第2話
「相変わらずでかいな〜」
秀吉はその半端じゃない敷地内を見回しながら言った。流石に都内主要区なので、家から門までで迷子になるような規模ではないがそれでもなお大きい。
やがて家(本体)に到着し、唯がドアノブに手をかけた瞬間――扉が開いた。
――バコン!
マンガの擬音のような音を立てて唯が倒れた。
「はわわ〜……も、申し訳ありません、唯様!」
ドアから出て来たのは一人の若い――少なくとも大学生以上だろうが――メイド。新聞表記ではメードが正式、秋葉原を中心に最近流行のメイド喫茶のようなメイド。アニメにもよく出て来るメイド。自宅に若いメイドがいるなんてそれこそアニメの世界くらいだろうがメイドだ。
「もう、痛かったのよう〜ほっしゃん〜シクシク」
「大丈夫ですか、唯様! もしや――お、お怪我……!? あうあう〜私、星貨蛍(ほしかほたる)は死んでお詫びしますですぅ」
唯が大袈裟に声をあげると、ほっしゃんこと蛍はそれをも上回るリアクションで謝った。謝り倒した。
「えっへー♪ 嘘泣きだヨンジュン☆ ほっしゃんはだまされやすいんだから☆」
「唯様ったらまた〜私を騙してそんなに嬉しいのですか……あぅあぅ」
蛍が涙ぐみ、唯が慌てて謝る。
さくらはそんな二人のやりとりを見て、この二人は単なる主人と使用人以上の親しい付き合いがあるんだなと微笑ましく思った。秀吉が何故か代表して持っている封筒のことを、蛍になら相談できるかもしれない。さくらはもう少し蛍を観察してみようと思った。
「こちらでございます♪」
長く曲がりくねった赤いカーペットが敷かれた廊下を、進むと奥に真っ白なドアが見えた。
「ではどうぞ♪」
ギィ……という音がして、無駄に大きなドアが開くと唯と蛍以外の全員が息を飲んだ。
金持ちの金銭感覚は、やはり常人には理解できない。光信はそんな感想を持った。
メイドが出てきた時点でアニメチックな展開になることは、その変態に特化した頭脳でも容易に理解できた。
――だが、目の前の光景はアニメをも、凌駕した。
「――それなんてエロゲ?」
光信が思わず発した一言もまた常軌を逸していた気がしなくもないが、眼前の光景はそれの及ばぬ遥か先を突き進んでいた。あらゆる意味で不思議だった。現実からはみ出ている感が否めなかった。虚構だと信じたくもなった。
「何なんだ、このシャンパンタワーは――っ!」
とにかくそれは、高かった。不思議な空間を形成する第一要因は、中央で誇らしげにそびえていた。
そのシャンパンタワーの上には、天より降りる光り輝くシャンパンタワー……否、シャンデリアがこの無駄に豪華な部屋を照らしていた。部屋は円形、床は大理石で一歩歩くたびにキュッと音が鳴る。これだけ綺麗なのに、メイド達は床を削り取る勢いでモップをかけている。
光信は部屋を見渡した。部屋の円を縁取るように手作りらしき絵や、粘土で造られたであろう不思議な物体が所狭しと並べられている。
「見て〜! これ全部、唯が作ったんだにょー!」
口をポカンと開ける友人達に彼女は無邪気な顔でそう言った。
これが唯の図工の作品――光信は絶句した。どう見てもガラクタではないか。
「唯様の作品は前衛的でありますのよぅ」
前衛的とは意味不明と同義語として使われることが多い。しかし蛍はこの大量のガラクタを皮肉でなく本心から誉めているようだった。
「えへへ〜、それでね、それでね、このカァイイ作品タイトルが“世界の果てとはじまりと”でぇ〜、こっちのキモカワイイのがねぇ――」
唯の自慢は止まることを知らない。天上天下唯我独尊という言葉が光信の頭に思い浮かんだ。意味はあんまり知らない。
長ったらしいので唯我と略すことにして――そう言えば前も略した気はするが――光信は唯我ワールド全開の唯から視線を外した。
目に映るのは愛しい愛しいさくら。唯の意味不明な作品を見るよりもずっと目の保養になる。
光信と違ってさくらは唯の作品をちゃんと見ている――と光信は思っていたのだが、その様子がおかしいことに気付いた。
何やら深刻な思い詰めた顔をしている。もしかしたら体調が悪いのかもしれない。
光信は気付いた。光信だからこそ気付いた。
そうか――あの日か。女の子は大変だな。光信は自分の考えが間違っているなど微塵も思わず、さくらを見つめ続けた。
――そしてさくらはさくらで光信のそんな視線に一ミリたりとも気づくこともないまま、相変わらず浮気疑惑について延々と考えていた。ある意味似たもの同士とでも言ったところだろうか?
二人のそんな状況が続いたまま時間は過ぎ、テンションが全く下がることもなく作品の紹介を続ける唯に飽きた秀吉があくびをした時――玄関とは別のドアがキイ、と音を立てて開いた。
突如部屋に入ってきた男は、巨人だった。――これはけっして比喩ではない。見た目明らかに二メートルは超す大男が、外見に似合わぬ滑らか且つ美しい動きで、五人の元へ歩いてくる。
「あ、愁治さん、お疲れ様です」
その大男に蛍が一礼。
……彼の名前は浮田愁治(うきたしゅうじ)。この豪邸に住む暴走お嬢様をお守りする、執事さん――という設定は少女漫画だけにしたいが――である。
料理、洗濯、掃除――体格に似合わぬ器用さで、なんでもこなしてしまう家事名人なのは勿論、クンフーの腕も超一流。しまいにゃボーリングの腕前は世界トップクラスの実力という、まさに完璧超人なのだ。
そんな彼は、少し老け気味ながらも整った顔に、笑顔を乗せ――
「ご苦労様です蛍さん。そして――秀吉様」
――秀吉のみを視界にロックオンしたまま、挨拶。
……因みにこれは余談だが彼、浮田愁治は、男色だという噂があったりなかったり……。
秀吉の明日は、どっちだ。
「うへぇ……」
秀吉はその舐め回すような視線に気づき、気持ち悪そうな声を出す。
「秀吉様……貴方に用があるのですが、よろしいでしょうか?」
愁治が非常に丁寧な態度で秀吉を指名する。刹那、秀吉の体に悪寒が走る。
秀吉センサーが警鐘を鳴らしている。これでもかというくらいに赤信号を光らせている。
この申し出、断りたかった。
しかし、愁治の巨躯の持つ威圧感は並大抵のモノではなく、それに加え言葉から非常に力強い思念が感じられる。特に後者の圧力は計り知れない規模であり――。
「あ、はい」
――秀吉が頷いてしまうのも、無理はなかった。
*
「では、こちらへ……」
愁治はいやらしい薄笑いを浮かべると己が入ってきた扉の把手を奥へ押した。愁治の笑みを見て一瞬我に返った秀吉だったが、扉が左右に開き、装飾タイルを敷き詰めた床が目に入ると、その奥の一段高くなった場所に置かれているそれに気付き、急激にその物に心を奪われる。
「新品のサッカーボールじゃん!」
秀吉は王座に似せた椅子に鎮座するサッカーボールに駆け寄り手に取ると、揚々と振り返り愁治に笑い掛けた。
「もしかして、これ貰える――」
大きな扉の閉まる音が秀吉の言葉を遮る。そこに立ちはだかるは巨体の男、愁治……。ニヤと緩ませた口元。その表情にはこれから余興を楽しむ風さえ見える。秀吉は戦慄した。
「それは貴方に差し上げます。だから、私めには貴方を――」
ゆっくりとした足取りで秀吉に迫り、スッと彼の顎を取り己の顔に近付ける。秀吉はあまりの悍ましさに言葉が出ない。――唇が触れると思った。しかし、その寸前のところで愁治の手は止まる。
「ふふ……まだです」
「――え」
愁治に強く肩を押され、秀吉は飛ばされたように王座に尻を着く。ガゴンと何かが作動した音を聞くとその王座より手枷が飛び出し秀吉の動きを封じた。
「な、なんだよ。これ!」
愁治は気色の悪い艶のある笑みで答える。
「ふふ。貴方が何をしに来たか存じ上げています。私は秀吉様が持っていらっしゃる例の物が欲しい!」
「れ、例の物!?」
「ええ。渡してくれるまで、私は貴方を逃しはしません。逃がさないどころか、ふふ……ここから先は言えません」
例の物。それはもちろん義恵先生からの預かり物だろう。これは唯の父親に渡す約束をしている。義恵先生を裏切るか……この大男に愛撫されるか……秀吉に究極の選択が迫る。
秀吉は考えた。どうすればこの危機的状況から無傷で生還出来るかを。
「ふふ……助けは来ませんよ。今から鍵を閉めますからね」
愁治は薄笑いを絶やさぬまま、扉に向かい歩き出した。扉にたどり着き、錠を閉めるまでに約二十秒、この短い時間の間に脱出する方法を秀吉は考えなければならない。
ふと下を見ると、まだ一度も蹴られていないサッカーボールが足の間に転がっていた。
靴を脱ぎ、足の裏でボールを止める。幸い、愁治は振り返らない。 次に手枷に目をやる。右手首のちょうど真上、首を回しても届かない位置にスイッチのようなものがある。
秀吉はそれを見てニヤリと笑い、ゆっくりとボールを蹴り上げた。
「さぁ、脱出劇の始まりだ」
秀吉は宣戦布告と共に右足に力を込める。ボールは友だち、サッカー部で鍛えぬかれた秀吉の黄金の右足が唸りを上げる――
「あ……」
だがしかし、外れた。外してしまった。
きっと秀吉に残された最後のチャンスだっただろう。これを逃せば、憧れの義恵先生との約束を果たせないどころか、貞操すら危うい。
こんなところで、初めて(後ろ)を散らしたくなんてない――焦りが秀吉のコントロールを狂わせたのだ。
解除スイッチの少し下にあたるとボールは跳ね返り、扉に鍵をかけようとしていた愁治の足元へと転がっていった。
「――オイタが過ぎますなあ、秀吉様。それとも私とボール遊びをしたかったと?」
秀吉に残された道は会話で、最後の時が訪れるのを延ばすこと――ヴァージン喪失のときを延ばすことくらいだった。
この部屋の入り口の鍵はまだかかっていない。だが誰かが助けに来てくれる可能性は限りなく低い。たかだか高校生が、愁治の異様なほどの巨躯に立ち向かえるとは思えないからだ。それは精神的にも肉体的にも当てはまる。
たとえ、光信が助けに来なくても秀吉は光信を恨まないつもりだった。もし自分が光信の立場であったならば、愁治に立ち向かえるほどの勇気を出せないであろうことは明白であったからである。
はっきり言って絶望的だった。だからせめて、少しでも後に、嫌なことは後に。そういう思いが秀吉の口を開かせた。
「そ、そうなんだ。あんたとボール遊びが……」
「残念です。私はボーリングしか興味がありません」
愁治はピシャリと遮ると、サッカーボールを遠くに放り投げた。
もうだめかもしれない、と秀吉は心の中でつぶやく。愁治が一歩二歩と近づいてくる。
――もしこの身を捧げたとしても、愁治は事をすませた後に封筒を秀吉から奪い取るだろう。どうすれば……封筒を差し出さず、なおかつ助かることができるのか。その方法を必死に思案したその時――愁治の背後の扉が少し開くのが見えた。その隙間から何者かの手が垣間見えた。おそらく、光信だ。
秀吉は頭の中で素早く考える。もしも今、光信が助けに来たとしても愁治はいとも簡単に光信をねじ伏せてしまうだろう。
……よし。秀吉は覚悟を決めた。――毒牙にかかるのは俺だけで十分だ。
秀吉は小さく深呼吸すると、照れたような顔で愁治を見上げた。
「愁治さん。俺を……もらって下さい」
*
秀吉の、この宣言の少し前。秀吉の拉致られた奇怪な作品展示室は異様な空気に包まれていた。
その理由は他でもない。光信以外の女性陣は愁治がそっち系の――描写不可能な趣味を既に察してそれを受け入れていたのだから……。
「秀吉、どうなっちゃうんだろにゃん?☆」
唯の発言からは心配の色は微塵も感じられない。むしろこの先の展開を待ち侘びているようにも感じられる。
さくらに関してはもはやスルー状態、今の秀吉の危機に目を向けようともしない。特徴的な模様の床の上に立ち、その模様を眺めるかのように下を俯いて何か別のことを思案しているようだった。
メイドの蛍に至っては、それが日常茶飯事だと言わんばかりに落ち着いている。
女性陣からすれば、男同士のそれはさして嫌悪の対象とはならないらしい。個人差の問題だろうが……。
その一方で、光信は確かに愁治の異質な趣向に嫌悪感を抱くと共に、秀吉の身の上を案じていた。だが、非力な自分では秀吉に何の活路も与えられやしない。
ぶっちゃけ、それ以前に――怖い。秀吉(の後ろ)の心配よりも、畏怖の念の方が強かった。その結果、禍々しい雰囲気を放っている扉の先、禁断の世界に姿を現す事は出来なかったのだ。
鍵が開いていることに気づき近づいてはみたが、その扉に手をかけたところでなけなしの勇気は霧散した。これ以上は無理だ。光信は扉にかけていた手を離し、作品展示室へと戻った。
――どうやら扉の向こうでは秀吉がついに観念の言葉を発したようで、光信はただ冥福を祈るばかりだった。
*
「あぁ……そそりますね、その表情」
扉の中ではまさに光信の想像通りのことが行われていた。瞳にうっすらと涙を浮かべた秀吉の頬を愁治は指先で撫でる。優しく……時に爪を立てたり、突ついてみたり……。あまりの嫌気から秀吉は頭の中で懸命に義恵先生に触られてることを想像していたが、その指先が頬を撫で上げ、敏感な耳に触れた瞬間秀吉は堪らず声を上げてしまった。
「ぁ……」
「なんでしょう?」
その反応に嬉しそうに目端を緩める愁治。つい漏らした己の声に羞恥を覚えつつ、そのおかげで秀吉はやはりこのままではダメだと思い立つ。秀吉は一瞬考えを巡らせると、上目で愁治を見上げた。思い付いたのは名案。
「……これじゃあさ、塩梅(あんばい)悪くない?」
「……と申しますと?」
秀吉は愁治を試すような笑みで答える。
「この体制じゃ色々楽しめないじゃん。身体を動かすこと制限されたら、俺、愁治さんに捧げること出来ないよ?」
一瞬ポカンと口を開けて思案していた愁治だったが、さすがに今の台詞は効いたらしい。すぐに理解を示すと急に雄叫びに近い笑い声を上げ、解除用のスイッチを下げた。すると、どうだろう。小さな電子音と共に秀吉の手枷が外れた――これで自由だ!
秀吉は自由になったものの、脱出する方法を考えていなかった。
逃げ道の扉は愁治が塞ぐように立っているし、サッカーボールは遠くの壁にぶつかって止まっている。
座っているよりはまだ立っている方が逃げ道はある。それに秀吉にはちょっとした勝算があった。この部屋にあるもう一つの脱出口に気づいたのだ。秀吉は立ち上がり、愁治を見上げる。――失敗は許されない。
「どう料理いたしましょうか?」
下から覗く秀吉を見て我慢出来なくなったのか、いつもの紳士的な顔は消え、完全に緩みきった好色漢のそれになっている。
それを見て秀吉は一歩、二歩と後退りする。その表情はまるで恐怖をそのまま表したかのように引き吊っていた。
秀吉は遂に端まで追い詰められた。そこは半円形のステージのようになっていた。先ほどまで座らされていた椅子のあった場所よりももう一段高く、高校生一人がちょうど立てるほどの広さを有している。
ここでいいはずだ――秀吉はそこに立った瞬間、叫んだ。
「おい、唯! 聞こえてるだろ!?」
扉の隙間からおそらくは声が作品展示室――光信や唯のいる側へと聞こえることを計算したのだ。しかし、完全な賭けだった。全ては唯にかかっている。
秀吉に近づいていた愁治の魔の手が止まる。
愁治が何事か言おうとしたその時――
「うぅ〜了解なりん、プゥ!」
扉の外から唯の声が聞こえた。その声を聞いた秀吉は――
「ごめんよ、お兄。今回はお預けだ」
不敵な笑みを愁治へと向けた。
*
「さあ、秀吉ったらどうなるのかにゃ☆」
お前は友だち(の後ろ)がどうなってもいいのか――嬉しそうに語る唯に、光信が良い加減ぶち切れそうになったその瞬間。
先ほど光信が開けた扉の隙間から声が聞こえた。かすかだが、聞き間違えることのない友の声が。
「おい、唯! 聞こえてるだろ!?」
秀吉の声だった。唯はその声を聞くとしばし考え、はっと思い出した顔になると奇怪な作品の並んでいる側の壁へと歩いて行った。
「うぅ〜了解なりん、プゥ!」
唯は不満気に言うと、壁を何やらいじり始めた。
「何してんだよ、唯……」
「秀吉には前に話したことあるにょん。この家の至るところにカラクリがあるって……あの部屋の仕掛けも話したお☆ それに気付くかどうかだけど、それは秀吉次第だにゃ〜唯はちゃんと借りを返すにゃ☆」
唯は秀吉に何か借りがあるらしい。それで先ほど秀吉は唯を呼んだのだ。そして、唯はそれを聞き入れた――結果。
「ポチっとな☆」
唯の言葉と共にガタンと言う音が秀吉の拉致られた部屋と、背後から聞こえた。
「きゃ!」
「さ、さくら様〜!?」
同時に聞こえたのは蛍の声と、さくらの短い悲鳴。
「にゃはは〜このスイッチ連動してたんだいこん……さくらったらまた悪い位置に……」
光信の振り返った先に先ほど、さくらが立っていた特徴的な模様の床――半円形のステージは無く、代わりにポッカリと穴が開いていた。当然のごとく、さくらもいなかった。