が獲物であることを証明したのだ。
 狼は勇んで大地を追った到底子供の足で逃げ切れるものではない。背中に強烈な体当たり受け、大地は派手に転んだ。
「うわぁ! 来るな、来るな!」
 来るんじゃない!
 そう思って無我夢中で両腕を振り回したが、狼は容赦なく牙を剥き――
「アw施drfgtyhじゅいこlp;!!」
 誰かが、一声叫んだのを耳にした。
<5. by 泥だらけの虎>


「亜w背drftgyhじこlp;@!!」
 男が何事か発すると、狼の動きがぴくっと止まった。何事か思案している様子だった。
(狼の群れが、たかだかオッサンひとりにびびってる……?)
「あうぇyふじlghjこlp、あせdrfgyhじklpl!!」
 男は、大地(ガイア)の顔を見て、何事か叫んだ。
 身振り手振りも交えてくれているが、大地には何のことかさっぱりわからなかった。何より、男の格好の意味がわからなかった。
 一言で言えば、男は馬鹿みたいな格好をしていた。(盗賊に服を剥がれ、素っ裸の大地も大地だが)
 全身を真黒なローブを羽織っており、ご丁寧に頭まですっぽりとフードに隠れている。大地の生まれた町はイナカだったが、パーカーを頭から被るダサいやつなんていなかった。
(こいつ、まじだせえ……)
 何が悪趣味かって、その黒ローブを縁取る金箔である。金閣寺か、とわけのわからない突込みを大地は心の中で入れた。しかも、男は眼鏡をかけていたが、それもそろって金色だった。何かのアンティークか、妙な装飾が施されており、大地の想像を絶するほどに、悪趣味だった。
 大地は、こういった格好をゲームの中で見たことがあったし、秋葉原でも多分そういう類の人が来るということを知ってた。だから、気づいた。
(こいつ……もしかして、コスプレイヤーか? オタクか……?)
 大地が思案していると、男はあきらめたのか、何事か呟き、右手を天にかかげた。男が手をかかげると同時に、狼の群れ(と、大地)の頭上に、小さな紫雲が立ち込める。
 と、同時に、大地を急激な睡魔が襲った。
(なんだ、これ……こんなところで寝てる場合じゃ……)
 大地は必死に耐える。
 睡魔と闘い、朦朧とした視界の中で、大地は、狼たちが次々と倒れて行く姿を認めた。死んだ? いや、おそらくは、大地と同じく、睡魔に襲われているのだろう。狼達は次々と眠り、倒れていく。
(やったぜ、オタクのおっさん……)
 ぼうっとした意識でそう考えると、今度は物陰から、盗賊が飛び出してきた。先ほどの盗賊である。
「亜w瀬rftぐじこsdrftgyhじこlp」
「あwぐじこdfgふじこ」
 盗賊たちは口々に何事か叫び、唾を散らす。
 どうやら、男にも物を置いて行けと言っている様子だった。しかしまったく動じない男を見て、盗賊どもは腹を立てた。
 よく見れば、男たちは皆、動物を象った刺青をしており、大地はそれを見て「かっけえ」と呟いた。
「あえ故ll;@l@kpjhgfdyふひおじょpjぽjp!」
 盗賊のひとりが叫ぶと、空に黒い影が現れた。
 飛行機か、と大地は思ったが、違った。鳥だった。日本では見られないほど、おそろしい大きさの。しかし、何が恐ろしいかというと、目の前の盗賊がそんな怪獣を呼び寄せたことが恐ろしい。
「な、なななんだよ、バケモノかよ! あ、わかった。わかったわかった! お前らあれだな、サーカス! だろ? そうだろ? 俺わかっちゃったもんな!」
 大地が叫んでいると、黒ローブの男が隣まで来て、何事か呟いた。
「Shut up!」
 英語だった。
 ここに来て驚愕の事実。ここは日本なんかではなかったのだ。海で出会った海賊(そういえば、ひとりはフック船長みたいだった)。そして、荒れ狂う大海原。海辺の盗賊(あんなイかしたタトゥーは日本にはない)。そして、獰猛な狼(狼は日本にはいないはず)。それから、サーカスと怪鳥。変な服のオッサン。ここは、ここは――。
「ここは……アメリカだったのか!?」
 大地の叫び声と同時に、男が、手から灼熱の炎を繰り出した。
 丸焦げになる巨鳥、切り札を失い、手にした物を捨てて逃げて行く盗賊たち。その姿が小さくなって消えるのを確認すると、男は、盗賊が放り投げた荷物を拾い上げ、大地に手渡した。
 大地がフック船長からもらったものだった。中に何が入っているのかはわからないが、大地にとっては異国の地での唯一の荷物である。フック船長との会話の流れからして、何か役立つものが入っているかもしれない。せめて、ドル札が入っていればいいが、と大地は中を確認する。
 まず、乱雑に突っ込まれた、大地の服があった。大地は慌ててそれを引っ張り出すと、身につける。腰よりも下ではくことのできる、大地のお気に入りのB系ファッションだった。
 しかし、これは案外動きにくいもので(ちゃんとはいていたらそうではないのかもしれないが大地はよくわかっていない)、地元の繁華街でチンピラに追われているときに何度も裾を踏んづけて転んだ。
 そんな忌々しい思い出が大地の脳裏をよぎる。しかも、着てみたら、まだ海水を吸い込んでいて、冷たい。だが、裸よりはまだましというもの。羞恥心が、服の機能性を凌駕した。
 大地は衣服を身にまとうと、フック船長のくれた袋の中身が気になり、調べてみようとした。
「Wait,」
 男は英語でそれを制し、手でついてこい、というような素振りをした。おそらく、安全なところに行こう、というのだろう。(男の英語は少したどたどしい感じがした。)
 ふと、大地の全身を痛みが襲った。唇の端を拭うと、固まりかけた血が袖にこびりついた。
 地元ではチンピラに襲われ、海を泳ぎきり体力はもはや限界。おまけに、浜辺では盗賊に襲われた。もう、身も心もぼろぼろだった。何より、出血はないが、打ち身がひどい。全身がひどく痛む。一度、痛みのことを思い出したら、ずっと痛みっぱなしだった。
(この男はヘンなカッコしてるけど、助けてくれたみたいだし……少なくとも悪いやつじゃねえな。それに、もし万が一襲われても、こんなコスプレ野郎、ブレイクダンスで鍛えた俺の筋力でイチコロだぜ)
 大地は瞬時に頭の中で計算すると、安全だと判断し、男のもとへと駆け寄る。
「あ、あのさ。さっきはありがと……あーあー、あ、そうだ。あれだ」
「あghj?」
 大地は知っている英語を話そうと、脳をフル稼働させた。
 ありがとうを、英語で何と言うんだっけ。俺はヒップホッパーだから、英語ならお手の物のはずだ。大地は自らを鼓舞し、そして、言う。
「アイアムソーリー、ヒゲソーリー、マイネームイズ、ネーム……ネームペン。アイアムアペン。オーケー?」
 男はますます怪訝な顔を見せ、少し思案した後に口を開いた。
「My name is Robert.What's your name?」
 大地がぽかーんとしていると、男は自らを指差し、「ロバート、ロバート」と言い、大地を指さし、「ユアネーム、ユアネーム、プリーズ」と言った。聡明な大地にはここでピンと来た。この男の名前はロバートだ。間違いない。そして、大地の名前を尋ねている。
「あ、あいあむあ、ガイア」
「Gaia?」
「イエス、ガイア、ガイア」
 ロバートはうなずき、「Gaia,let's go」と歩き出した。レッツって何だっけ、と思いながらも大地はロバートの後ろをついて行く。
 今ここでロバートを見失ったら、野垂れ死ぬかもしれない。大地は喧嘩には強いと自負している。どんなチンピラだろうが、海賊だろうが盗賊だろうが負けない。現に今まで死んではいない。しかし、夜となると話は別である。アメリカにはハロウィンという文化があるくらいだ。当然、お化けのひとつやふたつ、出ると考えて正しいだろう。
(に、日本の幽霊ならまだ勝てるけど、アメリカのゴーストまじ強いもんな、しかたねえよ、うん)
 自分が今、アメリカに居るのだと思い込んで、大地は歩く。
 なぜ、日本の東京のすみっこの雑居ビルの屋上から落ちた自分が、海にいて、たどりついた先がアメリカなのか。大地は実際のところは気づいていた。いくら阿呆でも、さすがに気づいていた。

 ここは――地球では、ない。
<6. by よっしゅ>


ロバートというおっさんの後にくっ付いて小一時間程歩き続けた。
大地(ガイア)の本心はというと、ぶっちゃけ今すぐ腰を下ろして休みたいところだが、下手をするとこのまま置き去りにされかねないので我慢した。
やがてロバートが足を止めると何事か口走った。
「せdrftgyp」
「なんだよって……家か、あれ?」
ロバートの横に進み出た大地は、目を丸くする。
視線の先で森は無くなっており、そこからは小屋とも納屋ともつかない住居がポツポツと軒を連ねていた。ごく小さな集落に、馴染みのない大地はひとまず誰か住んでいることだけはわかった。
ロバートは無造作な足取りで村の中に足を進める。
「ちょ、待ってくれよ!」
慌ててついて行く大地。
村人とすれ違う度に、ロバートは挨拶を交わす。相変わらずなにを言ってるかさっぱりわからないが、かろうじて村人がロバートの名前を口にしている部分だけはわかった。
やがて村の外れにある一軒の家にたどり着いた。
ロバートが扉をノックすると、しばらく間があった後、金髪を無造作に切り詰めた男が扉を開けてヌッと顔を出した。
「Wow! Robert! Come in! Come in!」
「l。;・」
金髪の白人はロバートの顔を見るや破顔し、気前良くロバートを招き入れた。ロバートは大地を手招きし、中に入るよう促す。
いったい何者なんだ? このおっさんも英語を話すけど、明らかにロバートとは雰囲気が違う。どっちかというと、大地にとっては見慣れた感じがする。
「Welcome.Ah……Who are you?」
いきなり別の声が投げかけられた。
「おお! 黒人だぜっ!」
大地は思わずそう口走っていた。
部屋の奥から出てきたのは、ドレッドヘアの黒人であった。
白人も黒人も着ている服こそ質素な物だったが、雰囲気はどうも見慣れた感じがしてならない。いったいここはどこなんだ?
一人思案を重ねている大地に、白人が話しかけてきた。
「Where are you from?」
「あー、あーあいあむガイア」
「hm...」
 ずっと白人が話し掛けていたが、イかした黒人のほうを見て肩をすくめた。
 他にも英語であれこれ話し掛けられたが、大地には意味不明だった。
「OK,Leon,I'll try.」
 黒人が前に出た。
 しかし、黒人はイかしている。ラップがうまいのだ。大地の中で、黒人とラッパーは同義語であった。ラッパーは白い歯を見せ、笑顔を見せながら言った。
「How are you?」
 大地はラップで聞いたことのあるセリフを返した。
「Fuck you」
「Die!」
……気がつくと顔が二倍に腫れ上がっていた。どうやらこっぴどく殴られたらしい。ロバートと白人は心配してくれているようだが、黒人は明後日の方を向いて無視を決めこんでいる。
しばらくまた白人が英語で質問を続けたが拉致があかないと判断したのか、何やらロバートが口走り始めた。
「あせdrfgyhじklpl……」
「な、なんだよおっさん!?」
なにかを口走りながらロバートは立ち上がると、大地ににじり寄る。白人と黒人はなにが始まるか理解しているのか、顔を引きつらせるとジリジリと後退った。
「お、おい??」
「ふじこlp!」
締めくくると同時に、ロバートは両手で大地の頭を挟み込んだ。
その瞬間、ロバートの両手の間に青白い稲妻が走った。勿論、大地の頭はそこにある。
「ぎゃあああああああああくぁwせdrftgyふじこlp!?」
凄まじい絶叫が、大地の内から溢れた。
これまで味わったことのない衝撃に、大地はなにがなにやら理解できず、ただその圧倒的な力に翻弄されるがままになった。
一瞬、大地の全身骨格が見えたと同時に、電撃は止んだ。
「い……いったい……なにを……」
全身から煙りを立ち昇らせ、大地はグッタリと椅子に腰かける形にくず折れた。
「……ふむ、私の言葉がわかるかね?」
ロバートはそう聞いた。
大地は言葉を返す言葉も無く、再び気を失った。
<7. by 泥だらけの虎>


 夢を見た。この妙な世界に来る前のことだ。
 地元のゲーセンで、いつものように小学生からカツアゲしていたら、チンピラに「俺らのナワバリで何勝手なことしてくれてんだよ」と睨まれた。カズがそれに反論し、タバコをチンピラのひとりの手に押し付けた。これが、まずかった。
 俺らは中二だ。二十代のやつらに敵うわけがねえ。いや、俺ひとりなら敵うんだけど、仲間をかばいながらだとほら、うまく闘えねえじゃん。あれだよあれ。

 意識が飛ぶ。
 チンピラのひとりに捕まり、屋上から突き落とされる。俺はこのとき死んだはずだった。
 また、飛ぶ。
 死んだと思ったら、大雨の海の上の海賊船の上にいた。海賊に襲われ、海を泳いで陸を目指した。
 また、飛ぶ。
 盗賊に追いはぎにあった。死に掛けていたら、狼に襲われた。
 あの、狼って何だったんだ。それに、あの大きな鳥も……。盗賊どもは、動物の刺青をしていて、自在にあのバケモノどもを操っているようだった。
 あいつらも、十分バケモノだった。
 それに、そのバケモノどもを一掃した、ロバートという名のおっさん。こいつもまた、バケモノだった。

 ここは、この世界はいったい――

 *  *  *  *

「ここは一体、どこなんだよ!?」
 そう叫んで、“ガイア”は起き上がった。
「ここは、レオンの家さ」
 ロバートだった。
「レオン? あの黒いのか?」
 ガイアは質問に答えてくれたロバートに、立て続けに尋ねる。
 まだ、寝起きで頭が痛む。意識がやや覚醒しきれていない。
「いや、金髪のほうだ。ボブの方は、シューマッハ村に住んでいるのだが、今日は懐かしい客人が来ると言うことで、ここティアルガ村に来ているわけだ」
「ティアルガ?」
 ガイアは怪訝に聞き返す。
 世界史の授業では習わなかった名称だ。当たり前か、とガイアは首を振る。
「そう。ここは、ティアルガ村だよ。かつて、一度は魔物の襲撃を受け、滅んでしまった集落を、有志たちの手によって再建したのだよ」
「魔物って何だよ。それにそういうこと聞いてんじゃねえよ。この世界は何なのかって聞いてんだよ」
「ここは、キミたちのいた世界――われわれはそこを、便宜上、“アース”と呼んでいるが、そのアースとは違う世界だ。ここは、ファルネースという。マナによって成り立つ世界だ」
 ガイアの目が点になる。
「するってぇと、ここはファンタジーか何かの世界か? マナなのか、マナ板なのかよくわかんねえけど、俺はそんなあほらしいとこに飛ばされたのか?」
 嘘つくんじゃねえ、と叫びかけて、気づいた。
「ちょ、ロバート……おまえ――」
 そのタイミングで金髪の男と黒人が入ってきた。レオンとボブである。
「起きたかよ、ロバート。くそジャップは」
 黒人のボブがサングラスを弄りながら訊く。
 ガイアは久々に、懐かしい文明に触れたような気がした。サングラスだ――。
「おい、おめえ、さっきよぉ。俺のことバカにしただろ? 会って初対面のやつにケンカ売るなんて、とんだクレイジーだぜ」
「黒人……まじかっけえ。さ、サインくれ!!」
 ガイアはそう言うと、書く物を探そうとする。
 ロバートがそれに気づき、万年筆のような古めかしいペンを渡す。
「これなら、水にぬれても滲まないと思う」
「ありがとな、おっさん!」
 ガイアはボブにペンを渡すと、自らのシャツにサインをせがんだ。ボブは困ったような顔をして、しかたねえな、と何事か書いた。
『Crazy』
 ガイアはそれを見て、きょとんとした。
「これは、英語……あ、あれ!? なんで、俺ら言葉通じてんの!?」
 文字を見て、ようやく、気づいた。言葉が、会話が通じている。
 アメリカ人であろうレオンとボブ。日本人のガイア。そして、異世界の住人ロバート。全員が同じ言葉で話している。
 おかしかった。さっきはまったく話が通じなかったのに、どういうわけか。ガイアの疑問を見抜き、ロバートは、その単語を口にした。
「マナだよ。この世界をなす神秘の存在。ありとあらゆる奇跡を起こすそのマナによって、我々は、共通言語化されている」
 ロバートはガイアに説明した。
 ガイアの頭があまりに回転率が悪いために、説明は夕方までかかった。たかだか、言葉の共通化という、初歩の初歩のために、半日もの時間を費やしたのである。
 ガイアが理解できたのは、おおむね以下のようなことであった。

 もともと、ガイアたちのいた世界アースと、ロバートたちのいるこの世界ファルネースは別世界であり、言語が違うのは当然のことであった。
 しかし、はるか昔に、マナ(これは不思議な物質で、とりあえず、魔法のようなものらしい)が言葉を共通言語化する働きを有したものが現れた。それは、神様の加護か何かを受けたものらしく、空気中に大量に含まれていて、これによって、ファルネースの人々は、言語の壁を越えて意思疎通できるのであった。
「ためしに、愛してる、と知っている限りの言葉で言ってみろ」
 レオンに言われたので、日本語、英語、韓国語、中国語あたり、ガイアの知る全ての知識をフル動員してみたら、ガイアの口から出る言葉はすべて同じだった。
 言語のマナに限らず、ファルネースにはたくさんのマナがある。
「簡単なところで、お前たち、ファルネースの住人じゃない存在には、筋力を活性化するマナが作用するとされている。どうだ、ガイア。今までと、身体を動かしてみた感じが違った気がしなかっただろうか」
 ガイアは思い返すと、確かに大の大人の盗賊を、14歳の腕力で簡単に振りほどいていたような記憶がある。
「なんてこった……俺が強すぎたんじゃなかったのか……」
 ショックであった。
「それもまた、マナの力。ただ、このマナというのが厄介でな。慣れるまで時間がかかる。つまり、だからキミは、この世界に来て今まで、我々の言葉が理解できなかったのだ」
 と、ロバートは締めくくった。
「え、でも、何で俺さ、急に言葉わかるようになったの? あ、天才だから?」
 ガイアがきょとんとしていると、ボブがガイアの頭をはたいた。
「ばかだな、おまえ。荒療法だよ。ロバートがお前にマナを思いっきり注ぎ込むことで、お前の身体が持つ、マナに対する抵抗をなくしたんだ。だから、お前ラッキーだぜ。俺やレオンなんて、この世界にきて、この脅威じみた身体能力になじむまで上手く走ることさえできなかったんだからよ」
 ボブはそう言うと、ガイアの頭をわしゃわしゃとかき乱した。
 ヒップホップの生みの親である黒人。その尊敬する黒人とこうやってしゃべっていることが、ガイアは素直に嬉しかった。
「まあ、マナのことは複雑すぎるからな。俺なんて、いまだにわからないんだ。今後、ファルネースに慣れる中で、学んでいくのが良いだろ」
 レオンはそう言うと、そろそろ食事にしようぜ、て奥のキッチンに招いた。
 ガイアはまだ、頭の整理ができず、あれこれ考えをめぐらせていた。ボブはそれを見ると、ふっと微笑んだ。
「客人が来る予定だから、たくさん買っておいてよかった。まさか、予想外にひとり増えるとは思わなかったからな」
「ああ。サラはいつ来るかわからないからな、また、ガイア君の分も、オリワ街に買出しに行けばいいだろう。後学のために、現在のアースの情勢も聞いておきたいしな」
 レオンとロバートが話す声が聞こえているが、ガイアはずっと考えていた。
 ――俺、どうなっちゃうんだろう。
 その夜、ガイアは心細さに、ひとり泣いた。
<8. by よっしゅ>


 泣き疲れていつの間にやら眠ってしまったらしい。目が覚めて体を起こすと、ぼんやりとした頭で室内を見回す。
(目が覚めると全部夢でしたって、わけねぇか)
 体を動かすと、全身に鈍い痛みが走る。裂傷、打撲、筋肉痛??これまで受けた暴行の痕が、昨日までの出来事が間違いなく現実であると訴えかけて来るのだ。
(帰りてぇけど……腹減ったなぁ)
 このまま寝てても仕方ないので、とりあえずは起きて飯を食おうと思い至ったガイアは部屋を出た。キッチンにはロバートの姿があり、レオンとボブの姿は見当たらない。
「ああ、起きたかね。朝食なら用意しているから、適当に採ってくれ」
 テーブルの上には、堅そうな長パンがバスケットから飛び出していた。
 鍋には昨日の夜の残りの豆となにかの肉の入ったスープがあった。
 昨日は空腹のあまり、とにかく腹に食い物を詰め込みたかったためあまり気にならなかったが、アースでの乱れた食生活から、朝から堅そうなパンを見ると気が引けた。
「……ここらにコンビニってねぇの?」
「コンビニ? それはなんだね? アースの朝食かなにかかね?」
 初めて聞くのか、ロバートは興味津々といった感じでメガネを閃かせる。
「いや、なんでもねぇっス……」
 表向きは愛想笑いを浮かべつつ、内心では辟易して吐き捨てた。
(なんて所だ、コンビニすら無いなんてあり得ないぞ。こんな世界に居てたまるかよ……!)

「そういやレオンと……ボブだっけ? 二人はどこに行ったんだ?」
「レオンは毎朝走りに出かけている、きっとスタジアムまで行って出来を確かめているんだろう。ボブはその付き添いかな。彼らは体を鍛えていなければ気が済まないらしい」
「スタジアム? ……なぁ、二人は俺みたくこの世界に迷い込んで来たんだよな?」
「そうだよ」
「ならさ、こっちに来れたんなら、帰る方法もあるはずだよな? そうだろ?」
 この問いかけに、ロバートは朝食の手を止め、考え込み始めた。
「うーむ……」
「ちょ、無いなんて言わないでくれよ……」
 じっと考え込むロバートに、不安になったガイアだが、ロバートの一言は……
「わからん」
「な、なんだよそりゃ!?」
恥ずかしげにロバートは頬を掻いた。
「いや、すまない。私の知る限りでアースに帰ろうとしたヒュマンが居ないんだ。だから私からはなんとも言えないよ」
「居ないって……どうして?」
「私の交友関係の狭さかな。他に数人ヒュマンの知り合いが居るが、彼らは他所の国に住んでいるためほとんど会っていない。レオンとボブが一番身近に居るヒュマンだから、なぜ帰ろうとしないかは彼らに聞くと良いだろう」
「くそっ、早く帰って来いよ! アメリカ人ども!」
 そんな思いが天に通じたのか、ちょうどレオンとボブが帰って来た。

「ただいまー」
「ハラ減った、飯にしようぜー」
 間髪入れず、ガイアは二人に問い質した。
「レオン、ボブ! なんであんたらは元の世界に帰ろうとしないんだよ!?」
「朝っぱらからなにを言ってるんだ、お前は?」
「さらにイカれちまったか?」
「あ、あんたらこんな所に居て良いのかよ? 帰りたくねぇのか!?」
 この言葉には自信があった。ガイアは誰だって故郷に帰りたいもんだ、と思って放った一言だが、レオンとボブの反応はにべにも無いものであった。
「ああ、帰りたくないな。俺はこの世界に居たい、帰ろうなんてこれっぽっちも思ない」
「俺もだ。こっちの方が居心地が良い」
 予想外だった。やっぱりこの二人、いかれてる。
「チ、チクショオォー! もう帰ってこねぇよー!」
 そう言ってガイアは家を飛び出してしまった。残された三人は冷静にコメントする。
「……どうやらマジでイカれちまったらしいな」
「そうだな、まぁこんなもんじゃないか?」
「……まぁ、無理もないだろうね。いきなり自分の知らない世界に来てしまったんだ。彼くらいの年齢なら、まだ家族と一緒にいるのが幸せだろう。そのうち帰って来るだろうから、そっとしといてあげよう」
「さて、メシメシと……」
 三人は朝食に戻ろうとしたが、ふとロバートは顔を上げ、それから部屋の隅に置かれていたソファーに視線を移した。
「どうした、ロバート?」
ロバートの仕草に気付いたレオンが声をかけたが、ロバートはそれには応じず一言呟いた。
「……来る」
 ロバートの視線の先にあったソファーの少し上で、空間がぐにゃりと揺らいだ。陽炎が生じたかのように、そこだけがぐにゃぐにゃと揺れ動き、揺らぎは次第に激しくなるにつれ小柄な人の形を為し……
「ひゃっ……」
 揺らぎが消えると、そこには先程まで存在し無かった五人目の人物がソファーに腰かける形で出現した。ソファーのある位置より若干上に現れたため、わずかな距離を落下したことに可愛らしい悲鳴を漏らした者は、少し驚きつつも、部屋の面々を見て笑みを浮かべた。
「お久しぶりね、レオン、ボブ。それにロバートも」
普通なら、こんな現れ方をする人物を目にすれば、大抵の人は仰天してしかるべきだが、ロバートはマグカップを掲げて穏やかな声で新たな来訪者を迎えた。
「やぁサラ、よく来てくれた」
<9. by 泥だらけの虎>


 ガイアは、レオンの家を飛び出し、駈け続けていた。
 最初はレオンの家を出て、村の外まで駆け出したのだが、途中、たくさんの墓標が立っているのを見て怖くなった。墓地にしては、おびただしい量の、墓標。
(そういえば、ロバートのおっさん言ってたな。この村は魔物の襲撃を受けて、一度ほろんだって……)
 ガイアはティアルガ村を振り返る。
 そこには大きくはないが、決して小さくもない村が佇んでいた。無論、たくさんの村人が住んでいるだろう。人々が力をあわせても、その“魔物”には敵わなかったのだ。それが、ガイアひとりの力なら、尚更のことである。
(よし、ここは引き返そう。いやいや、怖くなったわけじゃないぜ、あいつらが俺が居ないと何もできないから仕方なくな、うん!)
 勝手にひとりぶつぶつ呟いて、家に帰ろうとして、道がわからないことに気づいた。半べそをかきながら、レオンの家を探していると、綺麗な金髪の女性に声をかけられた。
 村の人らしい。綺麗な金髪、アメリカ人かなと思ったが、ここがガイアの住んでいた世界とは違うことを思い出し、知った国の名を頭から振り払った。
 何より、女性の爪は異様に長く、数十センチはあろうかと思えた。女性はその鋭い爪で、地面に地図を書き、道を示してくれた。
「私の娘のサラがね、ちょうど、その家の方と知り合いなのよ。レオンさんに会ったらよろしくお伝えくださいね」
「は、はあ。あの……」
 ガイアは聞いてもいいものかどうか悩んだ挙句、誰もが抱くであろうことを聞いてみた。
「なんでそんな爪が長いんスか? あと、その爪、大変じゃないスか?」
 ネイルアートというものをガイアは知っている。
 伸ばし、時にはつけ爪をして、無駄に飾っているあの爪を見て、めんどくさそうだな、と常日頃ガイアは思っていた。
 女性のそれは素っ気無く、ネイルアートもしていないが、長さだけなら、ガイアの知っている地球の女性のそれよりも遥かに長かった。
「私たちは、キディルアナ氏族っていうの。爪を長く伸ばして、この爪で絵を描くことでマナを扱えるのよ」
 また出た。マナ。
「あら、マナを知らないのね。えっと、私たちみたいなファルンは、マナを巧みに扱うことで魔法を使えるようになるの。あなたたち、ヒュマンと違ってね」
 ヒュマン? ファルン?
 ガイアの頭の中でわけのわからない単語がかけめぐる。そういえば、ロバートもヒュマンという単語を使っていたな、とガイアの少ない脳細胞は、ちょっと前の会話を思い出していた。
「ヒュマンはあなたたちみたいな、アースと呼ばれる、ここファルネースとは違う世界から来た人たちのこと。魔法が使えない代わりに、身体能力にマナが作用してすごい力を発揮するわ」
 ああ、なるほど。とガイアはすぐに疑問を解消した。このファルネースという世界に来て、やたら荒れ狂う大海原でも何とか泳ぎきれたこと、浜辺で盗賊に襲われたときも、暴れたら大の大人が相手でも何とか振りほどけたこと。これらの疑問が一瞬にして晴れた。
「それで、ファルンっていうのが私たちみたいな、もともとこのファルネースに住んでいる人のことね。全部で、17の氏族からなるの。私はそのうちのひとつ、爪の長いのが特徴のキディルアナ氏族よ」
 まだ残り16もあるのか、とガイアは頭を抱えた。
「あ、じゃあさ。刺青してたのは?」
 最初に襲われたときのことを思い出し、ガイアは尋ねた。
「それはきっと、アルルク氏族ね。動物や魔物を操ることができるの」
 なるほど、とガイアは納得した。ロバートは何氏族なんだろう、後で聞いてみようと思った。
「あとはね。ヒュマンとファルンの子供ね。この新しい世代は、ヒュマンでもファルンでもないの」
 ガイアはちょっと納得した。自分の住んでいたところでも、日本人とアメリカ人の「ハーフ」とかあったもんな。
「ハーフ、その名のとおりよ。語源の由来は、あなたたちの世界のものだと思う。この世界では共通言語という難しい働きがあって、私もちょっとわからないのだけど、それでも、言語学者は、ハーフの語源はあなたたちの世界だって言ってるわ。それと、ハーフのほかにも稀に生まれてくるカオスというものがあって……」
 後半は聞いていなかった。聞けなかった。
 ガイアには辛かった。ロバートに帰る方法が不明であると言われたことを思い出す。下手をすれば、帰る方法もないのかもしれない。
 この女性が「あなたたちの世界」という言葉を発する度に、自分は両親のいる地球とは違う世界にいる現実を突きつけられた。帰りたい。母さんに会いたい。ろくでなしの父さんでも、この際いい。知っている誰かに会いたかった。
「……あら、ごめんなさい。たぶん、最近この世界に来たのでしょう? それなのに、気もつかわずにあれこれ言っちゃって」
 見目麗しい女性は、不安そうな表情のガイアの肩にそっと手を乗せて、微笑んだ。心配しないで、と。
 そして、ぎゅっと抱きしめた。
「今はね、不安かもしれないわ。だけど、ちょっとずつこの世界のことを知って、がんばりなさい。たくさん、知り合いを作りなさい。そうすれば、未知が未知でなくなって、怖いことや不安なことも消えるわ。それでもそのときに帰りたければ、帰る方法を探せばいいの」
 あるかどうかは、わからない。けれども、ないとも限らない。
 ガイアはレオンとボブのことを思い出した。ふたりは帰ろうとしていない。それはきっと、彼らにとって、このファルネースのほうが居心地が良いからだろう。元いた環境が、ここ以上に苛酷だったのかもしれない。
 ガイアはどうだろう。ガイアは自分の世界のことを思い返して、ちょっと悩んだ。今はちょっとそこまで考えられない。言葉は出なかった。代わりに涙が出た。
「いいの、男の子でも泣きたいときに泣けば」
 ガイアは泣いた。泣き続けた。女性のぬくもりが、ひどく暖かかった。
 ひとしきり泣いた後、ガイアは女性にレオンの家まで送ってもらった。
<10. by よっしゅ>


ガイアが家の扉をくぐるなり、レオンが言った。
「ほら、思った通りだ! 二ワロスな♪」
「チッ、たく……」
「な、なにしてんだ、あんたら?」
ボブが渋い顔のまま答える。
「賭けだよ。俺はお前みたいなのは帰って来ない(というか来れない)と思ってたんだが、ハズレちまったよ。まったく!」
「はっはっは、まだまだ人を見る目が足りないなボブ君。俺の言った通りだろう、こいつは戻って来るってな」
どういった理由からかは分からないが、レオンは持ち上げてくれるらしい。そう感じたガイアはすかさず調子に乗った。
「お、おう! まぁトーゼンだな。俺が逃げるわけねーじゃん! ナメんなっつーの!」
ふんぞり返って小鼻を膨らませるガイアの様子があまりに滑稽だったため、ボブは思わず苦笑を浮かべ、やれやれと首を振る。
その様子にレオンも笑みを浮かべ、打ち解けた雰囲気ができあがった。
「あれ、なにか賑やかですね?」
鈴を振るような声がした方を向いたガイアは、あんぐりと口を開いた。
色素の薄い金髪を腰まで伸ばし、簡素ながらも可愛いらしいエプロンドレスをまとった美少女が、隣室からひょっこりと現れたのだ。
口を開けたまま凝固した体とは対象的に、ガイアの脳はめまぐるしく考えが飛び交っていた。

誰このかわいこちゃん? なんでこんなオッサン臭いタコ部屋にいるわけ? これはあれか、皆して俺を騙そうとしてるのか? ドッキリか? カメラどこ?
いやいや、もしかして三人のうち誰かの隠し子かも……でも三人の誰とも似てねーよな。
「サラ、こいつがさっき話してたヒュマンだ。ガイアって言うんだ」
 思い当たった。道案内してくれた女性の娘の名前もそんなんだった気がする。
「まぁ……こんにちはガイア君、ここまで大変な目にあったでしょう?」
「え、あぁ? いやいや! なに、俺からすればぜんぜん大したことはなかったな、うん! 俺の故郷ならこれくらい日常茶飯事だぜっ!」
なにがどれくらい日常茶飯事なのかは知らないが、ともかくガイアは可愛い女の子を前にして余裕たっぷりに見せたかった。
「そりゃボコボコにされるのが日常茶飯事ってことだろうな」
 ボブが冷静にツッコミを入れた。
「んなっ!? んなわけねーじゃん、俺が本気出せばイッパツで……サラちゃんだっけ? あの黒人の言うことなんか真に受けちゃダメだ!」
「なに言ってんだコイツは……」
ボブは呆れ返ってこれ以上言葉が思い浮かばなかった。
レオンはそれを横目にニヤニヤ笑っているだけである。ロバートはそんな状況を気にすることなくテーブルの上を片付けていた。
「クスクスクス……ガイア君っておかしな人ですね」
サラが楽しげに笑うのを目にした瞬間、ガイアの中でなにかが崩れ去った。
<11. by 泥だらけの虎>


(何この子、日本語しゃべってるからハーフ? あ、ここって、日本語とかそういう言葉の壁ないんだっけ。言葉の壁がない……ってことは、心の国境もないってことだよな。ということは、この子と俺は――!)
 ガイアは混乱していた。さっき、サラの母親から説明されたことも綺麗さっぱり抜け落ちていた。
 一言で表現するなら、それは「ひとめぼれ」だった。無論、ガイアの故郷の国の某県の名産のお米などではない。
(名前、なんだっけ、さっきおっさんが言ってたよな。えーとえーと……)
 思い出せ。ファーストコンタクトは大切だ。
 ここで間違えた名前なんて、言ってみろ。好感度は右肩下がりだ。
「おらおら、ボブ。早く、2ワロス払えよ!」
(ワロス、名前……何て名前だっけ)
「わかってるって!」
「利子はトイチな、10秒間につき1割。1、2、3、4、5……」
「はあ!? んなクレイジーなこと先に決めんなよ!」
(えっと、名前名前……)
「わははは、もう10ワロス!」
「くっそ、腹立つぜ! この、ダメ選手が!」
「あ? 誰がダメだ誰が」
「お前以外に誰がいんだよ、このクレイジー」
(ああ、もうわからん! ワロスってなんなんだよ! この世界の通貨か!?)
 ガイアは混乱していた。
 その背後から女性が、部屋の中を覗き見る。
「こんにちは、レオンさん。ボブさん、ロバートさん」
 さっき、案内してくれた女性。サラの母親だった。
 ガイアのことを心配して、ついて来てくれていたのだった。
「あ、おかあさん!」
 少女はぱっと顔を輝かせた。
「サラ。おかえり。ミディリア大陸のみんなはどう? シャインやピティは元気でやってるの?」
「シャインはまた流れ旅に出たわ。ピティはアガレスでがんばってる。大変そうだけどね」
 そうだ、この子はサラちゃんだ、とガイアは今度こそ忘れないように胸に深く刻み込んだ。
 しかし、またしてもわからない単語が出てきた。ミディリア大陸に、アガレス。あとのは人名みたいだが……。
「ねえ、サラ。この子、ミディリア大陸に連れて行ってあげたらどうかしら?」
 サラはちょっと考え込んでいたが、すぐにうなづく。
「たしかに。今の時代なら、クオラが一番安心かも」
 レオンとボブは腕組みをしつつ、ロバートを見やる。
「レオンとボブはもうこの世界に住むことに決めたが、ガイアは違う。まだ、帰る術を探そうというのなら、この地にとどまるよりも、ヒュマンの集うケルトラウデ帝国に行く方が賢明だろう。ヒュマンにとって、ミディリア大陸ほど住みやすい場所はないと思うしな」
 ロバートの言うことをまったくガイアは理解できなかった。
 それを見て、サラはかいづまんで説明してくれる。
「ねえ、ガイアくん。ここから遠く離れたミディリア大陸というところに、ケルトラウデ帝国っていう大きな国があるの。今、そこにはクオラという、あなたたち異世界から来た人たちを保護する組織があるの。そこでは、あなたたちヒュマンが生活していくための術や、いろんな情報が集まるわ。だからどうかな。わたしと一緒にクオラまで行きませんか?」
 サラの説明でようやく理解できたが、何よりも頭に入ってきたのは、最後の一言だった。
(わたしと一緒にクオラまで行きませんか……!? 一緒に!?)
 ガイアは顔を真っ赤にして、ウンウンうなづく。
 それをボブが茶化したが、ガイアにその言葉はもはや聞こえていなかった。

 こうして、ガイアはもう何日かこの村に滞在した後に、ミディリア大陸を目指すことに決めた。だいぶ不純な動機で。
 翌日この世界の文化に慣れるために、オリワの街に出かける(レオンのパシリ)ことを約束し、その日は夕飯を食べて早々にベッドに入ったが、ガイアは興奮して寝つけないのであった。
翌日この世界の文化に慣れるために、オリワの街に出かける(レオンのパシリ)ことを約束し、その日は夕飯を食べて早々にベッドに入ったが、ガイアは興奮して寝つけないのであった。

 これから、どんな旅をするのだろうか。これから、どんな景色を見ていくのだろうか。それは、ガイアにはわからない。

 神秘の世界ファルネース。それは誰しも、迷い込む可能性のある無限の世界。
 我々の住む世界からは遠く離れた、マナと呼ばれる神秘の存在に覆われた世界だ。
 マナは万物に宿り、万象に作用する。多すぎるマナはときに自然に影響を与え、災害を引き起こした。マナはすべての源。人々はマナを行使する術を編み出し、それを魔法と名づけた。

 これは、そんなファルネースを舞台にした物語。
 ここからは、あなたたちも描くことのできる物語。

 さあ、ファルネースへの扉を開こう。そこにはきっと、あなたの望むものもあるのだから――。
 http://nightastar.web.fc2.com/farness/

 ――『リレー・オブ・ファルネース』、完。
<12. by よっしゅ>


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