第4話

「……んでさぁ、なんであんたはあんなクソザルが好きな訳よ?」
 さくらはホットココアから口をはなすと、目の前でコーヒーにどんどん砂糖を投げ込んでいる男に声をかけた。
 部屋にはパソコンのファンがフル稼働する音と、エアコンが風を流し込む音だけがそこには立ちこめていた。
「彼の魅力がわからないとは……」
 彼は五つ目の角砂糖をコーヒーに落しながらそう返すと、さくらに意味深な微笑みを向けた。
「……あぁ、貴女は受け――いや、愛される側なのですね」
 さくらはわけがわからない、といった風に首を傾げた。
 秀吉が逃げた後、愁治はさくらを地下室の一番奥の部屋へつれていった。
 その時までは確かに、愁治はさくらを秀吉にも使った例の椅子に座らせておくつもりだった。
 さくらもさくらで、愁治が何らかの措置をとることは予想してそれなりの覚悟はしていた。
 しかし、たまたまその椅子を置いてある部屋まで向かう途中にあったテレビに映画が映っていたのだ。さくらたちが訪れる前に愁治が見ていたらしく、電源を切り忘れていたとのことだった。
 実はさくらも愁治も生粋の映画ファンであり、二人ともこの映画を観た事があったため話が弾み、いつのまにかさくらは愁治の個室で彼からお茶を出されている。
 光信や秀吉がこの光景を見たらどんな反応を見せるのだろうか、と秀吉の魅力について語り続ける愁治を観ながら想像して小さく笑った。
 放っておけば一晩中語りそうな勢いの愁治の『秀吉について』を半ば上の空で聞いていたさくらだったが、愁治の突然の問いに飲んでいたココアを半分ほどこぼすことになる。
「……ですがさくらさん、あなたは誰かに恋心を抱くなんてことはないのですか?」
 愁治の声が耳に入った途端、さくらの手はカップを離さないまま、まるでパンクした自転車で舗装されていない山道を登ってるかのように上下している。
「バ、バカね。わ、私がそんな感情持つわけないわようかん!」
 焦りからか口調も変わっている。
 しかしさくらはそれに気づかずに、ココアを火山ばりに盛大にこぼしつつ、決して愁治とは目を合わせようとしないで、蟻の足音のような声で言った。
「そんなもの私には必要ないのよーぐると、バカっ」
 小さな顔をこれでもかと赤く染め、思わず唯の口調でしゃべるさくらを見て、今度は愁治が小さく笑った。
「乙女……ですね」

 *

「乙女か、お前は!」
 怒声と共に、しなる鞭の音が室内に響き渡る。光信の去った室内は今、拷問部屋と化していた。
「ちょ……、いくら何でも痛い、痛いですぅ!」
 乙女ちっくな悲鳴をあげているのは無論、乙女ではない。秀吉だ。
 鞭をふるうは、Sの代名詞こと村上玲。
「本当は嬉しいのは分かってるわよ!」
「いや、マジでやめて。いや、やめてくださいぃひぃい!!」
 苦痛に悶える秀吉であったが、なぜか時折見せる恍惚とした表情がなまめかしい。
「おらおら!」
 玲がなおも鞭を振るおうとしたその時――秀吉の制服のポケットから一枚の封筒が零れ落ちた。
 さくらから回収し、大事にまたポケットに戻していた例の封筒である。
「ん?」
 慌てて拾おうとした秀吉をはねのけ、玲は怪訝そうな顔でそれを拾い上げる。封筒を開いた玲は成る程、といった様子で自分のポケットにそれを放り込む。
 秀吉は返して欲しそうな表情を見せたが……やめた。玲には何を言っても無駄だと悟ったからだろう。

 そんなときだった。ドアの隙間から中をおそるおそる伺おうと、扉に近づいてきた蛍。しかし、中の光景を想像すると怖くて目も開けられない。結果的に蛍は封筒の存在にこのときには気づけないのであった――。
 そしてようやく、何とか中を覗き込む蛍。二人のやり取りを見てはいるが、見ているだけである。玲が怖くて室内に入れないのだった。蛍は延々と秀吉のなぶられる様を園目に焼き付けることとなる。
 どれほど、その隙間を見続けただろう。隙間から中を見つめるその姿はドラマ『家政婦は見た』さながらであった。
 でもいつまでも覗いているわけには行かない。玲様は怖いけど……、このままだと秀吉様がどうなってしまわれるかわからない。蛍はスカートをぎゅっと握りしめた。
 確かに秀吉の腕は赤い鞭の跡が幾つも付き、目には涙がたまっていた。
 だがたとえこのような形であっても大人の女性に相手をしてもらうという事実は、秀吉にとって幸福以外の何物でもなく、蛍に助けて欲しいかともし問われたとしても、首を縦に振ることは決してなかっただろう。
 と、そんな感じにそれぞれの思惑がある中、この風景画の中心と言うべき場所に君臨する村上玲はこの状況を楽しみつつも全く別の事項について考えを張り巡らせていた。しかし、彼女が何を考えているかなど誰にも想像できる余地はなかった。
「あ、あのぉぉぉ……玲様? よろしいでしょうか」
 出た。
 出てしまった。
 蛍がドアを開けてそろりそろりと玲と秀吉へと近づく。顔は引きつり足はガクブルなのは言うまでもない。
「ん? 何よ蛍。私の享楽を邪魔する気?」
「ひぇぇぇ違います違いますっ! 秀吉様にお渡しするお水を持ってきたのですが……」
「ああ、そんなのそこら辺においときなさい。どうせ飲めない体になるのだから私が飲んでおいてあげるわ」
 それを聞いて蛍はテーブルにコップを置くと、腰を引かして逃げるように言った。
「で、では私は失礼――」
「あ、ちょっと待った」
 されど玲は逃がしてはくれなかった。刹那の思案顔を覗かせた玲は一つの結論に至ったらしく、蛍に言った。
「あのね、蛍……どんな理由があったとしても、私の享楽に水を差した罪は消えないわよ?」
 ――蛍も、分かってはいた。分かってはいたが秀吉を見捨てきれなかったのだ。しかしやはり自分には不可能だった。
 危機感が蛍の全身に走る。日頃から接しているからこそ、こういう娯楽の際の彼女が徹底しているのだということを理解していたのだ――その身をもって。
「分かってるでしょ? 今まで、私がそういうのを許してきたこと、あった?」
「あぅあぅ……」
 蛍の顔が瞬時に蒼に染まる。玲という人間が、どれほどに強固なサディスト的側面を持っているのか分かっていたから。
 これからの自分の運命を予感し、その身が震えていた。逃げ出したい、しかし主人の命令は絶対であり逃げ出せない――この歯がゆさの奥では、一種変わった感情が犇いていた。
 玲は秀吉から離れ、蛍の元へとゆっくりと歩み寄る。その顔は恍惚としていた。
「一緒に、可愛がってあげるから――」
 寸尺が殆どないくらいの位置に玲の顔がある。笑みから漂う妖しさに、蛍は慄く。
 少しはМっ気があると言えども、秀吉と同じでまだ心の奥底から喜ぶまではいかないようだ。
「――ね、蛍?」
 玲が言うと同時に、蛍は鼻の頭を軽く突かれた。
 諦念だけがそこにある。逃れようと思っても逃れられないので……蛍は、考えるのをやめた。
「……はい」
 蛍の小さい返答が玲の耳に届いたであろうその時――
「ま、待って」
 ――秀吉が、放ってはならない一言で、場を静止させた。
 そこにあったのは、憐憫だとか、同情だとか、そんなチャチなもんじゃ断じてなかった……どうしても譲れない、私欲である。
「何よ?」
 玲は不機嫌な顔で聞いた。
「蛍さんは悪くない! 俺が水をもってきてくれって頼んだから持ってきてくれただけだ!」
 秀吉は光信というサディストと長い間一緒にいたにもかかわらず、Sの人間の性格を忘れていた。
「そうねえ、確かに彼女は悪くないかもね」
 玲は顎に人差し指を当てながら秀吉に近づいていく。
 そして蛍が助かったと思い込んでニヤニヤしている秀吉の前で鞭を鳴らし、
「でもね、そんなこと関係ないの。私の邪魔をするのは、つまり悪なのよ」
 そう言い放った。
 秀吉は思い出した。彼らSはやめろと言われるとますますエスカレートする人種であることを。
 完全なМに徹しきれない秀吉は、こんなことなら水を頼むんじゃなかったと後悔し、さくらや光信がなるべく遅く帰ってくることを願った。
「ほ、蛍さんは悪くないけど……お、俺も悪くないんじゃないかな? かな?」
「おだまり!」
 慌ててフォローしようと蚊の鳴くような声を出す秀吉を玲は鋭い声で遮った。そして、ゆっくりと、艶やかな手つきで鞭を撫であげる。
 ――打たれる。秀吉はその瞬間を予期した。
「や、やめて……」
 ぴしゃりと床を打ちつける鞭の音が、秀吉の懇願の声を掻き消す。やめないという意志表示だ。
「やめてください!」
 なおも秀吉は懇願したが、もちろん、そんな淡い希望が叶うはずもなかった。
「やめてやめても好きのうち、だったかしら? 先人もよく言ったものね……あなた」
 それちょっと違う、と突っ込もうとした秀吉だが次の言葉で口をつぐんだ。
「本当は嬉しいでしょ?」
 嬉しいか嬉しくないか。やめてもらわないかやめてもらうか。肯定か否定か。
 二択で問われれば、全ての答えは前者である。
 サッカー一筋で女っ気の無かった秀吉は何だかんだ言っても大人のお姉さんに相手してもらうことを本望だと感じていた。
「だけど痛いのはよしてぇぇえぇぇえ!」
 秀吉の絶叫は屋敷中に木霊し、その声は地下へと向かう光信にも聞こえるほどであったかもしれない。

 *

 一方、光信は蛍に教えてもらった道を的確に進み、地下へと到達していた。
 その耳に秀吉の声が聞こえたような気がしたが、今はそれどころではなかった。肝心のさくらが見当たらないのだ。
「さくら、さくら! どこにいる!?」
 光信の声は虚しく地下を延々と続く廊下に響き渡った。
「いないのか……」
 一人ごちる光信の視界に白いものが映った。
 床に落ちた、レースのあしらわれたハンカチ。一目見て女性のものだと判った。
 光信はそれを手に取るとそっと鼻に当てた。
「間違いない。さくらの匂いだ」
 恐るべし、江口光信。
 そして光信はその臭いを頼りに走り出した。何故? 無論、さくらの身を守るためである。
 ……というよりも、彼は“さくらを助けたその後”が楽しみで仕方ない。何をどうするかは想像に任せるが、少なくとも光信にとっては最高の展開になることを前提に爆走中であろう。
 しかし当のさくらは今現在、愁治の部屋で口調唯化現象(唯の口調になっちゃう状態)を体験中であり、光信のことなどミジンコほどにも考えていない。むしろそこに光信が入ることでただでさえ減りつつあるココアを驚いて全部こぼしてしまう可能性すらある。
 そんなことはつゆ知らず、光信はさくらを探し続けている。どんな小さな手がかりも逃すまいと走りながら首を振り、さらには耳も鼻もフル稼働させている。
 その実りあってか、光信は少し先にドアのようなものがあるのを確認できた。少しずつスピードを下げ、ドアの前で完全に停止した。そしてドアノブに手をかけ、ゆっくりと開いた。
 ――しかし、開いた先にさくらはおろか愁治の姿もなかった。
「そりゃこれだけ広大な敷地の地下だもんな……、部屋も多いに違いねえな」
 光信は一人ごちながら室内を見渡す。室内は印刷室らしく、大量のコピー機が並んでいる。
 コピー機の脇には大量の用紙が積み上げられていた。どうやら印刷済みのものであるらしいが、そこには埃がたまっている。
 光信はその中の一枚をつまみ上げ、表面に付着した埃を振り払った。
 そこには――
「さ、さくら!?」
 ――と言っても、光信の想い人の桜崎さくらではなく、某有名漫画ヒロインであるロリ系美少女さくらである。そのさくらの一糸まとわぬあられもない姿が写されていたのだ。無論、三次元ではなく二次元、いわゆる漫画であるが。
「なんだこれ、成人向け同人誌か……なんでこんなとこで刷ってんだよ」
 光信は興味なさげにそれを元の位置に戻した。そう、今現在、光信の最大の関心は想い人さくらの行方である。
 この部屋にはさくらはいない。すなわち、この部屋には用はない。光信は視線を部屋のドアへと向けた。
 そこには一枚の紙が貼られている。もしかしたら何か手がかりになるかもしれない。
『二次創作物の販売の停止と、オリジナル作品の推進』――何だかよくわからないことがそこには書かれており光信は落胆しかけたが、その更に下を見て思いとどまった。
 そこにあったのは屋敷地下の見取り図。そう、地図である。
 相当な数の部屋が書かれているが、大まかに区分けすると地下の部屋は使用人の私室と印刷室などの雑務部屋の二種類が存在しているようだ。そもそも、その雑務部屋が何をするための部屋か光信にはさっぱりわからない。
 印刷室にいたっては同人誌だらけであるし、とても議員の屋敷とは思えない。まあこれはきっと唯や玲あたりの暇つぶしか何かなのだろうが、それでも光信にはよく理解できない。
 だが、光信には理解できることが一つあった。使用人の私室。これが何のための部屋かわからないはずがない。
 光信は現在地である印刷室、そしてさくらのハンカチを拾った地点を地図から探し出し、周囲の部屋名をくまなく調べる。
 ――それは印刷室より少し離れた場所にあった。距離的に考えても間違いない。印刷室が通り道であったなら、さくらの匂いがここまで続いていたのも頷ける。
「謎は全て解けた!」
 光信は高らかに叫ぶと、印刷室を飛び出した。
 目指すはただ一つ。執事、浮田愁治の私室である。
 右に曲がって二つめの角を左に、光信は手元の地図に記載された道を正確に進んでいく。ライトが所々にしかないため、その電灯ごとに立ち止まって確認しなおす。
 薄暗い道は入り組んでいてまるで迷路のようだ。そう、これもすべて修治が計算しつくした結果生まれた産物なのである。
 ――おかしい。光信は思った。さっきから同じところを走っているような気がしてならないのだ。何度も地図を確認したからこの道で合っているはずなのだが、景色が全くと言っていいほど変わらないので、そういった不安に駆られるのも仕方ないだろう。しかし、光信は事実同じところを走り続けている。
 そう。光信が握りしめている地図は、実は二年も前のものだった。その間にこの地下迷宮は幾度となく改装が行われ、地図に載っているような道はないのだ。
 光信はなぜ道が違うことに気がつかないのだろうか? きっと、別のことで頭がいっぱいだからだ。
 息を切らして走り続け、ループもそろそろ二十周にさしかかるあたり、角を曲がった先に光信が見つけたものは、人影だった。
「新手の召使いか……」
 ひとり呟いたつもりだったが、疲れているせいか口から漏れたのはぜーぜーという音だけであった。
 ――しかし、現実は違っていた。予想を遥かに凌駕する。
「ひ、秀吉……」
 そう。新手の召し使いに見えたのは、メイドのコスプレをさせられ、天井から繋がる鎖によって両手を硬く縛られた徳川秀吉その人であった。
 秀吉は力なく項垂れながらも、相棒(光信)の顔を見つめた。
「どうしたんだ我が友よ、一体この有り様は――」
「――やられちまった。あの日交わした例の約束、守れないけど、お前が来てくれて嬉しいよ、ディアミーゴ」
「やかましい」
 どこかで聞いたような詞を口ずさむ秀吉の全身は、鞭で打たれたような痕でいっぱいで満身創痍な有り様だったが、その表情には恍惚とした笑みが浮かんでいた。
 どうやら、何かに目覚めてしまったらしい。しかし、今はそんなことはどうでも良かった。
 秀吉がここにいる。その事実が重要だった。
「もしかして……この地図が間違ってるのか?」
「あ、こーしんっ。それはお前、機密事項の用紙だろ! 持ち出したら、唯が怒るぞっ」
「機密事項?」
「同人なんたらの移転先って書いてあんじゃん。村上邸で同人やってるの内緒なんだぜ――あ」
 秀吉は慌てたような表情を見せる。
「同人? 内緒?」
「あっちゃー……唯に口止めされたのに言っちゃった」
 しかし、口にしてしまったものは仕方がない。秀吉は村上邸の裏の事情を説明してくれた。
「以前、唯の家……っつってもここなんだがよ。遊びに来たんだよ。そしたら何かこの通路に落ちちゃってさ」
 その先には二次創作同人誌、しかも成人向けのものが所狭しと置かれていたそうだ。
 しかし、秀吉は唯に見つかり、この場所の口止めをされた。報酬は好物のアンパン一年分だった。
「エロ同人……」
「ああ。それでな、そのあとから、二次創作は禁止になって、成人向けゲームを作る会社に移転したそうな。これがすげーんだよ、あの超有名会社ライズなんだぜ?」
 秀吉の台詞を聞いて、光信の頭の中でパズルのピースが合わさっていく。
 秀吉が着ているメイド服。これがここにある意味。おそらく、玲も唯も腐女子というやつなのだ。
 国家議員がエロゲーを作っている理由。超大手会社であるというおまけつきだ。そりゃあ隠したくもなるだろう。
 地図と違う、この地下通路。会社設立当時に、より複雑に見つかりにくいように改築したのだろう。
「謎はすべて解けた」
 光信は白い歯をキラリと見せて、朗々と宣言した。

「謎は全て解けた、というわけね」
 そのねっとりとした声で、背筋がつららで撫でられたようにゾクリとした。
 本当のところ言えば、振り向きたくない。寧ろそのまま逃げ出してやろうかとすら思った。
 しかし、さくらの事がある。彼女は今一体何処で何をされているのか全く予想がつかない。
 もし逃げ出したとしても、きっとすぐに追っては来るだろう。ならば。
「玲さん、いつからそこにいたんだ? 盗み聞きとは悪趣味じゃあないですか。今に始まった事じゃあないですがね」
 彼女は口元を少し歪め、クスリと笑った。
「こうしん君、だったかしら? さっきは逃げたのに、威勢が良いこと。そんなにお姉さんにお相手して欲しいの?」
「相手、ね……」
 光信は思案した。
 目の前に立ちはだかる玲はいわば捕えた相手を鞭打ちという毒をもって、新世界へ体と心を吹き飛ばすメスサソリだ。
 一撃でも彼女の手に握られたまがまがしい鞭をその身に受けようがものなら、則ちバッドエンド。
 まさに彼女の存在そのものが“必殺”と言っても過言ではない。ならばここは頭をもって対抗するしか道はない。もしも負ければ今だ吊されているメイドスタイルに魔改造された憐れな親友の後追いだ。
 名案は浮かばない。時間が必要だった。
「さっきの秀吉の言葉によれば、玲さん。貴方もここでエロゲーの制作に携わっている……そうですね」
「あら、興味でもあるのかしら? だけど残念。お姉さんたちは貴方たちの好みそうな青臭いものじゃなく、もっとディープな、大人のゲームを作っているの。貴方にはまだまだ早いわ」
 もちろん、法律的な意味で。
「いいや、あんたのような生粋のサディストが関わっているということは、そのゲームはきっとサディスト見習いの俺には参考になると思ってな」
 にやりと笑いながら話を繋げる光信。それに対し、やはりにやりと笑みを見せる玲。
 にやりにやりにやり。対面するサディスト&サディスト。S趣味という共通点。
 ……現時点で光信の優先度一位のミッション、さくら奪回。その為には、少なくとも愁治に匹敵する仲間の存在は必須。
 光信のサディスト魂が心内に吠える。必殺のメスサソリ。この手で乗りこなしてみせようではないか。

 *

 光信が玲とサディスト同盟を組みつつあった、そんな最中――。
「やっぱり、ほっしゃんはボーイッシュなのも似合うと思ってたんダンシンッ♪」
 蛍を“ほっしゃん”という愛称で呼ぶ人物、語尾に妙な単語をつけるようなイタイ人間は、この館では今のところ一人しかいない。もとい、世界中でもなかなか見当たらないカテゴリー分類である。
「ふぁ……好きでこんな格好してるんじゃないのです。本当はイヤなのに玲様が……」
 蛍が着ている服は、秀吉のものだった。そして、秀吉の着ているメイド服は蛍のものである。
「まあまあ、イヤよイヤよも好きのうちだヨウカン☆」
 姉と似たように強引に決めつけて、唯は暗い地下通路を先行した。
 変なところで似ている姉妹だと蛍は思う。だが姉妹二人の好みは違うということを蛍は知っている。
 唯は実はBL大好きであるがソフトプレイ派、玲はSM大好きだが同性はNGである。決定的な部分で姉妹は違っていた。
「さて、姉さんがいない間に……着いたにょん★ いよいよ、最後のときは近いにょん☆」
 唯が蛍を案内した先は、地下の最奥の個室――浮田愁治の部屋だった。
 ノックもせずに部屋を開けた唯は、開口一番に言った。
「例のブツが手に入ったってホントぞなもし?」
 馴染み深い友の声に驚きの声をあげたのは、さくらだった。
「唯……! あのね――」
 唯はそんなさくらに笑顔を見せると、ちょっと待ってね、というように制止した。
「ええ、唯さま。封筒こそ奪われましたが、さくらさんは一度、封筒を手にしていたそうです」
「う、うん。徳川君がね、茶封筒を持ってたの。その中に手紙とCDが入ってて……」
 さくらは語り始めた。これがアニメなどの映像媒体なら回想シーンが入るところであるが、面倒なので割愛する。
 要するに、さくらが愁治に捕まった際に秀吉はさくらを囮にして逃げたわけだが、そのときに封筒を一度さくらに手渡している。そして、秀吉はちゃっかりその封筒を回収するのだが、逃亡する瞬間にさくらの手元にCDが転がり落ちたというわけだ。
 とりあえず、さくらはそれを隠していたが、愁治と話しているうちにこれが浮気の証拠ではないということに気づいた。そして現在に至る。
「さくらん、ありがとう☆ これで、濃ゆいヤオイが作れるヨウカン♪」
「ヤオイヨウカン?」
 さくらは何か勘違いしたようだが、唯は拳を握り締めて燃えていた。

 そう――。唯と愁治が二人で構想していた同人BLゲーム『鬼丸グラサン』。
 教師である主人公、鬼丸がふとしたことから購入したグラサン。
 そのグラサンにより見た目が厳つくなるかわりに性格が温厚化し、それと同時に鬼丸は男性に対して性的興味を抱く。少しずつおかしくなる鬼丸が、優しく周りの男たちとセクシャルを交わすハートフル・ラブストーリーだ。 その完成がもうすぐ目の前に見えてきた。
 唯と愁治の二人の目的。それは唯の父・村上完治と、姉・村上玲、そして担任・吉永義恵の三人が中心になって製作するアダルトゲーム会社ライズの新作『性調流淫オタクルゥム』のマスターディスクを書き換えて、内容を『鬼丸グラサン』にしてしまおうというもの。
 そのマスターディスクは手に入った。あとやることはただ一つ。
「愁治しゃん! 今からこのディスク内のテキストと画像のデータを総入れ替えするりん♪」
「わかりました」
 と愁治は短く返事し、別室へ続くドアノブに手をかけたところで、突然静止した。
「愁治さん……?」
 異変に気づいた蛍が声をかける。
「ディスクはある……しかし、肝心の手紙の方を改竄しておかないと、発売にこぎつけられない……」
 誰に問うわけでもなく言う。
「封筒のなかにある手紙が絶対に必要です。封筒を探さないと……」
 愁治はゆっくりと振り返った。いつもの俊敏な動きを忘れたかのように。
 笑っていた唯の顔が固まった。“秀吉が持っている?”
「あのバカ猿が持ってるはず」
 さくらが呟く。しかし、部屋の中でただ一人――蛍だけは微笑んでいた。
「あの秀吉さんの服を着ている私が持ってるはずです」
 唯に笑顔が戻った。
「さすがほっしゃん!」
 蛍はすぐにズボンのポケットを確認する。ない。パーカーのポケットも確認したが、ない。蛍が青ざめた。その封筒は玲が持っていることを、四人はまだ知る由もない。
「浮田さんのおっしゃるように、あの封筒が絶対無いと駄目なんでしょうか?」
 おずおずと問う蛍だが、愁治は歯噛みするばかりだ。普段の冷静、温厚な一面はそこにはなく、焦りだけが彼を支配していた。
 説明してくれない愁治を見てどうしようかとおろおろしていた蛍に助け舟を出したのは、やおい推奨派の唯だった。
「駄目なのヨウカン。CDを無事にすり変えても、義恵先生の書いた手紙が無いと、パパはたぶん不審がって義恵先生に確認しに行くノンノン。そうしたら、すべてがばれてチャウチャウ!」
「はぁ、そういうことなのですね」
 蛍は二人のたくらみの全貌を把握した。
 結局のところ、決定権は唯の父である村上寛治が所持している。その上、彼には愁治のような性癖はなく、どちらかというと玲に近い性癖であることを蛍は知っている。つまり、寛治がこの計画を知れば作戦は失敗するに決まっていた。
「く、くそ……こういう忌々しいことをなさるのは玲お嬢様と相場が決まっています……許さん、許さんぞぉおお!」
「ひでよしがとりあえず絡んでるにゃら、とりあえず、ひでよしのいるところに行ってみるにゃりん☆ そこに玲お姉様がいるなら、犯人はひとりしかいないないナイ☆」
 二人は異常にエキサイトしていた。それを呆然と見つめる、蛍とさくら。
 蛍は別に唯と愁治の趣味に関してとやかく言うつもりはないが、玲を怒らせた後のお仕置きを考えると、この作戦には参加したくないなあ、と本心では思ったが、愁治の周りに静かに漂う怒気のせいで言い出せない。
 一方、さくらもどうでもよかったが、親友の唯が一生懸命やっているので、とりあえず応援したい気持ちがあった。
 こうして、この場で反対するものは誰もおらず、敵はただひとりとなった。しかし、敵が一人だけではなかったことを一同は後に知ることになる。
 そう、愁治たちは忘れていた。ドがつくほどのSである光信の存在と、大人のお姉さん大好きな秀吉の存在を。村上邸は今、嵐の前の静けさに包まれていた――。

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