歌詞考察『ハナミズキ』/一青窈

>A4のコピー用紙3枚くらいの詞を書いたんです。もっと挑戦的な詞でした。
>それこそ、まあテロという言葉もあったし散弾銃という言葉もあったし、いろんな自分の汚いものも出しつつ。
>最終的に辿り着いていたところが削って削って、「君と好きな人が100年続きますように」だったんですよ。

 * * * * * *

 一青 窈は、番組「僕らの音楽」で上のように語った。この曲は、2001年9月11日におきた米国同時多発テロをうけ、平和を願い歌ったものである。
 この曲は全体を通して、“女性(君)・平和”と“ハナミズキ”を対比させていると思う。また、勝手な前提として、歌の主役である男性は、テロに巻き込まれ死んでしまったとみなして解釈していきます。

>空を押し上げて
>手を伸ばす君 五月のこと

 どんよりとした曇り空を押し上げて払いのけようと、手を伸ばす君。これは実際に手を伸ばしているのではなく、生きる希望を必死に探す君の姿を表している。(君とは、友達ではなく恋人。)
 以後ずっと対比として使われているのがハナミズキ。五月というのはハナミズキの開花時期である。ハナミズキの芽が空を押し上げるように伸び、やがて花が咲く。つまり、「僕と君の人生の楽しい時期が始まった時期(=青春あるいは結婚)」を比喩している。
 
 ――人生これからという時期に、9/11の米のテロ事件に遭ってしまった僕と君。君は必死に生きようとしていたね。僕はそれをどうしても叶えてあげたかった。

>水際まで来てほしい
>つぼみをあげよう
>庭のハナミズキ

 水際というのは、花の世界で生命の源を表す言葉。「水際まで来てほしい」というのは「僕のいる天国との境目(=彼岸)まで来て欲しい」と解釈できる。
 つぼみはこれから花咲くもの。将来、希望などを意味する。そして、日米友好の花であるハナミズキは平和の象徴とも言える。

 ――僕を失って嘆いている君に伝えたいことがある。だから、僕のいる天国のちょっと近くまで来て欲しい。
 ――来てくれたなら、よく聞いて。うちの庭にあるハナミズキのつぼみをあげる。それをどうか育てて欲しい。その花が咲く頃には平和が訪れていると思うから。

>薄紅色の可愛い君のね
>果てない夢がちゃんと
>終わりますように

 ハナミズキの花は薄紅色をしている。薄紅色を見ることができる頃には、「果てない夢」も終わっていると、“僕”は考える。この場合の「果てない夢」とは、平和が来ますようにという君の夢。その他にも、国の思惑などによって起こる様々な争い事、戦争のことだとも考えられる。つまり、君も好きだったハナミズキが咲いて薄紅色の花を見せることが、平和がくるという意味であると解釈できる。
 また、前文にも述べているが、「ハナミズキ」は比喩でもあるので、文字通り、僕が好きな“君”のことでもある。「薄紅色の可愛い君」から、“君”がまだ若いことが読み取れる。“僕”はまだ若い“君”がこれからの人生を棒に振ってしまうくらい、塞ぎこんでしまっているのを気にかけているように、歌詞からは読み取れる。

 ――ハナミズキが咲いて薄紅色の花を見せる頃には争いは終り、平和もちゃんとやって来る。
 ――まだ若い君の苦しみや悲しみがちゃんと終わって、君が僕のことを忘れることができて、君に幸せもちゃんと訪れる。

>君と好きな人が
>百年続きますように

 ――君と好きな人(死んでしまった僕の代わりとなる誰か)が百年続くような、そんなささやかな幸せを過ごせるような世界になって欲しい。


 唄の二番。一番と二番の間には、少し時間が経過している。けれども、“君”はまだ“僕”を失ったことをずっと嘆いている。

>夏は暑過ぎて
>僕から気持ちは重すぎて

 夏(=9/11)の暑さ。これは辛さを比喩したもの。

 ――あのテロ事件は辛すぎた。君をさしおいて僕から助かろうってのは到底、無理な話だった。

>一緒にわたるには
>きっと船が沈んじゃう
>どうぞゆきなさい
>お先にゆきなさい

 この唄の“僕”は“君(恋人)”と、テロ事件のときに同じ場所に一緒にいたのだろう。「一緒に渡る」というフレーズは二人とも助かることを意味する。しかし、「きっと船が沈んじゃう」ということは、救助は来ないし、二人とも生き延びることはできないということ。「どうぞゆきなさい、お先にゆきなさい」とは恋人へ向けた言葉で「最初に救助されなさい、先に行けば自分も後から行くから」といった内容であるが、救助は間に合うはずもない。君を安心させるために言っただけである。

>僕の我慢がいつか実を結び
>果てない波がちゃんと
>止まりますように
>君と好きな人が
>百年続きますように

 「僕の我慢」とは、「生きることを諦める。我慢して死を受け入れる」ことを意味する。また、「果てない波」とは「果てない夢」同様、争いごと、君の辛い気持ちを表す。


 以下からは、三番。二番からさらに時間が経過し、“僕”が死んでしまった日からもうすぐ一年が経とうという頃にきている。しかし、君はやはりまだ立ち直れていないし、世界はまだ平和ではない。

>ひらり蝶々を
>追いかけて白い帆を揚げて

 蝶々はひらひら自由に舞う様から、自由もしくは平和の比喩ととれる。
 白い帆は先ほど歌の二番で、船という単語が出てきたことからのつながりで出てきた単語。二人で舟に乗ること=生き残ることなので、船は「生」の象徴となる。

 ――自由を求めて、平和を求めて、君は君の人生をしっかりと歩んで欲しい。

>母の日になれば
>ミズキの葉、贈って下さい

 母の日は五月。(※母の日はアメリカで始まり、その起源は戦争に反対するもの。)
 一番に出てくる「五月」は、僕が亡くなった時期を表している。つまり、三番に歌われる「母の日(=五月)」の時点で一年が経過する。順調に育っていれば「ハナミズキ」も苗木から成長し、大きな葉をつけている頃である。
 ここで、「花」ではなく「葉」であることに注目して欲しい。(「ハナミズキ」と歌わずに「ミズキ」と意図的に「ハナ」を抜いている様子からも意図が読み取れる。)
 ハナミズキは比較的早く咲く。一年で花が咲いていてもおかしくはないが、三年経っても何年経っても花が咲かないこともある。(※肥料不足や休眠不良など様々な要因がある。)
 この三番に歌われている状況では、“君”の育てているハナミズキは何らかの要因で開花していない。(それは、“君”がまだまだ立ち直っていない、世界がまだまだ平和に向かっていないから、という比喩。)
 ならばせめて、「葉」だけでも贈って欲しい。平和に近づいている、君が立ち直ろうとしていることの証明に、僕の墓前に「ミズキの葉」を贈って欲しいと言っている。

 ――君に託したハナミズキはまだ咲いていないけど、成長している。ハナミズキの咲く頃には平和が訪れる。だから、ハナミズキの樹が大きくなっている証拠に「ミズキの葉」を僕の墓前に贈ってください。平和が近づいてきていることを教えてください。

>待たなくてもいいよ
>知らなくてもいいよ

 ――君はもう僕を待って辛い思いしなくていいんだ。そんな苦しみなんか知らなくていいんだ。

 * * * * * *

 わかりづらくなったので、最後に通して書いてみる。

【1番】
 2001/9/11、米テロ事件に遭った僕と君。
 結婚の約束もして、愛を誓い合った僕ら。人生これからという時期に、君はとても辛い思いをしたね。
 君は必死に生きようとしていた。幸せを失いたくないと言った。だから、僕は君を助けようと思った。全てを犠牲にしてでも。
 心残りなのは、世界に争いが満ちていて平和が訪れないこと。君が僕のことを思ってばかりで、辛い思いをして塞ぎこんでいること。
 そんな様子を見ていると、僕もおちおち天国に居られやしない。君は天国に来られないから、来てはいけないから、せめて、その手前の彼岸まで来て欲しい。そこなら、「僕の家の庭のハナミズキを育てて欲しい」という願いも伝わると思うんだ。
 日米友好、平和の象徴であるハナミズキ。そのツボミを君に託そう。それが咲くまで育てて欲しい。平和の象徴のツボミが咲いて薄紅色の花を見せる頃には、かならず平和な世になっているはずだから。まだ若い君もきっと、これから幸せになれるのだから。
 君が僕のことを吹っ切れて、いつか好きな人ができて。そのときには平和な世が訪れて、君が今度こそ好きな人と百年ずっと一緒にいられる、そんなささやかな幸せを過ごせることを祈って。

【2番】
 あれからまだ一年は経っていないけど、だいぶ時間が過ぎたね。だけど、君はまだ立ち直っていない。
 確かにあのテロ事件は辛かった。でも、僕から助かろうってのは無理な話だった。僕は何を犠牲にしてでも君を守ろうと思っていたから。
 だから、君は気にしなくていいんだ。どちらにしても二人同時に助かる方法は無かった。だからあえて、「君が先に行きなさい、そうすれば僕は後から行くから」と言ったんだ。
 僕は生き残れないとわかっていた。生きることを諦めた“僕の我慢”が実を結び、君が幸せになれることを、僕はずっと祈っている。
 戦争が終り、平和な世の中になりますように。そして、君と好きな誰かが百年、一緒にいられるような平和な世になりますように。

【3番】
 あれからもうすぐ一年が経うね。君は自由を求め、平和を求めて生きていってほしい。君は君の人生をしっかりと歩んで欲しい。
 だって、ほら、君はまだ立ち直れていないじゃないか。平和もきっとまだ、この世界には訪れていない。その証拠に、ハナミズキの花はまだ咲いていない。だけどそれは、これから先もずっとその状態が続くっていうわけではない。
 なぜなら、ハナミズキのツボミはちゃんと成長して、立派な葉をつけている。でも、花が咲いていないから、花抜きの「ミズキ」かな。その「ミズキの葉」を一度、僕の墓前に贈ってもらえないか。そうしたら、僕も少し安心できる。
 だからね。君はもう僕を待って辛い思いしなくていいんだよ。君は苦しみなんか知らなくていいんだよ。ハナミズキの花を咲かせることだけ、幸せをつかむことだけを考えて生きていけばいい。
 君と好きな人が百年続くような、そんな世の中を作っていってくれたら、それだけでいい。
 君と好きな人が百年続けば、それだけで――。

 * * * * * *

 この唄は、テロの犠牲になってしまった人たちのもう聞けない心の声を歌っているように思える。
 しかし、そこには恨みなどではなく、自分の好きな君が幸せになってくれるようにという、ただそれだけの素朴な願いがある。自分のことよりも恋人のことを優先させ、恋人の幸せだけを望む、一途な想いがある。世界に平和を。自分達と同じような悲しい想いをする人が居なくなるように。ただ、それだけの望みを切に歌った唄である。
 この曲が「ハナミズキ」でなければならない理由はそこにある。他の花ではダメで、「サクラ」でもダメである。「ハナミズキ」と「サクラ」は、日本とアメリカが「不戦」の誓いをこめて日米友好の証として、お互いの国で交換した由緒正しい、平和の象徴である。この唄は、9.11テロを受けて歌われたものであるので、「サクラ」ではなく、アメリカの「ハナミズキ」が選ばれたのではないかと推測する。

 ――最後に。
 何故、“百年”なのかを考えてみる。千年でもなく、一万年でもない。理想を言えば、君と好きな人が永遠に続くことが良さそうに感じる。しかし、ここでは、あえての百年。
 永遠だとあまりに現実味が無い。千年にしても一万年にしてもそう。その歳月を生きられる人間はいない。人間が感じられる最も長い期間の限界は、せいぜいが百年。自分の子供、孫、曾孫を見るまでの期間。それを越えてしまうと、それは絵空事でしかない。ましてや、あまりに欲張りすぎである。
 ……そして、戦争の傷跡は良くも悪くも、百年、つまり一世紀も経てばそれなりに薄れる。

 たった百年。人間が一生を終えるまでの、ささやかな百年。
 その百年だけでも平和を祈らせて欲しい。ここにはささやかながら、精一杯の願いが込められている。

>君と好きな人が
>百年続きますように――

*この文章には、WEB上の解釈文から引用している箇所があります。
*また、映画『ハナミズキ』は歌詞から派生したものであり、映画イコール歌詞となるわけではないと思っています。

←back  next→
inserted by FC2 system