You've Got Mail

 彼が私を意識しなくなってどのくらい経ったのだろう。会ってもろくに話さず、読書をしたりメールを打ったり……もはや空気のようなものだ。
 苛立ちはつのるばかり。彼は私のことが本当に好きなのだろうか。
 私が一方的に好きなだけで、彼はもう――好きではないのかもしれない。
「あなたは私といて楽しいの? いつもつまらなそうにしてる。友達と遊ぶときはあんなに明るくて楽しそうなのに、私といるときはこんなに静か……私といるのってそんなにつまらないの?」
「そんなことないよ」
 そっけなく、短い言葉。それが彼の心情を全て表している気がして……とても悲しくて、惨めだった。
「別れましょう」
 躊躇などなかった。彼に私はいらない。私といるよりも楽しいことがたくさんあるのだから。
 だから口にした。
 だから耳にした。
「……勝手にすればいい」
 彼はそう言い残すと部屋を出て行った。後に残されたのは二人の愛用の品の数々と――私。
 あまりにも短く、そしてあっけないさようなら。
 ぼうっと時間が流れるままにただ身を任せた。何かを考える気力なんてなかった。何かをする気にもなれなかった。
 ふと棚の上に目をやると写真が目に映った。笑顔の私と――笑顔の彼。無性に腹立たしくなって私はそれを壁に投げつけた。けれども、この感情を抑えることはできなかった。私は近くにあったもの……携帯電話やテレビのリモコン、コップに至るまで片っ端から壁に投げつけた。
 結局何も壊れず、派手な音も鳴らなかった。壊れない、何も壊れない。壊れたのは私と彼の関係だけ。何だか自分のやってることが馬鹿らしく思える。いや、馬鹿らしいのではなく、馬鹿そのものなのだ。ふられて物に八つ当たりだなんて。それこそ惨めで涙が出て来た。
 泣くと不思議と頭も冷えてきて、状況を整理する余裕も出て来た。
 私はどうすればいいのだろう。何をするべきなのだろう。
 狭くて物が溢れ返っているこの部屋。
 駅から遠くてコンビニも近くにないこのボロアパート。
 安いから、という理由だけで二人で選んだこの住まいだけど一人で住む気なんて起きるはずもない。そもそもこんなに物価の高い地に住む理由ももう、ない。その理由はたった今ドアを開けて出て行ってしまったのだから。
 帰ろう。全てを忘れて。
 帰ろう。父と母と可愛い愛犬のいるあの家に。

 彼のものと私のものを区別することから始めようと思って、やめた。ほとんどが二人のもので、彼を思い出させるようなものを実家に持ち帰ることには抵抗があったからだ。
 唯一、別々のものがあるとすれば、結婚以前から持っていた――狭いから、と少ししか持ち込まなかった自分の私物。
 場所を取るから何を持って来ようか悩んだっけ。愛用のCDプレイヤーと好きな歌手のCD。好きな本。CDプレイヤーは壊れたし、CDはプレイヤーが使えなくなったから聞けなくなった。本は何度も読み返したからさすがにもう読まなくなった。どれも今は使わなくなったけど、学生だった頃から使っていた愛着のある、捨てられないもの。
 押し入れに仕舞い込んでいたその大切なものたちを取り出してみても何の感慨もなかった。いくら眺めても、いくら触っても何も感じられなかった。
 それでも私は作業をやめなかった。やめられなかった。
 もう長年放りっぱなしにしていたせいで中に何が入っているかわからないダンボールをいくつも開けては持って帰るものを選別した。
 最後のダンボールを開けると、古い――それこそ液晶画面がカラーではないような旧式の携帯電話が出て来た。
 覚えている。私が初めて持った携帯電話だ。メールなんてこまめなことできないような私が、彼とメールをしたい一心で買った携帯電話。電源は入るけど、壊れてメールが受信できなくなるまで大事に使い続けた携帯電話。
 懐かしい気持ちに急かされて、電源ボタンを押してみる。けれども、反応はない。
 同じダンボール箱をひっくり返してみると、ご丁寧に充電器も入っていた。
 今度こそ電源が入った。使い終った携帯電話をリサイクルに出す人もいるらしいが、私は手元に置いておきたかった。メモリも残して、置いておきたかった。
 どうせ見ないことは分かってたし、だからこそダンボール箱なんかに入れて忘れていたのだけど、現実は分からないものだ。私は使わないであろう昔の携帯電話を、今こうして手にしている。
 今はもう連絡のつかなくなったクラスメートや、今でもまだ付き合いのある友人の若かりし頃の文章が受信ボックスにはたっぷり詰まっていた。
 ――そして、出会った頃の彼のメールも。先ほどそっけない態度を見せた彼とは全く違う、明るく若い彼の姿が脳裏に蘇る。
 あの頃の彼は私と一緒にいても明るかった。何をするにしても色々と気を遣ってくれていたっけ。それなのに今は。
 あの頃に戻れたらいいのに。あの明るかった彼のいた頃に。戻れたら。戻りたい。でも……戻れない。それが現実で、過去に戻るなんて芸当ができるのは映画やゲームの世界くらいだ。
 ただ過去を思い出すことはできる。そして今はもう戻らぬあの頃に思いを馳せることはできる。
 この使い古してボロボロになった携帯電話には、あの頃の私と彼が生きている。
 自分の送信したメールを見るのは気恥ずかしいが、それを我慢して彼のくれたメールと交互に眺めてみようと思う。そうすれば、あの頃の彼が戻ってきて私とメールしてくれているような気がするから。
『やあ、今日の洋画劇場見たかい? 僕は前からあれが見たかったんだ。そういえば君はロマンスよりもアクションが好きだったね』
『今日、雨が降ったけど濡れなかった? 万が一、濡れてしまっていたならすぐにお風呂入って暖かくして寝るんだよ』
『そういえば今日――』
 他愛もない内容のなんと多いことだろう。メールに存在する、あの頃の彼は優しく明るい彼で、私が大好きな彼――のはずだった。
 読み進めていく内に私は違和感に気付いた。昔の私は浮かれきっていて気付いていなかった、違和感を。彼は確かに優しい。昔の私の話にいちいち驚いてみせて、自分のエピソードを交えて面白おかしく語ってみせた。
 しかし……違うのだ。私には分かった。今の私だからこそ分かった。
 よそよそしいのだ。この明るさは……社交辞令のそれでしかなかった。若い、青い私は浮かれるばかりで彼の本質に気付いていなかったのだ。そして今の今まで私も気付いていなかった。
 彼の本質は、本当の彼は――口静かで大人しい、今の彼なのだ。彼はそっけないのではなくて、ただ静かなだけ。普段の彼の態度は私を心から信頼して気を許してくれた証。
 私は何故、気付けなかったのだろう。彼を愛しているのに。
 私はただ、彼のことを理解しているつもりに過ぎなかった。彼が好きなのに。
 愛は相互的なものだと私は思う。片方の気持ちだけでは成り立たない。
 そして大事なのは相手を信頼し、本当の自分を見せることだと私は思う。本当の自分を見せても、本当の相手を見ても、幻滅したり、呆れたりなんてしない。全てまとめて受け入れる。そして、受け入れてもらえる。
 私は悔悟にも似た気持ちでメールを次々と見続けた。
 やがて、一つのメールでスクロールする指が止まった。
『会ったときに言いたかったけど、言い出せなくて……メールでごめん。僕は君が好きです』
 当時は気付いていなかった。彼はなんてシャイな人なんだろうって思っていた。違ったのだ。それこそが、会ったときに告白を言い出せない臆病さが彼そのものだったのだ。
 私はこれにオーケイを返し、二人は付き合い始めた。やがて月日は流れ――私たちは結婚した。
 だんだんと彼は明るく振舞う回数が減り、口数も減って行った。やがて……今の彼に至る。
 何てことだろう。彼は私を信じ、本当の自分を見せてくれていたのに……私は今日までそれに気付くことができなかった。あまつさえ、別れようだなんて!
 ……馬鹿だ。私は大馬鹿だ。彼に気を遣わせようとしていたなんて。妻の前にまで社交辞令をさせようとしていたなんて。
 悲しかった。惨めだった。自分の思いやりの無さが。彼の優しさを求めておきながら自分は優しさを忘れていたことが。
 ただ一言、彼に謝りたい。謝って元の関係に戻りたかった。
 旧式の携帯電話を放り出し、部屋の隅に放り投げたままであった最新の携帯電話を拾いに行った。
「あ……」
 思わず声が漏れた。彼からメールが着ていたから。いかにも彼らしい――本当の彼らしい、そっけないメールが着ていたから。
『別れたくない、やり直そう』
 そう。今はつながらない旧式の携帯電話とは違って、私たちは今もつながっている。
 今手にしている、この最新の携帯電話のように、私たちはつながっている。
 たとえ壊れてもまた修復すればいいところだけ、携帯電話とは違うのだということに私はもう、気付いている。

【了】



 テーマは「メール」、だったと思う。原稿用紙十一枚、三五○○文字程度。
 相当、昔の作品だけれど、HDDを整理していたら出て来たので載せておきます。初心、忘れぬ。

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