第3話

 唯の家が建っている場所はは昔、有名な武人のお城だったらしい。それで、お城があった頃の抜け道が地下に残っているそうなのだ。それの存在に気がついた唯の祖父が面白がり、家とその地下を繋ぐカラクリを作ったという訳だ。
 その他にもついでに作られた別のカラクリも幾つもあるらしいが、その中でも特に唯が力説していた仕掛け――半円形のステージから繋がる地下へと人を運ぶ筒状のポールの中を秀吉は滑り落ちて行く。愁治から逃れられた喜びを感じる暇なく、グネグネとうねったポールに秀吉は気分を悪くしていた。
 グロッキーが最高潮に届きそうになったところで、やっとそれから開放された。まるで、滑り台から滑り降りたようなポーズで秀吉は地下へと着いた。やっと地面に足が着き、秀吉はホッとする。
「……うぇ。気持ちワリィ」
 酔ったせいか……はたまた、先ほど愁治にされた愛撫を思い出したのか……、額に手を当ててがっくりとうなだれる秀吉。
 しばらくそうしていると、ふとおかしな声を聞いた気がした。発情期の猫が鳴いているような声。しかも、それは段々と近付いて来ているように思える。
「……なんの声――」
「あああぁぁぁ〜〜!!」
 呟きとほぼ同時だった。まるで、車に轢かれたような衝撃を背中に受け、秀吉は吹っ飛んだ。
 顔から地面に落ち、秀吉は叫びを上げる間もなく気を失った。その衝撃の犯人は……
「イッタ〜イ!!」
 身長百四十センチの小柄な体型。可愛らしい声を上げたのはさくら。勢いで前のめりになり膝を少し擦りむいたらしい。しばらく痛がっていたが、間もなく目をパチクリと開け、辺りを見渡す。
 一応明かりは点いているものの、なんとなくほの暗く、さくらはやっと眼前に転がる男に気がついた。
「……徳川君?」
 さくらは四つん這いで秀吉に近付くと、その頭を突つく。しかし、反応はない。ただの屍のようだ。
「よくこんな怪しいところで眠れるわね。さすがバカザル」
 呆れていたのも束の間。その自分の声が通路に意外に響き、さくらはすぐに軽い恐怖感に駆られ不安そうに眉を顰めた。
「……ここどこだろ? ……も、もう! なんで寝てるのよ。アンタが私を助けなさいよ! 男なのに役に立たないわね」
 そう言ってさくらは秀吉の腹を軽く蹴り、再び辺りを見回した。すると、秀吉から数十センチ離れた場所に茶封筒を発見する。さくらはそれを拾い上げると、訝しげに眺めた。
「あ、義恵先生に頼まれた封筒か……徳川君が持ってたんだっけ」
 さくらはしばらく眺めていたが、ふと何かを思い付き、しゃがみ込んだ。
 好奇心というのは人間誰しも持ち合わせているもの。さくらも例外ではない。その封筒の中身が気になり始めたのだ。幸い、封は閉じられていない。
「不倫なんだよね……?」
 そう呟きごくりと喉を鳴らすと、茶封筒の封を解いた。
 さくらは一度封筒から視線を逸らし、深呼吸した。そして、ゆっくりと中身を覗いた。
 そこに見えたのは――
「……何これ」
 入っていたのは一枚のCDディスクと一枚の手紙。さくらは少しの間沈黙したが、秀吉が起きるのも時間の問題、この地下室で事実上一人で居られるのもあと少しと考えた。
 しかも、義恵先生を神のごとく崇拝している秀吉が目を覚まし、義恵先生との約束の封筒をさくらが開けたと気付いたらやっかいなことになりかねないので、やるべきことは早めに終わらせなければならない。
 さくらは慎重かつ素早く手紙を取り出し、その勢いで手紙を開いた。
『愛するアナタへ』
 さくらの目に飛び込んできた手紙の文は、一行目から不倫説を強める内容だった。
「――とても官能的でいて、情熱的。でもキスはもっと――」
 思わず声に出して読んでしまったさくら。その声に自身でも驚く。
「嘘でしょ……疑ってはいたけど、まさか本当に……」
 それ以上手紙を読む気にはならず、折りたたんで封筒に戻した。そしてそっと秀吉の学ランのポケットに戻そうとしたその時――
「う……うぅ」
 秀吉が目を覚まし、目を擦りながら体を起こした。
「ひゃう!」
 さくらは驚き、声が裏返り、慌てて封筒を秀吉のポケットに突っ込む。
 しかし、秀吉はそれに気付かない様子で、さくらを見るなりこう言った。
「桜崎さくら、だよな。なんでこんなとこに居るんだ?」
 言われて気付いた。思い返してみれば、なぜ今自分と秀吉がここにいるかが最初に疑問に思わなかったことにさくらは恥ずかしく思った。
「それはこっちが聞きたいわよ。しかもあんたよくこんなとこで熟睡出来るわね」
 さくらは無愛想に言った。
「な、寝てなんかない! 誰かに気絶させられ……なるほど、お前が俺の上に落ちてきたのか!」
 秀吉は名探偵のようにさくらを指差した。

 *

 秀吉の姿が消えて驚いた愁治だったが、呆気にとられたのは一瞬のことだった。
 そもそもここにカラクリを設置するように現村上邸の主、村上完治(むらかみかんじ)に頼まれたのは誰であったか。そう……愁治だ。
 この家の配置、仕組みは全て熟知している。愁治はにやりと笑うと、閉じようとする穴を横目に壁へと向かった。そしてなにやら壁の出っ張りを押す――眼前に現れたのは地下へと続く階段であった。



 そもそも、秀吉が唯の家にカラクリがあることを知っていたと言うのは正しくない。正しく言うとすれば、自宅がカラクリ屋敷だと唯が得意気に自慢していたことを覚えていただけだ。
 そのあたりのことも全て、秀吉はさくらに説明していた。
「……ったく、なんでいちいち説明しなきゃなんねぇんだよ……」
「うるさいわね、あんたには関係ないのよ!」
 さくらにはさくらの思惑があった。
 先ほど、秀吉の学生服のポケットについ返してしまった封筒。不倫の証拠。例えばこの場で破り捨てたとしても、義恵先生は連絡がつかなかったことに気付き、またコンタクトを取ろうとするだろう。
 今の時点ではどうすればいいのか、さくらにはわからない。だからこそ、どんなわずかな情報でもいい。一つでも多くの情報が欲しいのだ。
「そう言えばバカザル……」
「なんだよ、サル言うな」
「何で唯があんたを助けたのよ?」
 愁治に異常な性癖のあることを唯は知っていた。途中までは知っていてケラケラ笑っていたはずなのだ。
「特に理由なんてねぇよ……俺はあいつの家の秘密を知って――」
 その瞬間だった。凄まじい声が聞こえてきたのは。叫び声? いや違う。あれは人の声なんかじゃない。そう、獣の声。獲物を求める――愁治の声。
「ひぃでよぉぉぉおすぃぃぃィィイイさまぁぁぁああ!!」
 高らかな雄叫びと共に、通路の奥――暗がりになっていて良くは見えない――から愁治が現れる。言葉通り、“現れる”。そう。愁治は秀吉の視界に突如、“出現”したのだ。
 その理由は他でもない。愁治が獣のごとく疾走しているからだ。その着衣は何故か乱れている。その身体からは熱を帯びているのか、うっすらと湯気が立ち上っていた。
 愁治の血走った目、湯気を立てる巨躯。さくらはこれに近い光景をどこかで見た記憶があった。混乱の中で必死に答えを探すさくら。えっと、どこだっけ、そうだ、あれだ。プレイステーション用ホラーゲーム、バイオハザード3。あれに出て来た怪物がこんなんだった気がする。逃げても逃げても追いかけて来る怪物。名前は確か……追跡者。
「逃げるぞ、さくらッ!」
 パニック状態のさくらの手を秀吉はつかむと、駆け出した。
「ちょ……バカザル走るのはやいって!」
 顔を真っ赤にさせながらさくらが言った。
 顔が真っ赤な原因は二つ。
 一つは息が上がっているからで、もちろんもう一つは秀吉に掴まれた手首が熱いから。
 だけど秀吉としてはそんなことよりも愁治に捕まることが何よりも怖く、勢い余って手を繋いだことを恥ずかしがる余裕もなかった。
 ……捕まってしまえばさくらもどうなるかわからないし、それ以上に自分がどう料理されるかもわからない。その現実だけで十分、ホラーゲームなどなくても秀吉の背筋は凍りそうになるのだ。
 獲物とは、常に捕えられる運命にある。運命――それは一部の人間からは“デスティニー”と呼ばれ、更にもう少し濃ゆい者達からは“フェイト”と呼ばれ讚えられる詞(ことば)。
 ……そんな無駄知識がどーたら言い続ける気は皆無だが、ただ、これだけは宣言できる。
 このままでは、秀吉(の後ろ)と、さくらは愁治に捕われる、と。
「うっ……はぁ……つぅっ!」
 さくらは先ほど受けた膝の傷が痛むのだろう。何とか、手を引く秀吉の足を引っ張らぬよう、歯をくいしばりながら、賢明に薄暗い地下道を走る。
 その様子に気付かず、サッカー部で鍛えたダチョウの如くしなやかに走る(無論褒めてない)秀吉の顔はもう動きはない。
 現状、地下からの脱出方法を思案する暇もないのだ。なんとかして愁治の追随を逃れなければ。
「……ん? 愁治の……」
 秀吉は何か気付いたみたいだ。
 ……そう、確かに愁治はここまで“追って来た”。
 秀吉やさくらが落ちてきた通路から現れることなく“追って来た”のだ。
 ということは――
「さくら! こっちだ!」
 ――愁治が現れた方角に、何かヒントがあるはず……! そう信じて、秀吉は走路を定めた。
「え? ちょ、ちょっとバカザル!」
 秀吉の唐突な方向転換に身体を揺さぶられたさくらは小さな痛みを覚える。
「ど、どこに行く気なのよ! そっち行ったらあの人とばったり会――」
「今は何も聞くんじゃないんだぜ? とにかくまぁ全部この俺様に任せとけばいいんだぜ?」
 あえて危険な道を突き進もうとする秀吉。その意図を教えてくれないことに、先刻の口調の妙なキザったらしさ――これは愁治に対する恐怖と焦燥とが一時的に生み出したものなのだが――が拍車を掛け、さくらの内で怒りともどかしさが込み上げて来る。
 どう考えても、このままでは愁治の餌食になるだろう。しかし、無力な自分に出来ることはない。
 秀吉にすべてを委ねる他、生還の道はないのだ。結局のところ、孤立無縁に限り無く近い今、頼りになるのは秀吉以外に誰もいないのだから。
「も、もぉッ、どうなっても知らないんだからね!」
「おぅ、任せろ」
 秀吉の口調は元に戻ったが、表情は依然として堅い。さくらの不安は全く拭いきれなかった。
「……あのさ」
「どうしたの?」
 走る走る。そんな緊迫状態の中、必死かと思えば落ち着いた口調で語りかけてくる秀吉。さくらは怪訝そうな面持ちで訊ねた。
 すると秀吉はこちらを一瞥し、再度目的の方角を向く。
「――俺、ここから出たら、先生に告白するんだ」
「ひぃでよぉぉぉおすぃぃぃィィイイさまぁぁぁああ!! あぁぁなぁたぁのかぁぁあらぁぁあだはぁぁあどぉぉぉおこぉぉぉおにぃぃぃいいッ!!」
 ――キザな秀吉の台詞は間違いなく死亡フラグ。さくらの頭にそんな悪寒がふと過ぎった。そして思った。
 これほど情けないフラグはかつて見たことがない、と。
「ひぃぃぃでぇよぉぉぉしぃぃさぁぁまぁぁぁ!」
 なおも響く奇声に大地が揺れた。少なくとも声に向かい走る二人にはそう感じた。
「ねぇ、あんた何考えてるの?」
 時々鳴咽を漏らしながらさくらは聞く。
 しかし、秀吉は答えず、ひたすらさくらの手を引っ張って走るだけだった。
「ひィィぃぃでよ――」
 声は着実に近づいて来ている。
「ああ、うるせぇ!」
 秀吉はその悪魔の叫びを遮って大声で言った。
 二人が曲がり角を曲がり、新たな道に顔を出した瞬間、地面の揺れが止まった。
「ふふ、見つけましたよ」
 息を荒げた愁治が二人を見据えて立っていた。

 *

 考えてみれば単純明確な答えにさくらは気付く。
 愁治は地上から秀吉を追ってきた。――どこから?
 まさかあの穴からわざと落ちて来る奴はないだろう。下手すれば、今のさくらのように足をくじくなどの怪我をする恐れもある。それにあの穴を通るなら、自分たちと同じ着地地点に落ちるはずである。
 ということは、つまりそう。愁治の立ちはだかるこの道の向こうに出口――階段のようなものがある。
「はぁはぁ……秀吉様、探しましたよ」
 愁治とはまだ距離があるはずだが、その目は確実に秀吉を捉えている。
「さくら、よく聞くんだぜ。奴は俺の身体と、なぜかわからないが俺の持つ封筒を狙ってるんだぜ」
 秀吉がまたキザな口調に戻る。さくらはその言葉遣いが気に食わず思わず文句を言おうとするが、口を閉じた。
 今はそんな場合ではない。秀吉の持つ封筒を愁治が狙っている――さくらの頭に最近見た雑誌の記事が思い浮かんだ。
『斎藤弁護士、淫らな女性関係!! 助手からのたれ込みを本誌で独占スクープ!!』
 ……愁治が週刊誌にたれ込みをしようとしている? いや待て。愁治は村上議員の執事だ。村上議員から封筒を取ってくるように頼まれているとか? 仮にそうだとしても、愁治に封筒を渡すわけにはいかない。
 さくらの目的はただ一つ。村上議員と義恵先生の不倫を止めることなのだから、封筒を渡すだけではダメだ。もっとちゃんとした解決方法を考えないと――
「さくら、よく聞くんだ。今はまだ、奴は俺しか見えてない。お前は見えてないはずだ」
 そう言うと何やらガサガサと探す秀吉。
「何でここのポケットに封筒が? まあいいや。よし、さくら……」
「何よ?」
「こいつを持って逃げろ。俺がおとりになる」
「え……あんた何言って――」
「いいから! 奴の狙いのうちの一つは守れるんだ、これしかない!」
 さくらの手に封筒を握らせると、秀吉はふっと笑みをこぼし呟いた。
「ほんとはさ……このまま俺も脱出したかった。まさか出口付近に奴がいるなんて……」
 遠目に見ても愁治の身体は大きく、たとえスポーツ馬鹿の秀吉であってもそこを通り抜けることはできないだろう。
「ふう、つくづく運がないぜ……」
「秀吉君……」
「義恵先生のために散るんだ。それも悪くないさ」
 さくらは今ちょっと秀吉をかっこいいと思ってしまった。
 使命のために身体を張るなんて、まるで武士。
 愛する人のためにその身を捧げるなんて、まるで騎士。
「いいか、さくら。俺が合図したら一緒に走り出せ。お前は足をくじいてるから、自然と俺より後になる。先に行くことになる俺が奴を引き受ける。愁治が近付いてきて、お前に気付くかどうかの瞬間が、最後のチャンスだ――わかったか?」
 もう言葉などいらなかった。さくらは涙目で頷く。
 そしてこのやり取りの間にもカウントダウンは近付いてくる。一歩、また一歩と。
「ひぃでよすぃ様ァァァ――!!」
 愁治の顔を確認できたその瞬間――秀吉がさくらに囁く。
「いまだ、さくらッ」
 さくらはその合図で地を蹴り走り出す。痛む足なんて物ともせずに愁治の方へと向かった。
 ふと横を見ると秀吉が――いない!?
「秀吉サマァアァァァアァ!!」
 我を忘れてすでに狂戦士と化した愁治はさくらを秀吉と勘違いして、その身を拘束しようと腕を広げて突進してくる。
「わ、私は秀吉じゃない――」
 瞬間、さくらの手から封筒が抜きさられた。そして弾丸のように走り抜ける一つの影――秀吉だ。秀吉はさくらよりも後にスタートダッシュを切ったのだった。
 ご丁寧にウインクまでして出口へと駆けていく秀吉。その足はまるでダチョウの如くしなやかだ。(無論褒めてない)
「ちょ、バカザル、はかったわね!」
 そう。おとりになったのは秀吉ではなかった。おとりになったのは無論――。
「秀吉様つかまえましたぞ!!」
「キャアァァア! いやぁあぁあ!!」
 身長百四十、小柄なさくらの身体は易々と愁治に抱きしめられていた。

 *

「なぁ唯?」
 光信は元居た部屋に戻りさくらが落ちていったらしい穴を暫く呆然と見つめていたが、ようやく事態の深刻さを思い出して口を開いた。
「ほぇ?」
 唯は蛍が持ってきたソーダーフロートのストローから口を離した。
「あのさ、この家ってほかに仕掛けとかあんの?」
 この家の事を知るということは自分の身を守るための術であり、同時に相手にも痛手を負わせる手段でもあった。
 もちろん光信の目的はさくらと秀吉を助けるためであるが。
「うむむぅ〜……唯もあんまし知らないのライオン〜。ほっしゃんならわかるんじゃないかナスビ?」
 蛍がそうですね、と口を開いた瞬間、ドアがいきなりバンという音を立てて開いた。一同の視線はドアの方へと釘付けになる。
 そこには、高い身長にスラリとした手足、顔もそこらでは見られないであろうの美しい女性が立っていた。蛍はそれを見るやいなや叫んだ。
「れ……玲さま!?」
 その声を聞くと玲(れい)と呼ばれた女性はニッコリ笑ってみせた。
「久々に帰ってきてみれば家の鍵はあきっぱなしだわ、愁治がいないと思ったら貴女までいないわ。あれほど鍵は厳重に管理するように教えておいたはずなのに――」
 蛍の顔がどんどん青ざめていく。
「も、申し訳ありませんでした!」
 その女性は蛍の方にヒールの音をたてながら歩いていくと、耳元で『今夜は覚悟しなさい』とつぶやくと最上級の笑顔を見せた。
 蛍の顔色はもういうまでもない。真っ青だった。
 そして彼女は呆然としている二人の前にある、がらくたのような唯の作品の裏から何らかの機械を取り外してこう言った。
「これで全部聞かせてもらったわ。楽しそうだし私も仲間に入れてもらえないかしら?」
 盗聴機は知らず知らずの内に仕組まれているものだ。
 ……とは言っても、伏線も何も無しにいきなり出てきて、盗聴機で全て聞かせてもらったーガッハッハと宣言するのは如何なものかと思わずにはいられない光信。ここで察したことが一つあった。
 ――この姉さんに関わると危ない。もうなんか色々と。
 悪ガキのまま大人になったような笑み、体中から溢れるなんかどす黒風味のオーラ、モデル体格の長身……。清純ロリのみ正義と信仰する光信にとって、目の前の女性はにっくき義恵先生に匹敵するボスキャラだった。
(おい、唯。この人は何者だ?)
 光信は目の前の敵の情報を獲るため、小声で唯に説明を促した。
(この人は私のお姉ちゃんで玲って名前なんだよん。見た目通りのハードエスで、夜な夜な老若男女問わず自室であんなことやこんなことを……しているらしい優しいお姉ちゃんだにょん♪)
 オーケー。つまり優しくはしてくれないんだな。そのことを確認した光信は、玲を睨むように対峙し、言った。
「あんた、仲間に入れろったぁどういう魂胆だ」
「あらぁ、あなた、随分かわいらしいお顔してるじゃない。いいわぁ、お姉ちゃんなんだか脳髄からゾクゾクしちゃう」
 光信はかなりドスを効かせて発言したつもりが、軽々とスルーされ、こちらが悪い意味でゾクっとしてしまいそうな台詞を玲は吐いた。
「おい、人の話を――」
「大丈夫、優しく素敵に鳴かせてあげるからぁ……そんなに迫らない、の」
 口に人指し指を当て、ふふっと艶やかに笑みを浮かべる玲。
「そうねぇ……まずは――」
 と、白衣の裾から四次元ポケットよろしく何やら怪しい長物を取り出した。それを見た光信はゴクリと喉を鳴らす。
 それは銀に光沢する鞭。しなやか且つ重みのある動きで垂れるそれは、幾人をヘブンへと送りこんだことか――そんなことを光信が知るよしもない。ていうかなんかバチバチと音がしちゃってる。
「っっ! それは……!」
 それを見て一番反応したのは蛍。今にも失禁してしまいそうな程に震えている。
 ……そう、この鞭こそ、玲の作りあげた傑作の一つ。『電気鞭パワーラッド 〜お仕置きと快楽から溢れる愛〜』。それが今、光信を襲わんとす――!
 光信はか弱い女の子が嫌がっているのを見ると欲情する、ドSだ。そして、玲もドS。磁石に例えるならば。光信も玲もS極を向けて生きている。人に弱い面を見せて生きることはない。
 S極同士が向かい合った場合、普通は退け合うものだ。光信と玲は退け合う運命――のはず。しかし、玲の持つ磁力は圧倒的であり、まだ磁力の弱い光信には玲と互いに退け合うほどの力は無い。
 光信は玲から一方的に退けられるのみ。光信という磁石は無理矢理に回転させられ、その相反するN極――この場合はМ属性が引っ張られる恐れすら、ある。
「あー、何それ?」
 縄跳びよ、とでも返してくると思ったのか、光信は玲に問い掛けた。玲は鞭で床を叩き、震える蛍を見た後、ニヤリと笑ってみせた。その目は光信を見つめている。
 光信は、愁治に迫られた秀吉の気持ちがわかったような気がした。
 パァン! 地面に叩きつけられる鞭の音がまるで銃声のように響く。
「……ッ!」
 光信は自らの迂闊さを呪った。
「ふふ、覚悟なさい」
 そもそも何故こんな場面になってるのだ?
 それより何故このお姉様は電撃鞭なんかをお持ちになっていらっしゃるのだ?
 いやいや何故このキングオブロリコン、ロリコンの中のロリコンの江口光信がこんなデカ乳お姉様と会話せにゃならんのだ?
 光信は悩んだ。
 ――果たしてどうすべきか。
 そして光信は思った。
 ――こんなときに年上デカ乳好きの秀吉がいてくれれば、と。
 正にその時だった。秀吉が愁治に連れ去られた部屋の扉が勢いよく開き、秀吉が転がり込んできた。
「ちょ……大丈夫か!?」
 光信が近くに慌てて駆け寄ると、秀吉は息も絶え絶えに暗い表情で小さくつぶやいた。
「さくらが……さくらがあいつに捕まった」
 部屋が一瞬沈黙に包まれた。
 もちろんそれは一瞬だけですぐに光信が説明を求め、秀吉は一つうなづくと、蛍に向かってその前に一杯だけ水が欲しいと壁にもたれた。
 蛍はそれを聞くと慌てて部屋を出ていった。
 ――もちろん玲の前を通らないように遠回りして。
 乳キャラの前に秀吉が現れ、ロリキャラのピンチを聞き付けた光信。さすれば、導かれる展開はひとつ。
「……秀吉、俺は――」
「分かってる。さくらはお前が助けろ」
 まるでこうなることを事前に分かっていたように、秀吉は光信の最中を押した。
「ま、確かにあいつはなかなか可愛いが、俺好みじゃあねぇ。それに――」
 呼吸を元のそれに戻した秀吉は、玲の顔を見て躰を見て、
「――あっちのボインな姉ちゃんの方が、遥かに面白そうだ」
 ニヤリと笑みを演出。そう言い放った。
 人間をつき動かすには欲求を使うのが一番効率がいい。ここにおいて、二人の欲求の対象が生まれた。さすれば、やはり導かれる展開はたったの一つ。
「……サンキュ、秀吉。俺は行く。だけど、俺が帰るまで絶対に生きていてくれ」
「はっ、あたぼうよ! お前こそ死んじまったらただじゃ済まさないぜ!」
 二人はハイタッチ。これにて役所もチェンジ。
 今、食い違っていた鞘に正しき剣がおさまった。

 *

 光信の頭は、さくらを助け出した後の展開を考えることで精一杯だった。
(……愁治を倒した俺を見たさくらが……うは!)
 そんな妄想から覚めたのは、重大な事実が光信に立ちはだかったときだった。
 愁治にたどり着くための道を聞き忘れたのだ。それどころか何か秀吉が出現した扉と違う扉から出てしまったような気がする。屋敷がただっ広いせいだ。
 しかしあれだけ格好付けて部屋をでた以上、今更戻るのは恥ずかしいし――パァン! たった今出てきた部屋から銃声のような音が聞こえた。
 何より、無様に打たれる秀吉の姿など見たくない。
 光信は運良く、水を取りに行っていた蛍を見つけ、その背中に声をかけた。
「あ、あのさ――」
「ひっ! 違います違います。玲様が怖かったから部屋に戻らなかったなんてことないですぅ!」
 ひとしきり弁解した後に、どうやら相手が光信だと言うことに気付いたらしく蛍はほっと胸を撫で下ろした。
「ああ……それでいつまで経っても部屋に戻ってこなかったのか。おっかないもんな、あの姉ちゃん」
「そうなんですよ……この家には職業柄か変な人が多すぎます」
 光信の言葉を受けて、大げさに頷く蛍。
「執事とかメイドとか、国会議員の娘とかは職業柄、変なもんなのか?」
 光信は蛍に対して率直な疑問をぶつけただけだったが、蛍は慌ててそれを否定した。
 蛍の慌てぶりはいくらなんでも不自然だと思った光信であったが、よくよく考えれば変な嗜好の持ち主だらけのこの屋敷の中だ。この蛍もきっとどこかずれているんだろうと納得することにした。
「まあいいや、ところで地下に続く階段とかないのか?」
「秀吉さんやさくらさんが落ちた先ですね。落とし穴以外に階段が二箇所ありますです。一番近いのはここの奥、廊下のつきあたりの壁のロウソク台を手前に倒せば――」
 言葉を続けようとして、蛍ははっとした顔になった。
「愁治さんのところに行くのですか……?」
「そうだけど?」
「あの人は“やおい”担当だから近づかない方が――」
 やおい。主に女性読者のために創作された、男性同性愛を題材にした漫画や小説などの俗称を指す。
 それが何故この場で出て来るのか。同人作家でもあるまいし……、そこまで考えてはたと光信は気付いた。
 ああそうか。やおい担当とは、やおい属性ということか。つまり、愁治はいわゆるホモということだ。考えれば当然のことなのだが愁治の異様なオーラから、愛するさくらの貞操にも危険が近づいていると錯覚してしまっていたのだ。
 愁治がやおいなら、それはつまり、さくらの貞操は無事であることを物語っている――光信はほっとした。
「まあ、本当はあの人、男女どちらでもいける両刀使いらしいんですけどね。女の人はちょぴっとしか興味ないらしいですけど。男の人がいなければ女の人でもかまわないだとか……」
「さくらあぁぁぁぁぁぁあ!」
 光信は隠し階段の詳細を聞き出すと、すぐさま駆け出した。

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